011_オルデストの安宿>>
異世界に来て二日目の朝。ぼんやりと意識が浮かび上がると、木製の天井がゆっくりと視界に入った。一瞬「ここはどこだっけ?」という戸惑いがあったが、すぐに昨夜の記憶が戻ってきた。
――そうだ、宿に泊まったんだった。
ゆっくりと体を起こし、昨日の疲れを振り払うように伸びをすると、手首に違和感を覚えた。視線を落とすと、元の世界から一緒に転移してきたスマートウォッチが、かすかな光を放ちつつ時を刻んでいる。
……06:32か。
内心ほっとする。この異世界にいても、自分が“前の世界”と確かにつながっている。その事実は、小さな安らぎを与えてくれる。
同時に、不思議な感覚もあった。俺がこの時計に懐かしさを覚えるのは、平沢の記憶を継いでいるからだ。あの世界で実際に生きていたわけではない。けれど、電車を待ちながら見た時刻、会議前にちらりと確認した数字など、平沢のライフログから創作された記憶がまるで自分自身の過去のように感じられる。
そっと袖を引き下ろし、スマートウォッチを隠す。不用意に見せれば、この世界では異質と見なされるかもしれない。慎重さが必要だ。
ベッドを降り、階段を下りてロビーへ向かうと、そこにはやわらかな灯りが揺らいでいた。カウンターの奥では、昨夜も見かけた初老の宿主が帳簿にペンを走らせている。そのゆったりとした動作は、この宿の穏やかな空気を象徴しているようだった。
「おはようございます」
声をかけると、宿主は顔を上げ、にっこりと微笑む。
「おや、お客さん、早起きだねぇ。よく眠れたかい?」
「ええ、とても。ありがとうございます」
素直に礼を述べると、宿主は満足そうに頷いた。
「それは何より。チェックアウトは十時だが、今日は十一時でも構わないよ。ゆっくりしていきな」
カウンターの横に置かれた砂時計と木製の時計が目に入る。技術水準は中世から近世への過渡期といったところか。
「素敵な時計ですね」
「まあ、時々遅れることもあるがね。日の高さや街の鐘もあるし、長年この仕事をやってると、だいたいの時刻は分かるもんさ」
宿主は時計を指差しながら朗らかに笑った。時間を勘や経験で測る様子が、いかにもこの世界らしい。
「ところで、朝食をお願いできますか?」
「もちろんさ。軽食でよければ、八時には用意できる」
「助かります。それまで少し散歩してきますね」
軽く会釈して宿の扉を開けると、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でた。通りはまだ静かで、多くの店は閉まったままだ。朝露に濡れた石畳を、荷馬車がゆっくりと音を立てて進んでいく。
歩きながら、今日の予定を整理した。
(まずは宿で休息、それからギルドへ向かう。それまでにタブレットのことも調べておきたい)
特に気になるのは、「感恩:グリーン」「帰恩:グリーン」という表示だ。何を基準に変化し、どう影響するのか――聞き込みや観察が必要になりそうだ。
宿に戻り、部屋でタブレットを呼び出す。半透明の板が幻想的な光と共にふわりと現れる。
(所持金は……)
表示されたのは「¥98,000」。昨日、報告書の代筆で意外と稼げていた。この世界の物価はまだ把握しきれていない。宿代が五千円という話だったので、大きくはずれていないと思うが、全てが元の世界と同じ水準とは限らない。
画面には入金履歴など詳細がなく、最低限の財布機能しかないらしい。資産管理や取引履歴は、おそらく紙の帳簿が主流なのだろう。
(後で調べる必要がありそうだ)
タブレットを消し、改めてこの世界についての課題を整理した。
朝食の時間になりロビーへ降りると、テーブルには温かな食事が並んでいた。焼きたてのパンに、湯気の立つスープ、瑞々しい果物――質素だが温かな食卓だった。
「いただきます」
一口食べた瞬間、じんわりとした美味しさが口いっぱいに広がった。食べながら、カウンターの宿主に声をかける。
「最近、タブレットの“感恩”や“帰恩”について、不思議に思うときがあります」
宿主は帳簿から顔を上げ、少し考えてからゆっくり答えた。
「感恩はな、感謝の心の色だ。傲慢になるとレッド、普通はイエロー、心から感謝しているとグリーンって話だ」
「感謝の色ですよね」
「そうだな。帰恩のほうは難しい。神様の望む行いをしているかどうかってことだが……人には分からんよ。神様ってのは、だいたいそういうもんだ」
まるで道徳の指標を可視化したような話だ。だが判定基準が曖昧なだけに、実際の運用が気になる。
「この辺りでは、あまり話題にしないものですか?」
まる助は何気ない口調を装いながら慎重に問い、相手の反応を伺った。当たり前のことを聞きすぎれば、不審に思われかねない。
宿主は軽く笑って首を振った。
「いや、けっこう日常的に話すよ。『今日はイエローだった』とか、『グリーン続きでツイてる』とか。深く考えるやつは少ないがな」
「昨日、『最近ずっとグリーンだから運がいい』って話しているのを見かけました」
適当な理由を付け加えつつ、自然に会話を進める。
「まあ、気にしない人が多いとはいえ……ひとつだけ気をつけたほうがいい」
「え?」
「他人のタブレットを、本人の了承なく覗くのは――こっちじゃ、ちょっとしたマナー違反なんだ」
まる助は背筋を少し伸ばした。
「マナー違反、ですか」
「そうさ。感恩や帰恩ってのは、心の色だろ? 勝手に見るのは、心の中を覗こうとするようなもんだ。いい気はしないだろ?」
宿主はさらに続けた。
「昔、うちの常連がやらかしてな。飲み会の席で無断でタブレットを覗こうとして、一気に空気が冷えたことがある。『信頼してないのか?』ってな」
「……なるほど。気をつけます」
まる助はうなずいた。この世界では、タブレットの情報が『その人自身』として扱われる――そんな文化が根づいているようだ。ステータスが人間関係にどう影響するか、もっと深く理解する必要がある。
朝食を終え、一旦部屋へ戻った。チェックアウトは11時。それまでにもう少し、この世界の情報を得ておきたい。再びロビーへ降りると、宿主がほうきを手に掃除をしていた。
「街のことを調べたいんですが、参考になる本はありますか?」
宿主は手を止め、カウンター奥から一冊の本を取り出した。表紙に大きくタイトルが書かれている。
「これがいいかもな。『オルデスト観光ガイド』だ。街の歴史やギルド情報も載ってる」
「ありがとうございます」
ページを開くと、ざらりとした紙の感触が指に伝わった。丁寧だが掠れた文字が並んでいる。
(なるほど、木版印刷か)
ページの冒頭には「オダリオン市場国の首都オルデスト」と記されている。
(ここオルデストは、オダリオン市場国の首都か)
この街は商業と金融の中心地らしく、大規模な市場や投資文化が根づいているようだ。
市場や商業ギルドの概要、評議会や商人による投資の話にも触れられている。詳しくは分からないが、金が集まる場所なのは間違いない。
ページを進めると、冒険者向けの情報があった。
『オルデスト探索ギルド』――通称、冒険者ギルド。モンスター討伐だけでなく遺跡探索や交易護衛など、多様な仕事が紹介されている。昨日は報告書の代筆だったが、ビジネスチャンスは幅広そうだ。
一通り目を通し本を閉じると、宿主に礼を言って部屋へ戻った。チェックアウトの時間まで、情報を整理し、次の動きをざっと考える。
――まずはギルドへ行き、昨日聞いた職員寮の件を確認する。拠点が確保できれば、この世界での活動が安定する。
気づけば11時。身支度を整え、宿の扉を押し開く。
「さて、行くか」
目的地は『オルデスト探索ギルド』。まる助の異世界生活は、ここから本格的に動き出す。




