南条の祖
新之輔、美音子、陸が、同時に言葉を失った。
「……おまえ、なに言って」
しばらくしてから出された新之輔の声は、かさかさに乾いていた。今までに見たことがないくらい、固い顔つきをしている。
「取り殺された、という表現は正確ではないかもしれません。唆された、追い込まれた、と言ったほうがいいかもしれない。──実はこのところずっと、代々の当主が書いた日記や記録に目を通していて気づいたんですが」
司朗は表情を変えずにそう言って、指先でするりと顎を撫でた。
「南条の本家では昔から、かなりの頻度で、気を病む人が出ていたようです。鬱々と過ごしていると思ったら、徐々に情緒不安定になり始め、自分の殻に閉じこもったり、ある日突然攻撃的になったりする。……そういう人たちは皆、口を揃えて言うそうですよ。『耳元でいつも誰かの声がする』とね」
「声……」
黒い靄が人の姿になり、美音子とりくのの耳に何かを囁きかけていた光景が脳裏を過ぎって、小萩は背中が寒くなった。
姿は見えないが、声は聞こえる。
生きていた時から、そうだったとしたら?
「昔はそういう人たちを座敷牢などに押し込めて、世間から隠していたらしいです。彼らの多くは、自分で自分の命を絶ったとか。周りは嘘ばかりで、自分を騙して陥れようとしている、許さない許さない、ちゃんと聞いた、知っているぞと恨み言を吐きながら」
居間の中に重苦しい沈黙が落ちる。
幽霊たち三人は、それぞれどこかが痛むような顔をしていた。
「……だけど、声なんて、私は一度も聞いたことがない」
ぽつりとこぼされた美音子の呟きに、陸がこくんと頷く。
司朗もまた頷いた。
「でしょうね。そういう声が聞こえるのは……声の主に『選ばれる』のは、弱い人ばかりだったようですから。身体の弱い人、立場の弱い人、気の弱い人、意思の弱い人──行動的で自信に満ちた美音子さん、虐待されても挫けることのなかった陸くん、女性に対してすらすら口説き文句が出せる新之輔さんのような図太い人は論外です」
新之輔は「なんか棘がないか?」とぶつぶつ言った。
「思うに、南条本家にはずっと昔から、本当に悪霊が取り憑いていたんでしょう。ただ、その悪霊自体には大した力はなく、人の耳に虚言を吹き込んで精神的に追い詰め、ノイローゼのような状態にさせることくらいしかできない。そしてその力も、狭い範囲でしか使えない。これまで起きた怪異は、すべて本家の敷地内に限定されていますからね。……今のところは、ですが」
「だったら!」
我慢ならなくなった陸が、司朗に喰ってかかる。
「だったら、かかさまは」
「りくのさんと花音子さんは、自分の弱い部分に付け込まれたとはいえ、他者を手にかけ、その命を奪ってしまった。いかなる理由があろうと、それは大罪です。そして大事な人を自分のせいで亡くしたという負い目もある。だからその魂を、元凶である悪霊によって捕らえられてしまったのではないでしょうか。彼らは絶望という檻の中に閉じ込められ、逃げ場がないまま負の念ばかりを増幅させられ、それがものを動かしたり飛ばしたりという力になっている。自身の力が弱い悪霊には、都合の良い存在なんでしょうね」
司朗は痛ましそうな目を陸に向けた。
「……敢えて言葉を選ばずに言うなら、今の彼女たちは、悪霊の『手駒』にされている、ということです」
陸が泣きそうになり、美音子がぎゅっと目を瞑る。
新之輔は額に手を当て、「くそ……」と低い声を漏らした。
「そうか……それであいつらには、俺たちが見えないのか」
「悪霊にとって、あなたたちは非常に邪魔なんです。だから認識を阻害されているんでしょう」
なぜなら彼らは、自分たちが罪に手を染めた理由であると同時に、自分たちに救いをもたらす唯一の存在でもあるからだ。
それであの黒い靄は、美音子と陸が手を差し伸べようとするのを妨害した。
死んでもなお、花音子とりくのは、その嘆きと苦しみを利用され、魂を使役されて、この現世で惑い続けている。
……許せない、と小萩は奥歯を強く噛みしめた。
「じゃあ、その元凶をなんとかしないと、花音子の魂は解放されないの?」
眉を下げた美音子が縋るように問いただす。
司朗は難しい表情で、「おそらく」と短く答え、口を結んだ。
「そんな……だって、そいつは私たちからは見えないんでしょう? 花音子たちを表に出して、自分は卑怯にも隠れているってことよね? そんなの、一体どうしたらやっつけることができるのよ」
途方に暮れた口調で言って、美音子は泣き出す寸前の幼子のように唇を曲げた。新之輔も苛立たしげに膝を指で叩いている。
司朗と幽霊三人には元凶の黒い靄は見えない。あちらの三人からは自分の身内である幽霊たちが見えない。
……小萩とは真逆で、あちらは隠れたり見えなくしたりするのが得意なのだろう。
「文献には、何か方法は載っていなかったのか?」
「まだそこまで進んでいません。元凶たる悪霊はかなり古くから本家に巣食っていたようですし、たぶん相当時代を遡らないといけないんじゃないかと……いや、そんな記述が見つかるかどうかも不確かなんですが」
暗い見通しを淡々と述べられ、室内が一気にどんよりした空気になる。
それを気にした様子もなく、司朗は「でも」とあっさり続けた。
「とりあえずあちらの弱点は見つかったんですから、それだけでもよしとしませんか」
えっ、と驚く一同を逆に不思議そうに眺めてから、司朗がこちらを見たので、小萩はものすごく狼狽した。
なぜ、そんな同意を求めるような顔をしているのだろう。
「小萩さんも判っていますよね?」
「す、すみません……まったく判っていません。弱点ってなんですか」
「いやだな、それを明らかにしたのが、他ならぬ小萩さんじゃないですか。最後、黒い靄は逃げた、とはっきり言っていましたよね?」
「は……」
思わず間の抜けた声が出てしまう。
そう、確かに逃げた。あの時、苦しそうに悲鳴を上げて……
小萩は「あっ!」と両手を打ち鳴らした。
「判りました、弱点が!」
「そうでしょう」
「お茶碗ですね!」
自信満々に断言した小萩に、司朗は一瞬きょとんと目を瞬いてから、すぐに下を向いた。
小さく肩が震え、「ぶ……んんっ」と喉に食べ物が詰まったような変な咳をする。
え、違うの……? と小萩はうろたえた。周りを見たら、新之輔と美音子がまたあの目をしてこちらを見ている。
何かに耐えるような時間を置いてから、司朗は呼吸を整え、再び顔を上げた。
その唇がわずかにぴくぴく引き攣っているのは、気づかないことにしよう、と小萩は思った。
「──大変惜しいですが、違います。あの時、小萩さんが見事な腕前で投げた茶碗には、何が付着していましたか?」
「付着……?」
小萩は首を傾げた。
衝動的に掴んだ茶碗。司朗の傷に手を当てていた小萩の掌には、べったりと彼の血がついており──それで掴まれた茶碗もまた、赤く染まっていたのではなかったか。
「あっ……」
ようやく正解に辿り着いた生徒を褒めるように、司朗はにっこりした。
「僕の……いやたぶん、本家の人間の血。それが黒い靄の弱点です。南条の血筋に取り憑いている悪霊にとっては、なんとも皮肉なことに」
***
それ以降、司朗は必要最小限大学に行く時以外、文献を読み漁ることに大半の時間を費やすようになった。
真剣に取り組んでいた植物の研究も、今は棚上げにしているらしい。それどころじゃないから、と本人は言っていたが、どちらにしろのめり込んでいることには変わりない。
夜も遅くまで起きて、合間合間に仮眠を取っているらしく、部屋から出てくるといつも眠そうに目をしょぼしょぼさせている。
ただでさえ主の言うことを聞かない髪の毛は、手がつけられないほど縦横無尽に跳ねていて、大変な有様だ。
包帯は取れたが、その乱れた髪で隠れているため、傷跡がどうなったのかは未確認のままである。
手伝えることが何もない小萩は、彼の寝不足を心配し、目の下の隈を見て心を痛めることしかできない。三人の幽霊たちも急かしてはいけないと気を遣っているのか、あまり姿を見せなくなった。
今日も、夜が更けたこの時刻まで、司朗は部屋にこもりっぱなしだ。
家の中は静まり返っているが、庭からは鈴虫の合奏が賑やかに響いてくる。
小萩は縁側から外に出て、すぐ近くに置いてある植木鉢の前で両膝を下り、屈み込んだ。
じっとしていたら身体が冷えてくるくらい、夜気はひんやりしている。それでもなかなか動く気になれずにぼんやり鉢を眺めていると、キシッと板を踏む音がして頭上に影が差した。
「そんなところで、何をしているんですか? 小萩さん」
驚いて振り仰ぐと、縁側に立った司朗が、照明の光を背にしてこちらを覗き込んでいる。
小萩はぴょんと飛び跳ねるように立ち上がった。
「司朗さん、すみません、気づかなくて……どうしましたか? そろそろお風呂に入られますか? それとも今夜はもうお眠りになりますか?」
「いや、少し休憩です。風呂は後で入ります」
「あ、じゃあ、熱いお茶を淹れますね。少しお待ちを」
「お茶も後でいただきます。とりあえず、ここに座りませんか」
台所に駆けていこうとした小萩を押し留め、司朗が縁側に腰を下ろし、自分の隣を指先でこんこんと叩いた。
小萩は少しためらってから、遠慮がちにその場所に腰掛けた。
「このところ、ずっと一人にさせてすみません」
「い、いいえ、そんな」
司朗に謝られて、慌てて首を横に振る。
小萩の気持ちが沈んでいるのは、決して寂しいとか心細いとか、そういう理由ではないのだ。
「何を見ていたんです? ……ああ、萩ですか」
司朗が身を傾け、下に置いてある植木鉢に目をやり、納得したように頷いた。萩の挿し木のやり方を詳しく説明してくれたのは司朗である。
「発根しそうですか?」
「そうなるといいなと思っていますけど」
司朗に教わったとおり、植木鉢は明るい日陰に置いて、なるべく風が当たらないようにし、土が乾かないようせっせと毎日水やりを欠かさないでいる。しかし無事に根付くかどうかはまだ判らない。
今にも倒れそうな、不安定で頼りない萩の枝は、まるで小萩そのものだ。
誰かの手がないと、すぐに枯れてしまう。
「……やあ、綺麗な月ですね」
隣に座った司朗のその言葉で、ようやく小萩も顔を上に向けた。
闇の中、空にはひときわ明るく白い光を放つ月がある。
月はかなり欠けて弓の形になっているが、それでもその輝きは損なわれることなく、まるで空の海に浮かぶ神々しい舟のように見えた。
ぽつりとそれを舌に乗せてみると、司朗は感心したように小萩を見た。
「なるほど、月の舟ですか。いつぞやの植物園といい、小萩さんは詩的なことを言いますね」
「……子どもっぽいことを、と思っていらっしゃるんでしょう?」
少し拗ねたように言い返した小萩に、司朗が笑う。
「いやいや、僕にはそのテの才能がまったくないので、小萩さんの感受性が羨ましいんです。月は月にしか見えないし、せいぜい綺麗だと言うくらいで、何かに喩えることも、気の利いた台詞も思いつかない。僕も新之輔さんのように──」
そこで唐突に、司朗はぷつっと言葉を切った。
怪訝に思って小萩が首を傾げると、本人も見失った続きを探すように、空中に視線を彷徨わせている。
「……ああそうだ、例の元凶のことですが」
結局、見つけ出すのは諦めたか、見つかったものを外に出すのはやめたらしい。しばらくしてから、司朗は少々不自然に話題を変えた。
「なんとか、目星がつきました」
「本当ですか」
その言葉に、小萩は一気に緊張した。身を引き締めて、ぴんと背筋を伸ばす。
司朗はいつもと何も変わらず、表情も声音も穏やかだ。
きちんと姿勢を正し大真面目な顔つきをしている小萩を見て、わずかに微笑を漏らした。
「南条ははるか昔、高名な陰陽師を輩出した家系だと、新之輔さんが言っていたのを覚えていますか?」
「はい」
「南条家の祖とも言われている人で、名を冬雪といいます」
南条冬雪か。こんな後世まで名前が伝わっているということは、それだけ立派な人物だったということなのだろう。
「なにしろ数百年も前のことなので、その人物についての詳細はほぼ判りません。研究熱心で知識が豊富、陰陽術に優れ、鬼神力の使い手であったとか──まあ、どこまでが本当か定かではないんですが、普通の人にはない不思議な力を扱えると評判であったと」
司朗は訥々と語った。