人ならざる彼女
ボフッ
瞬きの間、死を覚悟した逸海は柔らかい感触に包まれた。
逸海を受け止めたのは体操で用いる大きく柔らかいマット。それがガスボンベの爆発で吹き飛ばされた逸海をほぼ無傷で助けた。
ガシャン! ガラガラガラガラ
遠くで巨大人骨の拳と似て非なる音が響く。
「大丈夫だよな、生きているよな」
体育館の落下から一分未満。出来事を思い返すだけでも恐怖に溺れ嗚咽が零れる。
「今日ってハリウッド映画の撮影だったか?」
爆風に吹き飛ばされて尚死の淵から生還した逸海は軽口を叩き生の喜びと安心に包まれていた。
「あぁそうだ。あの人はどこに……」
我を取り戻した逸海が真っ先に浮かんだのは助けてくれた彼女へのお礼。
思考が白紙だった逸海を体育倉庫へ避難を促した彼女。彼女がいなければ今の逸海はない。
「ねぇ誰を探しているの?」
「えっと見覚えのある顔だが、名前が分からなくて」
周囲を見渡せば体育倉庫に動体は存在せず、無機物だけが散在していた。
「へぇ、それって女の子? それとも男の子?」
「女のはず。顔も声色は女だったから。特別でない限りはだけど………ん?」
自分は誰と会話しているのか。逸海は声の主を確認して尚自身に問いかける。
逸海と同じく体育館から落下した生徒がいて一緒にここに避難した人はいただろうか、と。
もしくは逸海の他にも爆風に吹き飛ばされて体育倉庫に吹き飛ばされた人はいただろうか、と。
「それってさ、こんな顔?」
そんな人がいた記憶はない。端から結果は分かりきっている。
だが目の前の存在を認めたくないと脳と感情が拒絶反応している。
「おーい逸海、私の声が聞こえる?」
少女は逸海の眼前で手を振ると逸海の焦点を無理矢理自分に引き寄せてくる。
まばたきを一度、二度、三度。
「…………おれ、しんだ?」
逸海の目の前には半透明で浮遊した女の子。
白い経帷子ではなく一般的な私服。だがその造形は『幽霊』と形容される生ならざる姿。
透き通った瞳と通った鼻筋、口紅をつけていない薄い色の唇。
霊体の彼女は逸海と視線を交わしたことを確認するとニコッと微笑んだ。
逸海が彼女の存在を認めたくないのは自己の生を否定することが恐ろしかったから。
命からがら逃げた結果、死んでいました。では笑えない。
背中に残る痛みと爆発による熱、今にも破裂しそうに脈動する心臓。
生きていると叫ぶ心身が死を拒絶していた。
「しんでないよな? な?」
身体は生きていることを証明しているが第三者の言葉が欲しかった。逸海の不安そうな声色と今にも泣き出しそうな瞳。それを察してか霊体の彼女はゆっくりと頷き、
「大丈夫、生きているよ」
と、安堵させるように逸海へと告げた。
彼女の言葉を聞いた逸海は自他ともに認める生者。不安は拭われると緊張の糸が切れる。
逸海は蓄積した疲労にドッと襲われると長い溜息と共にマットに四肢を投げ出した。
「よかったぁ、俺生きている、生きているよぉ…………」
是が非でも生に執着しているわけではない。それでも生きていることに歓喜の声が漏れる。
「ねぇ逸海、生きているところ悪いけど、早くここから逃げないと死んじゃうよ?」
「はぁ?」
彼女の平坦な口調から告げられた衝撃の告白に開いた口が塞がらない。だが一度彼女に救われた事実が彼女の言葉を微塵も疑わず恐怖に竦む身体に鞭を打ち立ち上がる。
先の爆発により使われないハードルや跳び箱が散らばり踏みだす足場を探すので一苦労。拉げた体育倉庫の扉を蹴破ると彼女の『逃げろ』と言った意味に察しがついた。
約二〇m先。先ほどの爆発とは異なる場所に拉げたガスボンベが視界に入る。あれに引火すれば先程と同等以上の爆発が辺りを襲い、逸海も火の海に呑み込まれる。
「ねぇ、次はこっち‼」
霊体の彼女は逸海を先導し部室棟から離れるように促し、逸海は躊躇することなく走り出す。
走り出してすぐ、視界の左方に映る校庭には巨大人骨の助半身が大の字に倒れている。
「さっきの爆発はあの子が拳で爆発を抑えたからあれで済んだの。でも今は倒れているから、」
(次はあれ以上の爆発が来るってことか)
逸海は返答するのではなくことを飲み込んだ。
「早く、ここに隠れて」
彼女が示したのは部室棟から数十m先の離れた校舎の陰。
頼りない一枚の壁だが逸海は耳を塞いで頭から飛び込み身を隠す。
次の瞬間。
───────
それは『音』では表現できないなにか。鼓膜を激しく震わせそれ以外の音を遮断した。
先の爆発の残り火が漏れ出したガスと混ざり爆発を引き起こす。校舎内の窓は爆風でバリバリと振動し、生き物のような爆炎が逸海の横を通り抜けると校舎を覆いつくして姿を消した。
「……次こそ…………本当に助かった………………よな?」
阿鼻叫喚な体験に逸海は口をパクパクと動かしながらやっとの思いで言葉を口にする。
身体の痛みが現実と物語る。だがどう考えても現実には思えない。ハリウッド映画さながらの脱出劇は誰に告げても信じない出来事。このまま疲労感に身を委ねて次に目が覚めたら家の布団の中だった。なんて夢落ちの方が納得できる。
逸海はコンクリートに四肢を放り出して寝そべると霊体の彼女を見上げる。
「ありがとう、君のおかげで助かったよ」
逸海は緊張が解けた柔らかい表情でお礼の言葉を告げた。
だが次の瞬間、逸海の表情から弛みが消える。
先程までの緊張感とは別の感覚。命の危機による生への渇望ではなく疑念による警戒。
これまでは現実感のない現実。今は非現実の存在との対峙である。
一度落ち着いた心臓は再び警鐘を鳴らし始めた。
それは人ならざる彼女の存在。これまでの常識の差異が逸海に恐怖を生みだした。
「………ふぅ、確認したいことが三つある」
命の危機から難を逃れたおかげで逸海は存外冷静だった。
これまでの異常の連続とは異なる異常。死が逸海を追いかける恐怖ではなく、死が逸海を迎え入れる恐怖。それが膨張する心臓を押さえつけ冷静さを取り戻していた。
彼女がこくりと頷いたことを確認すると指を立てながら質問事項を挙げていく。
「一つ、君の名前。二つ、なぜここにいるのか。三つ、ここでなにをしている。ちなみに、俺の名前は八奼逸海、よろしく」
逸海の指が三本立つと、霊体の彼女は質問に答えながら指を立てていく。
「私は逸海と同じ一年生のカライトヨウ。漢字で書くと神が来る社で神来社で、」
「神が来る社……なんか荘厳な名前だな。どうして部室棟にいたんだ?」
「最初から部室棟にいたわけじゃなくてウロウロしていて部室棟にいたの。そしたら空から拳が降ってきて、君が降ってきて、爆風がやってきて、今に至る、かな」
彼女もといヨウは逸海の質問に間髪入れずに答える。
「最後、なぜこの辺りをうろついていたんだ?」
「なぜって、私霊体でしょ? 誰にも見えないでしょ? でも誰か見える人がいるかもしれない。だからその人を探していたの。君みたいな人をね」
ヨウは屈託ない笑顔を逸海に送る。ここまでの純粋な笑顔はどこか不気味に感じてしまう。
「………探してどうするんだ?」
「病院で休んでいる私の身体を取り戻す。そのためのお手伝いをしてもらう。それだけ」
「………身体を取り戻す?」
困惑の色を隠せない逸海は眉を寄せて渋い顔をした。
逸海はヨウの言葉を飲み込むために整理していく。
ヨウは「病院で休んでいる私の身体を取り戻す」といった。
明確な場所を示し、その身体を『死した』ではなく『休んでいる』と表現した。
それが聞き間違いでも、言い間違いでもなければ、それはまるで───
「まるでまだ生きているみたいな物言いだな」
「そうだよ。別に死んだから霊体になる訳じゃないからね」
「……そうか、俺が決めつけていたのか」
霊体と聞いた逸海はヨウが死んだと思い込んでいた。しかしそうではないらしい。
逸海の淡白な反応は状況が呑み込めない事と異常の連続による反作用のおかげもある。
彼女は霊体であれども生体である。半人半霊といったところ。魂だけが身体から抜け出た今、彼女の存在は幽霊と同じらしく生者に認識されることはない。
キョンシーは空の肉体に浮遊霊が入り込み動き出す。しかし身体に入り込んだ浮遊霊は見ることができない。その浮遊霊がヨウの現状である。
しかし人間は多種多様。足が速い、頭がいい、人に好かれる。様々な才能を備えている。
その中には『死者を見る』こともできる人間も存在する。
所謂『霊感』を持つ人間。逸海はその内の一人である。
逸海の眼は全ての怪異を見ることはできない。見える範囲は逸海にもわからない。
しかして霊感があっても日常生活に支障はなく、怪異に話しかけられたことがない。
他人との認識の違いに戸惑うことはあったが戸惑うだけで被害はない。
逸海にとって怪異が見えることに対して緊張はあれども恐怖はない。
ヨウの存在は逸海にとってほんの少しだけ特別な日常。それだけである。
つい数分前までは。
逸海は怪異の襲われることがなかった。だが巨大人骨は拳を振り下ろし逸海を危険に巻き込んだ。第三者の殺意を身に浴びた逸海はあの時、未知の体験に思考を放棄した。
これまで当然にあった平穏な時間も先の体験の後では特別な時間に変わる。
風に靡く草木に視線を吸い寄せられ窓の外を眺めては火の粉の残る植え込みを眺める。隣の植え込みに移り生の存続を試みる火の粉は風の前にフッと消された。
あれほどの暴威も風前の灯火。そして人間の命とて───
「……ぃ、おーい逸海。私の話を聞いてる?」
「まったく聞いてない。何か話していたのか?」
素っ気ない逸海にヨウはぷくっと頬を膨らませる。その愛らしい仕草に逸海の心臓はまた別の警鐘を鳴らすが表情だけは冷静に努めていた。
「だから、私の身体を取り戻すのに協力してくれない?」
「協力? 俺はヨウの事、何も知らない………」
知らない? 本当に彼女の事を知らないのか。
逸海はヨウの顔をまじまじと観察し、記憶に引っかかった疑問を思考する。
彼女には初対面の印象が薄かった。初めて会ったにしては彼女からは初対面の壁を感じない。
それはつまり彼女は逸海とどこかで会ったことになる……可能性が高い。それを裏付けるように、ヨウは逸海が名乗る前から「逸海」と呼んでいた。対して逸海は彼女のことを見た記憶はあれども確信がない程度の印象。
それから導ける結論は、出会って日が浅く、逸海はヨウに対して思い入れがないことにある。
「………クラスメイトか?」
入学して間もない今、クラスメイトを記憶していないことはおかしなことではない。
逸海は男友達すらろくにいない。今朝、話しかけてきた彼の名前すら知らない程。
クラスメイトなら見覚えがあり、相手がこちらを知っている状況は十分にありうる。
そしてもう一つ。霊体になった可能性を思案するにあたり確認しなければいけない事項。
「一つ確認させてくれ。霊体になったのは数日前の電車事故が原因か?」
「………はは」
動揺したのか瞳孔を開け口角を上げた状態で硬直させると乾いた笑い声をあげたヨウ。
その仕草は壊れたマリオネットであり奇怪な様に逸海は訝かしむ。
自己と他者への猜疑心は逸海の視線を鋭くさせる。
怪異に常識は通用しない。彼らは自由で、気ままで、自己中心的な存在。
ここまで友好的な霊も、あれほど暴力的な怪異も初めての遭遇である。
ヨウは「ははは」と笑い終えると爛々とした瞳を取り戻し満足そうに賛美の拍手を送った。
「そうだよ、その通り。知っている以上に鋭い感性を持っているね」
「幽体離脱なんて余程のことがなければ起こらないだろ。今のは身近な話題だっただけだ」
数分前に自分への自傷行為のおかげで至れた結論。心に巣くう罪悪感が逸海の思考を結論まで導かせた。それは嬉しくない賛辞であり怪我の功名である。
「そんなことはないよ。怨みだけでも人は幽体離脱し呪い殺すことができるって、源氏物語に書いてあるよ。よくある痴情のもつれ、でも性衝動は常にあるんだから誰もが幽体離脱できる可能性がある。そう捉えることもできるよね」
急に口数が多くなったヨウは意気揚々と言葉を並べていく。しかしそれがバカにもわかる簡略的な説明ではなくオカルトに寄った内容に逸海の脳は不要と判断し処理を行わない。
「少なくとも源氏物語をよく知らない俺からしたらボンボンの性行為劇場ってことしか知らないからな、そこに幽体離脱要素を感じることはない」
逸海はスッパリと会話を切るとヨウは話し足りないと不満げに唇を尖らせた。しかし逸海の表情を見ると抵抗を諦め、話題を本筋に戻した。
「ねぇクラスメイトの頼み、聞いてくれない?」
「……クラスメイトだからと手伝う道理はないだろ」
ヨウは逸海に睨みに怯む様子はない。むしろ出会ってからずっと口角を上げている。爆発を教える時もよそ吹く風。そりゃ自分に被害はないのだからその通りなのだが。
逸海は他人に少し無関心なきらいがあるが、ヨウはまた別のベクトルの無関心さがある。
「うーん、なら交通事故に遭った哀れな女子高生の頼みなら?」
「……女子高生だからと頼みを聞くほどお人好しではない」
逸海はヨウの頼みをきっぱりと断った。
逸海の眼はあくまで怪異が見えるだけ。他に特別な力など何一つ持っていない。それなのに半人半霊の彼女の頼みを受諾することなど不確定要素が多く安全が一寸先も見えない。
逸海とて彼女を不憫に思う気持ちはある。事故など想像するだけでも身体が痛む。
ヨウが事故に遭って嬉しいかと聞かれれば首を横に振る。
ただ誤解のなく言えば、自分には関係のない事だから興味がない。と答えるだろう。
「なら爆発から君を助けた恩人のお願いならどうかな?」
「………ぁ、」
その言葉を聞いた瞬間、逸海はヨウと見つめ合ったまま硬直した。
知り合いだから話を何でも聞くことはない。怪異だから話を聞くことはない。
だが、命を助けてもらっておいて『いやです』で済ませることができるだろうか。
巨大骸骨は後々紹介するので省略。
キョンシー:中国の妖怪であり埋葬されていない死体に魂を入れることで生まれる。