呪われた家
本当はずっと、寂しかった。
自分でも気づかなかったそのことに、司朗のほうが気づいてくれた。
珍しい植物が見つかったと聞けば我を忘れて飛び出してしまう司朗は、実際、植物以外のことにはあまり関心がないのだろう。
南条家の存続にも、人の目や外聞にも。
……でも、他人の心を慮り、思いやり、労わることはできる人だ。
ようやく、司朗の本質の一端に触れた気がする。
壁がなくなったとは言わないが、小さな風穴は開いた。指が通る程度の小さな穴かもしれないが、そこから吹いてくる風は心地いいものだった。
──だったら自分のほうでも、穴を広げる努力をするべきだ。
小萩は正面から司朗と向き合い、ぴんと背中を伸ばした。
「お話は判りました。では司朗さん、わたしの事情も聞いていただけますか」
前置きをして口を開き、両親を亡くした幼い頃より誰からも顧みられることのなかった境遇と、養家での自分の立ち位置を、正直に告げた。
元の家に返されたところで、養い親は決して小萩を受け入れることはない。折檻されて叩き出されるのがオチだろう。
そう言うと、司朗は目を丸くした。
「それと……わたしのほうでも、帰りたくない理由があります。あちらには二人の息子さんがおられるのですが、わたしが十五を過ぎたあたりから、弟さんのほうの目が……ちょっとその、怪しくなってきたと言いますか……」
この結婚話がもちあがった時、養い親たちが舞い上がる傍らで、その弟だけが最後まで大反対していた。
俺が嫁を取って家を出たら小萩も一緒に来ればいい、などと言っていたことから推し量るに、どうも小萩を「タダ働きする女中および自分の妾」にでもするつもりだったようだ。
彼だけは小萩が出戻っても喜んで迎えてくれるかもしれないが、ぜんぜん嬉しくない。
「ですから、この家に置いていただかないと困るんです。いえ、この家に置かせてもらうしかないんです」
小萩の話に、司朗は絶句していた。
養い親からは「本当の娘だと思って大事に育てた」としか聞かされていなかったらしく、今になって知った事実に驚愕している。
いや、それを言うなら小萩も同じだ。司朗が家族から放置されていたことなんて知らなかった。てっきり裕福な家で周りに愛され、何不自由なく育ってきたとばかり。
自分たちは、あまりにも互いのことを知らなすぎる。
司朗も小萩と似たようなことを考えているようで、もぞりと小さく身動きすると、難しい顔つきで口を曲げた。
「……では、小萩さんをあちらにお返しするわけにはいきませんね。でも、本当にいいんですか? 立て続けに不幸があったせいで、ここは『呪われた家』なんて言われています。小萩さんも、ここに来てからずっと怯えていたでしょう?」
「え……」
小萩は言葉に詰まった。
どちらかといえば怯えていたのは、「この家」より、「ここから出される」ということのほうだったのだが、理由はどうあれ最初からビクビクしながら過ごしていたのは本当だ。
それを悟られていたことに、今さらながら申し訳ない気持ちになった。
いつもおどおどと身を縮め、夫となった自分を不安そうに窺う小萩を見て、司朗は何を思っただろう。
──もしかして、彼は彼で、小萩をこれ以上怖がらせないように、と考えていたのではないか。
「す、すみま……」
「いえ、いいんです。五人も死者が出たのは事実ですから、気味が悪い、怖いと思うのも無理はありません。病気と事故が続いたのは偶然でも、人はそこに誤解や誇張を混ぜて面白おかしく騒ぎ立てるものですし──だからこそ、ここにいたら、小萩さん自身も奇異な目で見られることになるかもしれませんよ」
「あ、はあ……」
曖昧に頷く。
この言い方、司朗はどうやら、この屋敷が実際おかしいことについては知らないか、気づいていないらしい。
ここで「でも幽霊はいますよ」なんて言ったら、どんな顔をされるだろう。
へどもどする小萩をどう思ったのか、司朗が、ああ、と苦笑した。
「いや、こんな風に性急に事を運ぼうとするのが悪いんですね。今すぐに結論を出さなくても、これからのことはじっくりと考えていけばいいでしょう」
そう言われ、小萩はほっとして頷いた。
そうだ、自分たちにはまだ「これから」があるのだから──
「あの、わたし、お茶を淹れますね」
ようやく少し気持ちが落ち着いて、その場から立ち上がった。司朗は旅から帰ったばかりで、そういえば自分も喉がカラカラだ。
縁側から居間へと入り、台所に向かって足を動かす。
お茶を淹れるついでに、何か軽く作ろうか。今から簡単に用意できるものというと何がいいだろう。
そんなことを考えていたら、背後で小さな呻き声が聞こえた。
後ろを振り返ると、司朗の身体が前のめりに傾いでいる。
「司朗さん?!」
小萩の口から悲鳴のような声が出た。ぱっと反転し、彼のもとへ駆け寄る。
「──っ、急に、頭が……」
身を折った司朗は、苦しげに言葉を絞り出し、側頭部を手で押さえた。
つい今しがたまで何ともなかったのに、その顔からはどっと汗が噴き出している。目を強く閉じ、食いしばった歯の間から唸り声が漏れた。
「司朗さん、頭が痛むんですか?! しっかり、しっかりしてください、すぐにお医者さまを呼んできますから!」
突然のことにパニック状態になりながら、小萩は司朗の身体を支えて叫んだ。心臓が暴れすぎて、冷静にものが考えられない。医者──病院──ああどうしよう、どこにあったっけ? とにかく外に出て助けを求めなければ。
しかしそこで、ぎくりと全身が強張った。
苦痛に耐えている司朗……のすぐ近くに、黒い靄が漂っている。
──なに、これ。
気のせいなどではない、小萩の目にははっきりと見える。
足元から震えが上った。
何かは判らないが、その黒い靄は間違いなく「よくないモノ」だった。司朗にねっとりとまとわりつくようにしているのが、たまらなくおぞましく、不吉に思える。
それを見た瞬間から、小萩は身が竦んで動けなくなった。触れてはいけない、近寄ってはいけないと、本能ががんがんと警鐘を鳴らしているようだった。
早く司朗とともにここから離れなければと思うのに、足が自分のものではなくなったかのように言うことを聞いてくれない。
だがしばらくして、その靄は徐々に端のほうからふうっと薄れ始めた。
消えるというより、闇の中に同化して隠れるような、そんな感じだった。
完全にそれがなくなるまで、小萩は目を凝らして見つめ続けていた。
肩で息をして、震えは止まらず、頭は熱いのに身体のほうは冷えている。小萩もまたびっしょりと汗をかいていた。
はっとして、すぐに司朗の顔を覗き込む。
彼の手を両手で包み「司朗さん」と呼びかけると、長い息を吐き出した司朗の身体が、ゆっくりと横向きに倒れた。
「司朗さん!」
ひやりとしたが、縁側に横になった司朗はすうすうと穏やかな寝息を立てている。
どっと力が抜けて、その場にへたり込んだ。
その途端、
「とうとう司朗にも来たなあ」
「だからそう言ったじゃないの」
「むしろ今までなんの影響も受けなかったのが不思議なくらいだ」
三人分の声が間近で聞こえて、小萩は飛び上がった。
声だけではなく、いつの間にかすぐ近くに人の姿があることに気づいて、ひっと息を呑む。
蒼白になり、座ったまま後ずさったが、彼らはまったく頓着していなかった。
童水干の男の子、赤い振袖を身につけた長い髪の若い女性、そして軍服姿の青年。
幽霊が三人も、いっぺんに!
「き……」
「まあ落ち着け」
思わず悲鳴を上げようとしたら、軍服の青年に悠然とした態度で片手を上げられて、小萩はますます度を失った。この状況下で、何をどう落ち着けばいいのだ。
「言っただろ、この鈍感な朴念仁にはガツンとはっきり言わないと、って。俺の助言を受けて上手くいったんだから、感謝くらいしてもいいと思うがね」
なぜか恩着せがましいことを言われた。
「大体いつまでもウジウジしてばっかりのあんたもいけないのよ。不満があるならさっさと夜這いでもかければよかったじゃない」
とんでもないことも言われた。
「二人ともいい加減にしろよ。小萩に返事くらいさせてやれ」
男の子がいちばんまともなことを言ったが、幽霊に名前を呼ばれて、返事なんてできるはずがない。パクパクと口を開閉させるのが精一杯である。
「いいか小萩、よく聞け」
軍服の青年が真面目な顔をぐっと寄せてきた。泡を吹いて司朗と一緒に倒れられたら、どんなに楽だろう。
「司朗のさっきの頭痛は霊障によるものだ。この本家には悪い霊が棲みついていて、ああして南条の人間によくない影響を与えているんだ。このまま放っておけば、間違いなく司朗も命を縮めるぞ。俺たちはそいつをどうにかするため、ここにいる。あいつを早死にさせたくなければ、おまえも手を貸せ。俺の言ってること、判るだろ?」
判っていない。小萩はまだ何も理解していない。どうして当然のように話を進めているのだ。
「以前おれに食い物を分けてくれようとしたよな? おれたちの姿が見えて、言葉も交わせる人間は、小萩がはじめてなんだ。なあ、おれたちに協力してくれよ」
ああ、やっぱり幽霊に話しかけたりするのではなかった。
「反論は許さないわよ。司朗が死んだらあんたなんて、即刻この家から追い出されるだけなんだから。それは困るんでしょ」
もちろん困るが、それとこれとは別ではないか。
小萩は今にも離れていきそうな意識を必死で引き戻して、震えながらおそるおそる口を開いた。
かろうじて理性を残しておけたのは、幽霊とはいえ、この三人にはさっきの黒い靄のような不気味なものを一切感じなかったからかもしれない。
「よ、よく判らないんですが、この家には悪い霊がいて」
「そうだよ」
「また司朗さんを苦しめるかもしれなくて」
「そうね」
「……で、わたしにそれをどうにかする手伝いをしろと」
「そのとおり」
「無理です!」
悲鳴を上げたら、「うるさいわね、無理でもなんでもやるのよ! やりなさい!」と振袖の女性に凄まれて命令された。理不尽だ。
「だ、だって、わたしにはなんの力もないのに! わたしは本当に、『見える』だけなんです!」
「だから、その『見える』というのが重要なんだよ」
軍服の青年に、即座に切り返された。
「司朗には俺たちが見えないし、いくら忠告しても聞こえない。このままだと唯々諾々と悪い霊の餌食になるだけだろう。それで南条家もおしまいだ。小萩、あいつとこの家を救えるのは、おまえだけなんだぞ」
真剣な口調で言われて、小萩は「そんな……」と弱り果てた。
自分には無理だという当惑と、司朗がまたあんな目に遭うのかもしれないという不安で、ぐらぐらと心が揺れる。
霊を見ることができるのが小萩だけなら、確かにそれを阻止できるのも小萩だけということになるが……
口を結び、昏々と眠り続ける司朗のほうに視線を移した。
──南条家の存続には興味がない、自分の代で終わらせてもいい、と言っていた司朗。
もしも彼がこのことを知ったらどうするだろう。この三人のように、小萩になんとかしろと迫ってくるとは思えない。
むしろさっさと小萩をこの家から出して、自分はあっさりと死んでしまいかねない。
司朗は他人を思いやることはできるのに、自分自身のことは蔑ろにしているような気がしてならなかった。それが彼の過去に所以しているのだとしたら、とても哀しいことに思える。
四男だから、上に三人も兄がいるからと、いてもいなくても家族から気にされず、草花を友として育ち──そして最後には一人ぼっちで霊に取り殺されるなんて、そんな人生の終え方をしていいはずがない。
初夜もまだ迎えていないが、それでも小萩は司朗の妻なのだ。
「……わたしに、何か、できることがあるのなら」
小萩は拳を握ると、三人に向き直り、心を決めてそう言った。