032_目覚めと決意>>
まどろむ意識の隙間に、ぼんやりとした光が差し込む。
薄い敷布越しに感じる床の硬さが、現実へと引き戻していく。
ここは……?
まる助は重たいまぶたを開き、視界を確かめるように身を起こした。見覚えのない居間。木のテーブルと椅子、木目の床、窓から差し込む朝の光が、やわらかく室内を照らしている。昨夜の出来事は――
「おじさん、起きたよ!」
弾むような子どもの声が間近で響いた。まる助は驚きに目を瞬かせ、周囲を見回す。そこには、無邪気な笑顔を浮かべた子どもたちが二人、しゃがみ込んでこちらを覗き込んでいた。
(子ども……カインの家か?)
混乱する頭を抱えながら周囲を見回すと、そこは木造の居間だった。暖炉には小さな火がくべられ、ほのかに温かな空気が広がっている。ラグのような敷物の上で寝かされていたのか、背中にじんわりとした痛みが残っている。
「知らせてくる!」
子どもの一人が、ぱたぱたと勢いよく奥の部屋へと走っていく。ほどなくして、エプロン姿の女性が現れた。髪をゆるく結い、袖をまくった両腕が、台所仕事の最中だったことを物語っている。
「あら、よかった。まる助さん、具合はどう?」
優しい声に目を向けると、女性が微笑みながら、水を注いだ木のコップを差し出していた。まる助は戸惑いつつも、それを受け取り、大きく一口飲む。冷たい水が喉を潤し、身体が少しずつ覚醒していくのを感じた。
「すみません、ここは……?」
「カインの家。私は妻のルシア。あなたとは初めましてね」
ルシアは微笑みながら続ける。
「カインがあなたを連れてきて、眠らせてあげてって頼まれたの」
まる助は思い出す。そうだ、昨夜は突然意識を失い、カインに強引に連れ出された――いや、あれはほとんど拉致に近い。思わず苦い顔になるが、目の前で穏やかに微笑むルシアや、その傍らで様子を窺う子どもたちの姿が、張り詰めた気持ちを和らげていく。
「これから朝ごはん。お腹すいてるでしょう?」
「は、はい……」
ルシアに促され、長テーブルに着いたまる助の前には、湯気の立つ朝食が並んでいた。焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐり、スープには刻んだ野菜がたっぷりと浮かんでいる。シンプルながらも滋味深い光景に、まる助の腹は思わず鳴った。
戸惑いながらもスプーンを手に取り、一口すすると、優しい味がじんわり体に染み込むようだった。混乱していた気持ちが、次第に落ち着きを取り戻していく。
「おじさん、もっと食べていいよ!」
子どもたちが無邪気に声をかける。ルシアはそんな子どもたちを穏やかに諫めつつ、微笑みながらテーブルを囲んでいる。まる助の胸に残っていた怒りや緊張が薄らいでいった。
「よお、よく眠れたか?」
扉を軋ませながらカインが居間に入ってきた。まる助はその姿を目にした瞬間、怒りが蘇り、思わず椅子をきしませて立ち上がる。
「強引に連れ出して……何を考えているんですか! 俺は――」
語気を強めたその瞬間、視界の隅で子どもたちがびくりと肩をすくめるのが見えた。ルシアも心配そうにこちらを見ている。彼の家族の前で怒るのは、どう考えても良くない――そう気づいたまる助は、ぐっと息を呑み、拳を握りしめた。
「……俺は、納得していません」
抑えた声でそう告げると、カインは落ち着いた様子で頷き、短く言った。
「わりぃ、悪かった」
「……本当に悪いと思っているんですか?」
まる助の問いに、カインは壁にもたれかかったまま腕を組み、じっとこちらを見据えた。表情には軽薄さを装っているが、その奥には確かな真剣さが宿っているように見える。
「お前は、注目されすぎてる。焦って動き回ったら、必ず狙うヤツが出る。俺なりに、お前を守りたかった。だから荒療治をしたんだよ」
「……守りたかった?」
まる助は思わず聞き返した。言葉の裏にある意図を図りかねて、口調がわずかに和らぐ。だが、怒りは完全には消えていなかった。
カインは肩をすくめ、続ける。
「お前は頭も切れるし、行動力もある。でもな、世間知らずすぎる。無防備に突っ走ったら、簡単に利用されてしまうんだよ」
「……だから、強引にでも忠告したかったってわけですか」
まる助は息を吐き、椅子に腰を下ろした。ルシアが差し出してくれたマグカップを握りしめる。そこから立ち上る湯気が、心の荒波を静かに鎮めるようだった。
「腹も立ちますよ。でも、謝罪は受け取ります」
まる助は口をとがらせながらも、どこか納得したように息を吐いた。怒りのピークはすでに過ぎ、気持ちを整理する余裕が出てきていた。
カインは軽く首を振り、真面目な表情になる。
「お前はすでに“危険な領域”に入っている。数日でギルドを動かしすぎた。評判が広まれば、利用しようとする奴が出てくるのは当然だ」
まる助は顔を上げ、カインと視線を交わす。その言葉の裏に別の狙いがあるのではないか、と疑う気持ちがないわけではない。だが、カインの目は真剣そのもの。まる助は問いただすように返した。
「どんな連中が動き始めてるんですか? 」
「いくつかの商会や組織が、お前の動向を探り始めてる。世間知らずなヤツなら、うまく抱き込んで利用できる……そう考えるのが自然だ」
カインはまる助の方へ身を乗り出し、低く響く声で続ける。まる助も食い入るように耳を傾けた。
「で、お前にその気がないなら、排除しようと考える輩も出てくる。取り込めないなら、消してしまえ――そういう世界だ。綺麗ごとだけじゃ生き残れない。必ず狙われる」
まる助は唇を噛み、思考を巡らせる。自分はただ、善意を形にしようとしただけのつもりだった。だが、周囲から見れば“利用価値の高い駒”か、それとも“邪魔な存在”か――どちらにせよ、放ってはおかれない。
「そうですか。そこまで俺の評判が広まっているとは。助かりました、カインさん。ありがとうございます」
まる助が素直に礼を言うと、カインは軽く肩をすくめた。
「ま、俺も、お前をつぶされたくはなかったからな」
そう言いながら、カインは腕を組み、まる助を見据える。
「で、お前はどう対策する?」
その問いには、まる助の覚悟を確かめる意図があった。まる助はゆっくりとマグカップを置き、静かに言葉を紡ぐ。
「……やることは変わりません。ギルドの体制を整えて、必要な情報を集め、確実に味方を増やす。それに、損害保険や投資ファンドについても、むしろ早めに形にするつもりです」
自信に満ちた言葉に、カインは眉を上げた。まる助の視線には、迷いがなかった。
「お前、本当に“ただの素人”か? まるで先が見えてるみたいだな」
「さあ、どうでしょうね……でも、準備なしに突っ走るほど無謀じゃありません。今回の件を踏まえて、早急に対策します。カインさん、今後も情報を教えてもらえませんか? どんな連中が動いているのか、事前に分かれば、備えられますから」
まる助の頼みを聞くと、カインは薄く笑う。その瞳の奥には、どこか試すような光が宿っていた。
「いいぜ。手を貸すかどうかは別だが、情報ぐらいなら流してやるよ。お前にメリットがあるなら、俺にもメリットがある――まあ、そういう話だ」
「助かります。カインさんみたいな情報通が味方にいるのは、本当に心強いです」
まる助が素直に礼を言うと、カインは目を細め、肩をすくめた。その態度の奥には、どこか兄貴分じみた思いやりが感じられる。
「でもよ、まる助。やるなら徹底的にやれ。中途半端に首を突っ込んだら、痛い目を見るだけだ」
「承知しています」
まる助の瞳には揺るぎない決意が宿っていた。子どもたちに囲まれ、香ばしい朝食の香りが漂う和やかな空間――だが、その胸中には、新たな覚悟が静かに固まっていた。
絶妙なタイミングで、ルシアが穏やかに言葉を挟む。
「朝から熱い話もいいけど、食事が冷めちゃうわよ? せっかくだから、食べてからにしたら?」
その柔らかな声に、まる助もカインも、張り詰めていた空気が和らぐのを感じた。子どもたちが「そうだそうだ!」と元気よく囃し立てる。テーブルの端では、まだ湯気を立てるスープが静かに香っていた。
「そうですね、ルシアさん」
まる助はクスッと笑い、再び椅子に腰を下ろす。カインも気を取り直すように軽く伸びをしながら、子どもたちのほうへ歩いていった。
「ったく、朝から重い話は性に合わねえな……腹が減っては戦もできねえ、だったか?」
「ふふ、そうね。まずは食べてちょうだい。もうすぐパンが焼けるわよ」
ルシアの優しい声に、部屋が柔らかな温もりに包まれる。まる助は息をつき、改めてスープを口に運んだ。
(下手な連中に食われる前に、早急に備える……)
まる助の決意は、より明確なものへと変わっていた。カインの家で迎えたこの朝は、不意打ちのような出来事だったが、むしろ覚悟を固める契機になったのかもしれない。
カインの謝罪と警告。ルシアや子どもたちの、穏やかな日常の一コマ。それらすべてが絡み合い、まる助の胸に静かな力を灯していく。
「……よし、まずはこれだ」
まる助はつぶやき、スプーンを握り直した。その声は小さく、誰の耳にも届かなかったかもしれない。だが、心に浮かんだアイディアは、確かなものだった。
この先、誰に狙われようと、邪魔はさせない。そのために――
まる助は食事を終え、カインに視線を向けた。
「カインさん、ひとつ頼んでもいいですか? ギルドには午後から行くと、ベルザさんに伝えてほしいんです。俺は、もう一度オルデス商会に行こうと思っています」
カインはスープを啜りながら、片眉を上げる。
「ほう、また商会? 何かいい考えがあるのか?」
まる助はすぐに軽く微笑んだ。
「秘密です。でも、いいアイディアです」
カインはまる助を見つめ、探るように目を細める。だが、まる助の表情には余裕があり、その本心は読めない。
「……ったく、お前ってやつは。まあいい。ベルザには伝えておく。ただし、ヘマはするなよ」
「はい、大丈夫です」
まる助は立ち上がり、軽く伸びをする。
温かな朝食の余韻を感じながら、心の奥で静かに闘志を燃やしていた。