031_カインの論理>>
「よく寝てやがるぜ、お坊ちゃん」
肩に担いだまる助に呟くが、返ってくるのは規則正しい寝息だけ。夜更けのオルデストは静かだが、男を担ぐ俺の姿は、道行く人の興味を惹いたようだ。
「よう、カイン。また新入りに飲ませすぎたか?」
「うるせぇな。ただの介抱だよ」
からかい混じりの声を適当にあしらいつつも、胸の中に罪悪感がよぎる。酒を飲ませたわけではないが、水筒に睡眠薬を仕込んだせいで、こうなっている。
(俺だって、好きでしたわけじゃねえ)
まる助の存在が俺の中で急速に膨らんだのは、ここ数日のことだ。
異様に頭の切れる新人がギルドに現れたと聞き、興味を持った。調べてみると、すでに商会やギルド関係者の間でその名が囁かれ、裏社会にも情報が流れ始めていた。
『頭は切れるが、世間知らずらしい』
『そのうち誰かに利用されちまうだろうな』
どこか不安を掻き立てる噂だった。
そして、あいつはオルデス商会と交渉に乗り出しやがった。ベルザが信頼するだけのことはあるのだろうと認めつつも、放っておくには危なっかしすぎる。気づけば、俺は目を離せなくなっていた。
オルデス商会は巨大組織だ。そこでは、損得勘定だけでなく、巧みな駆け引きが求められる。そんな場所で、世間知らずのまる助が、どれだけ渡り合えるというのか。
交渉を終えたまる助の顔を見た瞬間、俺の胸に確信が走った――こいつは限界だ。完全に消耗し、切羽詰まっている。表面上は平静を装っていても、見る人間が見れば一発で分かる。「余裕」を失った者に共通の危うさが滲み出ている。
こういう奴を、俺は嫌というほど見てきた。冷静さを欠いた人間が、どれほどカモにされ、利用され、最後には潰されていったか。実際、俺自身にも苦い経験がある。かつて信頼していた仲間に裏切られ、大きな損失を被ったとき、俺も冷静さを失い、追い詰められていた。
――あの過ちは繰り返さない。
だからこそ、今回は先に手を打った。
薬を使うのは強引すぎる。いや、反則と言ってもいい。だが、俺は勝負が嫌いじゃねぇ。勝つために必要なら、時には汚い手も使う。なにより、このまま放っておけば、取り返しのつかない事態になるのは目に見えている。まる助を守るために――今は選択肢がなかった。
自宅に着いた。
扉を開けた妻のルシアが、やれやれといった表情で俺を見た。
「あらあら、酔っ払いでも拾ってきたの?」
肝っ玉の据わったルシアは、俺がどんな厄介ごとを持ち込んでも、動じることなく受け入れてくれる。
「こいつは特別だ。酔っ払ったわけじゃないが、ちょっと手荒に連れてきた」
「……あんたのことだから、事情があるんでしょ。まあ、入んなさい」
文句ひとつ言わず、ルシアは奥へと案内する。居間に寝かせると、子供たちが興味津々で覗き込んできた。
「この人、どうしたの?」
「大丈夫だよ。ちょっと疲れて寝てるだけさ」
穏やかな寝顔を見下ろしながら、俺は静かに呟いた。
まる助の寝顔は、どこか無防備で頼りなげだった。それでも、こいつがただの理想主義者ではないことは、俺にははっきりと分かっていた。
「……すまなかった。でも、これしかなかったんだ」
短く呟いたその時、ルシアが背中を軽く叩いた。
「まあ、関わるなら、最後まで責任持ちなよ」
「わかってるさ」
俺はルシアの肩を軽く叩き返し、静かに微笑んだ。
俺の持論は『騙される奴が悪い』。だが、大切な者が騙される前に守ることも、俺のルールの一つだ。
俺は小さく息をつき、まる助が歩む道を思う。その先に何が待っているのかは分からない。それでも、胸の奥に宿る期待は、消えることはなかった。