039_会長就任式>>
荘厳な聖歌が、式場いっぱいに響いていた。
私はその音に包まれながら、静かに歩みを進める。
大商会の新会長を迎える就任式。壇上の奥、神前の正面には、聖女である私が立つべき場所が用意されている。天井からは色鮮やかな布飾りが垂れ下がり、広い式場には来賓が幾重にも並んでいた。空気そのものが、今日という日を特別なものに仕立てている。
やがて、人々の視線が一斉にこの場の主役へ集まった。
新会長――まる助。
私も自然にそちらへ目を向け、思わず息を呑む。
(若い……)
想像よりずっと若かった。
けれど、頼りなくは見えない。華やかというより、落ち着いている。場に飲まれていない、という表現の方が近いかもしれない。
私は儀式の衣をまとったまま、静かに壇へ上がる。胸の奥には、普段の儀式とは違う高揚があった。高揚というより、落ち着かなさに近い。聖歌を背に受け、多くの視線を浴びながら進むうち、そのざわつきはむしろ増していく。
その中で、ただ一人。
まる助さんだけが、どこか困惑したような表情を浮かべていた。
(困惑……?)
少し意外だった。
けれど、すぐに別の考えが追い越す。
(でも、気づかれるはずはない……)
本来なら、私はただ祝詞を読み上げ、形式どおりに祝福を与えればいい。
けれど今日の私には、ひとつだけ密かな思惑があった。
彼の感恩と帰恩の色。
それを、この目で確かめること。
私は静かに息を整え、定められた儀式の言葉を告げた。
「この厳かな儀式のもと、あなたの門出を祝福いたします。オルデス商会が末永く栄えますように」
聖歌の旋律に言葉を重ねる。
「今日、ここに立つあなたを讃え、商会に聖なる加護がもたらされるよう祈りを捧げます」
ここまでは、ただの儀礼だ。
けれど、ここから先は違う。
私は高まる鼓動を押さえ込みながら、一歩だけ前へ出た。
「そして今――その未来を託すにふさわしい方であるかどうか、ここで確かめさせていただきましょう」
胸の奥が、ひどく強く打つ。
(来た……)
私は続けた。
「では……聖なる光の記録に照らして、誠実を確かめます。タブレットを神前にお示しください」
古くから伝わる言い回し。
今ではほとんど形だけになった一節。
けれど、今の私にとっては違う。
彼の“色”を確かめるために、ようやく掴んだ唯一の手段だった。
(これで、わかる)
指先がわずかに震える。
私はその震えに気づき、そっと力を込めて押さえた。
本来この一節は、“聖女に見せる”ことを求めるものではない。神前で、誠実を示す形式的な所作にすぎない。聖女がその画面を覗き込むことなど、規定にも想定にもない。
それでも、一瞬でいい。
ほんのわずかな隙さえあればいい。
感恩と帰恩の“色”は見えるはずだった。
まる助さんがタブレットを呼び出す。
私は自然に視線を向ける。
その、刹那だった。
すっと、彼の手が動いた。
ほんのわずかな角度の調整。
気づかれないほど、小さな動き。
けれど、その動きだけで、画面が絶妙に私の視線から外れる。
(……え?)
偶然、ではない。
そう思った。
視線を変える。
すると、また少しだけ角度が変わる。
私が見ようとした瞬間だけ、そこにあるはずの画面が、きれいに腕の陰へ隠れてしまう。
(どうして……)
焦りが胸の内側をかき乱す。
もう一度、今度はいったん別の方向へ目を流してから、隙を突くように視線を戻す。ほんの一瞬、画面の端が見えかける。
だが、次の瞬間には、もう隠されている。
自然すぎる。
滑らかすぎる。
まるで最初から、こちらの視線の動きが分かっているかのように。
(おかしい)
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
私の狙いに気づいているの?
それとも、もっと別の理由で?
聖歌と祝福の詞が式場に満ちるなか、動揺しているのは私だけだった。
それでも、私は聖女だ。
役割を忘れるわけにはいかない。
顔を伏せ、呼吸を整え、定められた言葉を口にする。
「今ここに、あなたを正式にオルデス商会の会長として認めましょう」
一礼し、神前に掌を差し伸べる。
「そして、聖なる導きがあらんことを――まる助殿に祝福を授けます」
その言葉を合図に、祭壇の上空に据えられた光輪が淡く輝きを増した。柔らかな金の光が彼の頭上へ降り注ぎ、その姿をしばし聖なる光が包み込む。
式場の空気が、再び整う。
聖歌も高まり、来賓たちはその光景を厳かに見守っている。
私はゆっくりと頭を垂れた。
けれど、心の中では疑問が渦を巻いたままだった。
なぜ彼は、あそこまで自然に私の視線をかわし続けたのか。
偶然では済まされない。
その確信だけが、祝福の余韻の中で、静かに胸へ残っていた。




