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祝言

 


 夏の盛りは過ぎたとはいえ、暑さがまだしぶとく残っている八月の終わり、司朗と小萩の祝言は行われた。


 屋敷の中の、襖を取り払えば二十畳にもなるという広々とした座敷で、紋付き袴や黒留袖を着て集まった客は、総勢五十名ほどだろうか。

 祝い膳を前にして座る彼らに笑みはない。どころか、どの顔も不満そうなのを隠そうともしていなかった。

 酒の杯を手にしながら、または扇子で顔を扇ぎながら、上座のほうに目をやり、ひそひそと隣の客と低い囁き声を交わしている。


「ずいぶんと貧相な」

「貰われ子なんだろう?」

「そんな娘が本家の嫁とは……」


 胡乱な視線とともに、次から次へと小声で発される言葉が降り注ぎ、まるで(おり)のように沈殿していくようだった。この座敷内の空気がなんとなく重く濁って感じられるのは、おそらくそのせいもあるのだろう。


 野々垣小萩、十八歳。今日から南条姓となる。


 遠縁の娘、ということになっているが、南条家と縁続きなのは養母であり、小萩は養父の妹の子だ。両親が相次いで亡くなり、伯父の家に養女として引き取られたので、彼らの言葉は何も間違いではない。

 しかしこの場合、「小萩が上流家庭の娘ではない」ということが、非難の最も大きな理由になっているようだった。


 ──いつになったら終わるのかな。


 黒引き振袖と角隠しという花嫁衣裳に身を包んだ小萩は、押し殺そうという意図もない彼らの声と、こちらに投げつけられる不躾な視線に伏し目がちで耐え、ひたすらお開きの刻限を待ち続けていた。

 本来なら晴れの場であるはずの祝言で、それを歓迎している人は誰もいないという現状に、もともと強くもない心がひしゃげて潰されそうだ。

 本家と深く関われる立場になった小萩の養い親だけは満面の笑みを浮かべているが、自分たちのこれからの「権利」を声高に主張するばかりのその様子が、余計に居たたまれない。


 角隠しの下からちらっと視線を隣に向けてみれば、そこにはこれから小萩の夫となる司朗が座っている。


 黒の紋付き姿の司朗は、端然と座した姿勢のまま、開け放たれた障子の向こうの庭へと顔を向けていた。

 小萩と同じく目の前の膳には手をつけようとせず、かといって座敷内に立ち込める異様な雰囲気を気にする様子もない。


 何を見ているのだろう、と小萩も外へ目を移した。


 先代当主が買い取ったという屋敷は、小萩の目から見てたいそう立派な日本家屋だった。

 平屋だが面積が広く、座敷が十以上あって、庭に面した縁側は非常に雑巾がけのし甲斐がありそうなくらい長い。それでも敷地にはまだ余裕があり、屋敷の周りを取り囲む庭には、様々な植木が配置されている。

 ここからだと、眩しい陽射しに照らされて、きちんと剪定された犬柘植と、その向こうに背の高い楓の木が見えた。秋になればあれが綺麗に紅葉して、見る者の目を楽しませるのだろう。自分ももしかしたら、その恩恵にあずかれるかもしれない。

 ……秋までここにいられたらの話だけど、と心の中で呟いて、小萩はそっと嘆息した。


 司朗のほうに目を戻してみたが、彼は相変わらずこちらを向きもしない。


 見合いの場すら設けられず、養家からここに来てすぐに祝言の運びになったため、小萩は夫となる司朗の顔もまだまともに見ていなかった。

「小萩と申します。不束者ですが、よろしくお願いいたします」

 そう言って挨拶をした時も、養い親の言いつけで畳にくっつくくらい頭を深く下げていたので、彼がどんな表情をしていたのかは判らない。


 とりあえず、丸眼鏡をかけていたことと、髪の毛があちこち跳ねていたことだけは見て取れたのだが。


 大学で非常勤講師をしている司朗は、植物学者でもあるという。

 きっと髪を撫でつける暇もないくらい多忙なのだろう。その厳めしい肩書きだけでも小萩は身が縮みそうだ。

 ただでさえ小萩はまだ年若く、二十八になるという司朗とは十歳の差がある。この上、大変に気難しい人物であったらどうしよう。

 彼がこの結婚をどう思っているのか、怒っているのか嘆いているのか、それとも小萩と同様にすっかり諦めているのか、何も判らなかった。



          ***



 炎を上げるかまどの上では、米を炊く羽釜の蓋がカタカタと揺れている。


「ふう……」


 祝言を挙げた翌朝、朝食の支度をするため台所に立ち、小萩はため息をついた。

 それから少し慌てて周りを見る。

 まだ陽が昇りきっていないこの時刻、屋敷内はどこもかしこもしんと静まり返っていて、聞こえるのは釜が立てる音くらいだ。


 養家と違い、ここに住んでいるのは自分と司朗の二人だけであったことを思い出し、ほっとした。


 南条家の台所は屋敷裏側の一段低い土間にあり、勝手口と直結している。建物自体はかなり昔からあるので設備も古いものが多いが、普通の家の台所の何倍も広かった。

 驚くほど大きな鍋やたくさんの食器もあって、これまで大人数の食事を用意してきたのだろう賑やかさが想像できるが、しばらく必要なさそうだ。

 先代の時まで雇っていた女中は全員辞めてもらったというので、これからは小萩一人が家事の一切を取り仕切ることになる。


 もちろん、それに不満はない。もともと養家では、食事の支度も洗濯も掃除も、ほぼ小萩が一手に担っていたのだ。


 幼いうちに引き取られてから、それはもう厳しく叩き込まれたので、大体のことはこなせると思う。

 止まることなく手をてきぱきと動かし続けながら、味噌汁の具は豆腐にして、漬物を切って……と頭の中で流れるように段取りを考えるのも慣れたものである。

 だから少しくらい別の方向に思考が飛んだところで、襷掛けにしてある着物の袖を焦がすようなヘマはしない。

 たとえその中身が、昨日の初夜についてのことであっても。


「はあー……」


 もう一度、大きな息を吐き出す。

 結婚一日目からこれでは先が思いやられるが、そうやってせめて外に出さないと、胸にしこった重みで床に沈んでしまいそうだった。

 昨日、祝言を済ませた後で、養い親の二人にきつく言い含められた言葉が脳裏を過ぎる。


 ──いいかい小萩、夜のお勤めはきちんと首尾よくこなすんだよ。なに、そんなものは、あちらにお任せして、ちいと我慢しておけばするする運ぶもんさ。

 ──こうなったら一日も早く子どもを産むのがおまえの仕事だ。くれぐれもご当主の機嫌を損ねるようなことはするんじゃないぞ、いいな?


 助言というにはかなり露骨な内容であったが、小萩はそれに大人しく頷くしかなかった。

 小萩だって、今さら何かを拒むつもりはない。自分の知らない間に決まっていた結婚だが、妻になった以上は避けられないものがあることくらいは承知している。

 しかし、小萩のそんな覚悟を嘲笑うように、事はまったく「首尾よく」はいかなかったのだ。


 ……昨夜、司朗は夫婦の寝所に小萩を案内すると、「では、おやすみなさい」と当然のように言って自分の部屋に入ってしまい、それっきり出てこなかったからである。


 おかげで、初夜だというのに小萩は布団の傍らで一人、徹夜をする羽目になった。それが新妻の義務だと思ったので寝ずに待っていたのだが、結局司朗の訪いはないまま朝を迎えた。寝不足なので、ため息の合間に欠伸が出る。

 司朗は自分のことがよほど気に入らなかったのか。それともやはり十も年下の小娘など、相手をするつもりがないということか。しかしこのままでは子どもどころの話ではない。

 祝言を挙げたとはいえ、小萩と司朗は未だ正式な「夫婦」ではないということだ。


「ふうー……」

「三回目だ」


 再び深い息をついたところで、背後からくすっと笑う声が聞こえた。

 小萩以外、誰もいないはずの台所で。


 えっ、と驚いて振り返ると、いつの間にか、自分の後ろに七つか八つくらいの男の子が立っている。


 小萩は戸惑ったが、そういえば勝手口の戸が開けっ放しだ。近所の子が入ってきちゃったのかしら、と首を傾げた。

 それにしても、彼は変わった恰好だった。童水干──祭りの時に寺院の稚児が着るような衣装を身につけ、おまけに長い髪を後ろで括っている。

 昔、絵本で見た牛若丸のような姿だが、その衣服はずいぶんと古びていて、しかも薄汚れていた。


 彼がどこの子で、なぜそんな服装をしているのかという疑問よりも、小萩はその子どもの痩せ細った手足のほうが気になった。


 戦後すぐと比べて食糧事情はかなり好転したというのに、今にもぱったり倒れてしまうのではないかと心配になるくらい余分な肉がない。

 そう思うせいか、身体もどこか薄く透き通っているように見えた。


「あの、何か食べる?」


 気づいた時にはもうその言葉が口から滑り落ちていた。男の子は、堂々と台所の真ん中にまで入り込んできたわりに、小萩に声をかけられて非常に驚いた顔になった。

 目を真ん丸にした表情になってみれば、年齢相応の幼さが前面に出る。

 小萩は笑みをこぼして、何をあげようかと考えた。お握りでもこさえたいところだが、ご飯が炊けるまではまだ少し時間がかかる。


「お饅頭でもあればいいんだけど……ちょっと待ってね」


 男の子に言ってから茶箪笥に向かっていき、袋棚の中を覗いてみた。饅頭はなかったが、箱に入った干菓子がある。

 これでも多少は腹の足しになるかと思いつつ、もう一度後ろを振り返ると──


 男の子の姿は忽然と消えていた。


 小萩はその場に立ち尽くしてから、「あっ」と短い声を上げた。

 やってしまった、と目を閉じて天を仰ぐ。


 ──あれは、「()()()()()()()()()」だったか。


 いわゆる幽霊というやつだ。

 小萩はなぜか、幼い頃からその手のモノが見える。その気もないのに見えてしまうのだから、生まれつきそういう厄介な荷物を背負っているのだと思うしかない。

 幽霊と一口に言っても、ひっそりとただ立っているようなのから、暗い情念を孕んだ眼で睨みつけてくるようなのまで、様々だ。

 害のあるなしにかかわらず、彼ら彼女らには決して自ら近寄らないよう用心してきたのに、相手が邪気のなさそうな子どもで、いつもよりもはっきりと見えたこともあって、つい普通に話しかけてしまった。

 小萩は霊が見えることを絶対他人に言わないよう、実の親に厳しく教え込まれた。もうあまり顔も覚えていない両親だが、何があっても隠しておきなさい、と言われた時の真剣な口調は記憶に残っている。

 しかしたとえその存在を無視しようとも、そこに自分にだけ見える「誰か」がいれば、言動がどこか挙動不審になるものだ。

 人はそういうことには敏感だから、「あの子は時々ちょっと変」と思われて、疎外されたり、陰口を叩かれたりする。養家でもそれでよく冷たく当たられた。つまり碌なことにはならない。


 司朗にこんなことが知られたら、きっと気味悪がられてしまうだろう。

 初夜どころではなく、すぐにでもこの家から追い出されてしまうかもしれない。それだけは困る。


「気をつけなくちゃ」


 手を拳にしてぎゅっと握り、自分を戒めた。

 あの子の姿かたちといい出現の仕方といい、考えてみれば明らかにおかしかったのに、寝不足でぼんやりしていたから、普段どおりに判断することができなかったのだろう。

 しっかりしなければ。司朗に気に入られなくとも、せめて嫁としての務めを果たしていれば、ここに置いてもらえるかもしれない。


 ……自分には、帰るところなど、もうどこにもないのだから。


 不意に、先刻見た男の子の姿を思い出した。

 くりっとした大きな目に、楽しげに綻んでいた口元。たくさん食べてあの頬がふっくらとし、身なりを整えれば、どれほど可愛らしくなることか。

 周りには、誰もあの子を気にかける大人はいなかったのだろうか。だとしたら、どんなに寂しい境遇だったのだろう──

 でもそれは、考えてもどうしようもないことなのだ。

 小萩は自分にそう言い聞かせ、小魚の干物を七輪で焼くために、のろりと足を動かした。





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