怪異の在り方
一寸先は闇。天井の崩落、爆発、そして意識不明。この先何が起こるか予測がつかない今、生あるものは未来を渇望する。今なら生を放棄して悠々自適に動くヨウが羨ましく思い、理不尽な目に遭った彼女への侮辱に逸海は自己を嫌悪し廊下に響き渡る音量で舌打ちをした。
救急車が到着してから一時間強。
急いで帰る理由のない逸海は学校に残り紫月の手伝いをした。
ある者は苦痛に呻き、ある者は血を流す。運び出される先生生徒は誰一人意識がない。
負の感情が周囲に伝播し逸海の気分は沈み込み紫月から帰宅を言い渡された。
まだやることがありそうだったが紫月の言葉に従い仕方なく駅に向かって歩き始めた。
入学してから数日。
緊張が常に存在した入学式よりも、本格的にクラスメイトと知り合う時よりも、今日の時間がなによりも濃密な時間であり、ここ数日の出来事全てが薄っぺらで存在しないに等しい時間。
混迷を極める日々の中で逸海の思考を埋め尽くす存在は『ヨウ』である。
ヨウは頭がいい。というよりも先を見通す力に優れている。
思考は常に第三者だとしてもあれほどの状況で冷静に思考できるのは『普通』ではない。
だがその根源が『死すらも許容する感情』から来るものであれば、その力を欲さない。
彼女は自分が死ぬことまでも予期していたのではないだろうか。
仮にそうだとして、それすらも受け入れる彼女の心境を理解する日は来るのだろうか。
考えれば考えるほど思考は底なし沼に沈み込む。
「とりあえず幽霊を身体に戻す方法を知る必要があるのか」
明日、ヨウと会うまでに手がかりでも見つけられるとよい。最悪、スマホで調べれば胡散臭くとも見つかる。物理的干渉が不可能なヨウでは行えない手段。文句は言うまい。
「なるほど、あの子が身体に戻る方法をお探し。と」
「でも幽霊と話すこと自体初めてだからな」
逸海は霊感を持っている。それにより人ならざる存在を見ることもある。だがそれらと積極的に関わったことがないため、向こうの住人を何も知らない。
霊感なくとも興味本位で調べている人の方が知識を持っていると言って過言ではない。
花蓮はお盆という風習を例に話していた。
魂を別の何かに宿す考え。だが戻の肉体に戻すための手段とは似て異なる。
「人形や縁のあるものに魂を宿す方法ですか。それはお勧めできませんなぁ」
「魂を人形に宿しても、身体に戻すためにはもう一度魂を人形から離さないといけないからな」
これでは明らかに無駄な手順を踏んでいる。むしろ引きはがす手段も探す必要がある。
ヨウは身体に戻れない状態、身体側が入り込むことを拒絶している。
だが意識のない身体が拒絶することがあるのか。彼女の肉体は無力ではないのか。
「ははーん。それなら身体ではなく本人とは別の要因が絡んでいやすね」
「なるほ………ど?」
ふと我に返った。自分は声に出して考えていたのか。
まるで心を読み会話をしてくる存在がいる。と疑問に思い声のする方に視線を移す。
いつからそこにいたのか。逸海が思考に耽り過ぎていたのか。
当然の様に逸海の隣を歩き、歩幅を合わせた歩き方は逸海に違和感を抱かせない。
これが普段通りと言われても遜色なく受け入れてしまうほどに自然。隣を歩く女性に頭頂部に生えた『耳』とお尻の『尾』が生えていなければ。
逸海は足を止め何度も瞬きを繰り返す。
視線の先は雪の様な真っ白の耳と尻尾。人に存在しないパーツを何度も確認する。
彼女の存在を脳が理解するまでに十秒。逸海はようやく未知の存在から距離を取る。
用事があるから自然と隣を歩いて話に混ざった。そう考えるのが妥当である。
用がなければ近づかない。逸海に何かしら厄を与える。逸海を揶揄いその場から立ち去る。
だが目の前の異物はそのどれも行わず逸海を見つめて言葉を待っている。
「人に変身したのであれば欠陥があるが自覚はしているのか?」
「ややっ‼ キツネやタヌキよりも変化が上手いと謳われた吾輩を欠陥と仰る。あぁいたわしいかな。拙の調べではこの格好は人気があると、裸婦の写る雑誌から読み取った。さてはお主、適当言っているでござるな」
「一部に需要があるのは否定しないが……その口調は違うんじゃないかな」
一貫性のない言葉選びは逸海に不快を扇動する。
本の巻数がバラバラだと気づいた様に彼女の言葉は逸海にストレスを与える。
「ほほぅ、其の方は詳しいと見える。よければ拙僧に教授願えないだろうか」
「えっ嫌だけど。変な奴と関わりたくないし、存在が腹立つし」
逸海はきっぱりと断った。実際、ヨウに花蓮に巨大人骨に。逸海のストレスメーターはとうに振り切っている。これ以上の異常は逸海の意識が現実に還ってこられない。
「グハッ‼ 小生を変な奴とそう申したのか。これは朕、撃沈。なんつって」
謎の生物は舌を出して可愛らしく振舞うが、それら全てが逸海の逆鱗に触れていく。
これが謎の生物でなければ、親や校長であろうと拳を振るっていた。
一挙一動が逸海のストレスを溜めていく。これを自然と行うのはもう運命的にそりが合わない。前世で殺し合った、家族を虐殺された関係。兎にも角にも逸海にとっての最も不快な生き物。
逸海が殴らないのは謎の存在であるという一点のみ。毒がある、ヘドロが飛び散る。そんな可能性がプルプルと硬く握られ震える拳を行動に移させない抑止力となっている。
ストレスを溜めない為にここから離れたい一方で、謎の存在の言葉に聞き逃せないものがある。
「ははーん。それなら身体ではなく別の要因が絡んでいやすね」
逸海は生物で、動物で、人である。
死の世界とつかず離れずだが死の世界に足を踏み入れたことはない。しかし目の前の珍妙な存在は日常で目にする存在ではない。生ならざる異質な存在である。
逸海の中で幾重にも葛藤が繰り返されている。
この珍妙な存在と共にいると精神が摩耗し気が狂う。だが手掛かりとなる可能性もある。
ヨウに命を救われた恩に報いる為に自身を苦しめることを許容するか否か。
下唇を噛み締める。握られた拳には爪が刺さる。眼光は獲物を狩る猛禽類の鋭利さを持つ。
「オヤオヤ葛藤が見えますなぁ。その拳で当方に勝とうなんて途方にくれますぞぉ。謀るのはキツネやタヌキの仕事。汝はコックリと頷けば良いのです。狐狗狸さんだけに、ニャハハハハ」
「──────っ‼」
逸海の味覚は鉄を感じた。拳から滴るのは汗か血か。
憎悪の対象はなぜ逸海の前に現れたのか。
そんなことは決まっている。逸海のストレスを高めるために現れた。
どんな理由があろうとも逸海は屁理屈で言い包めてみせる。
虫を見ただけで嫌悪し視線を外す。理由がなくとも近寄りたくない。
それは自己防衛の本能。逸海は目の前の物体を無視することに決めた。
だが、不快害虫はお構いなしに逸海へと話しかける。
「虫は無視ってか。お前さんも某に染まってきたのではないか? さてと、自己を保つためとはいえお遊びが過ぎたか。では害虫ではなく害獣な私あるが真面目な話をしようか」
コホンとわざとらしく咳払いをした獣は逸海へと向き直る。
「我は、ってちょっとお待ちくだぜぇ旦那。せっかくの晴れ舞台を無視するたぁ殺生ですぜ。いや自分が悪いのはわかっていやす。後生ですから話だけでも聞いちゃくれやせんか」
当然、逸海は不快害獣にわずかな時間も割く訳がない。視界に入れることすら不愉快である。
誰がいつの間にか部屋に入り込んだゴキブリをペットにしたいと思うのか。
反射的に逃げるか、殺すかの二択を選ぶ。逃げる方を選んだだけ優しい選択である。
謎の存在は逸海の腕を掴むと全体重を後ろにかけて逸海を制止させようと試みる。
その姿は玩具をねだる子供。親はお構いなしに子供を引きずり帰路につく。
「後生ですから話だけでも、いえ全部とは言わないんで先っちょだけでもいいですから」
ズルズルと引きずる音とジュルジュルと鼻をすする音が混じり始める。害獣はキャラも忘れて懇願だけを必死に行い続けている。本能のままに言葉を吐き出し逸海に希う。
逸海は駄々っ子を引きずり十数メートル。スポコン漫画でタイヤを引きずる場面のように、わずかな距離で途方もない疲労が襲い掛かってきた頃、ようやくその足を止めた。
「………次ふざけたら帰るからな」
「さっきも帰ろうとしていたのに? って嘘ですから。ねぇ殺意の宿る眼を向けると嫌われますよ。いや、一人で帰る時点でもう嫌われている? こりゃ旦那の傷口抉っちゃったな」
「…………はぁ、いいから本題に入れ」
逸海が今の戯れを見逃したのは精神的に疲れたから。腕を掴んで離さないから。そして相手が観念して本題を話す気になったことで事態がようやく進む気がしたから。
この三つが存在して初めて逸海は見逃す。どれか一つでも欠けていれば暴力を用いて自己の怒りを体現させていた自覚がある。
「ではまずは名前をば。と言っても旦那のような個人名ではありやしやせん。名を『テン』と」
「キャラ付けはいいから。内容が入ってこない」
「そうすると私のキャラが薄くて誰も何も記憶に残さぬままになってしまうのですが」
テンは濡れた犬の様にシュンと落ち込んでしまったが、逸海にとっては些事。必要な情報を聞くまでは離れるわけにはいかず、聞いた瞬間にはテンの存在を記憶の外へと追いやりたいのだ。
「キャラが薄くて忘れ去られるのと、ここで去られるの。どっちがいい?」
「ハイッ‼ 普通に話しますね」
逸海が睨むと不快害獣は背筋を正して逸海と向かい合った。
謎の存在改めテン。
真正面からテンを観察するのはここに来て初めてのことだが、薄汚れた着物を身に纏う童顔の少女に見える。身長は逸海の胸のあたりで小学生ほどの大きさ。
当然、生ならざる者なのだから変化した姿なのは理解しているが、テンと対峙すると無視することに罪悪感を抱く容姿をしている。薄汚い服は孤児か虐待を予感させ、幼い姿と重ねれば嫌な背景を創造してしまう。それが狙いか否かはテンのみぞ知る。
「お連れ様の話ですが身体に戻りたいのに戻れないということでよろしいのですよね」
「待て、その前にどうしてそれを知っている?」
「それは逸海様が口に出しておられたので。霊体を戻すとか何とか、かくいう拙者も…失礼、私も特別な力を持つ一人。お手伝いできるかと」
「……どうして協力する」
逸海の鋭い眼差しの中に僅かに穏やかさを帯び始めた。
巨大人骨やヨウと同様に人ならざる存在に警戒心を抱いていたが、容姿と相まって警戒心が薄れている。答えによって逸海は考えを改めてテン歩み寄る。そんなことまで考えている。
「馬鹿と鋏は使いよう……失礼、互いに益のある行為ですから」
互いの益。逸海にとってはヨウを戻すための手段。テンの口から似たような言葉が幾らか聞こえてきたことから納得がいく。しかし、
「テンの利益の内容は?」
自己の利益のみを知り相手の事情も知らずに頷くことはできない。それでは目の前の餌に食らいつき殺される獣や魚と同じである。
人間の世界は複雑かつ巧妙な世界。相手の裏の裏まで読んで尚相手に疑心を持ち続ける世界。
どれほど警戒心を緩めても、最低限の事情と目的を知らなくてはならない。
「逸海様の認知を得られることで存在の確立を行うことができます」
「存在の確立?」
聞き慣れない言葉に逸海は首を傾げてオウム返し。
「ん~そうですね。あなたの世界で学問の神様がいますよね?」
「えっと菅原道真だっけ? 北野天満宮の」
「あの人? あの神? は怨霊が一人。人に『害』をなす存在が『益』をもたらす存在に変化した。変化するには何かが必要。ではその何かとは?」
テンの諭す様な話し方は先程までの下っ端キャラよりも板についている。それこそ長年染みついた習慣。彼女の本性は今の方が近いのだろう。
「何が変わった? 時代とか、流行とか……」
逸海は歴史が得意というわけではない。高校入試で点数を取るための勉強はしたが、ウンチクを披露できるほど学んでいない。
それでも何か探すために必死になって考える。
時代が変わるとは。平安から鎌倉へ、貴族から武士の時代に移りゆく。
流行が変わるとは。当時の流行など和歌しか知らない。オペラを演じていない事は察しがつく。
逸海は様々なことを思いついてはその入口で否定する要因を見つける。
悪から善へと生まれ変わる。性質が真逆に変化する要因とは。
どれほど捻って考えても否定できない解答を見つけることができなかった。
苦悩する逸海の百面相を見ていたテンの表情は少し緩んでいた。先程までわずかな関心も向けていなかったのに、今は自身の質問を必死になって考えている。
真逆の対応におもわず喜びを感じ尻尾を二回、三回と上下に揺らした。
「人の考えです。当時病の流行と同時期に菅原道真は亡くなった。多くの人が信じ込むと病は悪霊となった。それを鎮めるため彼を学問の神と触れ回った。だから悪霊から神へと変化した」
「要するに、神が神とであるにはそう信じる人間がいないと駄目ってことか」
宗教も信じる人がいなければ成立しない。神だけでは成立せず、人間が信じて初めて成立する。
「神を敬う心あれども主体は人間なのです」
満足げに話すテンはムッフンと薄い胸を張った。だがそれとは対照的に逸海は眉を寄せて訝かしむ表情を浮かべていた。
「納得したようなしていないような……それにテンは妖怪だろ?」
逸海が完全に納得できないのはそこにある。
テンの話はあくまで『神』であればの話。
神についても詳しく知らない逸海だが、テンの話を要約すると『神は信仰されて成立する存在』である。誰も知らない神は、神ではなく存在すらしないなにか。
各地に広がる神社や祠は彼ら彼女らの威光を示し未来へと語り継ぐため。
神として成立するために世界に名残を残す。詰まるところ人間に知ってもらう必要がある。
テンの説明で納得がいくのはこの部分である。
しかし妖怪はどうだろうか。
この説明が妖怪でも正しいのであれば、神と妖怪は同一存在である。しかし妖怪を神と考える人がどれほどいるだろうか。妖怪は恐怖の対象、好奇心を満たす玩具ではないのか。
「えっ? 神と怪異って何が違うんですか?」
テンは逸海の疑問に驚いた表情で質問を返した。
「神も怪異も超自然的な存在です。ある学者は、人間にとって善である存在を神と呼び、悪の存在を怪異である、と。では貧乏神は? なんて疑問を持ちますが、それは二の次。重要なのは二者が同一の立場として語られている部分にあります」
テンの指す怪異とは、
幽霊、妖怪、都市伝説など。非科学的であれども興味を惹く存在。娯楽として話を作り、観光スポットを作り、施設を作る。存在を信じていないけれども娯楽として扱う存在。
「逸海様は無神論者ですよね。神は信じていない、されども神社でお参りを行う。他にも何かしらを行っていると思います。同様に幽霊なんていない、されどもハロウィンで仮装をする」
怪異にまつわる行事は他にもいくつか挙げられる。その中でもお盆は代表的な行事である。
神も怪異も同じ存在。というテンの言葉に逸海は頷くしかなかった。
何か反論しようにすぐに思いつくものはない。強いて挙げるなら、天照大神とイエス・キリストが同じ神という括りでいいのか、と思うくらいである。
これに対してテンは、『一神教』と『多神教』へと話が広がり逸海の理解を拒んだ。
だから逸海は『神と怪異が同じ扱い』という思考を一時的に止めて、話の本筋へと考えを戻す。
この話の本筋は、神云々ではなくテンの存在の確立である。
(そもそも存在の確立ってなんだ?)
逸海は存在することを証明するにはどうすればいいのか。と、哲学的な思考になった逸海はこれもまた思考を放棄した。哲学も当然わからない話である。
だが存在の確立とは、それ以前は不安定な存在ということである。
確立とは、確固たるものにすること。でありテンの話と合わせて考えれば、
怪異は存在しない。されども存在している状態にしたい。ということになる。
「と、こんな解釈でいいのか?」
「神や幽霊は多くの人間に信じてもらうことで存在できます。私ほどのキャラを逸海様は忘れることはありませんよね? つまり認知してもらうだけで、」
意気揚々と語るテンは言葉尻を濁した。というよりも尻すぼみで逸海にまで言葉が届かない。
「どうした?」
「いえ、キャラが薄いといけないのではと思い直したので」
テンは咳払いをすると目を見開き口角を上げた。
「麻呂を認識したウヌに要はありゃしやせん。人間風情が不才と対等などうぬぼれでおじゃる。本官は我が家に帰還する。さらばっ‼」
テンは頓智気な笑い声を上げながら空気に溶けるように消えていった。
逸海は狐につままれた気分でその場でポカンと固まっていた。怒りが沸き上がる訳でも、テンを探し追いかることもない。そんなこと考える思考領域はなく、無だけが埋め尽くしていた。
静止して一分。ようやく我に返るとまず浮かんでくるのは憤怒。
七つの大罪と呼ばれる悪行の一つである憤怒が逸海を包み込む中、もう一つ怒りとは別のなにか。怒りを相殺する別の感情。指に刺さった棘や靴に入った小石のように憤怒を濁す感情。
テンの会話に違和感の正体が隠れている。されど思い返すと浮かび上がるのはふざけた口調で逸海を嘲笑う姿。それが鮮明に浮かび上がる。
その度、拳に爪を、唇に歯を当てて自傷行為で冷静さを取り戻す。
怒るにも発散する場所がなく、治めるにも虫の居所が悪い。
釈然としないまま逸海は駅に向かって歩くことを再開した。
「ん? 何かあったのか」
駅前に着くと周囲は人込みで囲われており駅に入ろうにも入れない。人込みを掻き分ける勇気のない逸海は人ごみの後ろの方で背伸びをして注目されている対象を確認する。
そこには警察と倒れた人と壊れた車。それだけで何が起きたのか想像がつく。
「やっべ、もう電車来時間だ」
不快害獣に時間を使い電車が来る時間が目前。野次馬が群がる理由はわかるがこれを逃せば次は一時間後。田舎の不便さを恨みたくなる。
逸海は事故現場を横目に急いで駅のへと駆けて行った。
テン:ある地域ではキツネやタヌキよりも化かすのが上手いと言われている。