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距離



「おはようございます、司朗さん」


 寝起きの顔で、欠伸をしながら髪の毛を手でくしゃくしゃと掻き回し、居間に入ってきた司朗は、そう挨拶した小萩を見て一瞬驚いたように目を見開き、その場にぴたっと立ち止まった。

 五秒くらい静止してからやっと、昨日自分が祝言を挙げたことと、小萩のことを思い出したらしい。


「……おはようございます」


 もごもご挨拶を返し、すとんと座布団の上に腰を下ろす。

 自分の家なのに、ここにいてもいいのかな、というような表情をしていた。


「お食事をどうぞ。ご飯、よそいますね」


 小萩がお櫃の蓋を開けてしゃもじを持つと、「はあ」と小さな返事があった。

 実を言えば小萩は緊張でガチガチなのだが、司朗はどうも掴みどころがない。ゆったりと落ち着いているようにも見えるし、起き抜けでボンヤリしているようにも見える。

 ふんわりと湯気の上がる炊きたてのご飯を茶碗によそい、鍋に入っている熱々の味噌汁を椀に注ぐ。お菜は炙った小魚の干物と漬物だ。

 司朗はそれをざっと眺めて、卓袱台の空いた場所に目をやり、わずかに首を傾げた。


「小萩さんは、もう食べたんですか?」


 問われて、小萩はびっくりした。

 まず、司朗がちゃんと自分の名前を覚えていたことに、そしてその口調が非常に丁寧だったことに、それから質問の内容に。


「えっ……あの、わたしは後でいただきますが」


 小萩はいつも、家の主人およびその家族がすべて食べ終えた後、台所の隅で片付けのついでにそそくさと食事を済ませる。それが普通で、小萩にとっての常識だ。

 だからどうしてそんなことを聞かれるのか判らないまま答えると、司朗はちょっとだけ眼鏡の奥の目を瞬いたが、それ以上の追及はせずに、「──そうですか」と話を終わらせた。


「いただきます」


 きちんと両手を合わせて、箸を取る。

 育ちが良いためか、司朗の食事の所作はとても上品だった。姿勢正しく背筋を伸ばし、箸で取ったものを口に運ぶ動きに見惚れてしまいそうになる。

 養家には小萩よりも年上の男兄弟がいて、毎日争うように騒々しく食べていたので、なおさら新鮮に見えた。

 兄弟の有様を見る度、がちゃがちゃと忙しなく口に突っ込むようにして食べていては味なんて判らないのではないかと思ったものだが、実際、そんなものは彼らにとって関係なかったのかもしれない。

 養母からは「ただでさえおまえという居候がいるんだから食費は節約するように」としか言われたことはないし、兄弟にも量の少なさについて文句を言われた覚えしかないからだ。

 司朗は文句は言わなかったが、感想を口にすることもなかった。ただ黙々と噛みしめている。

 味は薄いのか濃いのか、米はもっと柔らかく炊いたほうがいいのか、どういうものが好みなのか、少しは教えてくれるのではないかとそわそわしながら見守る小萩を余所に、無言のまま食べ終えて、「ごちそうさま」と箸を置いてしまった。


 小萩は落胆をなんとか顔には出さずに堪えた。

 あまり出過ぎたことをしてはいけない。完食してもらっただけでもよしとしよう。


 小萩が淹れたお茶を一口飲んでから湯呑みを置き、司朗はようやくこちらを向いた。

 考えてみたら、改めて正面から彼の顔をしっかり見たのは、これがはじめてである。

 昨日見た時よりもさらに髪が跳ねているのはまだ整えていないからだろう……たぶん。

 シャツとズボンという洋装で、眼鏡をかけた司朗は、ずいぶんと生真面目そうで近寄りがたい雰囲気をまとわせていた。


「僕は今日、大学に行く日なんですが……」

「はい、聞いております。週に四日、大学にいらっしゃるんですよね。お弁当も用意してありますので」


 非常勤講師で学者という立場の司朗は、講義のある日以外も、植物の研究のため大学に行くのだそうだ。


「すみません」


 軽く頭を下げて、立ち上がる。

 支度をする手伝いをしようと小萩も立ったが、司朗は必要ないというように手で制して、すたすたと居間を出ていった。


 その姿が見えなくなってから、小萩はしょんぼりと肩を落とした。


 冷たくされるわけではないが、司朗はどこまでも他人行儀だった。こちらに心を許していないのが否応なく判ってしまう。

 司朗にとっても強引に進められた結婚話だから、意に沿わないことが多々あるのは仕方ないとはいえ、本当にやっていけるのだろうか。

 せめて嫌われることだけは避けたい。忙しい司朗の邪魔にならないよう、なるべく静かにしていなければ。

 そこにいるだけで目障り、という態度を取られるのは養家でも日常茶飯事だったから、存在を消すように立ち回るのは慣れている。

 そう決心した小萩は、出かける司朗を見送る時も、言いたいことを腹の奥にぐっと押し込め、「いってらっしゃいませ」と頭を下げるだけに留めた。

 いいのかしらと気になったが、それもきっと余計なことに違いない。


 やっぱり髪の毛、ボサボサのままだわ……



          ***



 後片付けをし、洗濯と掃除を済ませると、時刻はもう十時近かった。


「まだやることはあるけど……今のうちに、建物の周りをぐるっと廻ってみようかな」


 広い庭を散策しようというのではなく、少しでもこの家のことを把握しておこうと思ったためだ。なにしろ小萩は何も知らないまま、ここに嫁に来てしまった。

 司朗を日常の些事でいちいち煩わせるわけにはいかない。

 養家でも、小さなことを訊ねるたび、鬱陶しそうに叱られた。ただでさえ小萩は「気が利かない」のだから、最低限、自分でできることはやっておかなければ。


「それにしても、お屋敷だけでなく、お庭も立派なのね……」


 少し見てみただけでも、つい感嘆の声が漏れてしまう。

 よく整えられた庭には、形の良いアカマツや、どんと据えられた大きな景石、灯篭などが揃っていた。おそらく庭師が手入れしているのだろうから、そのことも確認しておかないと、と内心で呟く。

 先代当主の妻、つまり司朗の母にあたる人が、家内のこまごまとした書き付けを残してくれているとのことなので、後でじっくり目を通そう。

 一つずつ確認するように足を動かしていた小萩は、ある低木の異変に気づいて立ち止まり、目を瞬いた。


「まあ、これ……南天よね」


 庭の奥のほうに植えられたその南天は、葉がところどころ茶色に変色していた。

 他の木はどれも青々としているのに、一株だけ枯れかけているというのもおかしな話だ。

 南天は丈夫な樹木だと思っていたが、病気にでもなってしまったのだろうか。


 周りが生命力溢れた瑞々しさを顕示している中で、萎れて弱ったその姿は、ひどく哀れに見えた。


 南天は冬になれば、正月の彩りに欠かせない赤くて可愛い実をつける。庭師が来た時に聞いてみようと、これもしっかり胸に刻んだ。

 それからまた歩を進め、今度は屋敷の西に向かう。

 そちらには大きな蔵があるのだが、小萩の足は中途半端な位置で再び止まった。

 眉を寄せ、胸に手を当てる。


 ……なんだか、ざわざわする。


 母屋から蔵までは飛び石が続いているが、その半分もいかないうちに、小萩はそれ以上進むのを躊躇した。

 蔵は落ち着いた色の土塀で、二階分の高さがあり、扉の上に一つだけある小窓に鉄格子が嵌められている。普通の──といっても町中にそうそうあるものではないが、裕福な家には珍しくない外観の蔵だ。


 しかし小萩には、その立派な蔵が、ひどく不気味なものに思えてならなかった。


 こちらを圧倒するような重厚で鬱蒼とした雰囲気がそう感じさせるのかもしれない。

 蔵というからには高価なものや貴重なものが仕舞われているのだろうから、ものものしくて当然だと理性では思うが、本能的な怯えはどうにもならなかった。

 蔵の観音開きの扉には大きな南京錠がついていて、その上頑丈そうな材木の閂が横向きにがっちりとかけられている。

 誰も気軽に近づいてはならぬ、とこちらを威嚇しているかのようだ。蔵にとって、新参者の小萩はほとんど盗人と変わらないのだろう。


 ──まるで南条家そのものに拒絶されているように思うのは、被害妄想が過ぎるだろうか。


 しかし朝の司朗の素っ気ない言動が頭に浮かんでしまうのはどうしようもなかった。彼と自分との間には、この蔵と同じくらい分厚い壁がある。

 小萩はまだこの家にとっても、司朗にとっても「他人」なのだと、嫌でも思い知らされる気分だった。


「……すみません、もうここには近寄りません」


 蔵に向かって頭を下げ、小萩はそそくさと踵を返した。





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