呪わば穴二つ
『一時限目は緊急集会を行うから体育館に集まるように』
高校に登校した直後に担任教師から通達を受けた。
不安や混乱の混じる教室で『八奼逸海』は一時限目が潰れたことに内心で拳を握った。
なにせ入学してから今日が授業初日。経験則からして面倒な事は分かりきっている。
ぞろぞろと移動を始めるクラスの波に流されながら二階の体育館へと足を運ぶ。
入学からたったの数日では皆が他人であるこの時期の雰囲気は重いもしくは気まずい。
気軽に会話できる友達になるには日が浅い。前を歩く人達は目を合わせてはすぐに逸らす。
されども、
視線を交わし話しかけようと試みる、トイレに行き輪を乱すことで視線を集める。
様々なアプローチで他人という壁を壊す自己主張で好機を作り、功を奏したのか誰かの会話もチラホラと耳に届く。
一歩進んでは停止する鈍重な足取り。
逸海は退屈を紛らわすように窓の外に視線をやる。そこには落ちた櫻の花びらの道が目に入る。
美のドレスを脱いだ櫻の最後の輝き。誰をも魅せる美しさに『死体が埋まっている』と謳われる俗説の所以もわかる気がする。
思えばそんな話をあそこで話した気がする。あれは入学式が終わって……
「よぅ兄弟。せっかくの機会だ、集会に対する推理勝負と行こうじゃないか」
静寂を破る耳障りな声が響き渡る。沈黙を破る大風な声は空気を読まない下品の権化である。
とりとめのない思索に耽っていた逸海を邪魔したのは友人と呼べず、他人と呼べない曖昧模糊な関係の|クラスメイト。
「俺は万引き、殺人と思うわけだ。授業を潰してまでやることだ、派手じゃないとつまらない」
廊下の先まで聞こえる大きな声に逸海は自身の心臓を握られたと錯覚するほどに鼓動が跳ねる。
彼から出てくる言葉は相変わらず不謹慎に塗れている。
それこそ、入学式が終わり誘われるように櫻へと足を運んだあの日、春の穏やかな陽気に誘われた変質者と初めて言葉を交わしたことを思い出した。
不謹慎さに目を瞑ればコイツの存在は重たい沈黙を緩和するには都合がいい。
逸海とて会話が可能なら話していたい。しかし彼の声の大きさは望まない副産物である。
「キセル、自転車事故、校長の猥褻行為……昨日の地震」
逸海の返答は適当と呼ぶには現実的、雑というには具体的。だが淡白なものではあった。
「おぉ割と具体的だな。それに兄弟が答えてくれるとは思わなんだから、嬉しいものだな」
逸海は彼と視線を交わしたことがない。彼の名前も聞いていない。
出会った時からウンチクを語り、今も友達のように接する自己満足の塊である彼にどう対応していいのかわからない。
話しかけられた嬉しさと面倒臭さと彼の社交性に対する劣等感。
素直になれない卑下に似た自己肯定感の低さが逸海の視線を見向きもされない櫻に吸い寄せる。
彼との会話が途切れると気まずい空間に逆戻りする。否、会話が途切れたというには無視した方がニュアンスは近く、話し声の少ない廊下で自分たちの声が反響する羞恥に口を閉ざした。
生徒の波がのらりくらりと動き始めると櫻から視線を戻して体育館へと歩を進める。逸海は再び訪れた鈍重な移動時間を紛らわすために彼の質問を再考する。
朝一で伝えたいこと。それも放送やプリントではなく体育館で直接伝える内容。
この二つから考え得るのは、先に挙げたような不祥事以外に予想がつかない。
生徒の表彰であれば授業を潰してまで連絡すべきことではない。ともすれば、やはり全校生徒の招集理由が不祥事以外に浮かぶ候補がない。
「まぁ緊急集会だからいい話って気はしないな」
「俺も賛成だ。いやぁ不謹慎なのはわかっているけどワクワクするな」
彼の爛爛とした瞳と吊り上がった口角は自身の言葉を肯定している。そして逸海も一時間目が潰れることに喜んだのだから彼を否定できない。二人は同じ穴の狢である。
珠ノ美高校の体育館は二階にある。一階は部室棟や倉庫、柔剣道場が設置されており階段で体育館と繋がっている。と、以前の校内見学で聞いた覚えがある。
記憶が曖昧なのは当然で、一回の案内だけでは校内を正しく把握できない。
全校生徒が揃ったことを確認した教頭がマイクの前に立ち議事の進行を始め、教頭の言葉で校長がステージに登壇する。
逸海の視線は自ずと校長に引き寄せられ、心中は招集の議題を今か今かと待ち望んでいる。
校長は朝の挨拶を行うや否やすぐに本題に入った。
「珠ノ美高校の生徒が線路に落とされ電車に轢かれる事故がありました」
校長のゆっくりとした口調で告げられた内容は一学年の女生徒の線路への落下事故。
予想を越える悲惨な内容に体育館中の雰囲気には冷たさと重みが加えられ静寂が訪れる。
この空間では呼吸の音ですら騒々しい。そんな気さえしてしまう。
校長の話の内容は次の通り。
昨日、珠ノ美高校一年の女生徒が珠ノ美高校の最寄り駅で線路に落ちた。
線路に落ちた原因は現在不明であり女生徒は意識不明の重体。
何か知っている生徒がいれば担任や顧問の教師に話すようにして欲しい。またマスコミに何か聞かれても話さないようにすること。
校長が降壇すると張りつめていた空気がようやく緩和され現実感が戻ってくる。
死は日常に溶け込んだ一要素。テレビを点けてもスマホを見ても著名人の訃報が届くこの世界。
社会において身近であり自分にも起こり得る。しかしそれを他人事として受け止めていた。
最も近く、最も遠い存在。生きようと藻掻くほどに近づいてくる。それが死である。
逸海は心の中で拳を自分の頬にぶつけた。一時限目が無くなることを喜んだ報いとして。
自傷行為による自己満足をしなければ自分を許せない感情に囚われてしまう。
他人に興味を持たないが、他人が不幸になることまでは望んでいない。
ふと隣を見ると彼の表情から好奇心が消え、自分を許せないと唇を強く噛み締めていた。
「一年生は体育館に残るようお願いします。それでは二年生から退室してください」
教頭の言葉に一年生は不満な態度を示し、二年生はダラダラと体育館を出ていく。
───────。
それは聞き慣れない音だった。
動き出した二年生の足音ではなく、一年生を招集する教師の声でもない無骨な雑音がどこからともなく響く。それは気のせいと暗示を掛ければ容易く信じ込むほど印象に薄い異音。
気のせいかと首を傾げた逸海は彼に、
「何か聞こえなかった?」
と、聞いてみるも彼は首を横に振り何も聞こえないと返される。
その実、天井を見上げたのは数百人の中でも片手の数。さらに異音に気づいたのが幾人か。
逸海も一学年主任がマイク前に立つと異音を気のせいと思い直し話に集中する。
「一学年の皆さんに連絡です。先程の校長先生の話と重複しますが───」
ガシャンッ!
話の途中、体育館の後方から死を想起させる轟音が響き渡った。
今度の音は気のせいではなくその場の全員が音の方へと振り向き目を見開いて絶句する。
体育館の天井は部室棟まで一直線に破壊され、天井の残骸がパラパラと落下している。まるで隕石でも落下したように、頑丈な骨組み諸共に天井が貫かれていた。
その場の誰もが状況を飲み込むことができない。教師も生徒も一様に破壊された天井を見上げるだけ。あまりの異様さに次の行動が浮かぶ余地がない。
しばらくして、惨状に気づいた生徒の一人が悲鳴を上げて体育館から逃げ出していく。
次に続いた生徒は逃げる行為をしたのではなく前者の模倣。白紙の脳内に視覚情報が思考を挟まずに上書きした結果の行動。
叫び声は隣へ伝播し多くの生徒が錯乱。体育館は阿鼻叫喚の地獄と化した。
ただその地獄の中でただ一人。逸海だけが天井を見上げて固まっていた。騒ぐことなく、逃げることなく。視界に入る異様な姿が逸海に狂乱する暇を与えない。
「人骨? いいや体育館と同じ大きさなんて………」
理科室で見るような骨格標本、その数十倍大きさの骸骨が空いた天井から覗き込む。
まるでこちらを笑うかのように、一挙一動にカラカラと甲高い音を響かせながら人間と同等以上の大きさの拳をゆっくりと振り上げている。
数秒後の顛末は考えるまでもない。
だが逸海はその動作を視線で追うだけで精一杯。逃げ様にも身体が硬直していた。
「逃げるぞ、兄弟」
彼に肩を叩かれた逸海はハッと我に返る。彼もまた恐怖を飲み込んだ表情をしていた。
だが彼は恐怖に打ち勝つ冷静さを持ち合わせていた。
彼は入口とは反対方向。人の集中する入り口ではなく外からの出入り口に向かい走り始めた。
彼の判断力と恐怖を殺しての行動力は目を見張る。
逸海は惨状を予期した途端に身体が死を受け入れてしまった。
彼が逸海の肩を叩いてから逸海は自分の足に何度も動くように命令するが彼が走り始めたにもかかわらず逸海は未だ一歩目を踏み出すことができていない。
「何してんだ、早く来い」
彼の怒声と心配の混じる声色で逸海を鼓舞する。
そのおかげもあってか逸海はようやく一歩目を踏み出し二歩目を持ち上げた。
「あ、死んだ」
だが時すでに遅く。数秒前まで逸海が立っていた床は巨大人骨の拳により叩き潰された。
一階からは土煙が舞い逸海の視界を阻害した。だから足元の異変に気づけなかった。
大穴に呑み込まれるように足元が崩れていく。
バリバリと音を立てる床から離れることと能わず、逸海はそのまま一階の部室棟に落下した。
無意識に頭が地面に向かうことを制止し、無駄と理解していても手足をバタつかせて藻掻く。
その間、一秒。そのわずかな時間に逸海は意識を手放しかけていた。
逸海が意識を手放さなかったのは背中に激しい鈍痛を受けたから。
体育館から約五mの落下。頭部を守ったものの背中全面がコンクリートの地面に衝突した。
始めに襲うのは激しい痛み。地面に叩きつけられた。
次に喉が空気を取り込むことを拒む。鈍痛が呼吸する隙を与えない。
最後に天井から体育館の床の欠片が落下し、逸海は必死に転がり落下地点から離れた。
(はぁ、はぁ。危ねぇ、動かないけなきゃ潰されていたぞ)
声に出したつもりだが嗚咽に変わって音が出る。
上空ではカラカラと巨大人骨が動く音が聞こえる。恐らく拳を叩きつけるために腕を持ち上げている準備音だろう。
逸海は生まれたての子鹿の様に覚束ない足で立ち上がる。逸海の心境は次の一撃が訪れる恐怖に塗れている。だからこそ壁にもたれ掛かりながらもゆっくりとその場から離れる。
(………うっそだ⁉)
逸海が見つけたのは数本のガスボンベが倒れている光景。もしここに巨大人骨の拳が落ちたとなれば。熟考しなくとも顛末に察しがつく。
早くこの場から離れなければならない。だが痛む身体は脳の指令を受諾しない。
「ねぇ、こっちこっち」
それは緊張による幻聴ではなく人の声。恐怖に呑まれた逸海にハッキリと認識できる鶴の一声。
藁を掴む思いで反射的に顔を上げ声の主を探すと、少し離れた扉から顔を出し逸海に向かって手招きをしていた。
なぜこの場所にいるかはさておき、緊急事態の場において不相応に口角を上げ逸海を見ている。
「早くしないと危ないよ」
危機感のない声の主は上空を見上げる。その位置では何も見えないはずだが、彼女の意図は十分に理解できる。だからこそ逸海はふらつく足取りで彼女の元へと歩み寄る。
上空でカラカラという音が止んだ。
その瞬間、逸海の口内の水分が消え、全身が凍るような冷たさで覆われた。
「次が来るよ、走って‼」
彼女の声に鼓舞された逸海は瀕死の身体に鞭を打ち走り出す。一歩踏み出すだけでも背骨に激痛が走り、逸海は顔を歪ませる。喉から零れる断続的な喘ぎは空気を取り込む余裕がない。
それでも必死に走って彼女が待つ部屋の前まで足を運んだ。
(ここは……体育倉庫か)
ほんの一瞬、所在を確認するために扉の上のプレートを眺めた。
「あっ、ダメかも」
逸海の気の緩みを戒めるように、彼女は軽い口調でそう呟いた。
ガシャン!
逸海の背後で轟音が響く。コンクリートの壁で反響し不快と不安を煽る不協和音である。
反射的に視線を向けて音の位置を確認すると巨大人骨の拳は逸海が落下した位置のすぐ傍。
動いていなければ確実に潰される位置に拳が振り下ろされていた。
命からがら逃げ延びた逸海は安堵の溜息を零す。
体育館から落下し悶えていたあの時に彼女が声を掛けてくれた彼女がいなければ。そう考えるだけで身震いする。が、すぐにその身震いが恐怖による震えだということに気づく。
「──────っ‼」
考えるよりも先に体が動いた。逸海はすぐに体育倉庫に飛び込もうと頭から身を投げた。
だがそれより先に耳を劈く鋭利な音と人の身体を容易く吹き飛ばす爆風が逸海の身体を攫った。逸海は背中に焦げるような熱を感じながら、扉とは反対方向の壁へと吹き飛ばされた。