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惑いの域  作者: 風雨
11/20

忌み地

大ムカデから逃れるために幾重に曲がり見慣れた道に戻る。

心臓が悲鳴を上げると肉体は自ずと慰労に向かう。足が止まり全身で呼吸をして身体の正常化に努める。汗を掻いていることを自覚するとさらに全身から汗が噴き出してくる。

呼吸を整えるため辺りを見渡すと目の前にはテンと話していた公園に戻ってきていた。

だが先の様子とは少し異なり、公園の敷地は瓦礫の山。近くで建設中の家が倒壊し公園を埋め尽くしていた。

逸海とテンが座ったブランコは見る影もなくがれきに押しつぶされ、道路を覆うのは大量の鉄パイプと木材にヘルメット。被害者がいないことを願いたいが………。

昨日から続く負の連鎖。その直近の出来事は数分前である。


「電車の横転、車の事故、家の倒壊。ムカデがいなくてもさすがに笑えねぇぞ」


身の危険は昨日からずっと感じている。常に間一髪のところで助かってきたが一寸先は闇。なにか手違いがあれば逸海は死んでいる。

高鳴る鼓動は生命を象徴し生きていることを必死になって訴える。

 時の流れを忘れるほど濃密な時間。一分が一秒か、一秒が一分か。早いか遅いかもわからぬまま死から逃れるために費やしてきた。その原動力が生への渇望なのは生者らしい。

野次馬をかき分け校門前まで向かうがそこから先は立ち入り禁止。考えてみれば当然であるがヨウとの約束の時間が迫る今ではもどかしい。


「えっと、確か別の入口があったはず」


珠ノ美高校の入口は三つ存在する。一つは南口。ここは崩壊した体育館も見ることができるため野次馬が多い。他には東口と校庭から入るルートである、東口はここからすぐの位置にある。

 再び野次馬をかき分け抜け出すと東口の校門へと走り出す。と、その時ポケットにしまっていたスマホが振動し逸海は足を止めた。画面を確認するとそこには紫月からの着信。


「あぁ逸海君。高校に着いたかな? 場所だけど生徒玄関から、」

「少し歩いたところでしょ。校門いるからあと数分で思うけど、まだやっているの?」

「あと数人残っている感じかな。あぁそれと、花蓮君だけど、」

「あぁ今校舎に向かう姿を見つけた」


逸海が視線を送る先には好奇心の亡者。遠足前でウキウキな花蓮の姿。向かう方向は崩落した体育館。好奇心の赴くままに探検しようとしている。本音を言えば、逸海とて興味はある。未解決の事件、誰も入っていない洞窟はロマンの塊であり好奇心を擽る要因である。

だが今はこの限りではない。異常に次ぐ異常は好奇心のみで行動することを拒絶する。命の危機に嬉々として飛び込む花蓮を見逃すことは見殺しにすることと同義。


「……お願いしてもいい?」


溜息混じりの紫月に二つ返事をすると立ち入り禁止の看板を無視して敷地内に足を踏み入れた。


「さて、体育館か中庭か教室か。どこから行けばいいんだ?」

「お待たせ、逸海」


紫月の約束もそうだが定刻通りに玄関で待っていると壁をすり抜けてヨウがやってきた。


「私に会いたいがあまり早く来てくれるなんてね」


肢体をくねらせて女性の曲線美をこれみよがしに見せつける。思春期只中の逸海は突き出る胸と臀部に眼が引き寄せられては自我を取り戻して視線を逸らす。

だが引力により再び見つめて逸らす。それを何度も繰り返す。

逸海の視線に気づくと距離を縮めて逸海をより赤面させる。視線を離したいのに離せない。思春期よりも発情期に近似する欲望が頑なに視線を釘付けにする。


「逸海のエッチ、そんなんじゃ───」


 異音。それが二人のじゃれ合いを現実へと引き戻した。破廉恥行為を辞めたヨウは魅惑の表情から鬼気迫る表情に変貌させる。

二人の耳に届いたのは地を蹴る足音。誰もいないはずの敷地内にて自由に駆ける音である。

これまでの状況に不安に駆られた逸海の呼吸は荒く浅くなり段々と視界が微睡んでいく。


「おぉ兄弟。こんなところで偶然だな」


足音の主の姿は激しい動悸で視界が白んでおり確認できないが声だけでも十分理解できる。

存在しえない場所に不意に現れる者。さも当然にいる者。春の妖気に誘われた変質者。

足音は逸海の傍で止まりコチラを見ている男はつい先日名前を聞いた男。空気の読めない、読まない、読む気がない神楽沙紀花蓮である。


「やっぱり昨日置いて帰った身体を探しに来た。そうだろう?」

「お前何言って、あぁ俺が死んでいる説は花蓮の中で生きているんだな」


逸海は呆れてコホコホと咳のような笑い声をあげた。

花蓮は逸海だけを見ているが、逸海は花蓮だけを見ているわけではない。花蓮の後ろで浮遊する生物のヨウも視界に捉えている。だが花蓮の様子を見るにヨウには気づいていない。

テンも駅周辺で誰にも気づかれていない様子であるからして怪異は人間の認識通りに普通の人間には見ることができない存在だろう。


「俺は学校探検に来た。兄弟はなんだ? 観光じゃない、逢引きでもない。はっ、やっぱり」

「身体探しじゃないからな。お前を連れ戻しに来ただけ、ほら帰るぞ」

「なら時間があるんだな。面白いものを見つけたから来いよ。すぐそこだからいいだろ?」


複雑な表情を浮かべる逸海を意に介さず事を進める。この性格が逸海を救い、苦しめる。

悪気が無いから責められない。だが恩の押し売りは迷惑である。

逸海は花蓮から視線を外し様にアイコンタクトを図る。ここに来た理由はヨウの為であり、本人の意向を聞かずして事を運べない。それにヨウが会話に入ることのできず気まずい時間を過ごす。友達の友達と一緒にいるようなそんな感覚である。

だが逸海の心労を気にすることなくヨウは嬉しそうに頷いた。

元より期待していたのか、偶然の産物を享受するのか。校内探検に賛同したのだ。


「どこ見てんだ? 後ろに誰か………いるわけないよな」


逸海の視線に違和感を覚えた花蓮は視線を追って振り返る。

ホラー映画なら怪異に遭遇する行為を躊躇せず行う辺り花蓮らしい。なんてよく知らないのに『らしい』を語るのはおかしな話。

 花蓮の『すぐそこ』とは本当に目と鼻の先。昇降口から数秒の場所の中庭、そこが目的地。

昼食時には穏やかな陽光に包まれながら昼食を過ごす時間が流れているが今は閑散としている。

その中でも異様に映るのは『破壊された石碑の跡』である。

石碑の上半分は圧し折られた様に崩れ地面に投げ出され、下半分はひび割れギリギリのところで形を保ち、すぐそばには誰かが供えた綺麗な花が石に潰されている。


「この石碑、いつ壊れたと思う」

「いつ? 昨日中庭を見た時には……普通に見えたけど」

「実は昨日には壊れていた。ここに案内したのは壊れていたなんてつまらない理由じゃない」


意気揚々と講釈を垂れる花蓮は崩れた石碑を足でどかした。


「「えっ⁉」」


逸海とヨウは同時に素っ頓狂な声を上げ、逸海の声だけが校舎の壁に反響した。

 二人の前に現れたのは中庭から地下へ続く階段。

普段は石碑の下に隠されているが、ひび割れ欠けた土台を蹴飛ばしたことで見つかる隠し通路。

外から眺めるだけでも階段の終わりは確認できない。

不気味で恐怖を煽る闇が存在する秘匿の場所、にしては整った階段であることが見て取れる。

 好奇心の化身である花蓮とそれに駆られた逸海とは裏腹にこの場においてヨウだけが眉間に皺を寄せる。その表情は困惑と恐怖の混じり合う嫌な予感に身震いしていた。


「ねぇここから早く離れよう、逸海」

「あぁそうだな。早く離れないと吾平先生に怒られるな」


花蓮に違和感を生じさせない様にヨウの言葉に対しての返事をする。


「おい花蓮、その先は、」

「危険だから行かないさ。行くなら昨日のうちに行く」


逸海は最悪を危惧していた通りにならず胸をなでおろす。彼なら逸海の襟を掴んで突貫する所まで考えていたが最低限の常識はあることに安堵する。


「さて次は校内探検だ。崩落した体育館を含め見どころ満載だぞ」


逸海の安堵したことを後悔する。ズルズルと地面に足を擦らせて抵抗するが花蓮は逸海の襟元を掴むと意にも返さず爆心地である部室棟に連行していく。


(………霊の扉、まさかね)


それはテンに言われた忌み地の話。

日本が戦争を行っていた時よりも昔。明治か江戸かそれ以前か。地獄の門を彷彿とさせ待ち受ける闇へ誘う地下への階段は『忌み地』の名前の由来であるかのように不気味な場所に映る。

 ずるずると引きずられる逸海は地下への階段から視線を外せない。惨状が惨状だけに奇妙な偶然の一致を適当に放置する余裕がない。生きるため、死から逃れるために必死に考える。

そうでなければ『生』を語れず、ヨウを否定することができないのだから。

 校内探検は恙なく終わりを迎えた。終始、逸海は花蓮を引き留めることもできず一方的に引きずられ、ヨウは困惑の逸海をケラケラ笑って追いかける。

体育館、自分の教室、校舎を繋ぐ廊下。昨日と変化があると思い気にかけるが変わった様子はない。ここに残るのは倒れた生徒の困惑の名残、床に残る血液、散らばった机と椅子だけ。

 紫月には花蓮を止めろと言われたがこれでは逸海もお説教。閑散とした校舎の探検に胸を躍らせたのだから拒否できる道理もない。だが花蓮も多少気を遣ったのか探索時間は短時間。

十分も経つ頃にはスタート地点である玄関に辿り着いていた。


「いやぁ何もないし誰もいないな。驚くほどに」


満足しきった表情の花蓮は豪胆に笑った。


「そりゃそうだ。それにあれだけ急いでいたら見るものも見られないだろ」

「だから兄弟を連れて行ったんだ。俺が見逃しても兄弟が見る。ウィンウィンの関係だな」

「俺は得してないけどな。それに、」


逸海は視線を花蓮からヨウに移す。ここに来てからヨウとの会話は数回程度。元々、ヨウと会うために来たのにこれでは忍びない。加えて、冒険心を擽られたのだから罪悪感は募るばかり。

逸海はヨウに向かって小さく頭を上げると謝意を示した。


「じゃ今日は解散といこう。俺はまだ周囲を見てくるから、またな兄弟」


逸海の気持ちなど知る由もなく花蓮は靴を履き直すと返答を聞く前に駆けていった。分かってはいたがそれでも彼の自己中心的な性格には羨望と怨みの感情が沸き上がる。

 花蓮が見えなくなると騒々しい雰囲気も無くなり閑静な空間が戻ってくる。学校という場所においてそれが普通であることに違和感はあるが今はこの方が安心する。


「悪いなヨウ。頓智気イベントが発生して」

「ううん、むしろ誰かと周るって楽しいね。話したわけじゃないけどこう、ね」


ヨウの言葉に逸海は眉を潜める。その言葉の意味は逸海も発したことがある。

あれはいつだったか。高校入学よりも前の話。友人作りが下手な少年は独りを満喫していた。それに苦はなく満足していた。だが外の世界を知るとあの日の出来事にも暗雲が立ち込める。知らぬが仏、触らぬ神に祟りなしというように今を知れば過去が切ない記憶に変貌する、


「ヨウって友達いないんだな」

「ゼロじゃないけどね。好奇心は猫を殺すように友達を切り離すって知ったのは過ぎてから。でもさ、切り離すよりも前に掴まえれば逃げられないんだね、これはいい勉強になったよ」

「いや、あれは参考にしちゃいけないからね。嫌われる感情を母体に忘れたが故の行動だから」


呆れる逸海と羨望のヨウ。同じ者を見て相反する感情を抱くのは少し不思議な話である。


「さてと、遅くなったが、」


逸海は咳払いをするとようやく本題を口にする。


「ヨウが身体に戻れない理由だが、いくつか浮かんだことがある」

「あぁ本当に考えてきてくれたんだ。どうせあの場しのぎの嘘だと思っていたから」


ヨウは少しだけ頬を綻ばせる。犬やテンであれば尻尾を振り感情を示すが今のヨウは尾がなくとも喜んでいる事は伝わる。

だが同時に、信頼されていなかった事実が逸海の胸を抉る。

 逸海は昨日考えたことを簡潔にまとめ話した。

身体に戻れない理由は戻る気が無いか第三者の介入。

そしてもう一つの可能性。これは先程思いついた案。


「忌み地が私を縛る。ふむふむ、逸海ってこういった話は好きなの?」

「いや、最近聞いた。あとは……霊感的なものはあるのかもしれない」

「ほへぇ、それで今の考えが浮かぶんだ。いい意味で気持ち悪いね」


ヨウの満面の笑みから繰り出される悪口に似た言の葉を逸海は鼻で笑った。


「それでヨウは何かわかったのか」

「私を見えるのは逸海だけかな。みんな倒れたから全員を調べることはできなかったけど」


逸海と別れた後、ヨウは各教室に赴き乱雑に飛翔し注目を集めようとした。しかしそれに気づく者はおらず次の教室へ。それを幾重に繰り返した。だが反応を示したのはいない。


「……そうか。ならそれにも原因がありそうだな」

「うん、実は兄妹とか。輸血した関係とかね」

「絶対に否定出ないのが笑えんわな」


逸海は表情をひきつらせたまま困惑するヨウを凝視した。否、それしかできなかった。

 二人の意見交換会は突然終わりを迎えた。

コチラに迫ってくる緊迫の足音と制止を促す怒声に二人は身体をビクつかせた。様子を確認しようと一歩外へ。逸海は確認したことを後悔しヨウは目を輝かせ歓喜した。


「よぅ兄弟久しぶりだな。とりあえず助けてくれないか」


水を得た魚の様に感情を昂らせて迫ってくるのは先程別れたばかりの花蓮。そしてその後ろには怪異も逃げる鬼の形相の紫月。逸海が遅いため様子を見に来てちょうど花蓮が見つかった。


「馬鹿野郎、こっち来るな。俺まで巻き込まれる、」


そう叫んでももう遅い。紫月の怒声は花蓮へ向けられたものから花蓮と逸海の二人に向けられたものへと変わっていた。


「恨むぞ花蓮、とりあえず────」

「逸海、あっち」


逸海の思考は花蓮と別れ逃げ切る可能性を模索することを主としていた。

そのための一歩目を踏み出したところでヨウに呼び止められた。

当然、肉体がついていけるわけもなく乱れた思考通りに身体は行動しその場に転倒した。


「まったくもう逸海はしょうがないんだから」


子をあやす親のような口調と雰囲気を身に纏ったヨウは空気に溶けて消えていった。


「おい、ヨウ。どこいった………ウップ、」

(オエエエエエェェェェェ)


突然込み上げる吐き気を抑えることができず逸海は嘔吐した。が液体と固体が口から零れることはなく気体だけが自分の中でこだました。

 嘔吐による嫌悪感を必死に抑え込み自己の現状を確認する。

見えている景色に異常はない。落ち着きを取り戻し吐き気も段々と引いていく。

だが一点、四肢の自由が利かない。そのことに気づいた逸海は必死に藻掻く。だが脳から送り出される信号は遮断され肉体に反映されない。むしろ念じるほどに虚無だけが募っていく。


「とりあえず逃げるか」


その声は逸海の声である。だが発したのは本人ではない。逸海ではない何者かの意思で逸海の肉体を動かしている。当の本人は、走ることによる揺れ動く視界を眺めることしかできない。

だが何者かの言葉に悪意は感じられない。

肉体を支配される直前の行動を素直に実行し紫月から逃避する。


(おい、俺の身体を返せ!)


逸海の声なき声は何処へと消えていく。発してはずの音が響かない現象は些か不安を感じるがそれでも叫ばずにはいられない。

肉体が自己の命令を無視して動く現象は存在しない事例ではない。

熱いものに触れた時、レモンを見た時、人は意志と関係なく反射行動をとる。

だがこれはその例ではない。意識している意識は存在していない。

戸惑い、困窮するも取れる行動は誰の耳にも届かない慟哭を上げるだけである。

 背後からは万物を踏み潰すゴジラの様な足音が響き不安を煽る。

だが体の自由を奪われ抵抗を諦めた逸海にはどうでも事象である。

なにせ逃げているのではなく逃げさせられているだけであり全ては蚊帳の外の出来事。

藻掻き、足掻き、喚いても否定されたのなら諦めがつく。

 校舎の周囲を駆け巡り中庭を突っ切り校庭の端を駆け抜ける。

自分の身体がここまでしなやかに、機敏に動けることに逸海は内側から感心する。

運動することなく家で呆ける生活をしている以上、運動を行う機会は授業だけ。それも入学したばかりでしばらく休校ともなればその事実を知ることは先になる予定だった。

紫月の視界を逃れ校舎の一階を駆け抜け玄関まで戻ってくる頃には怒声は聞こえども、足音はもう聞こえなくなっていた。

だが別の障害は目の前に現れた。


「ヤヤッ、逸海殿。このような場所で出会うとは我らは合縁奇縁。吾も喜ばずにはおれぬ」


玄関で立ち止まった逸海の前に立ちはだかるは雪のような白い耳と尾を生やした人間の容姿をしたテンである。一連の出来事を何事もなかったと告げるような振る舞いは化けることを専門とした怪異らしさがある。


(あぁ今となってはこの手で殴ることもできないのか)


あれほど憎たらしい口上でも今は適当にあしらうこともできない。それを想うとテンの一言一句に懐古してしまう、


「其方、何故ここにあらせられる。吾輩の話を聞けば尻尾を撒いて帰ることでしょうに。って尻尾があるのは拙僧でしたな。ニャハハハハハ」


前言撤回、テンの言葉は身動き一つ取れず諦めた逸海の腸を煮えくり返らせるに事足りた。


「オヤオヤ、朕の言の葉に無反応とは。普段の貴男であれば抱腹絶倒。さて、此は如何に」

「えっ、だって君の話はイマイチ面白くないし」

「わぉいつも通り辛辣。されど一つお教えいたしましょう」


問答に満悦の表情のテンはブツブツと独り言を唱え始めた。

テンの文言は小さくかすかに聞こえる音にも聞き覚えのない不可思議な言葉の羅列。


「悪しき者よ、逸海さんは私と二人きりの時はハニーと呼ぶのですよ。急急如律令」


テンがゲームや漫画で聞き覚えのある結びの言葉を唱えると逸海の自我は自己を取り戻す。

憑き物がとれたと表現するには些か状況が異なるが、手、足、首がゆっくりと動かし肉体に変化がないことを確認すると逸海はテンと肩を並べて憑き物と対峙する。


「逸海殿が妾と肩を並べるとは。こんなに嬉しい日はございませぬ」

「これが終わったらお前を終わらせてやるから黙っていろ」

「ほほぅ、これほどに感情を募らせてなお身体を乗っ取られたままだったとは───」


逸海は昂る感情のままに舌打ちをしてテンを黙らせた。逸海の鋭い視線は人間相手であれば委縮させるが化け物が跋扈する世界にて彼の視線がどの程度の意味を持つかは不明である。


「タハハ、イライラアイラちゃんから逃げたのに悪霊扱いは酷いんじゃないかな、逸海」


逸海とテンの視線の先にはバツが悪そうに愛想笑いを浮かべるヨウの姿があった。


「ちょっと待って、人間の俺に理解できない領域に入ってきたぞ。えっと、どういうことだ」


どこかで思い描いていた展開がある。しかしこれまでの話を受け止めるには時間が短すぎる。

情報が怒涛の如く押し寄せ逸海の処理機能がエラーを吐き出す。昨日までの情報すらやっとのことで整理し終えたのにここに来て別方面からの情報は思考が交錯する。

 まず驚いたのはヨウが逸海の身体を奪ったこと。推察の範疇だが驚かずにはいられない。

そして肉体を勝手に操れることに悩まされ、テンが悪霊と呼んだことに疑問符が浮かび上がる。

他にもあれやこれやと浮かんでは逸海の思考を阻害する。


「ただこれをしなくてはいけないと本能が理解している」


逸海は複雑に絡まる思考の中で輝く答えを顕示する。


「あれ? 逸海さん、どうして私の襟を持ち上げるんですかね」

「負の感情を払拭するには運動が一番だと思ってな」


逸海は肺いっぱいに息を吸い込むと胸を大きく張った。


「それならさっきまで走って、」

「適当な事ぬかしてんじゃねえええええええええ」

「いやあああああああああああああああああああ」


逸海は不格好な投球フォームでテンを下駄箱から外へと放り投げた。

数十㎏あるはずのテンの身体はゴムマリのようにコンクリートに弾んでいく。その度に「グヘッ」、「ガホッ」と醜い悲鳴を上げるが逸海の心情からすれば気にも留めない事である。


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