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ベールガールは背中を追って

作者: 雨足怜

『いいかい?ドレスの裾っていうのはね、お貴族様の権力の大きさを表しているんだよ。裾なんて、本来は地面を引きずるような長さはいらないんだ。その無駄は、貴族様の富の証さね。裾持ち(ベールガール)なんていう本来は必要ない雇用を続けられるという財力の証明でもある。まあ、あとは流行もあるだろうけれどね』

 揺れるろうそくの炎に照らされながら、老婆は握る針を素早く動かして純白のベールに刺繍を施していく。透けるような薄い布は、たちまち不透明な白の糸で蔓模様があしらわれて行き、そこに大輪の花々が添えられる。

 布から目を離すことなく話し続ける老婆の語りを、地べたに座る幼い少女は目を輝かせながら聞いていた。その目は老婆――ではなく、老婆が刺繍を施すベールに向けられていた。

『あんたは本当にドレスが……ベールが好きさね?』

『うん!特にベールってすっごくきれいで、恰好いいよね!』

『ふむ、格好いいか。どんなところをそう思うんだい?』

『だって、無駄な長さをしているそれを、多くの人に持ってもらいながら進むんでしょ。みんなで力を合わせるってことだよね?おかあさんが、協力するというのはすばらしいことよ、って言ってたもん!』

『ふふ、そうさね。確かに協力は大切なことさね』

 おかしそうに笑えば、老婆の顔にいくつもの深いしわが生まれる。針と糸を手に取ってもう五十年以上。長年染みついた動きは、体に衰えが見られるようになってからも止まることを知らなかった。針を握れば手が動き、弱まった視力の代わりに分厚くなった指が的確に刺繍の現在をつまびらかにする。

 腰の曲がった老婆は、わずかに開いた眼窩にある漆黒の目でベールを睨み、細やかな刺繍を続ける。

 ちくちくと銀色の針は布に出たり入ったりを繰り返す。その動きはさながら、布という海に顔を覗かせては潜る魚やイルカのよう。

 そう語る老婆だが、しかし海を知らない幼い少女には、イルカというイメージは困難だった。魚が水面から飛び出すというのも、彼女が見たことのある街の用水路ではまず見られない。

『……もっといろいろなことを知りなさい。世界を知って、心揺さぶられた光景を刺繍に落とし込むのさ。そうしてできたドレスは、きっと世界最高の素晴らしいものになるさ』

 未来へと期待に胸を膨らませる孫娘を見ながら、老婆は呵々と笑う。同時に、懐かしい記憶がよぎった。自分もまた遥か昔、幼少の折にこうして祖母から刺繍を学んだことがあったか、と。

 もうだいぶ薄れてしまった記憶の中、まるで生き物のように巧みに針を動かす祖母への驚きだけが今も心の中に残っていた。

 自分は祖母を越えられたのだろうか――高速で進む針の動きは、けれど記憶の中で膨れ上がった羨望によって背びれも尾びれも胸鰭もついた祖母には勝てていない気がした。

 ふっと笑みを漏らした老婆を見て、少女は不思議そうに首をひねる。いつもは真剣そうな顔でただ我武者羅に刺繍をするのに、今日はずいぶんと珍しい日だ、などと思いながら。

『きれいだねぇ』

 完成したベールを前に、少女は感嘆の吐息を漏らす。ただの布だったはずの一枚は、気づけば美しく飾り立てられていた。純白のドレスと合わせられたベールを身に着ける女性は、高級な鏡の姿見に映る自分の姿を見て、花が開いたように笑った。

 そんな幸福そうな女性を見ながら、少女はじっと、彼女の裾を支える者たちを見ていた。

(わたしもいつか、あんなふうに……)

 胸の前で小さく手を握って、少女は己の中に芽吹いた灯に胸を躍らせていた。


 ◆


 少女アトラが初めて針を握ったのは五歳の時だった。

 それまでは危ないからと触らせてもらえなかった仕事道具。生涯の相棒になりうるそれを手にしたアトラの胸には、言葉にすることも叶わない万斛の感動が渦巻いていた。

 これでようやく、自分も祖母や母のように美しいベールを作ることができる――そう意気込みも十分に、少女は下積みを始めた。

 アトラの生家は代々王都で服飾店を営んでいた。古くから連綿と続く老舗だけあって、その名は王国中に広まっており、高位貴族、果ては王族さえ顧客としてドレスを注文した。

 扱う品は、主に貴婦人のドレス。下は生後間もない赤子から、上は人生の旅路の終着点を目前とする知恵者まで。全ての年代の高貴な女性を美しく飾るドレスは、貴族たちからの高い評価を得ていた。

 その名声は、中堅レベルの貴族の家に呼ばれるのではなく、むしろ貴族自身が店に足を運ばせる。いくつものドレスを同時並行で進め、途中でのデザインの修正依頼なども瞬時に受け入れる妥協のない姿勢だが、それゆえに常に手が足りず、そのことを憂慮したかつての女王が下級貴族は店に足を運ぶことで店員の手をなるべく煩わせないようにと命じたのだ。

 そうして店は女王のお墨付きを経て、更なる研鑽の果てに発展を続けて来た。

 いつしか店は王国一となり、その店が作るドレスが王国の女性たちの間に流行を生み出した。アシンメトリーなドレスが作られればそれが流行り、マーメイドラインが作られればそれが、宝石をちりばめた星空のようなドレスが作られればそれが流行として王国のドレス業界をけん引した。

 そうして王国のドレスは様々な発展を遂げ、アトラの時代には裾の長さや刺繍の華美を求められるようになっていた。

 裾、それはベールからドレスのスカートの裾を含めた全てを総称した単語として使われていた。結婚式で利用される純白のベールはもちろん、普段使いのドレスの裾でさえ、裾持ちなしには引きずるような数メートルほどの長さが最も美しく、かつ高貴な者にふさわしいとされた。

 より長く、より美しい刺繍を――他者を上回る美しいドレスを求める令嬢たちは、目的の殿方を捕まえるために服飾店に訪れては何度も議論と修正を重ねていた。

 そんな令嬢たちの対応をするのが、まだ刺繍の腕が未熟なアトラの、最初の仕事となった。

 服飾店にはたくさんの客がやって来る。貴族の令嬢を始め、商人の娘、結婚式をひかえる平民の女性。

 何度も行われる修正の嵐の中、アトラは必死に客の意を組み、満足のいくドレスができるように心を尽くした。

 けれど、時折罵声のように浴びせられる心無い言葉に、いつしかアトラは自分の中であれほど強く燃えていたドレスに対する思いが弱まっていることに気づいた。

 もう、ドレスなんて見たくもない――精神的な疲弊著しいまま、惰性で店番をしていたアトラは、来店を告げるドアベルの涼やかな音に背筋を伸ばした。

 どこか仄暗い目で来店客を見たアトラは、その人物を見た瞬間、勢いよく背筋を伸ばした。

 長い白髪を腰まで伸ばした、美しい女性。紫紺の瞳は溢れんばかりの知性を感じさせ、夜空のような色合いのドレスは、熟れ始めた少女の肢体に強い色香を加えていた。なだらかな胸元の起伏と、すらりとした臀部から足にかけての脚線美。踏みしめるヒールが軽やかな音を鳴らし、少女は颯爽とした足取りで店に入って来る。

 だが、何よりもアトラが目を引かれたのは、この店で作られたであろう蔓草の刺繍があしらわれたドレスの、長い裾にあった。恭しくそれを持ち上げる数名の裾持ちを従える彼女は、黒い肘まである手袋に包まれた手でスカートの裾をわずかに持ち上げ、美しいカーテシーを披露して見せた。

「初めまして、私はリーシェ・ホーエンハイム。私に見合うドレスの製作を依頼するわ」

 鈴の音のような優しい声音がアトラの脳を揺さぶる。これほどまでに美の神に愛された存在を、アトラはこれまで見たことがなかった。揺れる白髪と長い裾は、まるで彼女の美に羨望する女性たちの思いの大きさのよう。

 背筋に電撃が走った。脳が震え、まるで麻薬のようにドーパミンが溢れた。

 目を見開いて呆然とリーシェを見つめていたアトラは、目の前で不思議そうな顔をしたリーシェに手を振られ、慌てて再起動した。

「は、はい!リスペルチェ服飾店へようこそ!」

 アトラはその日、運命に出会った。美の女神の寵愛を受けたリーシェ・ホーエンハイムを見て、彼女を最高に美しく飾り立てるドレスを夢想した。できることなら、ずっとリーシェを見ていたいと思った。

 けれど、アトラとリーシェは店員と客の関係。体の数値を測定している間も、ドレスの具体的な要望を聞く際も、アトラはリーシェと共にいられるという甘美な時間に酔いしれ、その時間の終わりを恐れた。

 だが、終わりは必ずやって来る。全ての肯定を終えたリーシェが店を後にして、アトラは灰のように燃え尽きてその後ろ姿を呆然と見送った。

 去っていく後姿を見るアトラの視界に、ふと、これまで存在を忘れていた裾持ちの姿が映る。気配を殺し、ただ主人の美しさを、富の大きさを示すために存在する裾持ちたち。黒子のようにリーシェを支える者たちを見て、アトラは脳に電撃が走ったような思いだった。

 気づけばカウンターから飛び出したアトラは、店の前に止めていた馬車に乗ろうとするリーシェに向かって走り出す。

 扉を開く。軽やかなドアベルの音に、馬車に乗ろうと従者の手を取っていたリーシェが振り返る。

「あ、あの!」

 無礼な――そんな強い思いを込めた従者の視線を気にすることもなく、アトラは声を張り上げた。知性溢れる紫紺の瞳に自分が映っていることに心を弾ませながら、勢いよく頭を下げる。

「あなたの美しさに敬服しました!どうかわたしを、あなたを支える裾持ちの一人として雇ってください!」

 王国が誇る服飾店の跡取りの少女の言葉に、リーシェを始め、従者や裾持ちの者たちもぽかんと目を開き、あるいは口も開いて見つめていた。

 無言の時が過ぎ、断られるかとアトラがびくびくし始めた時。ようやくリーシェが吐息を漏らし、それによって従者一同が我に返った。

「いいわ。私の容姿をそれだけ評価する者になら、裾持ちを任せられるわ。ええと、貴女は……」

「あ、アトラです!」

「そう、アトラね。それじゃあ、新しいドレスが完成した暁には、貴女には私の裾持ちになってもらうわ」

「ありがとうございます!」

 頬を紅潮させ、感極まった様子で告げるアトラを見て、リーシェは面白いものを見つけたというようにすっと目を細め、口元に手を当てて小さく笑みをこぼした。


「……裾持ちになる!?」

 リスペルチェ服飾店に、慟哭のような悲鳴が響いた。慌てて両手で耳を塞いだアトラの前には、瞬時に憤怒を顔に浮かべた母の姿があった。アトラと同じ茶髪茶眼の地味な女性。けれどその腕が、祖母より引き継がれた魔性のドレスを作る才能を有していることをアトラが知っている。

 自分もいつか母のように、この店を継いでいくことになると思っていた。けれど、今のアトラの心を燃やすのは、ドレスに対する熱ではなかった。リーシェに、その裾持ちという栄誉に、彼女は希望を見出していた。

 ひとしきりアトラに怒声を浴びせた母だが、アトラがてこでも動かない姿勢を見せることで段々とその顔が苦々しいものに変わっていた。

「…………本気、なのね」

 絞り出すように告げられた言葉に、アトラは強くうなずいた。

 大きなため息が母の口から洩れる。ぴくりと肩を弾ませるアトラは、続く言葉をじっと待ち続けた。

 やがて、折れたようにがっくりとうなだれた母は、片手をテーブルに突き、その手で顔を隠すように押さえて低い声でつぶやいた。

 好きにしなさい、と。


 一か月後。アトラは完成した紫のドレスに身を包んだリーシェの裾を持ち、開かれた背中に覗く白磁のごとき肌を見ながら軽快な足取りで家を出た。


 ◆


 アトラにとって、裾持ち(ベールガール)の仕事は最高だった。

 ちまちまと刺繍を続ける必要はない。疲れ目がかすみ、手が滑って指をさしてしまうことも、それによって布に血がついてやり直しになることも、傷だらけの手が視界に入り続けて気落ちすることもない。刺繍や裁断、デザインなどドレスに関することに関してはとにかく口うるさい祖母も母もいない。アトラが成長するほどに、より優秀な跡取りとして育てるべく二人の指導は厳しくなった。

 あの罵声を聞かずに済むというだけで、アトラにとっては天国だった。


 アトラの朝は早い。

 メイドたちが起きだす時間には裾持ちのアトラもまた起床し、身だしなみを整える。顔を洗い、髪をまとめ、軽く化粧をして、服を着る。この時に重要になるのは、いかに目立たず、かといって粗末ではない服であるかという点である。

 裾持ちは、裾を持つ貴族の権力の象徴である。長い裾を持つ裾持ちの数は富を象徴する。そんな崇高な使命を持つ裾持ちが仮にみすぼらしい貧民のような身なりをしていては、いくら多数の裾持ちを従えていたとしてもその数は富の証にはなりえない。

 貴族家に仕える者というのは、その家の顔である。だからこそ家令はもちろん、メイドや御者、庭師であっても、高貴な家ほどその言動や身だしなみに儀礼が求められる。ゆえにその多くは貴族の子息子女が行儀見習いとして入ることになる。特に跡を継ぐことができない貴族家の次男以下はこうして執事見習いとして高位貴族に仕えることが大きな進路先の一つであった。

 ただ主の裾を持つだけ。無言で裾を持ち、ただ影のように付き従うそのあり方は貴族子息子女に求められるものではなく、平民が担当する。けれどそこに粗忽な振る舞いがあってはいけない。主を差し置く美貌があってもいけない。逆に思わず目を引いてしまう醜い容姿があってはいけない。

 裾持ちたるもの、主の影であれ――裾持ちとしての先輩からの教えを胸に、今日もアトラは素早く、自分の存在感を消すための化粧に臨む。

 黒子のような、あるいは喪服のような黒の服に身を包んだアトラは、鏡に映る自分の顔を眺め、口の端に笑みを見つける。頬をもみほぐして再び像を見れば、そこには無表情の、影の薄い少女の姿があった。

「アトラ、そろそろ行きますよ」

 よし、と頷いたアトラは鏡の前から去り、先輩に続いて小さな二人部屋を後にする。

 黒目黒髪の先輩裾持ち、コルチェの一挙手一投足を穴が開くほど見つめながら、アトラはその動きの模倣を試みる。まだ裾持ちとして半人前もいいところなアトラにとって、物音ひとつ立てず、まるで影のように完璧に気配を周囲に同化させて見せるコルチェは神とあがめるべき存在だった。

 裾持ちにとって必要な能力の一つ、気配の同化。ポイントは、気配を完全に消すわけではないということ。気配ゼロというのは、観察眼の鋭い者などに見られた場合に、逆に驚かせることになる。そういった感情の揺れで無駄に注目を集めることを防ぐために、存在感自体を消すわけではなく、あくまでその場の風景に、空気とでも呼ぶべきものに同化するのだ。

 ベールと一体になってこそ真の裾持ち――静かに告げるコルチェを見て、アトラは零れ落ちんばかりに目を見開いていた。それから、アトラにとってコルチェは師匠となったのだ。

 起床後、長い裾のあるドレスを身に着けたリーシェ・ホーエンハイムの裾を持ち、アトラは粛々と屋敷を歩く。紅のカーペットは毛が長くて足を取られやすく、最初は転んでリーシェをつんのめさせるという失態をしでかした。コルチェからこっぴどく叱られてからは逆にへっぴり腰になって、コルチェの口からは呆れたため息が漏れた。

 だがもう慣れたものだった。しずしずとリーシェの後を追うアトラの姿を横目で確認しながら、コルチェは心の中で「合格」と告げる。

 太ももから膝にかけるように裾を広げて座ったリーシェが朝食を食べる後ろで、アトラはピンと背筋を伸ばして立ち続ける。

 先に食事を済ませてはいるとはいえ、主人であるリーシェと使用人であるアトラの食事は違う。賄いとは比較にならないほど豪華な朝食からは馥郁たる香りが立ち上り、アトラは鳴りそうになったお腹に力を入れて必死に耐えた。それでも余計な気配を放つことはなく、ゆえにアトラに視線が集まることはなかった。

 ホーエンハイム家で朝食の席に座るのは四人。ホーエンハイム夫妻と息子のオルバー、そしてリーシェだ。四人ともが真っ白な髪に紫紺の瞳をしているが、これはホーエンハイム一族の証明である。少しばかり遠い血縁者であれど一族の証の色を有しているために夫婦となったホーエンハイム夫妻だが、その関係は良好だった。ちなみに、ホーエンハイム候の頭部は輝いている。貴族としての責務は、彼の毛根に痛烈なダメージを与えていた。

 両親がまき散らす甘ったるい空気にあてられて少しばかり不機嫌そうなリーシェは、眉間に小さなしわを刻んでやや早く食事を勧める。本来は食卓を囲む者が全員同時に食べ終わるようにペースを合わせるものだが、食事をおざなりにして愛を語る夫婦をあまり長く見ていたくはいなかったのだ。

 砂糖を吐きそうな空間の中、弟のオルバーもまた淡々と食事を勧め、拭ったナフキンを机に叩きつけて立ち上がる。

「……オルバー?」

「なんだよ。文句があるなら食事中は食事をしろよ」

 母の咎めるような視線などなんのその、オルバーは一睨みした後、足早に食堂から出て行った。それに続くようにリーシェも立ち上がり、アトラやコルチェをはじめとした裾持ちたち六人は素早くリーシェの長い裾を取り、引きずらないように、そして裾が美しい弧を描くように等間隔で軽く支える。

 そんな六人を見回し、それからその中に違和感なく混ざるようになったアトラを見て、リーシェは少しだけ気分を浮上させてゆるりと微笑む。

 自ら裾持ちを志願したアトラは、リーシェにとって可愛いペットのような存在だった。あるいは、親戚の子どもだろうか。

 部屋に戻ったリーシェは届いていた手紙を一通一通確認し、内容を精査していく。出席してつながりを得るべき茶会の案内、焚火の燃料としても役に立たないゴミ、ゴミとまではいかないが取り立てて価値を見い出しにくい手紙。

 選別後、ゴミにしかならないゴミをメイドにもっていかせ、リーシェは茶会の招待状の一枚を眺める。

「……アルグレア」

 スッと目を細めて文面を読み進めるそこには、リーシェの婚約者、アルグレア・ジーストからの誘いが書かれていた。

 アルグレアは浮名を流している遊び人だ。もとよりそんなことには少しも興味を持っていなかったリーシェだが、いざアルグレアとの結婚生活を想像しようとしてもうまくイメージできなかった。

(……私ではなくアルグレアに問題があるのよね。家庭を持った彼を想像できないのですもの)

 妻とった自分の姿を想像できないことは棚に上げて、リーシェはそう心の中で嘆息する。そんな振る舞いさえもまるで美の女神に愛されたワンシーンのようで、アトラはこみ上げる熱いパトスを飲み込み、垂れてきそうになる鼻血をすすった。


 ◆


 鷲の家紋が描かれた馬車から、金糸のようにまばゆい長髪を揺らし、眉目秀麗な男が下りてくる。甘いルックス。すらりとした長身痩躯に、彼の魅力を何倍にも引き立てる衣服。

 ウインク一つ。己の整った顔を理解し、最高の効果を生み出すための振る舞いにリーシェのメイドや裾持ちたちは慣れていながらも動揺せざるを得なかった。

 彼こそはリーシェ・ホーエンハイムの婚約者、アルグレア・ジースト侯爵子息。ジースト侯爵家の嫡男である彼女との婚約は、ホーエンハイム伯爵家にとっても、アルグレア自身にとっても、家柄や生活レベルという意味では文句はなかった。

 ただ、アルグレアの女遊びがなければ、だが。

 ほんの一瞬、アルグレアが目を細める。それが獲物を見定める時に漏れる彼のわずかな本性だと知っているリーシェは、今度は何を見つけたのかと心の中で嘆息して。

 その視線の先に、新米裾持ちアトラの姿を見た。

 ほかの裾持ちがアルグレアのウインクで動揺する中、アトラだけはしずしずとリーシェの裾持ちを遂行していた。

 そんなプロフェッショナルじみたアトラの姿が、アルグレアの目に留まってしまっていた。自分に歓声を上げることのない女。そんなアトラの関心を己で染め上げたいとアルグレアは思った。

 ここまで約一秒。一瞬の交錯の際、視線で火花を散らしたリーシェとアルグレアは、そこでごく自然に婚約者同士としてふるまい始める。

「やぁ、久しぶりだね。リーシェ」

「ええ、久しぶりね、アルグレア」

 流れるようにリーシェの手を取ったアルグレアが、その手の甲を額に当て、それからキスを落とす。額に手を当てるのは、貴族同士のあいさつ。手の甲に触れるようなキスを落とすのは、家族での信愛あるいは婚約者に対する愛情を示すためのものだった。

 だが、リーシェはアルグレアが自分にさして関心を抱いていないことを知っている。だから飄々とした振る舞いで、けれど自分の裾持ち(ペット)を奪われてたまるかと視線で牽制して。

 けれどそんなリーシェをよそに、アトラは先ほどとは違って真っ赤になってリーシェを――その手の甲を見ていた。

「……ラ、アトラ!」

「!」

 呆然と立ち尽くしたままのアトラへと、立ち直ったコルチェがささやく。慌てて気配を殺して裾持ちに戻るアトラだが、リーシェから強い気配が漂ってきているのを感じていた。

 後でお仕置きね――そんな言外の圧力にさいなまれつつ、さらにはなぜかリーシェの婚約者であるアルグレアと視線が何度も合うという異常な現象に遭遇するアトラは過去にない怒涛の時間を過ごすこととなった。

(……おかしいね。普通、これだけ目が合えば『私のことを意識しているんじゃないかしら』なんてなるかと思っていたのだけれどね。さすがはリーシェの裾持ちといったところかな。職業意識が強い……だからこそ調教しがいがある)

(はあぁああ、私の裾持ちに手を出そうとするなんてありえないわね)

 内心で舌なめずりをするアルグレアを見ながら、リーシェもまた心の中で盛大な吐息を漏らした。

「……ところでリーシェ。今日はまた一段と素敵だね」

「あら、うれしいことをおっしゃってくださいますね?今日はひょっとして雪が降るのかしら」

「おや、雪が降り始めてしまっては、君は銀世界に咲き誇る野ばらだね。きっとさぞかし映えることだろうね」

「あら、それは私に棘があると言いたいのかしら。それとも、今日のあなたは“野”に咲く花にご執心なのかしら?」

「ふふ。管理されて大輪を咲かせる温室の花も好きだけれど、道端に咲く野草の花だってめでるべきものだよ。最も、僕の婚約者にはどれもかすんでしまうみたいだけれどね」

 野ばら――手入れの入っていない自然で咲く花としてアトラを隠喩する発言に、リーシェが抵抗を試みる。だがこの手の話術ではいかにリーシェとてアルグレアに勝つのは難しい。婚約者を立てつつ、そのリーシェに別の女に興味ができたと宣言するアルグレアは、まさに狂人と呼んで差し支えない。

 馬車が止まり、順に下りる。リーシェと手を取ったアルグレアは、颯爽とした足取りでお茶会の会場へと入っていく。

 去り際、鋭く細められたアルグレアの視線に射抜かれたアトラは、しばらくその場から動くことができなかった。

 以前王都の外の草原で目が合った肉食獣、狼を思わせる視線だった気がしたのだ。

「……目が合うのって偶然だよね?」

 明らかにわざとやっているのだが、こと恋愛に関してだけは究極の天然と化すアトラは最高の盾を持っていた。

 とはいえ恋愛に少しも興味がないわけではなかった。物語に登場しそうな、見目麗しいアルグレアとリーシェのあいさつのキスは、たとえそれがあいさつであっても心躍るものがあった。

「……んん~?」

 目が合うのはきっと偶然だろうと、自分がアルグレアを意識しているか可能性を棚に上げるその姿勢は、なるほど主従が似るとはこういうことかと思わせるだけの何かがあった。


 ◆


 アトラがホーエンハイム家に仕えて早一年。裾持ちとして十分な研鑽を積んだとみなされたアトラは、メイドとしての仕事まで行うようになっていた。何しろ、主人であるリーシェが座って授業を受けているときなどは、アトラたち裾持ちにはすることがないのだ。リーシェの傍に何人も控える必要はなく、ゆえに別の仕事に駆り出されることもあった。

 ホーエンハイム邸宅の庭で掃除をしていたアトラは、敷地内に入ってきた馬車に気づいて掃除をやめて頭を下げる。果たして、前を通過していくと思った馬車は屋敷の真正面ではなく、アトラの目の前で止まり、中から眉目秀麗な好青年が現れた。

 金髪を揺らす彼の名はアルグレア・ジースト。リーシェの婚約者である。

「やあ、アトラ君」

「ようこそいらっしゃいました。お嬢様に御用ですね?」

「はは、まさか。今日は君に会いに来たんだよ」

 軽薄な笑みを浮かべるアルグレアがアトラの短い髪に触れる。流れるようなその動きと言葉を前に、アトラは硬直――するわけではなく、あいまいな笑みを浮かべてアルグレアの手から逃れる。

「お嬢様のところまでご案内いたします」

「つれないねぇ。まあ、だからいいんだけどね」

 はぁ、と心の中でため息を漏らすアトラは、後ろから突き刺さる好色な視線を感じながら、しずしずと屋敷の中を進んだ。

「……あら、お久しぶりですね、アルグレア」

「おや、僕のような平凡な男など君の記憶には残らないということかな?悲しいね。僕の記憶には女神のごとき神々しい君の姿が焼き付いて離れないというのに」

 リーシェは「久しぶり」と言うが、二人が顔を合わせたのは一昨日だ。不思議そうな家庭教師をよそに、リーシェとアルグレアは視線をぶつけて火花を散らす。

 もとより女好きであるアルグレアだが、最近はただひたすらアトラの後ろを歩き回っていた。屋敷に来る頻度は日に日に増えていき、連日でホーエンハイム家を訪れることもある。

 つまり、リーシェは屋敷を訪ねておきながらアトラを訪ねるついでというのを隠しもしないアルグレアに苦言を呈しているのだが、その程度の遠回しな表現でアルグレアが止まるわけがない。

 救い上げた一束の銀の髪に唇を落としたアルグレアは、アトラの反応を確かめるべく顔を上げた。だが、もう完全に慣れてしまったアトラは、その程度の婚約者同士のふれあいに反応を示すことはなかった。

「ああ、つまらないね。無垢だったアトラ君が懐かしいよ」

「アトラは今もかわいらしい私の裾持ちよ」

「ふむ。まあ君と結婚すればアトラ君は僕の屋敷に来るわけだからね。今しばしの辛抱というわけだ」

「何を言っているのよ。アトラは私の裾持ちではあるけれど、その雇用はホーエンハイム家が行っているのよ?私とあなたが結婚してもアトラはホーエンハイムの使用人よ」

 その言葉を聞いて、アトラは目を見開いて愕然としていた。てっきりリーシェが結婚してホーエンハイム家に行ってもずっとリーシェの裾持ちをしていると思っていただけに、その言葉は衝撃をもってリーシェの心を大きく揺らした。

「おや、この反応は知らなかったみたいだね。それに、アトラ君はリーシェと一緒にいたいと思っていそうだが?」

「どうかしらね。あなたの振る舞いに辟易としている以上、アトラにとってはこの屋敷に残る方がいいと思うけれどね。アトラが好きな裾持ちも続けられることだもの」

 下手にホーエンハイム家に行ってアルグレアに食われ、あるいは愛人になってしまうよりはましだろうとリーシェは語る。その未来は、アトラにとって何よりも避けるべきだった。

 こうして一年をリーシェの裾持ちとして過ごしても、アトラの中にある裾持ちという仕事に対する熱い思いは消えず、それどころはますます燃え盛っていた。美しいベールを運ぶ影の人。目立たず、けれどそれによって主を目立たせ、その力を証明する縁の下の力持ち。それはアトラにとって、天に輝く星のような素晴らしいあり方に思えていた。

「かしこまりました。わたしは今後もホーエンハイム家にてお仕えしてまいります」

「そうしなさい」

 告げるリーシェの目は少しだけ寂しそうで。けれどそんな光はすぐに消えて、リーシェはアルグレアを部屋の外に放り出して授業に戻るのだった。


 ◆


 リーシェの結婚の日が決まってから、アトラがリーシェの裾持ちをする機会は減った。ホーエンハイム家に行ってからのことを考え、リーシェは連れていく裾持ちたちだけで仕事が回るかどうかの確認をしていた。

 リーシェの裾持ちをする機会が減ったとはいえ、アトラの裾持ちの仕事がなくなったわけではない。リーシェの妹の、あるいはリーシェの母、ホーエンハイム夫人の裾を持ちながら、けれどアトラは胸にあった熱い思いが感じられなくて内心で激しく動揺していた。

 裾持ちという仕事に強い情熱を誇りを持っていたはずだった。家を飛び出してよかったと、心からそう思っていた。

 それなのに今のアトラは、退屈で、むなしくて仕方がなかった。影のようにホーエンハイム夫人の背中を負う。風景の一つとして、緻密かつ大胆な刺繍の施された裾が最も美しく見えるように開き、しわなく運ぶ。あるいは、わざとしわを作ることで美しさを生み出す。

 その技量は多くの裾持ちを見てきたホーエンハイム夫人を感嘆さえるほどであり、お褒めの言葉をリーシェは冷めた内心を隠しながら恭しく拝聴していた。

 アトラが有名なリスペルチェ服飾店の娘だと知ったホーエンハイム夫人はアトラに刺繍の腕を求め、そうしてアトラは家を出て離れたはずの裁縫を仕事の一つとするようになっていた。ホーエンハイム夫人はそのままリーシェを専属の針子にしようと考えていたが、アトラの固辞を受けて裾持ちの仕事の合間に行うように決めた。

 おかげでアトラは刺繍の腕がめきめきと上がっていた。何しろ、もとより英才教育を受けていたアトラは、十分な下地ができており、あとは実践回数を重ねるだけだった。さらにはホーエンハイム家で貴族たちが触れる芸術を目にしてきたことでアトラの才能が覚醒していた。

 けれど、そうして作り上げたベールを前にしても、アトラの心が浮き立つことはなかった。

(どうしてつまらないと思うんだろう?)

 疑問は日に日に強くなっていく。けれど、答えは未だ見つからない。

 庭師に手を貸して言われるまま肥料などを運ぶリーシェの視界の端、もう完全に見慣れてしまったジースト家の家紋が入った馬車があった。

 滑るようにホーエンハイム家の敷地に入ってきたジースト家の馬車はやっぱり今日もアトラの前で止まる。そのことを予想していたアトラは、メイド服についていたわずかな土汚れをすでに叩いて落としており、何事もないような顔で馬車から降りてきたジーストに頭を下げる。

「やぁ、久しぶりだねアトラ君」

「お久しぶりでございます。ジースト侯爵様」

「いやだなぁ。僕とアトラ君の中だ。親愛を込めてジーストと呼んでくれないかな」

 リーシェとの結婚に先駆け、アルグレアはジースト家を継いでいた。病に侵されていた父から爵位を受け継いでその引継ぎで忙しかったアルグレアは、ここしばらくホーエンハイム家に来ることはなかった。その代わりにリーシェがジースト家に向かっていたため、婚約者二人の関係が悪化したなどと噂されることもなかった。

 とはいえアルグレアはその対応がひどく不満だった。リーシェが屋敷に来てしまっては、可愛いペット(アトラ)に会いに行く大義名分がなくなってしまうのだか。そうして過ごすこと三週間。とうとう耐え切れなくなったアルグレアはこうしてアトラの前にやってきて、そして自然と地面に膝をつけていた。

「……え?ジースト様?」

 さすがのアトラもこれには動揺しきりで、完全に思考停止に陥っていた。膝をつき、アトラの手を取るアルグレアの姿は、まるで忠誠を誓う騎士のようで。

「おや、これだけ僕が希っているというのに、君は僕のことを名前で呼んでくれないのかい?愛しきアトラ君。僕という鎖にとらわれることなく翼をはためかせる君は、きっとすぐにでも僕の腕の中から飛んで行ってしまうのだろうね」

 アトラの手に触れながら告げるリーシェに、アトラは目を白黒させていた。ここにリーシェがいたならば「アトラがあなたの腕の中に納まっていたことなどない」となどと突っ込みを入れていただろうが、リーシェは結婚式のための準備に奔走してこの場にはいない。

「ジースト様、おやめください。お召し物が汚れてしまいます」

「そのようなことは気にしないよ。第一、君だって気にしていないだろう?」

 覗き込むようにまじかで視線を合わせられ、アトラは動揺に瞳を揺らした。

 アルグレアが言った通りだった。アトラはもとより、服全般にさほど関心を抱いていない。それこそ、ぼろ布のような古着で生活しても苦ではなかった。それでもホーエンハイム家の顔として、何より裾持ちとしての仕事を続けるためにアトラは身だしなみを整えている。だから汚れたらきれいにする。だが、それだけだった。

 こうしてアルグレアが膝を土で汚そうと、平民である自分相手に何をしているのかと困惑することがあっても、せっかくの美しい服が汚れることを残念に思うことなどなかった。

 それはアトラの欠点であり、リスペルチェ服飾店を飛び出すことになった理由なのだか。

 渇きは癒えたはずだった。心の中にあったわずかな炎は、裾持ちという仕事を見出し、それに従事することでアトラの生きがいとなったはずで。

 けれどアトラは今、昔のような空虚にとらわれていた。

 アルグレアの瞳が、アトラを見る。その目に映った己の姿が、アトラの目に映る。

 そこには、空っぽな少女がいた。文字通り己を失ったような、影のような人物がいた。

「つまらないね。今の君は少しも輝いていない。こんな輝きを失わせてしまうなんて、リーシェはなんて罪深いんだろうね」

「……どういう、意味でしょうか?」

 これまで自らアトラに話しかけることのなかったアトラがすすんで訪ねてきたことを少しだけ喜びながら、アルグレアは軽薄な笑みを顔に張り付ける。

「わからない?そんなはずはないだろう?君は気づいているはずだ。理解しているはずだ」

「何を……」

「僕がこれまで見てきた君はとても輝いていたさ。生き生きとしたその生命力は周囲にいる者みなを浄化するほどで、擦れた男だった僕の心に新たな活力を抱くほどだったよ。愛したアマーリエ嬢との別れに意気消沈していた僕は、君を見て生まれ変わったよ」

 リーシェに仕えるアトラ――しかも言い寄っているアトラに別の女の話を告げるアルグレアには遊び人としての風格さえ感じられた。

 風が吹く。屋敷に仕える間切らずにいた長い髪がアトラの視界を覆う。揺れる茶髪が、アトラの心の中、何かを刺激する。

 髪を耳にかけ、アトラは改めてまっすぐアルグレアを見る。その目には、けれど先ほどとは違って確かな光があった。

「ほら、言ってみるといいよ。口にすれば、ひょっとしたら道が開けるかもしれない。少なくとも僕は、君の思いを尊重するよ」

「……いのです」

 わななくように唇を震わせながら、アトラは告げる。荒れ狂う感情を、必死に言葉にしようと努めながら。

「わたしは、お嬢様の、リーシェ様の裾持ちでありたいのです。私があこがれたのはただの裾持ちではなく、リーシェ様の裾持ちでした。あの方の背中を追えば、どこまでも歩いて行ける気がするのです。そんなあの方を支えて、生きていきたいのです」

 アトラは確かにベールが好きだった。祖母や母が織りなす美しい刺繍が好きだった。けれどベールは、ドレスは、ただそれ単品だけでは完成しない。それを身に着ける者がいて、その者と一つになって初めて、真に完成する。

 そしてもう一年以上前になるリーシェとの出会いの日、アトラはその「真の完成」をリーシェに見たのだ。ただ美しいだけではない。ドレスとリーシェ自身が互いに互いを高めあい、何倍も美しくなっていた。

 そんなリーシェを見ていたいと思った。その背中を追いたいと思った。リーシェを支え、彼女の美の一助でありたいと思った。

 あるいはそれは、アトラに刻まれたリスペルチェ服飾店の血が、美しさに騒いだからかもしれなかった。

 声を荒らげ、リーシェは叫ぶように、宣言するように告げた。そんなリーシェを、アルグレアはどこまでも楽しそうに見ていた。

「それで、君はどうするのかな?リーシェの妻となる僕に頼むかい?ジースト家で雇ってくださいと。君がそう頼むのであれば、僕はすぐにでも行動に出よう」

 だが、君はそんな形を望んでいるのか――そう、アルグレアの視線が問う。

 アルグレアは確信していた。アトラはそんな簡単な道を選びはしないと。アルグレアはアトラに、同士の気配を感じていた。それは異性にだらしがないという気質ではなく、困難なものにこそ燃えるあり方だった。

 例えばそれは、女として最高に近い玉の輿であるジースト侯爵家次期当主の愛人になるという栄光の道を感嘆に袖にするアトラにアルグレアが執着したように。

 リーシェもまた、自らの足でその苦難を歩むものを求めるとアルグレアは確信していた。

 果たして、目を閉じて少しだけ逡巡を見せたものの、アトラが開いたその目には強い輝きが秘められていた。

「やるべきことができました。屋敷の方へご案内せずともよろしいでしょうか?」

「かまわないよ。ぜひ盛大にやるといいよ。君が再び僕の前に現れる日を楽しみにしながら待っているよ」

 そう言いながらもアルグレアには確信があった。きっとその日は遠くないと。


 走るような速度で、けれど少しも下品には見えない不思議な歩みでアトラが歩き去る。その背中には、立ち振る舞いには、強い芯があった。目指すべきものが見えたアトラは止まらない。止まれない。

 裾持ちの仕事の傍ら、アトラは全力で針を動かしていた。自分の中で燃え上がる情熱のまま、布に模様を刻んでいく。

 緻密でいて大胆で、穏やかでいて雄々しくて、そんな相反するものを内包する、神の羽衣のような美しさを目指して、アトラは寝る間も惜しんで針を進めた。


 美しい純白のドレスを着たリーシェが、赤いじゅうたんの上を歩く。妖精の羽のように広がる美しい羽衣は光を透かし、世界を祝福に染める。

 そのベールを見た皆が感嘆の息を漏らす。

 長い、長いベール。十数メートルにもわたるその翼は、リーシェ・ジーストの、あるいはその流行の第一歩を示していた。

 リーシェとアルグレアの結婚式。そこに参列する女性たちは、そろって非常に長い裾を有したドレスを身にまとっていた。尾長鳥のような裾を持つドレスは、リスペルチェ服飾店が新たに開発した新作。

 羽のようで、尾のようで、衣服でありながら芸術の極致に至ったそのドレスは、瞬く間に王国の流行に乗った。

 その流れの中、リーシェもまた急遽ドレスを変更した。

 長い、長いドレス。数十人の裾持ちを必要とするそのドレスを揺らしながら、リーシェは困ったように笑う。その歩む先、新郎アルグレアもまた、想像の斜め上を行く状況を前に、腹がねじれるほどの笑いがこみ上げ、それを必死に押し殺していた。

 そんな新郎新婦の内心に気づかず、リーシェに最も近い裾持ちはしずしずとじゅうたんの上を歩く。

 その銀の羽を美しく広げさせながら、影となり、景色となってリーシェの背中を追う。

 その背は、いつまでも見ていたくなるものだった。

(これからも、わたしがリーシェ様を美しくします。ほかの誰にもたどり着けない、美の女神と呼ばれるような存在にして見せます。どうか、もう少しだけ待っていてください)

 思いを胸に、アトラは今日もリーシェの背中を追って歩く。

 長い、長い、ベールを持って。


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