食事をともに
それ以降、司朗の頭のあたりに目をやるのがすっかり癖になってしまった。
いつまたあの黒い靄が現れるのかと思うと、気が気ではない。そして実際に現れてもどうしたらいいのか判らないので、そういう意味でも生きた心地がしない。
寺か神社でお祓いをしてもらったらどうだろう、と考えたが、そのためにはまず司朗を説得しなければならない。不幸が続いたからという理由だけで、学者らしく理屈を重んじる彼を納得させられるとは思えなかった。
それになんとなくだが、お祓いはあまり有効な手段ではないような気がする。なにしろ幽霊自身が「神や仏が助けてくれたら苦労しない」などと罰当たりなことを言うのだから。
その彼らは時々姿を現すものの、「今のところは何もないか」という確認をするだけで、依然として助言は一切してくれない。そんなことを小萩に聞くくらいなら、ずっと司朗についていてくれればいいのではないかと思うが、どういうわけか彼の傍で三人を見かけることはなかった。
「あの……小萩さん、僕の頭がどうかしましたか」
心の中でうんうん唸って考えていたら、司朗に訊ねられてハッとした。
朝食の皿を卓袱台の上に並べながら、気づかないうちに司朗の頭のあたりを凝視していたらしい。
怪訝に思われるはずだ。小萩は赤くなり、「ごめんなさい、なんでもないです」と謝った。
司朗は自分の頭に手をやった。
「そんなに気になりますか、この髪」
「え……」
「これでも一応櫛で梳いてはいるんですが。それだけではなかなか跳ねが直らなくて」
どうやら小萩の視線の理由を誤解したらしく、困ったように言う。
櫛で梳いてこの状態なんだ……とちょっとびっくりしたが、そんなつもりではなかった、と慌てて弁明した。
でも、やっぱりご本人も、気にしてはいたのね……
「お水で濡らしてからお手入れされるといいかもしれませんよ」
「さて……それだけでこの頑固な髪が言うことを聞いてくれるかどうか」
「では後で、髪の毛を服従させるお手伝いさせていただきますね」
笑いながらそう言って、茶碗にご飯をよそった。さあどうぞと司朗の前に置き、いつもどおり、給仕のため傍らで待機する。
司朗は少し考えるような顔で並べられた椀と皿を見て、小萩のほうを振り向いた。
「小萩さん、以前から思っていたんですが」
「はい?」
「小萩さんは、僕と食事をするのが嫌なんでしょうか」
そんなことを確認されて、目を丸くする。
「まさか」と急いでぶんぶん頭を振ると、司朗は少しほっとしたように目元を和ませた。
「ですよね。はじめのうちはそうなのかなと思っていたんですが……だったら、小萩さんもここに座って食事をとりましょう」
「えっ……で、でも」
小萩はうろたえた。
家の主人と同じ卓について食事をするというのは、養家で教え込まれた「決して許されないこと」のうちの一つだ。
たくさんあるその決まりから外れた途端、ぴしりと物差しで叩かれた背中の痛みが思い出される。
「あちらの家ではどうだったか知りませんが、ここでは家の者は同じ時間、同じ場所で食事をします。食事の席でも確固とした上下関係があって、それはそれで苦痛な部分もありましたけどね。小萩さんにはなるべくそのような思いはさせませんから、一緒に食べませんか」
穏やかに諭すような声だった。決して強圧的ではない分、それ以上抗えない。
小萩はおろおろしながら台所に行って、自分の碗と箸を持ってきた。
「小萩さんの分の焼き魚は?」
「あ、あの、わたしはいつも、朝はご飯とお味噌汁だけで」
その返事に司朗はほんのわずか片目を眇めたが、すぐに表情を戻した。
「では、ここにあるのを半分ずつにして食べましょう。夜はちゃんと小萩さんのお菜も、僕と同じものを同じだけ、用意してくださいね」
「は……はい」
ということは、夕飯も司朗とこうして差し向かいで食べるのか。座っているのにふわふわ浮いているような、変な気分になった。
はじめて司朗と共にした食事は、正直言ってほとんど味がしなかった。ご飯を口に運ぶのも、汁を飲むのも、一つ一つが妙に恥ずかしい。
小萩は特に礼儀作法が身についているわけではないので、司朗の前で何か粗相をしやしないかと、ハラハラしどおしだった。
「……このきゅうりの漬物はいい味ですね」
小萩の緊張が伝わったのか、あるいはこの空気が居たたまれなくなったのか、珍しく司朗が口火を切った。
「あ、ありがとうございます。きゅうり、お好きですか」
「緑色のものは、大体好きです」
真顔で返ってきた答えに、つい噴き出してしまった。色で好き嫌いを決めるとは、よほど植物が好きなのだろう。
「では、これからなるべく食卓には緑のお野菜をお出ししますね。ほうれん草とか、小松菜とか、春菊とか……あとは、ええと」
「店で手に入るものばかりではなく、野草の中でも食べられるものは多いですよ。僕は食べられるものはなるべく食べるようにしています」
「野草、ですか」
「有名なところでは、たんぽぽ、ゆきのした、つくし、どくだみ、はこべ、おおばこ、あたりですかね。他には、げんげ、のびる、いたどり、よめな、ぎぼうし……」
司朗の口からはあまり馴染みのない名前までがすらすら出てくる。それをすべて食べたことがあるのか、と小萩は感心した。
「美味しいのですか?」
「この場合、生の息吹を感じる草花を自分の中に取り込むという行為そのものが重要なのであって、味はあまり問題ではないんです」
何を言っているのかよく判らない。
「げんげって、変わった名前ですね」
「あ、レンゲと呼んだほうが判りやすいですね。マメ科ゲンゲ属に分類される植物です。レンゲって、蓮華と書くんですよ。蓮の華は仏の花ですから、直接的な表現を避けるためにげんげと呼ぶようになったという説があります。地域によってウマゴヤシと呼ぶところもあるんですが、これはおそらく家畜の飼料作物として植えられていたところからつけられたものだと──」
こと植物のことになると、司朗は饒舌だった。
いきなり飛び出していったあの時のように目を生き生きさせてつらつらと述べ、不意に我に返ったように言葉を切る。
「……いや、すみません。つい調子に乗って退屈な話を」
きまり悪そうな顔で謝られて、小萩はきょとんと目を瞬いた。
「なぜですか? とても面白かったですけど。わたしはあまり学がなくて、難しいお勉強は理解できませんが、司朗さんのお話は判りやすくて楽しいので、もっと聞かせてほしいです」
専門で学んでいる人に対して「楽しい」は失礼かなと思ったが、素直に思ったままを言葉にすると、司朗は少し驚くような顔をした。
「そうですか……身内はみんな、僕が植物に夢中になるのを嫌がっていたもので。野草を食べるのも『そんな卑しい真似を』と渋い顔をされましてね。……面白いと思ってもらえたなら、嬉しいです」
そう言って、口元を柔らかく緩めた。
──あ、笑った。
今までも時々苦笑じみたものは浮かべていたが、こんな微笑みははじめて見る。
無表情だと生真面目でとっつきにくそうな司朗の堅い雰囲気が、そうやって表情を崩すと、ふわりと優しいものになった。
小萩は思わず片手で左胸を押さえた。こうしていないと大暴れする心臓が転がり出てきそうだ。
「えっと……あの、わ、わたしも嬉しかったですよ。司朗さんが、かぼちゃの煮物を美味しいって言ってくださった時」
あたふたと場を取り繕うように返した小萩に、司朗は「そうですか?」と目を瞬いた。
少し考えてから、おもむろに味噌汁を一口啜り、コトンと椀を置いて、厳かに告げる。
「……この大根の味噌汁も、大変美味しいです」
その後、魚を食べては「美味しいです」、ご飯を食べては「美味しいです」と律義に言う司朗に、たまらなくなって小萩は顔を伏せた。
十も年上の人にこんなことを思ってはいけないと判っている。判っているが、だがしかし、思ってしまうのはどうしようもない。
司朗さんって、可愛い……!
***
司朗を送り出し、午前中の家事を一通り終えてから、小萩は縁側に腰を下ろした。
朝の出来事、特に司朗の笑った顔をしみじみと反芻し、ほうっと息をつく。
心なしか、ここから見える庭木の緑も小萩と一緒に喜んでくれているようで、我ながら現金だなと笑ってしまった。これまでは、立派な眺めに尻込みしてしまう気持ちのほうが勝っていたのに。
「しまらない顔しちゃって。まったくあの風采のあがらない植物バカの、どこがいいのかしら」
つんけんした声が聞こえたと思ったら、すぐ横で美音子が腰に両手を当ててこちらを見下ろしていた。
「きゃっ」と驚いて飛び上がった拍子に、縁側から落ちそうになる。
「み……美音子さま。いきなり近くに出てくるのはやめていただけませんか」
「しょうがないじゃないの、足音を立てられないんだから。私の気配を感じ取れないあんたが悪いのよ」
相変わらず理不尽な責任転嫁をして、美音子はふんとそっぽを向いた。
その赤い振袖の裾からちゃんと足は見えているものの、床につくわけではなく少しだけ宙に浮いている。
そして、影がない。
「他のお二人はいかがされましたか」
「知らないわ。私たち、いつも一緒にいるわけじゃないもの。それにこうして姿を見せるのって、疲れるのよ」
「疲れる……」
だから司朗を見守り続けることが難しいのだろうか、と小萩は考えた。
「では、消えている間はどうされているのですか?」
「さあね」
余所に顔を向けたまま投げやりに答えられたが、それは不機嫌だからというよりも、本当にそれ以外言いようがないから、ということらしかった。
「自分でも、よく判らないわ。眠りについているような感じよ。最初のうちは意識がハッキリしていたけど、時間の経過とともにどんどん曖昧になってきて……気づいたらいつの間にか、こんなにも経ってしまっていた」
どこか遠くに視線をやりながら半分以上独り言のように呟かれた言葉に、小萩は首を傾げた。
まるでずっと前からいたような言い方だが、彼らは数年前の先代たちの死で危機感を覚え、あの世から戻ってきたのではないだろうか。
「あの……」
疑問を口にしようとしたら、美音子がくるっと勢いよくこちらを向いた。
「そんなことはどうでもいいのよ! あんたよ、あんた!」
「は? わたし?」
「そうよ! 前からずっと言いたかったのよ! あんたね、仮にもこの南条家に嫁入りしたんだから、もうちょっとまともな恰好したらどうなの?! その地味で貧乏くさい着物、あの司朗と並ぶとまるで書生と女中よ、みっともない!」
「書生だなんて……司朗さんはご立派な学者さんで、大学の先生です」
「なに言ってんの、たかが冴えない非常勤講師じゃないの。それに私だけじゃないわよ、新は『ボーッとした顔が眠り猫そっくり』って言ってたし、ロクでさえ『いっつもふわふわしていてクラゲみたい』って言ってたわ」
なぜ揃いも揃ってそんな散々なものに喩えるのか。
司朗はボーッとしているのでも、ふわふわしているのでもない、いつもおっとりして泰然と構えているのだ。
「あれが今の南条当主だなんて嘆かわしい。私のお父さまはもっと風格のある名士でいらっしゃったわよ。何度も洋行されていて、お帰りの際には、いつもたくさんのお土産をくださったわ。外国の可愛らしい人形とか、素晴らしい挿絵の入った本とか、精巧な造りのオルゴールとかね」
「わあ」
誇らしげな美音子の自慢話に、小萩は目を輝かせた。
外国の人形に本にオルゴールなんて、小萩にとっては遠い世界の話である。想像するだけでわくわくしてくる。
その反応に気を良くしたようで、美音子はさらに胸を張り、ふふんと笑った。
「お父さまの好みで、我が家では食事も洋風のものが多かったのよ。ビフテキとか、パンケーキとかね。あんたパンケーキって知ってる? 食べたことないでしょう。とってもふわふわして甘くって、そりゃあもう絶品なんだから!」
「パンケーキ……」
名前からして美味しそうだ。美音子の口から出てくるのは、かつてのこの国のことのはずなのに、キラキラした異国の話のように聞こえた。
「ドレスも作っていただいたわ。夜会にご招待された時に着るの。贅沢な白綸子のバッスルドレスでね」
「バッスルとはなんですか?」
「腰から下のお尻部分が大きく膨らんだドレスよ。裾は床を引きずるくらい長く、ふんだんに布が使われて、たくさんついたフリルが素敵なの。鹿鳴館で踊る女性たちは、みんなそういうドレスを着るわ」
「外国のお姫さまみたいですねえ」
「そうでしょう? それに家ではいつでも振袖よ。だって働く必要がないんですもの。私のこの着物はいちばんのお気に入りで、かの──」
そこで唐突に、美音子は言葉を切った。
それまで嬉々として華やかな生活について話していたのに、急にその顔からぽっかりと感情が消失した。
美しい少女であるだけに、能面のような顔になると、それこそ彼女のほうがよくできた人形のよう見える。
いきなり動きを止めて黙り込んだ美音子に、小萩は戸惑った。
「美音子さま、どうされました?」
心配になって声をかけると、美音子はハッとしてまた尊大さを取り戻し、眉を吊り上げた。
「……別になんでもないわよ! だからその、私が言いたいのは、もっと南条家の人間らしくしなさいってことよ! いいわね?!」
一方的に話を切り上げると、美音子は姿を消してしまった。