母と子
座敷内にずらりと勢揃いした親戚たちは、最初から戦闘態勢だった。
はじめのうちは小萩も精一杯彼らをもてなそうと奮闘したのだが、ことごとく徒労に終わった。
料理を出せば「遅い」「品数が少ない」「器の選び方が悪い」と文句を言われ、徳利に入れた酒を運べば「温すぎる」「安酒だ、馬鹿にして」と怒鳴られる。
その挙句、躾も礼儀もなっておらず場を取り仕切ることもできない、これだからどこの馬の骨だか判らない娘は、とそれ見たことかと言わんばかりに嘆かれた。
躾や礼儀はともかく、料理も酒も司朗の母が書きつけておいたものに忠実に従ったので、今までこの屋敷で供したものとほぼ変わりはないはずだ。
要するに何をしても難癖をつけられるということらしい、と悟るのにそう時間はかからなかった。
だとしたら小萩としては「気が利かず申し訳ございません」とひたすら頭を下げるしかない。
少しでも言い返そうものならあちらはますます怒るだけだし、そうなるともう収拾がつかなくなるどころか悪化する一方である。
とにかくこいつを責めなければ気が済まない、というつもりでいる人たちには、何をしても無駄なのだ。小萩はそれをすでに養家で学んでいる。
しかしだからといって、傷つかずにいられるわけでもない。特に最近はこういうことがなかったので、久しぶりに四方八方から飛んでくる言葉の刃が胸にぐさぐさ突き刺さる。
懸命に持ちこたえていた笑みはもはや限界を訴えており、徐々に顔も俯きがちになっていった。
「いい加減にしろ! 小萩はおまえらに少しでも旨いもの食わせてやろうと、朝からすごく頑張ってたんだぞ! 小萩を苛めるならさっさと帰れ!」
小萩を心配してぴったりと寄り添うようにくっついていた陸は、さっきからずっと眉を吊り上げっぱなしだ。
親戚たちからは見えないし聞こえないが、その姿は十分小萩を慰めてくれた。
野菜の炊き合わせも白身魚のしんじょも、味わわれることなく食べ散らかされているが、そのことを自分のために怒ってくれる存在があるのだから。
上座で一人座っている司朗は、彫像にでもなったかのようにまったく動かない。
完全な無表情になっていて、どちらかというと、怒鳴る親戚よりもそちらのほうが怖かった。
「ねえ司朗さん、こんなお嫁さんじゃ、あなたも何かと不自由なすってるんじゃありません?」
客のうちの一人である女性が、その司朗に笑いかけた。
「私たちもあの時はしょうがないと思ったんだけど、これじゃあねえ。やっぱり家格の釣り合いというのは大事なんですよ。だってこの南条家に嫁ぐということは、いずれ跡継ぎとなるべき子を産まなきゃならないわけでしょう? それが、こんな下のほうの家の、しかも貰われ子なんて、ねえ。産んだとしても、まともに育てられるかどうか」
含みのある言い方をして、同意を求めるように周囲を見渡す。
ひそひそ、くすくすと、囁き声と忍び笑いが座敷内に広がった。
「幸い、まだ子を孕んではいないんだろう? だったらもうこの際だな、もっといい嫁に取り換えたほうがいいんじゃないか、と私らも考えたわけだよ。次はもっと血統のいい娘をあてがうから。なに、変な噂も近頃じゃ収まってきているようだし、今度はちゃんと見つかるさ。なにしろ、この娘はまだこんな風にピンピンしてるからなあ!」
酔いが廻りつつあるのか、赤ら顔の男性が必要以上に大きな声を出し、大口を開けてがははと笑う。他の人々も追従するように笑い声を立てた。
ああ、そうか──と小萩は静かに納得した。
南条家に嫁いだ小萩が二月もの間元気に過ごしているのを知って、親戚たちはやっぱり呪いなんてなかったと安心したわけだ。
そして同時に、小萩のような娘がのうのうと南条家に居座っていることが腹立たしくなり、また惜しくもなったのだろう。
このままだと、小萩が南条のすべてを掻っ攫っていくのではないかと不安になって。
未だ二人が籍が入っているだけの他人だとは知らないから。
もしもここに嫁いできたのが「家格の釣り合うお嬢さん」であったなら、こんなことは言われなかった。
小萩をここに入れたのは、あくまで緊急措置に過ぎなかったと親戚たちは考えている。彼らはそれを正そうとしているだけだ。
小萩が小萩である限り、これからもずっと同じことを言われ続ける。
なぜなら小萩は立場が下で、卑しい生まれの娘だから。
自分の努力ではどうしようもないそんなことで、責められ、なじられ、蔑まれて。
……陸の母親のように。
だったらもしも司朗との子が生まれた場合、その子も同じことを言われるのだろうか。陸のように悲しい思いをさせることになるのだろうか。南条の名に押し潰されて、不幸な結末を迎えるしかなくなるのだろうか。
もしかしたら、司朗はそれを見越した上で、小萩に手を出そうとしないのかもしれない。
帰るところもなく不安定な立場にある弱々しい小萩を、ただ単に保護するつもりで優しくし、笑いかけてくれているだけなのかも。
──だとしたら、それは憐れみか同情か。
顔を上げると、司朗と目が合った。
小萩の空虚な表情を見て、その目元にさっと緊張が走る。何かを言おうとしたのか、口を開きかけた。
だがその時、「──小萩」とぴんと張り詰めた声が横から聞こえた。
そちらを見ると、陸が半分口を開けて棒立ちになっていた。真ん丸になった目は、吸いつけられるように一方向に向かっている。
「来た」
親戚たちが小萩を糾弾するために騒いでいる中でも、その抑えつけるような掠れた声はしっかりと耳に入った。
陸の視線が向かっているのは襖の一点だ。
小萩も固唾を呑んでそちらに見入った。周りのざわめきがやけに遠く聞こえる。急に室内の温度が下がった気がした。
小萩の様子が変わったことに気づいて、司朗が厳しい顔つきになる。
襖は少しだけ開いていた。人が通れるような幅はない。
にもかかわらず、「それ」はふうっと空気を乱さず中に侵入を果たした。
肉体がない。影もない。薄くあちら側が見えるほど半透明の、人の形をしたもの。
それがするすると動くにつれて、徐々に頭や体の線を露わにしていく。
今の時代ではまずお目にかかることはない、単衣と袴、その上に小袿という装束の、頭をおすべらかしにした女性だった。
「……かかさま」
陸が消えるような声で呟いた。
司朗の目も小萩と同じ方向に向けられているが、その人物に焦点が合っていない。彼には女性は見えていないのだ。
しかし、青くなった小萩を見て何が起きているのかは推測できたらしく、そこから視線を外さないまま片膝をついて、慎重に腰を上げた。
女性は──陸の母は、小萩にも陸にも一瞥すら寄越さず、そのまま滑るように移動して、座敷の中央に立った。
やつれて落ち窪んだ眼が、舐め廻すような執拗さで、まだ大声を上げている親戚たちの顔を一人ずつ見据えている。
「──あなたたちは、いつも勝手なことばかり」
女性は静かに言った。口元は微笑を浮かべているのに、冷ややかな表情には隠しようのない怒りが込められている。
「ええ、いつもそう。ご自分のことは棚に上げ、みなでわたくしをお責めになる。卑しくくだらぬ、ちっぽけな身分の女だと。お忘れか? わたくしにも南条の血が少しばかり混じっておりますのに。それでもわたくしをつまらぬ者だと断じ、紙切れのごとく軽々しく扱いなさる。であれば、そもそも南条など大した意味はございませぬなあ」
小袿の袖先を口元に当てて、ほほと笑い声を立てた。
彼女は今、ここに集まった人々からの非難の言葉が、すべて自分に向けられたものだと思っているようだった。
彼らの悪感情が、小萩と似たような立場だった彼女の気持ちを波立たせ、この場所まで呼び寄せてしまったのだ。
「おい、聞いているのかね?! いくら余りものの四男だったとはいえ、今のあんたはもうこの本家の当主なんだから、これまでのようにフラフラしてばかりでは困るよ! 私らがこうして骨を折っているんだ、素直に言うことを聞いたほうがいいと思うがね。あんたにはいい加減、南条当主としての義務と責任を果たしてもらわにゃ──」
別の方向に顔を向け中腰になっている司朗に我慢ならなくなったように、男性が声を張り上げた、その時。
パンッ! と音がして天井からぶら下がったすべての電球が割れた。
めいめい何かを喋り罵っていた親戚たちが、一斉に口を閉じる。
「南条、南条と」
しんと静まり返ったその場所で、陸の母が低い声でそう言い、底冷えのする眼で男性を睨みつける。
彼からはその姿が見えていないはずなのに、ぶるりと身を震わせた。
「おまえたちはそれしか言えないのかえ? わたくしと息子を南条に入り込んだ虫けらなどと、よう言うてくれた。南条家はそれほど偉いか。高貴か。立派か。何を言う! わたくしの子をなぶり殺すなどという、獣にも劣る所業をしておいて! 恥を知れ、この人でなしぃぃ!」
声がいきなり甲高くなった。キーンと響いて耳が痛い。
言葉は聞こえていないようだが、鼓膜を突き破るような空気の圧は感じるのか、座敷内にいる全員が短く叫んで耳を押さえた。
「あの女の凶行を、周りは誰も止めず見ていただけだった! わずか八つの子が棒で殴られ続けていたのに見殺しにするとは、おまえたちは鬼か! だからわたくしは殺してやったのよ、あの女を! 顔が潰れるまで石で殴って、首を絞めて、最後にはその目玉を抉ってやった! ざまあみろ! その後おまえたちはわたくしのことも殺したが、むしろ本望というものよ! 思う存分おまえらを祟ってくれる!」
弾けるように哄笑するその顔に、最初にあった穏やかさはもうない。
彼女の言葉とともに、座敷内に置かれたものがカタカタと音を立てて揺れ始めた。食器のような軽いものから、床の間に飾ってある水石のような重いものまでだ。
客たちは顔色を失い、腰を抜かしたようにへたり込んで、眼前の異様な光景に目を剥いている。
「かかさま……かかさま、もうやめて……」
母親を「すごく優しい人だった」と話していた陸は、憤怒に身を焦がす彼女を見て、ぽろぽろと涙を落とし続けていた。
どんなに苛められても泣かなかったと言っていたのに、今は止めどない涙で頬をびっしょりと濡らして。
「おれ、空にはのぼらないで、かかさまを待ってたんだよ。長い時間がかかっても、ずっとずっと、待ってるつもりだったんだ。いつかかかさまが来てくれたら、手を繋いで一緒に空の上に行こうって。おれ、かかさまのそんなところは見たくない。悲しませてごめんね。でも、恨まなくていいんだ。祟るなんてやめてくれ。おれはただ、かかさまがまた前みたいに笑ってくれたら、それでよかったのに……」
しかしその声は、彼女に届かない。息子が泣きながら請い願っても、それさえ見えず、聞こえていないのだ。
ただ怨み、憤り、あらゆるものを攻撃する。
それは誰のため、なんのために?
「──みなさん、これでお判りかと思いますが」
いつの間にか近くまで来ていた司朗が、親戚たちと向かい合うように小萩のすぐ前に立った。
おもむろに手を動かし、眼鏡を外す。
「見てのとおり、この家は間違いなく呪われています。あなた方は、こんなところに嫁いで、今もなお残ってくれている小萩さんに、感謝こそすれ文句なんて言えた立場ではありませんよ。取り換えるだのあてがうだの、身勝手極まりないことを好き放題言っていたようですが、僕は小萩さん以外の女性をここに迎えるつもりは一切ありません。その結果、たとえ南条家が絶えたとしても。……それでも納得できないというのなら、今度はあなた方のほうにこの呪いを送りつけても、僕はまったく構わないんですけど」
司朗はこちらに背中を向けているので、どんな表情をしているのか小萩には見えない。
声だけ聞けば普段とあまり変わらないようだったが、なぜか親戚たちの顔からはますます色が抜け、「ひっ」と怯えて身を竦ませる女性もいた。
「どうぞお帰りを」
冷淡に告げる司朗に抗議する人間は誰もいなかった。
我先にと座敷を飛び出して、四つん這いになってもあたふたと退散していく。
客の全員がいなくなり、残ったのが小萩と司朗、そして陸母子の霊だけになると、「さて」と司朗が後ろを振り向いた。
眼鏡がないので目つきが鋭いが、いつもどおりの、落ち着いた顔だった。
「小萩さん、今度は誰です?」
「ろ、陸ちゃんのお母さまです。陸ちゃん、あの方のお名前は?」
「り……りくの……」
陸は手の甲で顔を拭いながら、嗚咽の合間に母の名を絞り出した。
「りくのさまは、やっぱり陸ちゃんのことが見えていません。生前にあったことと、現在を少し混同されていて、周囲はすべて敵だと思っておられるようです」
小萩の説明に、司朗は考える顔になった。
「そうですか……眼鏡を外しても、僕にはその人が見えないんですよ。小萩さん、無理そうならやらなくてもいいんですが」
「はい?」
「そのりくのという人に、触れることはできますか?」
「は?」
「説明は後でしますので。でも危険なようなら、しないでください。本当にそうなのか、まだ確証も得ていないですし。くれぐれも慎重に、指先が少し触れるくらいでいいです。異変を感じたらすぐに逃げてください」
まったく意味が判らないが、小萩は頷いて立ち上がった。
今のところ、りくのはただ立っているだけだ。消える様子はないが、がらんとした座敷の真ん中で、少し放心しているようにも見える。
「り──りくのさま、ですね?」
小萩は一歩だけ足を前に踏み出し、そろそろと呼びかけた。
この霊には、電球を割り重い石を動かせる力がある。また興奮させてはいけない。
りくのが表情を失くしたまま、ゆっくりとこちらを向く。自分の名に、わずかに唇を引き締めた。
「今のわたくしはあの女と同様、もはや鬼になった身。人であった頃の名なぞ、もう捨ててしもうた」
「いいえ、鬼になんてなっていません。あなたは人です。今も息子の死から立ち直れず、悲しみから抜け出せない、母親のりくのさまです」
小萩が訴えると、りくのの唇が自嘲気味に上がった。
「このような……このような浅ましい姿になり果てて、あの子の母などと、おこがましいことが言えようか」
「陸ちゃんは、あなたのことをずっと待っていたそうですよ」
今度は、りくのは顕著に反応を示した。
はっと身じろぎして、ぎょろりと大きく目を見開く。
「陸? おまえ、なぜその名を知っている?」
「いるからです、ここに。陸ちゃんはさっきからここにいて、かかさまと、あなたに一生懸命呼びかけています」
りくのは明らかに動揺した顔になった。
「陸が……そんなこと……おらぬよ、おらぬ。どこにも、見えぬ。わたくしの愛しい子、大事な子……陸、陸……かかさまを置いて、どこへ行った」
痛切な表情で呼びかけながら、顔を巡らせ、うろうろと彷徨うように動く。しかしその目が息子に向くことはない。
それを見て、陸がまた苦しげに喘いだ。
すぐ近くにいるのに母親に自分を見てもらえないなんて、こんな悲しいことがあるだろうか。
「りくのさま──」
胸が塞がるような気分になって、居ても立ってもいられなくなり、小萩は思いきって前に飛び出した。
りくのの腕を掴むようにして両手で触れる。
その途端、バチッという音ともに弾かれ、掌に鋭い痛みが走った。
「痛っ……!」
数歩後方へよろめいたところで、司朗がしっかりと支えてくれる。
「小萩!」と陸も心配そうにすぐ傍までやって来た。
「大丈夫ですか、小萩さん」
「は、はい」
「すみません、危ないことを小萩さんにさせました。ああ……こんなにも赤くなってしまって」
「くれぐれも慎重に」という忠告を聞かなかった小萩が悪いのに、司朗は申し訳なさそうに眉を下げて、掌に目をやった。
そこはまるで熱いものに触れたように真っ赤になっている。
「でもおかげで、僕にも見えました。あれがりくのさんですね」
司朗が顔を前に向ける。
彼の目はちゃんと焦点を合わせ、その場所に女性の像を結んでいるようだった。
「触れただけで……?」
赤くなった自分の掌をまじまじと見る。
なぜ、どうしてという問題はさておき、だとしたら今この場で小萩がやるべきことは一つしかない。
再び、りくのに向かって声を放った。
「りくのさま、こちらを見て!」
叫ぶと同時に、近くにいる陸をぎゅっと抱きしめる。
今度は弾かれず、ひんやりとした感触に包まれた。
「……陸!」
りくのが大声を上げた。
暗く濁っていた瞳が、離れ離れになっていた我が子をようやく見つけた歓喜に彩られて輝いた。
人を責め立てる言葉しか吐かなかった唇がぐっと結ばれ、わなわなと震え始める。
さっきまで虚ろだったりくのの顔は、あっという間に、子を持つ母親のものへと変貌していった。
陸は目を丸くした。
「かかさま……おれが見えるの?」
「ええ、ええ、見えますとも。ああ陸、こんなところにいたの……会いたかった……」
りくのの眦が涙で濡れた。
柔らかな声で名を呼び、慈愛に満ちた細い両腕が息子を抱きしめるため、前方へと伸ばされる。
「あ!」
その時、小萩は短い悲鳴のような声を出した。自分の口を手で押さえ、目を見開く。
その顔がみるみるうちに蒼白になったのを見て、司朗が支えている手に力を込めた。
なんとなく、予想はしていた。しかし実際にそれを目にすると、心臓が大きく跳ねて、汗が滲んだ。
他の霊には感じない圧倒的な恐怖が押し寄せて、どうしても身体が強張ってしまう。
──また、あの靄が。