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母の着物

 


 半月以上経っても、司朗の近くにあの黒い靄が再び現れることはなかった。

 ずっと神経を張り詰め続けていた小萩にとっては、少々拍子抜けだ。幽霊たちが脅かすようなことばかり言うから、疑心暗鬼になりすぎていたのかもしれない。

 肝が冷えるような恐ろしい体験も、日々のことに追われていると少しずつ薄れていくもので、今となってはあの時見えた黒い靄も、もしかしたら目の錯覚ではなかったかと自信がなくなるくらいだった。


 幸い、司朗との関係は以前よりもずっと良好になりつつある。


 あちらも改善しようと努力しているのか、会話を交わすことが多くなった。

 小萩の拙い話しぶりでも、司朗はいつも真面目に耳を傾けてくれる。毎日家にいる小萩の話は他愛のない内容がほとんどだが、それでもきちんと相槌を打って、時には質問してくることもあった。

 逆に司朗の話は「花びらの枚数には規則性があって、葉のつき方は数列で表せる」などという難解なものになったりしたが、それでも小萩は毎回身を乗り出して興味深く聞いた。

 今まで誰かとこんなにお喋りしたことがない。そもそも、自分の話をまともに聞いてくれるような人は周りにいなかった。


 嬉しくて、楽しくて、こんな日々がずっと続くといいのに、と思わずにいられない。


 未だ夜は別のままだが……きっと、そんなに慌てる必要はないと司朗は考えているのだろう。自分たちはようやく、歩み寄りを始めたところなのだ。

 そんなわけで若干のんびりした気分を取り戻した小萩は、よく晴れた午後、庭でせっせと草むしりに精を出していた。


「ううん……やっぱりダメね……」


 ため息をついて、目の前の低木を眺める。

 以前気になった南天は、どうも日に日に状態が悪くなっていくようだ。

 この屋敷に庭師が入るのは夏と冬の年二回なのだそうで、夏の剪定作業は盆前に終わったから、次は正月前ということになる。それを待っていたら、おそらく手遅れになってしまうだろう。

 虫がついているのではないか、水が足りないのではないか、日光が当たらないのではないかといろいろ考えて試してみたのだが、一向に元気になる様子がない。

 奇妙なのは、病気であるなら葉や幹に白斑などの異常が現れるものではないかと思うのに、どれだけ観察してもそういうところは発見できないことだった。

 ただただ、徐々に葉が枯れていくのである。今ではもう、緑色の葉は全体のうちの半分くらいにまで減ってしまった。


「やっぱり司朗さんに聞いてみようかな……」


 司朗の手を借りることはなるべく避けたかったが、彼なら樹木の病気も詳しいだろう。できればまた元気になって、花と実をつけてほしい。

 幸い今日は司朗が家にいる。時間があるようなら後で話してみようか──と思った時、


「南天か」


 と、すぐ傍らで声が聞こえた。

 きゃあっ、と声を上げて振り返ると、今度そこにいたのは軍服姿の新之輔だった。


「もう……! いきなり出てくるのはやめてくださいと言ってるのに!」

「幽霊ってのは前触れもなく登場して驚かせるもんだ。そう膨れるなって、可愛い顔が台無しだぞ。小萩は笑顔のほうがよく似合う」


 まったく悪びれずに唇の片端を上げる。さらっとそういう気障な台詞を吐くあたり、彼はいかにも女性慣れしていそうだ。

 伯父というわりに、新之輔と司朗はまったく似た部分がない。


「この間、美音子と話したんだって? あいつのことだから、ずけずけときついことを言ったんじゃないか?」

「地味だとか貧乏くさいとかは言われましたけど」


 本当のことなので別に気にしてはいない。それに、養家の人々と比べると、美音子の言葉は多少きつくても毒がないので、あのつんけんとした態度が逆に微笑ましいくらいだった。


「美音子が生きていたのは、南条が最も豊かで権勢を振るった頃だからな。乳母日傘で育てられて、すっかり傲慢になっちまったんだろう。南条家の人間であるという自負が強く、自尊心も高い。華族の嫌な部分や裏事情も知らずに、自分は特別だと思い込んでいる生粋のお嬢さまだよ」


 口の上手い新之輔は、同時に皮肉屋でもあるらしい。

 肩を竦めてそんな評価を下す彼の目は、どこか妙に醒めていた。


「ですがそういう新之輔さまも、南条家を大切に思われているのではないですか? だから今の当主である司朗さんを守るために、ここにいらっしゃるのでしょう?」

「俺は……」


 新之輔はそこで言葉を濁し、視線を横に流した。


「──小萩、南天は昔から縁起木とされていることを知ってるか?」


 唐突に変わった話題に、小萩は一瞬ついていけなかった。


「縁起木、ですか?」

「そう。南天、つまり『難を転じる』だからな。庭の鬼門、北東の方角に植えれば魔除けになると言われる。この屋敷の元の持ち主がそのつもりで植えたのか、それとも司朗の父親が植えたのかは知らないが……いや、おそらく前者だろうな、先代当主はそういうのを信じるような性格じゃなかったから」

「魔除け……」


 小萩は呟き、その意味を改めて考えて、ぞっとした。

 この家を守るための魔除けとして植えられた南天だけが枯れかけている。それは──


「俺もこういうのは迷信だと思っていたんだがね。しかし実際にこうして目にすると、そうも言っていられないな。これはおそらく、悪い霊が力を増しているというしるしだ。今までのように徐々に弱らせるようなやり方じゃなく、もっと直接的な手段に出るかもしれない。気を抜くなよ、小萩」


 新之輔に真顔で警告されて、頭から水を浴びたような気分になった。

 屋敷に巣食う悪い霊の影響力をこの南天が示しているのだとしたら、葉がすべて茶色くなってしまった時、一体どんな事態になるのだろう。


「小萩さん? 庭ですか?」


 建物のほうから聞こえてくる声に、びくっと身じろぎした。


「は、はい! 今、まいります!」


 司朗が呼んでいる。

 慌てて返事をしてちらっと横を見たら、新之輔はもういなかった。

 小走りで戻ると、和服姿の司朗が袖手をして縁側に立っていた。近くまで来た小萩を見て、少し眉を寄せる。


「なんだか顔色が悪いようですが……どうかしましたか?」

「えっ、そ、そうですか? ここは陽に当たるからそう見えるだけですよ、きっと」


 いけない。例の大泣き以来、司朗は小萩の変化に気をつけている節がある。不安を表に出したら、不審がられてしまう。


「体調が悪いのではないですか」

「いえ、まったく! 元気いっぱいです!」


 笑みを浮かべて胸を叩くと、司朗はなんとか納得してくれたようだった。


「ならいいんですが……それでは、外に出ても大丈夫ですか?」

「もちろん! 何かご入用ですか? すぐに買ってまいりますので」


 襷掛けにしていた袖を戻しながらそう言えば、司朗が「いやいや」と手を振った。


「そうではなく、僕と出かけてほしいんです」

「はい、承知しました! 司朗さんと……え」


 手を止めて、目を見開く。

 今、なんて?


「このあたりをまとめている世話役さんがいるんですが、祝言を済ませたという報告をまだしていなかったもので、今日お伺いしようかと。一応、手土産は用意しておきましたので」

「あ、ああ、はい、そうなんですか。判りました」


 司朗とお出かけ、という言葉で一瞬浮かれてしまった自分が恥ずかしくなり、こくこくと頷いた。赤くなってきたのを隠すため、両手でぺちぺち頬を叩く。


「……どうしました?」

「いえ、季節外れの蚊がいたようで。それでは、ちょっとお待ちいただけますか」

「ゆっくりで構いませんよ。支度が終わったら声をかけてください」


 司朗はそう言ってくれたが、小萩は急いで裏に廻り、まずは手と顔を洗った。盥の水面を覗き込み、ほつれていた髪の毛を整える。

 手土産の他に必要なものはあるかな、とバタバタ走り回っていたら、


「あんたまさか、そのままの恰好で行くつもりじゃないでしょうね?」


 と、またも唐突に現れた美音子につけつけした口調で言われた。

 つんのめって転びそうになったが、今回は声を出さずに済んだので、小萩も多少は慣れてきたらしい。


「えっ……と、着替えたほうがよろしいので……ですよね、やっぱり」


 一日のうちに着ているものを替えるという習慣が小萩にはないのだが、考えてみればさっきまで草むしりをして裾には土汚れがついているわけだし、このままではきっと失礼にあたるだろう。


「すぐに着替えます」

「待ちなさい、何に着替えるつもりなのよ。今着ているものと変わり映えのない着物だったら意味がないのよ、判ってる?」

「といいますと」


 小萩は顔を下に向け、今自分が着ているものを見下ろした。

 平織の木綿で、藍色の地に縞模様の着物。

 地色が茶か紺か、模様が格子か絣かという違いくらいはあるものの、小萩の普段着は大体これと似たり寄ったりである。


「んもう、じれったいわね! いいこと? 世話役のところに行くってことは、あんたが司朗の妻だと正式に紹介するってことに決まってるでしょう! その嫁が女中みたいな恰好してちゃ、あらぬ噂が立つわよ! あんたは南条の名に泥を塗る気?!」

「司朗さんの妻……」


 ボンヤリと繰り返してから、ぱっと顔を赤らめる。

 今までそんなことは一度もなかったので、まったくピンとこなかった。司朗はなるべく早く小萩をこの家から出すつもりだったから、そのせいもあるのだろう。

 それが、正式に紹介してくれるということは……

 ぎゅっと両手を組んで目を閉じ、じんわりと胸に広がる喜びを噛みしめたのは三十秒ほどだろうか。小萩はすぐに現実に立ち戻って「あっ」と焦った声を上げた。


「だ、だったらもっとちゃんとした着物にしないと!」

「だからそう言ってるでしょ! 気づくのが遅いのよ! あんた、他に着物は?!」


 美音子が叱りつけるようにぴしぴし言う。小萩の鈍くささに苛々しているのか、床についてもいないのに足で地団駄を踏んでいた。


「わたしが持っているのは、大体養母のお下がりなので、その、どれも……」

「どうりで古臭いと思ったわ。司朗からは新しい着物を贈られていないの?」


 小萩が沈黙すると、美音子は険しい目で「あの甲斐性なし」と司朗を罵った。司朗にとってもこの結婚は親戚たちに強引に進められたものなので、無理はないのだが。


「だったら、司朗の母親の着物を出しなさい。年増だから色柄が合わないかもしれないけど、どっさり溜め込んでいたはずよ」

「そんな勝手なことはできません……あ、そういえば」


 母親の着物、という言葉で思い出した。

 持ってきた荷物の中に、小萩の実母の形見の着物がほんの少し入っていたはず。

 小萩が引き取られる時、両親の持ち物はほとんど養い親たちに取られてしまったのだが、さすがにすべて奪っていくのは世間体が悪いと考えたのか、言い訳のようにそれだけが小萩に残されたのだ。

 早速、美音子と一緒にそれらを検めた。

 着物は三枚あって、うち二枚は袷だから季節に合わない。だがもう一枚は単衣で、しかもそんなに高価なものでないとはいえ銘仙だから、訪問着としては最適だ。


「薄紫で品がいいし、柄もなでしこだからこの時期にピッタリだわ。南条家の人間ならもっと上質のものを着るべきだけど……しょうがない、これにしなさい」

「わ、判りました」


 大急ぎで身を清めて着物を替える。

 髪もひっつめたお団子じゃ合わないと言われ、「耳を隠してふんわり束ねて右肩に垂らして」という美音子の指示のもと、その通りにした。

 こんな風に自分を装うということをしたことがないので、少々照れ臭い。

 でも、とても楽しい。

 きっと、はじめて袖を通した母の着物も喜んでいるだろう。

 仕上がりを見て、美音子は一応の及第点をくれた。


「うん、それでいいわ。挨拶といっても、あんまりペコペコと頭を下げるんじゃないわよ。堂々と胸を張っていなさい」

「はい!」


 背筋を伸ばして返事をしてから、思わずふふっと笑ってしまう。

 美音子が怪訝そうに「なによ?」と首を傾げた。


「いえ、なんだかんだ言って、美音子さまは面倒見がよくていらっしゃるんだなと……年齢が下なのに、わたしよりもお姉さんみたいで」


 そう言ったら、美音子は複雑な表情になった。鼻白むような、それでいて、どこか哀しげな。

 何かを言いかけて口を閉じ、ふん、と誤魔化すように顔を背ける。


「……くだらないこと言ってないで、司朗に見せてらっしゃいよ。あの植物バカでも、さすがに褒め言葉の一つくらい出せるでしょ」


 そうかなあ、と内心で思ったが、反論はしないで「ありがとうございました」と頭を下げた。舅も姑もいないこの家で、美音子の存在は非常に頼もしい。

 その足で司朗のもとに向かったら、彼は和服姿のまま、手土産の他に、なぜかスケッチブックを脇に抱えていた。


「では、出かけましょうか」


 普段とは着物も髪型も異なる小萩に少し目を瞬いたが、それについての感想は特に出ない。

 小萩には予想の範囲内だが、後ろにいた美音子が鬼のような形相になったので、慌てて彼を促して外へ出た。このままでは悪い霊の前に美音子に殺されそうだ。

 ひょっこりと玄関口の向こうから姿を見せた陸が、「おめかししてるな、小萩。すごく似合ってるぞ!」と褒めてくれたので、司朗に気づかれないように微笑んで、そっと手を振った。






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