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 八月が過ぎ、九月に入った。

 蒸し暑さがだいぶ薄れ、日中でも少し涼しい風が吹き通って、一息つける時期だ。

 にもかかわらず、小萩は落ち着かない毎日を過ごしていた。

 一つめの理由は、この屋敷のおかしさに気づいてしまったことにある。


 ……ここには、間違いなく「何か」がいる。


 先日の男の子はあれから見かけないが、その代わり、角をするりと曲がっていく豪華な赤い振袖の端を目にしたり、どこかから人の話し声がこそこそと聞こえたりすることが何度かあった。

 なるべく耳に入れないようにしているので内容は判らないが、声の主はどうやら複数で、それも若い男女らしい。

 いくらこれまでに何度も幽霊を見てきたとはいえ、だからって平気なわけではないのである。一つ屋根の下に人ならぬモノが棲みついていると判れば、やっぱり怖い。霊の中には人に害をもたらすのもいると知っているから、なおさらだ。

 こんな時、どうしたって例の噂が思い出されてしまう。


 ──南条本家は呪われている。


 それが本当なのか、屋敷内に潜む何者かが先代当主たちの死に関係しているのかは、判らない。今のところ、小萩の身に何かが起きる様子もない。

 だが、もしかして、とヒヤリとしたものが背筋を駆け上るのは止められなかった。

 祝言に来ていた親戚たちが、「こいつもすぐに死ぬんじゃないか」という、恐れ半分、好奇心半分で、自分を見ていたことは承知している。

 五人もの人が次々に亡くなったというのも紛れのない事実だ。

 普段はなるべく意識しないようにしていても、昼間なのに部屋の中が妙に暗く思えたり、一人の時になんとなく視線を感じたりすることが続けば、ちょっとした物音にもビクッとするようになってしまった。


 そしてもう一つの理由は、司朗との距離がまったく縮んでいない、ということだ。


 半月経っても、司朗の態度は相変わらず一線を引いている。

 小萩が話しかければ返事はしてくれるものの、あちらから歩み寄ってくることは皆無だった。

 養家でのように文句を言われることも、叱られることもないが、そもそも必要最低限の言葉以外あまり聞いたことがない。

 食事中はいつも息苦しいくらいに沈黙が続いているが、よほど無口な性格なのか、それとも小萩と雑談はしたくないという意志表示なのか、司朗のほとんど変わらない表情からでは判別がつけられなかった。


 小萩の困惑と焦燥は深まる一方である。


 司朗は大学に行かない日は自室にこもっていることが多く、顔を合わせる機会もそう多くはない。どうやら論文を書いているらしく、夜遅くまで襖の隙間から明かりが漏れていることもある。

 そういう時は食事にも出てこないので、お握りとお茶を部屋の前に置き、控えめに声だけをかけることにしていた。


 ──もしかして司朗さんは、わたしのことを新しく入った女中だと思っているのかもしれない。


 それならこの素っ気なさも理解できる、と頷いてから、どんよりと落ち込んだ。

 実際、籍は入っているものの、司朗とは今も別々に寝て他人同士のままなのだから、女中というのもあながち間違いではないのだ。

 未だ妻ではない。かといってずっと女中でいるわけにもいかない。しかし出しゃばって司朗を怒らせたくはない。

 小萩の立場は非常に不安定なまま、宙に浮いている。

 幽霊に怯え、ここから追い出されることを恐れ、このままでは早晩ノイローゼになりそうだ。

 耐えかねた小萩はある日、思いきって司朗に訊ねてみることにした。


「わたしの作るものは、お口に合いませんでしょうか」


 夕飯を食べ終わったところを見計らい、嫌味に聞こえないよう気をつけて、おずおずと口を開く。

 今まで黙って給仕をし、黙って食器を片付けるだけだった小萩が声を発したためか、司朗は少し驚いたようにこちらを振り向いた。

 小萩の顔を見てから、卓袱台の上の空になった皿を見る。それから着物の合わせから覗く鎖骨をこりこりと指先で掻いた。司朗は家の中では大体和服姿である。


「……大変、美味しかったです」


 予想外に直球の返事が来て、小萩のほうが面食らった。せいぜい「いや」とか「うん」とか、その程度だと思っていたのだが。

 司朗の顔つきと声の調子はいつもと同じで、そこには嘘も皮肉も感じられなかった。


「え……っと、で、では、味付けに、ご不満はありませんか。あの、甘すぎるとか、薄味はお好みでないとか」

「そんなことはないです。このかぼちゃの煮物も」


 何もなくなった小鉢を指す。


「ちょうどいい甘さでした。僕はあまり好き嫌いがないんですが、正直、かぼちゃはどちらかというと苦手で。でもこれは、とても美味しいと思いました。小萩さんが作ってくれるものは、なんというか、丁寧で誠実な味がして、僕の舌によく合います」


 考えながら言葉を選ぶようにして、司朗は真面目な顔でそう言った。

 あまりにも率直に褒めてくれるので、小萩のほうが取りのぼせてしまう。

 いろいろ不満があるのではないかと心配で、なんとか聞き出せたらと思っていたのだが、まさかこんなことを言ってもらえるとは思ってもいなかった。


「あ……は、はい、そうですか。それは、よかったです……ではあの、こ、今後も精進いたします、ね……」


 上気した顔で、混乱しきったまま口を動かした。自分が作ったものを誰かに褒められたのははじめてで、平常心が保てない。

 慌てて司朗から目を逸らし、震える手で急須から茶を注いだ湯呑みを置いた。


「ど、どうぞ」

「ありがとう」


 お茶を淹れるという「当たり前」のことをしただけで誰かに礼を言われたのも、これがはじめてだ。

 ……そうか、最初からちゃんと聞けばよかったんだ。

 何か余計なことを言ったら、司朗の機嫌を損ねるか、怒られると思っていた。

 小萩はいつも、後ろに下がって空気くらい控えめにしているよう求められていたので、そこから一歩だけ前に出ても許されることがあると知らなかった。

 司朗は養い親たちとは違う。少なくとも、小萩を「人」として扱ってくれている。


 この家に来てから、ようやく身体の強張りが解けたような気がした。



          ***



 それから数日後。

 小萩は縁側に腰掛けて、薄く夕焼けに染まり始めた空を眺めながら、着物の裾から出た裸足を軽くぷらぷらと揺らしていた。

 夕飯の下ごしらえはもう済ませてあるから、司朗が帰ってくるまで休憩がてら少し風に当たることにしたのだが、存外気持ちがいいものだなと思う。

 養家にいた時は次から次へと仕事に追われて、息をつく暇もなかった。


「司朗さん、まだかな……」


 ぽそっと独り言を漏らす。

 無意識に手が頭に伸びて、後ろでお団子に纏めてある髪を軽く整えた。

 今夜のお菜は焼き鮭となすのしぎ焼き、きゅうりの酢の物だが、司朗は好きだろうか。好き嫌いはあまりないと言っていたし、たくさん食べてくれるといいのだが。

 先日は少々……かなり動揺してしまい、思い返すと恥ずかしい。

 よく考えたら司朗は「かぼちゃが美味しかった」ということしか言っていないのに、あんなにも浮かれてしまって、子どもっぽいと呆れられたのではないだろうか。司朗は大学の先生なのだから、もっとしっかり受け答えしなければ。


 でもあの一件で、気持ちはずいぶん楽になった。


 とりあえず、司朗に嫌われているわけではないらしい、と思えるようになったからである。

 小萩の立ち位置は未だ半端なままだが、初対面の人間同士が夫婦になったのだから、そんなにすぐ上手くいくわけがないのは当然だったかもしれない。

 今までの小萩はよほど思い詰めた悲愴な顔つきをしていたことだろう。それでは司朗だって対応に迷うというものだ。


 あれから司朗のほうも心境の変化があったのか、お茶を淹れると必ず「ありがとう」と言うようになった。


 小萩はそのたび、ほっこりと心が温もりに満たされる。

 その言葉を出す時の司朗が、引かれた線よりもほんのちょっとだけ、こちらに入ってきてくれたようで。

 こうして少しずつ、少しずつ、焦らずにやっていこう。


「ゆっくりと時間をかけていけば、きっと……」

「さて、そんな猶予があるかねえ」

「え」


 呟いた言葉にのんびりとした調子で疑問を呈され、小萩はびくっとして視線を前方へと向けた。

 庭のコブシの木にもたれて、誰かが立っている。


 軍服姿の青年(・・・・・・)だ。


 短髪で、すらりと背が高く、体格もいい。整った顔に微笑を浮かべ、楽しげに細められた目がこちらを向いている。

 長い脚を交差させ、ゆったり腕を組んだ姿は、伊達男っぽく様になっていた。

 花が咲く時期だったら、非常に絵になっていただろう。

 いやいや、外見などは問題ではない。この軍人は誰なのだ。大体、どこから、いつの間にここに入ってきたのだ。小萩が縁側に出た時には、絶対にその場には誰もいなかった。

 唖然としている小萩を見て、青年は口の端を上げた。


「残念ながら、ゆっくりが許されるほど、悠長な時間はないと思うよ。それにね、あの鈍感な朴念仁は、一度ガツンとはっきり言わなきゃ通じないって」


 鈍感な朴念仁って誰。

 そう思いかけてハッとした。この声、聞き覚えがある。

 少し軽くて快活でよく通るので、ひそひそと囁く程度でも小萩の耳に届いてしまう、若い男の声だ。


「幽──」


 口を丸く開き、出しかけた言葉はきちんとした単語になる前に喉の奥へと引っ込んだ。

 それよりも先に、ドタドタガッシャン、というけたたましい音が後方から響いてきたからだ。

 こ、今度はなに、と驚いて振り返ると、慌ただしい足音がして、居間の襖がスパーンと勢いよく開き、司朗が中に飛び込んできた。


「し、司朗さん?」


 どう見ても尋常ではないその様子に、小萩は呆気にとられた。

 いつも静かで落ち着いている司朗が、はっきりと興奮を抑えきれないような上擦った顔つきをしている。頬が紅潮し、眼鏡の向こうの目がキラキラと輝いて、まるで十代の少年のようだ。

 髪の毛がいつもよりも乱れて、鳥の巣のようになっていた。


「小萩さん!」

「は、はいっ」

「大変なんです、一大事です、僕はこれからすぐに出かけねばなりません。ここへは荷物を取りに戻ってきたんです、いや、こうしている間も時間が惜しい!」

「は? あの、司朗さん、出かけるって」

「詳しく説明している暇はないんです。すみません、そのようなわけで留守をお願いします。それでは!」

「え……ええっ?」


 普段とはかけ離れた早口でまくし立てられて、小萩が目を白黒させている間に、司朗はまた部屋を駆け出していってしまった。

 ぽかんとしてから我に返り、慌てて追いかけたが、司朗はすでに小さな鞄を脇に抱えて、玄関から飛び出していくところだった。


「司朗さん!」


 小萩の声も聞こえないのか、司朗の後ろ姿はあっという間に見えなくなった。

 まるで突風が吹いたような出来事に、小萩は茫然とするばかりだ。

 しばらく戸口で立ち尽くしていたが、追いかけるのは諦めて、また家の中に戻ることにした。あの調子では、司朗を捕まえて事情を聞き出すのは不可能だろう。

 廊下には、司朗の鞄から落ちたのか、靴下が片方だけ取り残されていた。あんなに急いで荷物を詰め込んだのでは、他にもあれこれと取りこぼしがありそうだ。

 小萩はその靴下を拾い、きちんと折り畳みながら、縁側へと戻った。

 コブシの木の傍には、もう誰もいない。

 全身から力が抜けて、ぺたんと座り込んだ。


 一体何があったのか。司朗はどこへ行ったのか。留守をお願いと言われたが、それはどれくらいのことなのか。


 何も判らない。何も言わないまま、司朗はこの家を出ていった。小萩を置いて。

 放心して、ぼんやりと手の中の靴下に目を落とすしかなかった。





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