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孤独



 まんじりともせず一夜を明かしたが、司朗は帰ってこなかった。


 寝所は別とはいえ、司朗がこれまで外泊することはなかったので、小萩が一人きりで夜を過ごすのはこれがはじめてだ。

 この時ほど、南条屋敷の広さを恨めしく思ったことはない。

 しんとした静寂が、圧迫感を伴って小さな身体を押し潰そうとしてくるようだった。明かりを点けても、闇に取り囲まれている気がする。

 時間が経つごとに胸の中の不安が増大して、息をするだけで苦しくなっていった。


 司朗はいつ帰るのだろう。……本当に帰ってくるのだろうか?


 今こうしている間にも、司朗がどこで何をしているか判らない。もしも彼の身に何かあったら小萩はどうすればいいのか。いやそもそも、何かがあったとして、自分にそれを知るすべはあるのだろうか。

 空が白み始めた頃になって、大学に訊ねてみれば何か判るのではないかと思いつき、ぱっと目の前が明るくなったような気がしたが、その訊ね方が判らないことに気づいて余計に落胆した。

 まだ普及の進んでいない電話が南条家にはあるが、小萩は大学の連絡先を知らない。司朗に聞いておけばよかったと悔やんだが、後の祭りだ。

 こんな時頼れるような相手が、小萩には誰もいない。近所にまだ知り合いはなく、幼い頃から働きづめだったから友人もいなかった。養い親や親戚らは論外だ。


 小萩は一人で途方に暮れるしかない。


 ただ正座して待っていることしかできない自分が歯がゆくてたまらなかった。

 養家で言われ続けた「役立たず」という言葉が頭の中で何度も響く。実際、どれだけ不安で心細くても、小萩にできることは何もないのだった。


 そして、なによりも心を抉ってくるのは、司朗にとって小萩の存在が、これほど軽く、ちっぽけなものであったのを痛感したことだ。


 行く先も告げず、「出かけてくる」の一言だけで、ぽいっと捨て置いても構わない相手。

 嫌われてはいないようだと安心したが、あれは間違いだった。


 嫌いも好きもない。

 司朗にとって、小萩は「どうでもいい」人間でしかなかったのだ。


 奥歯を食いしばりながら、腿に置いた手で着物をぐっと握りしめる。

 朝を迎え、昼を過ぎても、小萩は玄関先で座り込んだままじっとしていた。とてもではないが、何かをする気にはなれない。

 もしも司朗がずっと戻らなかったら……もしも怪我でもしたら……もしも他に好ましい女性を見つけてそちらに行ってしまったら……もしも、もしも……

 ぐるぐると同じようなことばかり考えているうちに、だんだん意識が朦朧としてきた。そういえば昨夜から飲まず食わずだったと思い出したが、思考がそこから進まない。

 一睡もしていないせいもあり、頭にぼんやりと霞がかかっているようだ。

 勝手に瞼が下りていく。

 だんだん暗くなってきた視界の中で、


 ──ありゃあダメだなあ。


 という、誰かの声が聞こえた。

 姿は見えないが、幼い子ども独特の、少し甲高い声だった。


 ──まったく情けないったらありゃしない。


 今度は若い女性の声だ。憤然とした口調は少し高圧的である。


 ──イヤになるねえ。さすがにあのバカには愛想が尽きそうだよ。


 聞き覚えのある男性の声は張りがあって、呆れるような言葉とは裏腹に、ちょっと笑い含みだった。

 きっちりした軍服姿が思い出されるが、彼はあまり厳格な性格ではないらしい。


 そこまで言わなくたって……と遠のいていく意識の中で小萩はいじけた。

 どうせわたしはダメで、情けなくて、バカな小娘ですよ。でも、そんなに悪しざまに罵らなくたっていいじゃない。


 ──あら、とうとう気絶しちゃったわ、この子。


 その声が聞こえたのを最後に、何もかもが暗闇に沈んだ。



          ***



「小萩さん、小萩さん」


 自分の名を呼ぶ声で目を開けると、そこはまだ闇の中だった。

 ぼうっとしたまま何度か目をしばたたく。

 自分が今どこにいるのか思い出せない。眠っているのか起きているのかもはっきりしない。

 肩に手が置かれ揺すられる感触で、ようやくすぐ前に誰かがいることに気づいた。

 暗がりに埋没していた輪郭が、徐々に浮かび上がってくる。

 引き締まった顔、寄せられた眉の下にあるのは丸眼鏡。そしてボサボサの頭……


「!」


 小萩がばね仕掛けのように飛び起きたので、司朗は驚いて肩に置いていた手を引っ込めた。


「司朗さんっ!」

「は、はい」


 大声を出されて掴みかかられても、司朗は怒りも逃げもしなかった。が、相当戸惑ってはいるようだ。

 眼鏡の向こうの目が困ったように瞬いているのを見て、ようやく小萩もしっかりと目が覚めた。

 周りは夕闇に包まれて、自分が結構な長時間、気を失っていたことを知る。いやこの場合、眠り込んでいたと言ったほうが正しいか。

 帰ってきた司朗は、明かりも点けずに玄関先で倒れていた小萩を見て、さぞ仰天したことだろう。


「も……戻られたん、ですか」


 口から出る声は、自分のものとは思えないくらいに低く掠れていた。

 小萩が倒れていたわけではない──少なくとも医者を呼ぶような状態ではないということが判ったためか、司朗は幾分かほっとしたような表情になった。


「はい、ただいま帰りました。すみません、バタバタと出発しまして」

「…………」

「実はある山で非常に珍しい植物が見つかったと聞いて、矢も楯もたまらず向かってしまったんです。僕はどうもこういうことになると堪え性がなくて……前後の見境がなくなる、といいますか。もっとちゃんと話してから家を出るべきだったと、列車に乗ってから気づいたんですけど」

「…………」

「家族は僕のこういうところに慣れていたんですが、小萩さんは驚きましたよね。まことに面目な……小萩さん?」

「……う」

「はい?」

「うわああああん!!」


 少々バツが悪そうに頭を掻いて説明していた司朗は、身じろぎもせずに黙り込んでいた小萩がいきなり爆発したように泣き出したことに、心底ぎょっとしたようだった。


「えっ……あの、こ、小萩さん? やっぱりどこか痛むんですか?」

「違います!」

「じゃあ、その、どうしました?」

「どうしたって!」


 オロオロと顔を覗き込んでくる司朗がたまらなく腹立たしくなって、きっと睨みつける。どうした? どうしたって? 何を言っているのだこの人は。


 今まで少しずつ膨らんで嵩を増していることに気づかないふりをして、強引にお腹の下のほうに押し込んでいたものが、この時、威勢よく弾けた。

 制御が外れて一気に外に飛び出す。


「わっ、わたしが、どれだけ心配したと思っているんですか! あんな風に飛び出して連絡もしてこないで、なのに平然と戻ってきて! この広いお屋敷でずっと一人で待っていたんですよ! 司朗さんの身に何かあったらどうしようって、戻ってこなかったらどうしようって、何度考えたか判りますか?! 不安で、怖くて、心細くて、ずっとずうっと、寂しかった! ほんとにほんとに、心配したんですからあ!」


 言葉が溢れ出てきて止まらない。わあわあ泣きながら、怒涛のように叫び続けた。

 この時ばかりは司朗がどんな反応をするかなんてことも意識にのぼらず、ただもう、胸につかえたものを吐き出すことでいっぱいいっぱいだった。

 最初は呆気にとられて大泣きする小萩を見つめるだけだった司朗は、そのうちだんだんと神妙な表情になっていった。

 唇が一直線に結ばれ、大きく見開かれていた目が痛ましいものを見る目に変わる。

 小萩からぶつけられる言葉を、一つ一つ噛みしめるようにして受け止めていた。


「……小萩さん、こちらに」


 一通り思いの丈をぶちまけて口を噤んだが、それでもまだ泣くのは収まらない。ひっくひっくとしゃくり上げて頬を拭う小萩の小さな手を、司朗がそっと触れるように取り、そのまま促すように廊下を歩き出した。

 昨日司朗が飛び込んできた居間を通り、縁側に出る。部屋の明かりに照らされたその場所に小萩を横向きに座らせて、司朗が向かいに腰を下ろした。


 その時になって、小萩の頭はようやく冷えた。


 ぐすっと鼻を啜ると、着物の袖先でぐいぐい涙を拭う。

 そして自分の放った言葉の数々を思い出し、さあっと顔から血の気が引いた。

 幼子のように泣き喚き、あまつさえ司朗に対して怒鳴りつけるなんて。

 小萩は慌てて姿勢を正し、床に手をついて「申し訳ありませんでした」と謝罪しようとしたのだが、その前に司朗に深々と頭を下げられてしまった。


「……すみませんでした、小萩さん」


 真面目な声音で謝られ、小萩は大いに焦った。

 司朗はきっちりと膝の上に両手を置き、床にくっつくほど頭を低くしている。祝言の前、自分が司朗に挨拶した姿とそっくりだ。


「し、司朗さん、よしてください。ごめんなさい、責めるようなことを言ってしまって。あの、司朗さんが無事にお戻りになったことに安心して──」

「いえ、小萩さんが怒るのは当然です。僕があまりにも軽率でした」


 やっと司朗は顔を上げたが、その顔はいつものような無表情に近いものではなかった。

 眉が垂れ下がり、口許も両端が下がっている。心なしか、あちこち跳ねている髪まで、しゅうんと萎れているように見えた。


「……僕は余りものの四男坊として、ずっと長いこと家族から放置されて育ったものですから、いつの間にかそれが普通だと思い込んでいたようです。思い立ったらすぐに植物採取に出かけることもよくあって、僕がいようがいなかろうが周りも特に気にしなかったので、そういうものだろうと。でも、僕にとっては『当たり前』でも、小萩さんにはちっともそうではないですよね。そんなことを考えようともせず、以前と同じように行動した僕が間違っていました。本当に、すみませんでした」


 そう言って、もう一度頭を下げる。

「美味しかった」と言ってくれた時と同様、そのまっすぐな言葉と態度には、嘘も皮肉もなかった。


「……司朗さん」

「今回だけでなく、今までのことも含めて謝罪します。その……実は」


 司朗はそこで少し口ごもり、言い淀んだ。


「実は、小萩さんにはいずれ、この家を出ていってもらうつもりだったんです」

「えっ?!」


 続けられた内容に、しんみりした空気が吹っ飛んだ。素っ頓狂な声を上げ、口を大きく開ける。心臓をいきなり一突きされたような衝撃で、身体が固まった。


「し、司朗さん、そんなにわたしのことが、お嫌いで」

「いや、違います違います、落ち着いて」


 小萩が真っ青になってぶるぶる震え出したので、司朗は狼狽したように勢いよく手を振った。

 こほん、と空咳をする。


「そうではなく、まだ十八歳の小萩さんを、この家に縛りつける必要はないだろうと思ったからです。こんな、まるで人身御供のようなやり方で……昔はどうあれ、今はすっかり落ちぶれて、しかも変ないわくつきの旧家なんて、そうまでして守るようなものではない。僕は家の存続というものに大して興味がありませんし、自分の代で終わらせても構わないと思っています。こんなところに無理やり嫁がされた小萩さんには気の毒でしたが、なるべく早いうちに、できる限り綺麗な状態を保ったまま元の場所に返せればと──」


 なんだか一度買った商品を返品するような表現だが、大真面目な上にこれっぽっちも悪気がないのは司朗の顔を見れば判ったので、その部分は気にしないことにした。

 小萩よりも十歳年上で、学者さんで、落ち着いた大人だと思っていた司朗は、どうも少々不器用なところがあるらしい。

 そして同時に納得もした。

 それで司朗は祝言から今まで、小萩と積極的に関わろうとはせず、手を出すこともなかったのだ。


「しかしそれは、小萩さんの意思も気持ちも、まったく汲むことのない、浅はかで身勝手な考えでした。人を植物と同じように扱って、心を傷つける、無神経な行動でした。昨日と今日だけでなく、小萩さんはここに来てからずっと、不安で、怖くて、心細くて、寂しい思いをしてきたんですよね」


 思わぬところでさっき叫んだ自分の言葉が返ってきて、小萩は赤くなった。感情的に口から出てしまったものなので、正直、何を言ったのか全部は思い出せない。

 でもたぶん、だからこそ、あれが小萩の心の底からの本音だった。


 本当はずっと、寂しかった──





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