地下
テンの飛翔角度が緩んだことを体感した逸海は階段を下り終えたことを認識した。
登り階段ともなれば下る時間の倍かかると考えて約二分。
今、地上に戻れば餓者髑髏が待ち受ける。されど地下空洞を探検し披露した後に階段の階段もまた地獄。前門の虎後門の狼である。
「いや、帰りもテンに任せればいいのか」
「逸海さんは霊使いが荒いですね。今は逸海さんがぶつからない様にしましたけど、帰りは毎段足をぶつけることになりますよ」
溜息混じりのテンだが拒否しないのは逸海を慕っているからなのか。それとも真人との約束の為に仕方なくお世話しているのか。どちらにせよ逸海にはありがたい事である。
「さてまずは光源をっと」
テンが両手を叩くとテンを中心にホタルのような光が飛翔しながら周囲へ広がり地下への階段のその先の世界。地下空洞の入口が明らかにしていく。
「小学校の時に体験学習できたことあるな、こんな場所」
逸海の所感はそれだった。
地面を掘り作り上げられた道がまっすぐに伸び途中途中に曲がり道や部屋が作られている。避難するためにあらかじめ作られた防空壕に似た作りの地下空洞は逸海が幼き日に遠足で行った場所を想起させる。
道は固められており歩く分には不足がない。壁から崩れた岩や邪魔な道具は道の脇に避けられ、部屋の扉の頭上にはプレートで使用目的の名称が書かれている。
来た道を振り返ると地上へ続く階段の際は見えない。しゃがみ込んで試みてもやはり見えない。地上までの距離はわからないが、確定しているのは歩きになった時に疲れることである。
「ここの位置は体育館の下ですね。中庭までの距離からして五〇mと少し」
「なるほど。テンの飛行時間だとわからない部分が多かったが狭いんだな階段の道幅」
人間一人であれば難なく利用できる。だが逸海を掴み飛翔する鳥が羽を広げれば話は変わる。当然この階段は羽を広げた三m弱の怪鳥が通ることを想定していない。
どうして鳥に変化したのか。
その理由は逸海を傷つけず、その場から逃げ切る選択肢として真っ先に浮かんだのだろう。ライオンであれば牙で傷をつける、逸海を軽々と持てる巨人では餓者髑髏から逃れられない。
(あとは、貂が鷲に攫われたことがあるとかか?)
暗がりから一変、周囲に明るさが来ると心身共に安心でき余裕が生まれる。
だからこそ下らないことを考え自分らしさを取り戻した。
「さて、基本はテン頼みだ。怪しいところからって……どこも怪しいか」
逸海はテンに主導権を譲り渡すがテンは眉をひそめて訝しむ。その表情からは普段の余裕綽々が無く現状理解に必死であると訴えている。
テンは執拗に地面を触りながら違和感を確かめている。
ヨウは壁をマジマジと眺めたかと思えば廃棄されたガラクタに興味を示す。兎にも角にも忙しなく自身の興味と興奮のままに動いている。
ヨウは逸海にしか視認できない存在であるが逸海以外の人間と出会う場面が滅多にない。精々花蓮と紫月程度。他にも、なぜ身体に戻れないのか。どうして殺されかけて許せるのか。
全てはヨウとの接触から始まった。それは逸海の行動だけでなく、ヨウが怪異を生者の世界へ持ち運ぶ橋の役割を担ったことも。否、本当に橋の役割を担ったのか?
(わかんねぇ。陰陽師に精通しているやつが知り合いにいればなぁ)
当然、そんな友人の顔など思い浮かぶはずもない。なにせ友達など片手の数である。その中で怪異に詳しい人間はいない。精々が七不思議探索に一緒に出掛けた小学校の友達である。
(それならテンは? テンなら何か知っている……はずないか)
彫刻刀で刻まれたと見紛う眉間の皺は苦渋、苦悩の証。
「さて、とりあえず進むか。帰り道分かるように適当なものを落としながら行けばいいだろ」
ここは敵地の本丸の可能性が高い場所。気を抜けば一瞬にして命を狩り取られる危険地帯のはずだが逸海達各々が自由に振る舞っても音沙汰なし。敵意は感じるが脅威が迫ってこない。
それは地下洞窟へ来る前にテンが挙げた例を思い出す。
人間は度外視している。
強力な呪詛により昏倒する人間はここへ入るこむことを想定していない。逆に考えればここに入り込むことは敵からすれば想定外の出来事であり、排除しようにも行動できない……のかもしれない。
「まぁあくまで説だ。警戒することに越したことはないから、二人ともお願いします」
怪異に対して疎い逸海は危険地帯に入り込んでも餌だが、テンはこのことは本職であり逸海を守ることは十八番。やはり逸海はどこまでいっても『無力』である。強いて挙げれば、ヨウよりも物理干渉ができてテンよりも人間の機微に詳しい。
奥に進む度、扉の上に書かれているプレートの文字は土汚れ読みづらくなる。その度、テンが解読し逸海に伝えるがそれは捉え方次第で不気味さを纏う名前が並ぶ。
実習室、実験室、薬品倉庫。高校にある設備の名称もあるが秘匿された場所、日常と隔絶された土地が嫌な印象を強める。
入り口付近では感じなったカビの匂いが鼻を刺し始めると共鳴するようにホコリが舞い呼吸を阻害させ始める。まるで『進むな』と責め立てる環境の変化に逸海は思わず足を止める。
喉を潰されたように空気を取り込めない。足首を握られたように前に進まない。
全ては夢幻であり、逸海の心身が掌握された末路である。
「誰も知らない地下空洞。断末魔の届かぬ実験室で一人、また一人と」
「ヨウ、適当なナレーション入れるな。ここにいるとそれが嘘に思えなくて気が滅入る」
嫌な想像力は逞しく発想を広げていく。
土壁には血の跡に見える影。扉には実験途中で飛び立った血液に似た寂び跡。
地下は学校の廊下のように音が響き、逸海の足音が第三者の足音として耳に届く。
一定の距離、等間隔で響くその音は逸海を追跡する存在。それに怯え何度も後ろを振り返り誰もいないことを確認する。
万が一、振り向かなかったとしてその時に本当に怪異が追跡していたら。
その思考が棄てることができず分かりきっていても振り返る。
怪異は神出鬼没。いつ現れるのか、どう生まれるのか、そして消えるのか。
全ては人間が創り出し、用が終われば捨てられる好奇心を満たす玩具。
「逸海さん、人間ではない存在を怪異と定義するともう一種類存在しますよ」
怪異とは『異形な存在』と『もう一つの姿』が存在する。
それは権力者に逆らう反逆者に対して『人間ではない』と定めた姿。
例として挙げると、平家にあらずんば人にあらず。では平家以外は人間ではない存在となる。
似た事例として、
平安時代に都を恐怖に陥れた鬼である酒呑童子。彼は元々人間であったが朝廷の命に背く逆賊。強欲の限りを尽くした姿が鬼として物語られた。酒呑童子は人間であり怪異である。
怪異とは人間の英雄譚を引き立てる為に作られた犠牲。だから人間ありきで物語られる。
鉞担いだ金太郎が英雄であることを語るために酒呑童子は鬼の属性を付与された。
「昔は権力者が絶対的な存在でした。それに逆らう存在は異常と見做したんですね」
「そうだね、鬼女紅葉も土蜘蛛も反逆者として殺害されたからね」
「それが誰なのかわからんが、今の時代からすればそいつらはまるで───」
怪異に襲われる人間は被害者として語られるがその実、根本の犠牲者は怪異ではないのか。
己が信念を貫いた結果、反逆者として殺された。
「どっちが先かわかりませんがね。ただ怪異の造形が人間由来なことには理由があるんですよ」
怪異の一員である『幽霊』もまた人間の姿をしている。それは当然、人間が未練を残した末の姿である。だが重要なのは『人間の姿』である。
日本で有名な幽霊のイメージは丸山応挙に由来する足のない幽霊である。幽霊であれば人でなくとも構わないがその多くは人間の姿を模しているのは人間社会に依存しているからである。
「餓者髑髏もそうですね。大きさは異なれどもあの骨格は人間のもの。では、その理由は?」
「人間が人間への怨みを持って生まれてくるから、ってことか」
それがいつしか怪異は人以外の姿を持つようになった。
雷を引き起こすとされる雷獣、疫病を退散させるアマビエ。
だが彼らは人間の近くで生息する獣や魚の姿を基に描かれている。
「書き残す存在が人間なので当然人間に依存しますね」
逸海の緊張をほぐすように怪異の造形を深める話を選択したテン。その結果は功を奏し、逸海は周囲を気にするよりも考えることに楽しみを覚え不安を忘れた様子をみせる。
「そして私の考えが正しければこの怪異もまた人間由来の怪異です。多くの人に認識される怪異であり呪いを主とする力を発揮する怪異」
「……そういえば、テンが気になることを言っていたな」
怪異の正体の話になった途端、逸海は昼間のテンとの会話の中で気になる点を思い出す。
それは、
「今は昔、戦争よりも前の話ですね。原因はわかりませんが負の溜まりやすい場所の様ですね。あの高校にいる骨やミイラは戦争前後でここに住み着くようになりましたね」
という点。
珠ノ美の由来を逸海に説明する文言であったがここに逸海は首を傾げた。
「へぇその話、私も聞きたかったな。骨は餓者髑髏の事だよね」
「あぁ俺もそう思う。ならミイラはなんだ。テン、お前正体を知って黙っていただろ」
逸海の鋭い眼光は恐怖の具現たる怪異には豆鉄砲。だが主人の怒りとなれば対応は変わる。
手を顔の前で慌ただしく必死に否定する。人を化かすことを生業としているテンが誤魔化すこともできず弁明に思考を回す。不慣れな分野なれば動作と相まって滑稽に映る。
「いや違うんですよ。あぁ違くないですが、確証がないけれど知っている? 否、成長速度を過信していたと言いますか……うん、はい、えぇごめんなさい」
思考と発声の同時処理で機能が停止したのだろう。最後はスッと謝罪を口にした。
耳と尻尾は垂れ下がり、表情からは普段の陽気を感じさせないほど。目の前で父の死を知った逸海のような絶望が顔に浮かんでいる。
その影響か周囲を照らす光も翳り始め未知の隅まで見えた状態が今では逸海達の周りしか照らせていない。一寸先は闇、一歩先に落とし穴があれば堂々と落ちるほどの暗さである。
「テン、普段の口調で構わんから解説を。ここで暗い気持ちで話されても何も始まらん」
無理矢理にでも気分を高揚させようと逸海は促す。
「普段通り? いえ、普段はこのように話しているのですが。むしろあの口調は緊張と好印象のために行った演技と言いますか、」
「好印象を狙ったのは失敗だけど、そのモードで話してくれ。周りが見えないと命に係わる。この中で生者は俺だけだ。標的にされるのはわかりきっている」
「………失敗。私は嫌悪されるだけなんですね。あれだけ頑張ったのに嫌われるなんて」
「わかるよテンちゃん。悲しい時ってマイナスな言葉しか入ってこないよね。むしろそこ以外に聞こえないのが不思議なほどだよね」
テンに寄り添うヨウは体験談を語り何度も頷いた。
「……ッチ。あーぁ、俺を守れるのは父さんの形見でもあるテンしかいないなぁ」
ヨウの言葉を参考に否定の言葉を含めない純粋な誉め言葉。状況が状況だけにウジウジと悩む存在に嫌悪を隠しきれず舌打ちをしたが、それでも本音で語っている。
事実、逸海は何度もテンに救われている。
初めて出会った時も恐らくあそこで時間を使わなければ事故に巻き込まれていた。可能性の話だが、電車の横転も運転手の記憶がないのならブレーキを掛けたのはテンの可能性がある。
なにせ運転手は男性だったが、アナウンスの時の声色は女性のものだった。
(ん? 今、口角が上がったってことはそうなのか。普通にすげぇな)
他にも、大ムカデの件がなければ逸海は家の倒壊に巻き込まれていた。テンが変化し逸海を助けなければ餓者髑髏に叩きつぶされていた。
どれか一つだけでも十分すぎる功績である。ただ逸海が事故に遭う結果がないため信憑性は薄いが降りかかる災いと生きている事実を踏まえればテンの功績を否定することはない。
「むっふぅ。そうか、そうでしょ、そうなのでしょう。我がいなければソチは今頃天獄へ。拙僧が颯爽と助け功奏す。吾が伝えなんだのも事情あってのこと、願わくば朕の想いご理解いただけることを信じて、」
テンは逸海の表情を確認し満足そうな顔で続ける。
(……単純な奴だな)
「此度の怪異、某が知る怪異と様相が異なる故失念しておりました。コレは数日前まで無力なれば失念はこれ必定。ここを収める要石の崩壊により封が解けたと考えるが妥当」
推理ショーを披露する探偵の様に意気揚々と語るテンに逸海は不満そうに首を傾げていた。
「やっぱり腹立つんだよな、これ」
「まぁまぁ、私は好きだよ。駄洒落みたいで」
「そこが気に喰わないんだけどな」
駄洒落が嫌というわけではない。大切なことを伝える気のない口調。されどその言葉を聞き逃せば命が危うい。その二律背反に逸海は無駄だと不満を示す。
「正体は一切不明。拙が知るは動けないミイラであることだけなれば」
「……うん、大体わかった」
要点を整理すると、
この怪異はミイラの怪異であり数日前まではただのミイラ。しかし封印が破壊され強大な力が解放された結果がこの事件を引き起こしている。テンが気づかなかったのは脅威の感じる様態ではなかったため。といったところだろう。
「あっ、ここ隠し通路ありますね」
逸海が通り過ぎた道で足を止めたテンはただの壁に目を凝らす。
「人間除けですね。おそらくここを利用していた人にも見つかりたくないものなのでしょう」
テンが手を叩くとただの土壁には人工の通路が形成される。
隠し通路に一歩。これまで漂うほこりやカビの匂いから一変、ほぼ無臭。されど気が滅入る空気が鼻に届く。それは本能を刺激する警告の香り。人間への憎悪を彷彿とさせる身の毛もよだつ空間が広がっていた。
死への誘いに一歩踏み出した逸海は本能でその足を後ろに下げた。途端に緊張が解け科仇から汗が流れる。頬から地面に垂れる汗はこれまで歩いた疲労か、はたまた冷や汗か。
「どうしますか。私だけで進むことも可能ですよ」
次の一歩を踏み込むことを躊躇う逸海の心中を察してかテンは提案した。
逸海がこの先へ向かおうが何かできることはない。怪異の事は怪異が専門、テン一人いれば大抵の事は解決できる。むしろ逸海がいることでテンに負担を強いることになる。
この先になにが待ち受けているのか不明。されど人間に対して甚大な被害を引き起こす怪異。そのため人間である逸海が主に狙われることなど自明の理。
けれども、ここで行かない選択肢を選ぶことはない。
ここで一人、ヨウを含めて二人でも怪異の危険は増すばかり。怪異に対抗するのにヨウでは不可能。なにせ彼女は特別な力を持っていない。
お荷物二人で待っていても、隙を狙った怪異に襲われ命を落とすのもまた目に見えている。
「いや、行こう。最悪、囮になればテンも対処しやすいだろ」
最悪の自己犠牲。
最も望まぬ選択肢であるが、事を運ぶに都合のいい策でもある。逸海がいれば相手の矛先は一目瞭然。テンはそれに対して作戦を練れば解決しやすくなる。
ヨウもまた逸海の死を望まない。自分の死を受け入れるがそれは回避できないための諦め。ただ人の死に感情を動かさない人形ではない。
「私が入ればいいんじゃんじゃないかな? 逸海が嫌でも無理矢理進ませられるし」
やはり彼女は人の心など持ち合わせていないのかもしれない。肉体から魂が抜け落ちた時、一緒に人の心も体から零れ落ちた。そうに違いない。
「いや、それは逸海さんが危険といいますか。他人の身体で動くにも肉体の限界を知らないと肉離れやアキレス腱断裂もあり得ますし」
「大丈夫。痛みは全部逸海が引き受けるから。私はそれでも走り続けるだけ」
ヨウは自分に一切の疑問を持たず満面の笑みで提案してくる。世が世なら邪知暴虐の限りを尽くす暴君と遜色ない自己中心的思考。逸海とテンは腑抜けた表情浮かべることしかできない。
「まぁその案は最悪の事態になったらってことで。それまでは普通に進む」
「では少しでも気分が良くなるようにっと」
テンが手を叩くと逸海の鼻腔には柑橘系の香りが漂う。
「昨日食べた柚子です。いい香りですよね」
「……うん、ありがとうテン」
香りの定番でもある柚子。その匂いは逸海も知るものであり嫌な空気を抑え込み精神をリラックスさせる。ただ、昨日食べたという点についての疑問は拭えないのだが。今は置いておこう。