010_聖女セシリアの朝>>
ぼんやりと天井を見つめ、大きなあくびを飲み込んだ。
部屋に差し込む冷たい光が、「聖女」としての日常の始まりを告げている。名残惜しくシーツの感触を指で確かめつつ、重い体をゆっくりと起こした。
「セシリア様、朝の祈りの時間でございます」
控えめなノックと侍女の声が聞こえ、扉が静かに開く。侍女は恭しく頭を下げ、目覚めを確認するとそっと衣を差し出してくる。
純白のローブ。金糸の刺繍が美しく施され、それを纏うだけで人々の描く『神聖な聖女』というイメージが強調される。まるで、本当の私を隠すかのように。
「ありがとう。すぐに支度するわ」
口元に笑みを作って答えたけれど、本音は「あと五分だけ寝かせてほしい」と胸の奥で嘆息する。聖女として朝寝坊は許されない。それを頭で理解していても、心はどうしても追いつかない。
鏡台の前で侍女が丁寧に髪を結い上げる。指先のやわらかな感触を感じながら、今日の予定を思い出す。
朝の祈りの儀式、午前中には領主との面会、午後には病を患った人々への癒やし。どれも重要な務め――それはわかっているけれど、スケジュールを思うたび胸が締めつけられる。
「支度が整いました。足元にお気をつけくださいませ」
ローブの裾を整えてもらい、部屋を出る。廊下を進みステンドグラスが並ぶ回廊を抜け、神殿の広間に出ると、多くの信徒や訪問者が私を待ちわびていた。
「おはようございます、聖女様!」
「私たちを導いてくださること、心より感謝いたします!」
熱意に満ちた声が次々と届く。その期待に笑顔で応えながらも、心の奥にはわずかな違和感が残る。
(今朝の私は、聖女の仮面をうまく被れていない……)
彼らの純粋な期待に応えるのは当然のこと。聖女として役割を果たせば、その見返りも大きい。それでも、これから先ずっと同じ日々が続くのかと考えると、胸が苦しくなる。
祭壇の前に立ち、静かに視線を落とす。百人を超える人々の視線がこちらを見上げる中、神官たちが焚いた香がゆるやかに漂い、静かな音楽が儀式の始まりを告げる。
私は誓文を唱え、両手をゆっくり掲げる。淡い光のベールが広がり、人々へ降り注いでいく。
「なんと慈悲深い……」
感嘆の声が上がり、光はさらに強まっていく。儀式は成功だ。
土地は潤い、作物は豊かに実る――何度も繰り返してきた奇跡。けれど民衆は初めて見るかのように感動し、拍手を惜しまない。
私は目を伏せたまま、歓声と拍手に応えるように微笑む。けれど、胸の奥では問いが渦巻いていた。
(これが、本当に私の望むことなの……?)
儀式を終えて祭壇から降りると、神官たちが恭しく頭を下げる。
「聖女様、ありがとうございます。今年の豊作も約束されたも同然です」
「ええ、皆さんもお疲れさま。共に頑張りましょう」
整った言葉を返しつつ、そっと背筋を伸ばして息を吐いた。次の予定が控えているのはわかっているけれど、ほんの一瞬でも呼吸がしたかった。
神殿の広間には眩しい日差しが降り注ぎ、大理石の床に反射する光がゆらめいている。絵画の中に迷い込んだような錯覚を覚え、まぶたを閉じて心を落ち着ける。
(今日も忙しくなりそう……)
求められなくなるのは怖い。けれど求められすぎるのも息苦しい。本音が胸をよぎるたびに、聖女の責務と一人の少女としての弱音のあいだで心が揺れる。
だけど、それを口に出すことは許されない。『聖女』という宿命が、そう定めているのだから。
次は領主との面会だ。移動を急かす神官たちの視線を感じつつ、もう一度ローブの裾を整え足を踏み出した。貼りつけたような笑顔で、今日もまた求められる役割を演じるために。
もし、誰かが代わってくれるのなら――
考えても仕方ない。自分を律するように小さく首を振り、礼拝堂の出口へ向かった。
朝の儀式は終わったが、私の一日はまだ始まったばかりだった。