2-4.天才、空を睨む
ところで、エリアムの夜空には、日本にはない特徴がひとつ存在する。
俺はその特徴について、転移してきてすぐ、夜がものすごく暗かったことによって気がついた。つまり、月が見えないのである。
しかしこれは後から知って驚いたのだが、月自体は『ある』らしい。
実際、夜空を少し探してみると、一部にぽっかりと穴が空いたように、「星が見えない」領域が存在する。そしてその領域は、ゆっくりと動いている。
これがこの世界の月。黒い月だ。
伝承によると、かつて悪い魔法使いが月を黒く染め、そこから大量の魔物を呼び出した。だからこの世界には魔物が満ちているのだとか。
まあ、その真偽は俺にはわからない。わかっているのは、月が黒いことだけだ。
そういうわけで、星明かりだけが頼りな暗めの夜ではあったが……バルチミ家の広々とした中庭に出ている人間を視認するのに不足なほど、光が足りないわけでもなかった。
「よう、どうした? 今日はまだ手元に天体望遠鏡もないってのに」
「まあね。けど、望遠鏡がなければ星が見えないってほどでもないでしょう?」
背後からの俺の問いかけに、中林は振り返りもせず、空を見上げながら言った。
「エリアムの街に街灯が発達していないのは幸いね。おかげで、都市でも肉眼で星を見るのに困らない」
「それだけ星に飢えてたんだな……実は天文学者かなにか?」
「いいえ。私は数学者よ」
「……あ、そうなの?」
「ま、自称よ。自称。学位だってろくに取れてないし……でもまあ、天文はあくまで、この異世界だから調べているって感じね」
「なんで調べてるんだ?」
「いろんなことがわかるから」
中林はそう言って、いたずらっぽく笑った。
「たとえば……そうね。宗谷、この世界は平らか丸いか、知ってる?」
「丸いんだってさ」
「その答えは、誰かから答えを聞いたって意味?」
「ああ。高いところに行くと遠くが見えるのは、地面が曲がっている証拠だって」
「なるほど。じゃあ次に聞くけど、この場所は北半球? 南半球?」
「へ?」
それはさすがに、考えたことも、聞いたこともなかった。
「北半球か南半球か? それは……ええと、空を見て理解できるのか?」
「もちろん」
「……俺が知ってるおもしろ雑学だと、洗面台を水で満たして栓を抜くと渦の回り方でわかるってのなんだけど」
「それは古いスパイ小説とかで有名になったやり方だけど、実際には洗面台の形状の方が影響が大きすぎて実用的じゃないって聞いたわよ?」
「マジかよ。ガセネタだったか……」
「でも、コリオリの力で測定するっていうのはおもしろい発想ね。洗面台は使えなくとも、フーコーの振り子で判定できる……けど、いま話しているのはそういう難しい話じゃないのよ。もっと簡単な、とんちレベルの話」
「とんち?」
「うん。宗谷は、南半球で日の出が東になるか西になるか、わかる?」
「え、ええっと……東じゃなかったっけ?」
「うん。そうよね。地球では日の出が東で日の入りが西。それは北半球でも南半球でも変わらないわよね」
中林の言葉に、俺は少し安堵した。
苦手なんだよ……こういう、小学生の理科レベルの問題。案外忘れてたりするし。
「じゃあ次。異世界において、『北』ってどう決まるの?」
「え?」
「私たち地球人は、太陽が昇る方角から見て左手側が北だって考えるけど。異世界人はそういうのを知らないわよね。その場合、異世界の『北』とはどういう意味?」
「それは……あっ」
言いたいことがわかった。
「移動すると寒くなっていく方、ってことか?」
「そうでしょ。で、その基準だと『東』はどちらで『西』はどちら?」
「北を向いて右手側が『東』で、左手側が『西』。となると……」
「もしここが南半球であれば、異世界人は南を『北』と呼ぶはず。
そうすると、太陽は『西』から登って『東』に沈むことになる。けど、エリアムでは太陽は私たちの知るように『東』から登って『西』に沈むから――」
「なるほど、ここは北半球だ!」
俺は少なからず感心した。
ただ単に、太陽が『東』から登って『西』へ沈むこと。それだけの観察から、中林はここが北半球だと看破してみせたのだ。
たしかに、空を見るだけでわかることもあるものである。
「面食らったのは、月が黒いって話の方だけどね……なんでそんなことが起こるのかしら」
中林の言葉に、俺は答えた。
「伝承によると、千年近く前に邪悪な魔法使いが月を黒く染めて、そこから魔物たちを大量に生み出したんだそうだ。それで、いまは月が黒くなり、地上は魔物で満ちているんだと」
「伝承、ね」
中林はつぶやくように言って、夜空の一角――星のない、黒い月のあたりを見上げた。
「なにを考えてその魔法使いはそんなことをしたのかしら」
「さあ……そもそもおとぎ話だし、実際にあった話かどうかもわからないし……」
「実際にあったのよ」
強い言葉で断言されて、俺は驚いた。
「実際にあったのよ。そうでなければおかしい。この世界は、ある時代を境に『変質』して、いまのようになったの。おそらくは、月が黒くなったのもその時だわ」
「ええっと……なんでそう思うんだ?」
「そもそも『月』ってなんだと思う?」
「え? 衛星じゃないのか?」
「望遠鏡も満足にないエリアムの人間は『衛星』なんて概念、普通知らないでしょ」
「……ああ、なるほど」
だんだん、中林の思考パターンが見えてきた。
こいつは徹底して『地球の知識がない異世界人がどう考えるか』という目線に立って、この世界を見ている。
さっきの『北』の話と同じ。今度は『月』という用語を考えてみようということだ。
「つまりおまえの言いたいことはこういうことか。星が見えなくなる領域があったとして、『月』という概念では認識されないんじゃないかっていう」
「そうよ。かつて、夜空には光り輝く天体があった――そうでなければ、『月』という概念自体が生まれない。学者であればまだ名前くらいはつけるでしょうけど、民間レベルでは『星々が気まぐれに見えなくなる現象』にわかりやすい名前がついたかどうかすら怪しいんじゃない?」
「じゃあ、千年前の魔法使いは実在した……?」
「まあ、そこはわからないわ。犯人は複数かもしれないし、逆に自然現象かもしれないし……けど、『そこから魔物たちを大量に生み出した』とある以上、その時代にはなにか、大きな天変地異が起こっているはずよ」
「たとえば、どんな?」
「んー……『魔術が使えるようになった』とか?」
「魔術が、使えるようになった?」
俺は繰り返して、それから首をかしげた。
「つまり中林は、この世界で魔術は後から『使えるようになった』ものだって考えてるのか?」
「そうよ」
「なんで?」
「そうでないと、『魔術』ってくくりにならないから」
中林の謎めいた言葉に、俺は少し考えて……
「これも『北』とか『月』と同じような話か?」
「そうよ。『魔術』という言葉をよく考えてみなさい。『普通はできないこと』って意味でしょ?」
「いや、ちょっと待て」
俺は制止した。
「なに?」
「えっと、日本語で言う「北」とか「月」は、エリアム語でも『北』とか『月』としてほとんど同じ概念だけど。でも「魔術」って語彙は、ちょっと違うんじゃないか?」
そう。俺が「魔術」と日本語で呼んでいる技は、当然ながらエリアム語では別の語彙で呼ばれている。
そして俺が日本語の「魔術」という語彙から受ける印象は、エリアム人が『魔術』に対応する語彙から受ける印象と、まるで違うのではないか。そう思ったのだが。
「本来、魔術なんてカテゴリ自体が、生まれるはずがないのよ」
中林は、笑みを浮かべて言った。
「宗谷の言いたいことはわかるわ。日本語の「魔術」は超常現象の一種みたいに聞こえるけれど、エリアムでは「特殊な技術」程度の意味なんじゃないか、ってことよね?」
「うん。まあ、そういうことだけど」
「でもたとえば、人間は歩いたり、走ったり、ジャンプしたり、石を投げられるわよね?」
「そりゃ、そうだな」
「人間が誰でも手から火球を出せる世界で、石を投げることと手から火球を出すことを、わざわざ違うカテゴリに分けるかしら?」
「…………。
あ、なるほど」
俺は理解した。
もし誰もが石を投げられるのと同様、誰もが手から火球を出せるのならば、その『手から火球を出す』行動は「技術」ではなく、ただの動作だ。
そして、ただの動作に『魔術』なんて特別な名前がつけられる理由がない。中林は、そう言っているのだ。
もちろん、すごく難しい動作ならば、名前はつくかもしれない。『体操』とかだ。だけど、エリアムの『魔術』がそういうものとまったく違うニュアンスの言葉であることは、俺の経験上明らかだった。
「じゃあ、『魔術』もこの世界では、後からできたものだと? 黒い月と同じで?」
「私はそう考えてる。そして、それが正しいとすれば、その二つが関係しているというのは自然な発想でしょ」
中林の言葉に、俺はうなった。
いまのところ、可能性のひとつでしかない。しかし……
「……そうだとすると、なにがわかるんだ?」
「さあ」
「さあ、って……」
「なにしろ、ずっと捕らわれていたからね。窓の外を眺めて考察するしかできなかった。
けどここならもっといろいろできそうだし、リシラの工房には天体望遠鏡まである。調べてみたらもっといろいろ、わかるかもしれない」
「そうだな」
その通りだ。
俺は一年間、この世界を旅していろいろ調べてきた。一方でこいつは……おそらく同じ期間の大半、自由を奪われて過ごした。
にもかかわらず、こいつの考えは俺よりはるかに先を行っている。
(こういう奴を、天才って言うんだろうな)
「問題は、魔術ってのがよくわからないことなのよね……宗谷は魔術、使える?」
「一応、一通りの基礎的な奴は使える。これでも冒険者みたいなことをやってたこともあるからな」
「そう。うらやましいわ。私も魔術が使えれば、けっこうな実験ができたんだけどね」
「なにを実験する気だったんだ?」
「だって魔術って、法則に従っているでしょう?」
「法則?」
「たとえば射撃魔術。あれ、撃ってるところを見たことがあるけど、おおむね現実の弓矢と同じで放物線を描いて飛んでいくわよね?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ万有引力の法則は魔術に有効だってことでしょ。でないと地面に落ちてこないもの」
「…………」
「だけど作用反作用の法則は必ずしも有効ではない。射撃の威力の反作用を魔術師が受けてる様子はなかったからね。
なら、魔術はどういう規則に従っているのかしらね?」
「……おまえにとっては魔術も、科学する対象なんだな」
「当たり前でしょ。法則性さえあれば、魔術だって科学してみせる。それが私たちの武器だもの。
私たち、地球人類にあってエリアム人にないもの。それが科学よ。私は魔術を科学的に解剖する。そして、いつかその技術を使って――」
と、そこで中林は一区切りつけて。
それから、空を睨み据えて、忘れられない言葉を言った。
「私たちの世界に、帰るのよ」
【少しの余談】
当然ながら、日本語で「魔術」と記述されているエリアムの技術は、エリアム語の別の語彙で呼ばれています。したがって、それに「魔術」という訳を当てたのは宗谷たち日本人であり、そういう意味ではエリアム語の「魔術」と日本語の「魔術」は本来「似たような意味」でしかあり得ないわけです。
宗谷が指摘したのはそういうことで、小説の中では「魔術」と呼ばれている技術は本来エリアム語の「○○」というなにか別の語彙が当てられているはずであり、「○○」に当てられた「魔術」という日本語訳が正確かどうかがわからないから、気をつけないとまずいんじゃないか、ということですね。
実は、このエリアム語の「○○」を「魔術」と訳したことは、ある意味で非常に適切なのですが……そのこと、そしてそのことの意味に中林が気づくのは、もう数ヶ月ほど後になります。