030_影の正体>>
まる助は、夜の街を走っていた。
頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、BPO、オルデス商会長、時間加速、感恩帰恩――次々と浮かぶ思考も、走るうちに少しずつ薄れていく。身体の動きに意識が向くにつれ、気分が軽くなるのを感じた。
(悪くないな)
速度を落とし、大きく息を吸う。夜風が火照った頬を冷まし、余計な考えを洗い流してくれるようだった。ふと周囲を見渡すと、街外れまで来ていたらしい。石畳の道が途切れている。
「……そろそろ戻るか」
そう呟きながら歩を進めると、小さな広場が目に入った。街灯に照らされた木々が静かに揺れ、ひっそりとした空間が広がっている。まる助はベンチに腰を下ろし、大きく息を吐いた。頬を撫でる夜風が心地よく、火照った身体の熱を和らげていく。
見上げれば、雲の合間から星が瞬いていた。喧騒から離れた静寂の中、まる助はしばらく、風に身を委ねた。
ふと、背後にわずかな気配が走った。
足音はほとんど聞こえない。だが、確かに誰かがこちらへ向かってくる。まる助は息をひそめ、そっと身構えた。次の瞬間、すぐ近くから声が響く。
「ずいぶん元気だな、お前」
まる助の肩が跳ねる。思った以上に近い。振り向くと、暗がりの中に立つ男の影。暗闇に慣れた目が徐々に焦点を結び、その顔を捉える――
「……カインさん?」
驚きに声を上げると、カインは肩をすくめて小さく笑った。元Bランクのベテラン冒険者にして、裏社会にも精通する交渉人。軽薄そうに見えるが、その実、損得勘定に長けた男だ。
「なんだ、驚かせちまったか?」
「……どうしてここに?」
まる助は息を整えながら、わずかに警戒を滲ませた声で問う。
「いや、お前が急に走り出したからな。何かあったのかと思って、様子を見させてもらった」
「……後をつけたんですか?」
「まあ、そんなとこだ。商会の出口でお前を見かけたんだが……深刻そうな顔をしていたからな」
カインは肩をすくめ、手を広げる。
「気になって、ついてきたってわけだ」
その何でもなさそうな態度に、まる助は内心で首をかしげた。カインとは知り合ったばかり――わざわざ追ってくるほどの関係ではないはず。
「別に、何かあったわけじゃないんです。ただ走っていただけで……」
「そうか。まあ、そんなに焦るなよ」
カインは腰のベルトにぶら下げていた水筒を外し、まる助に差し出した。
「ほら、水でも飲め。かなり走っただろ?」
「……ありがとうございます」
水筒を受け取り、口をつける。ひんやりとした水が喉を滑り落ち、熱を帯びた身体を内側から冷ましていく。まる助はもう一口飲み、ゆっくりと息を吐いた。
そして――違和感は、突然だった。
喉の奥に、妙な重みが残る。足の感覚が鈍り、まぶたがじわりと重くなっていく。
「……あれ?」
ゆっくりと視界がぼやけ、まる助の身体がふらついた。
「おっと」
カインがすかさず腕を伸ばし、支える。その顔には、申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。
「……カインさん?」
まる助は、ぼんやりした頭で問いかける。
「すまんな。ちょっと手荒な真似をさせてもらった」
苦笑混じりの口調。だが、その目元には、いつもの軽薄な余裕が戻っていた。
「……何を……?」
まる助の言葉は、そこで途切れた。視界が滲み、暗闇がゆっくりと広がっていく。最後に映ったのは、カインの顔――どこか読み取れない表情を浮かべている。
まる助の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。