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049_侍女リーネの気付き>>

 朝の光が、神殿の回廊に差し込む。

 冷たい床に落ちた影が、ゆっくりと移ろいながら、静かに時の流れを告げていた。


 セシリア様は、いつものように祈りの部屋へ向かっていた。けれど今朝は、ほんの少しだけ、歩幅が広くなっている気がした。


 私はその数歩うしろを歩く。呼吸を揃え、足音を消し、影のように従うのが、私の日常。けれど今朝は、その背中から目が離せなかった。


 揺れる銀糸の髪が朝日にきらめき、祝福の光が降っているかのように見えた。背筋はすっと伸び、揺らぎのない歩みには、聖女と呼ばれるにふさわしい威厳があった。


 でも、私は知っている。その完璧さが、どれほど彼女を孤独にしてきたかを。


 セシリア様は、自らの瞳が人を魅了しすぎることに気づいておられない。あの紫の瞳を見た者は皆、心を鷲掴みにされたようだと言う。でも、私にはわかる。あの目に宿っているのは、人を虜にする力ではなく、ただ――自分の思いを誰かに気づいて欲しいという、ささやかな願い。


 私は、あの瞳に映る孤独を見るのが怖かった。けれど今朝、ふと顔を向けられたとき、思わず目が合ってしまった。


 そのとき、気づいた。

 あの瞳が、ほんの少しだけ、やわらかくなっていたことに。


 私は、幼い頃からお側に仕える侍女のひとり。同い年の“友達役”として与えられた立場は、やがて心の奥で通じ合う関係へと変わっていた。


 毎朝、ローブのしわを整え、香を焚き、聖水を入れ替え、祈祷室の空気を整える。聖女としての務めを支える日々。巡回、聖歌、講話、来客対応――彼女はすべてを完璧にこなしてきた。


 けれど、この数日、空気が少し変わった。


「今日のお香は……カモミールかしら?」


 そう微笑んでお茶を口にされる。以前なら、感情を隠すように黙って飲まれていたはずなのに。


「この部屋、朝日が綺麗ですね」


 そうつぶやいて窓辺に立たれた姿に、私は見とれてしまった。やわらかな光の中、銀の髪が揺れ。その横顔には、かすかな安心感があった。


 人前では完璧だった彼女。けれど私は知っている。七歳で神殿に引き取られ、家族とも友達とも引き離され、「聖女」として生きてきた彼女が、自分が何者なのかを見失いそうになっていたことを。


 それでも、弱さを見せることはなかった。聖女である限り、常に気高く、誠実であろうとされた。それが、私の知るセシリア様だった。


 けれど、今は少し違う。


 ある朝、巡回の祈りの順番を、彼女が自ら変えられた。長く苦しむ老人のもとへ、真っ先に向かいたいと、神官たちに申し出たのだ。形式ではなく、心のままに動いた選択。


 また別の日には、倒れた子どもの手を、白衣が汚れるのも構わず、ためらいなく取られた。


「大丈夫。あなたは守られているわ」


 その声にあったのは、聖女の威光ではなく、一人の人としてのやさしさ。


 あの姿を見て、私は確信した。これは、ただの“揺らぎ”ではない。彼女の心が、静かに、確かに動き始めているのだと。


 完全に変わったわけではない。ときどき黙り込み、巡回の途中で遠くを見つめることもある。けれど、その後に小さくつぶやかれる「ありがとう」が、確かに私の胸に届いていた。


(いったい、何があったのでしょう……)


 気になる。でも、訊かない。侍女の私が、踏み込むべきではない領域だと、わかっている。でも、きっと誰かがいたのだ。“聖女”としてではなく、“セシリア”として、彼女を見てくれた誰かが。


 そうか……今のセシリア様は、“自分で歩こう”としているのだ。


 誰かを演じるのではなく、自ら選び、心で動こうとしている。


 今日もまた、癒しの巡回を終えたとき、香炉の準備をしていた私に、ふと目を向けて、セシリア様は言った。


「リーネ、いつもありがとう。いい香りね」


 胸が、じんと熱くなった。昨日と同じお香だったはずなのに――今日は、その言葉が、心に届いた気がした。


 あの微笑みを胸に刻みながら、私は今日も、その背中を静かに追いかける。差し込む光の中で、聖女の背には、確かな変化の兆しがあった。


 それだけで、私の一日は、少しだけ誇らしくなるのだ。

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