6. 優しい遺言
一瞬、何が起こったのか僕にも分からなかった。
気がついたら、綺麗な赤が宙に舞っていた。
その色の正体が分かるまで、誰もが無言のまま、事の顛末を静かに見守った。
「ぶぇ」
まるで美しいとは言い難い声が地面に激突したあたりでようやく、僕は状況を理解した。
男が一歩歩み寄った、そうして出来た隙からかまされる一撃が見事に頬を捉え、後方数十センチに渡って身体ごと吹っ飛ばしたのだ。
練習をしてきたか問うたのは記憶に新しいが、さすがにやりすぎではと思う程。
「お前、なんてことを…!?」
「ご無事ですか、スカーレット様!」
あまりに唐突だったからか、魔道士たちが泡を食って駆け寄る。
まさかぶん殴られると思っていなかったのだろう、誰も彼もが治癒魔法の用意を行うまでに少しの躊躇があった。
「ふ、……ふふふ、あははははっ!」
しかし心配したのもつかの間、男は大声を上げて自身の無事を証明した。
甲高い笑いが響き渡る。とても耳障りな音だ。
「…貴様、乙女の顔に傷をつけてただで済むと思っているのか」
笑う顔の奥には存分の殺意が孕んでいる。
だが、怯むことはない。
「俺の行動を認めないのなら、お前がさっきしたこともただで済むことじゃなくなるが?」
鋭い視線を向け、言う言葉はまさに通りだ。
もちろん暴行は許されたものではないが、男の方が何よりも重い、殺人という罪を犯している。
つまり報復を受けるべきはお互いであり、ケーザーだけを許さないことが自身の矛盾の証明になってしまう。
「自分は良くて他人は駄目とか、そんな醜い思想の奴が美しさ云々語っていいのか。いい世の中だな」
「……黙れ」
思いっきり殴られた挙句、最初から最後まで真っ当な正論をぶつけられた人間は、誰であれ冷静でなくなるのが普通だ。
そして当然男も例には漏れなかった。
目の奥の光が失せる。
「其方」
声と共にとんでもない憎悪が鼓膜に張り付く。
恐らく男の味方であろう魔道士連中すらも、あまりの恐怖に身を震わせ腰を抜かすほど。
もちろん男が構うことはない。
「此奴の首を取れ、今すぐに」
其方、と呼ばわれた男性は端的な指示にも関わらず、一瞬飲み込めないといった顔をした。
恐らく、首を取れ、というのが意味する所はケーザーに繋がる鎖を使えということだろう。
要するに殺せと言っている。
「…あ、え、私が、ですか」
男の目算は正しく、先程心行くまで締め上げられた気道も、大の大人の力を一点に受けた頚椎も、もう何もかもが限界だ。
恐らく耐え得る余力は残っていないだろう、なんなら普通に立っていられるのが不思議なくらい。
「どうぞ」
なのに、全てを分かっているはずの本人は、笑って言うのだ。
「大丈夫、俺はあなたを恨むことはありません」
自分を殺すであろう相手に、大丈夫、などと言える人間が世の中にどれだけいるだろう。
「……どうして、怒らないんですか」
そのあまりの優しさに、鎖が揺れる。
殺す側は顔面蒼白で、殺される側は微笑む、などとまるでアンバランスな状況はとてつもなく狂っていた。
「もう十分怒りましたから」
無論、後者の方が比べ物にならないほど怖いのに、何故心からの笑みを浮かべられるというのだろう。
そこに、ケーザーが慕われる理由全てが詰まっている。
「ただひとつ気がかりがあるとすれば、あなたを殺人犯にしてしまうこと、でしょうか」
殺人犯、と敢えてオブラートにしなかった言葉に、男の肩がびくりと跳ねた。
自分の人生で罪人のレッテルを貼られることになるとは思ってもいなかったのだろう。
大抵の人間がそうだ。だからケーザーは命乞いではなく身を案じる言葉だけをかけ続ける。
「申し訳ありません。ですが全ては俺の身勝手です。どうか気に病まないでください」
どこまでも相手を気遣う彼の台詞に、いよいよ僕も耐えられなくなってきた。
まるで遺言のように紡がれる言葉を聞いているのが嫌だった、というのは彼の思い全てを否定するのと同義だろうが、嫌なものは嫌なのだ。
何とかして今彼が死ぬ未来を回避したかった、痛みの引かない頭で無理やり思考を巡らせる。
「剣さえあれば、鎖を切れる」
答えは出た。
あとは行動に移すだけだった。
僕を縛る人間はもういない、手近な取り巻きから剣を奪うだけでいい。至って簡単な話だった。
「悪い」
「何、して」
新しい枷が生まれるまでは。
「お前との約束は果たしたんだ、これくらいは許せよ」
視界はもちろん、僕から全てを奪うあの手が、今度は僕のためではなく彼自身のために使われた。
最後の力を振り絞り、体ごと自分の胸に抱き留めることで、僕が出来るであろう全ての動きを封じる。
先程とは意味のまるで違う行動だと、僕は一気に血の気が引いていく。
「離して、離せ」
「なら振りほどけよ。お前なら楽に出来るはずだ」
無下に出来ないことを知っていて言うのは狡い。本当に狡い。
彼は今訪れる死を拒まないつもりだ、拒ませないつもりだ、僕に。
「……ふざけるな」