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 親戚たちから訪問の連絡が入ったのは、そんな頃のことだ。


 この日に行きますからね、必ず家にいてくださいよ、と一方的に通告してきたらしく、よりによって取り込み中のこんな時に、と司朗は迷惑そうな顔をしていた。

 しかし断ったところで相手は聞く耳を持たず押しかけてくるのだから、来ることが事前に判っただけでもよかった、と思うしかない。


「普通はもっとへりくだった態度をとるもんだがな。年若い当主だからって、司朗を侮ってるんだろうなあ」


 というのは、新之輔の弁である。


「祝言は終わったんだろ、一体何しに来るんだ?」


 陸は首を捻ったが、それは小萩にも判らない。

 ただ、訪問予定の親戚たちの顔ぶれからは養い親たちだけが排除されていて、やって来るのは小萩がここにいることを喜ばない人ばかりだ。

 つまり、どんな用事であれ、それは自分にとって決して良いことではないのだろう。

 しかし来る以上は、食事や酒などを揃え、彼らをもてなさなければならず、小萩は慌てて準備にとりかかった。

 司朗は「勝手に来るんだからお茶を一杯出すだけでいいですよ」と言っていたが、そういうわけにもいかない。


「司朗の言うとおり、茶だけでいいと思うけどなあ」


 当日、朝から台所に立ちっぱなしで大わらわだった小萩に、木箱に腰掛けて頬杖をついている陸が不満そうに口を尖らせた。

 はじめて会った時もそうだったが、陸が現れるのは台所であることが多い。こういう少し暗くて一段低い場所が落ち着くのだという。


「小萩、ずっと休む間もなく働いてるじゃないか。大人数分の食事を一人で支度するの、大変だろ? 誰か他の人を頼めばよかったのに」


 陸は幼いのに人をよく気遣う。

 その場の空気を読むのが上手く、大人びた物言いをすることもたびたびで、生きていた頃にいろいろとあったのだろうなあ、というのが察せられた。


「司朗さんにも手伝いの人に来てもらおうって言われたんだけど、お断りしたの。平気よ、少しずつやれば大した手間じゃないし。それにわたし、人に指図するの慣れていないから、一人でやったほうが気楽だもの」


 小萩は額の汗を拭いながら笑って答えた。

 美音子あたりが聞いたら「南条家の嫁が情けない」と叱られそうだが、彼女はここ最近ほとんど姿を見せなかった。やっぱり花音子のことが堪えているのだろう。


「小萩は普段は鈍くさいけど、料理の手際はいいもんな。それに腕も上等だ。この野菜の炊き合わせは色合いが綺麗で旨そうだし、白身魚のしんじょの椀もすごく手が込んでる。これなら誰にも文句がつけられないぞ」


 陸に褒められて、うふふと頬を緩めた。

 司朗も毎回感想を言ってくれるし、この屋敷に来てから小萩にとっての料理は、「義務」ではなく「喜び」となった。

 明日は何を作ろうと考えるだけでも楽しいし、あれこれ工夫しようという張り合いも出る。

 誰かに認めてもらえるというのは、こんなにも嬉しいことなのだ。


「陸ちゃんに味見を頼めたらよかったのにね」


 本当は、親戚たちよりもよほど陸に食べてもらいたいと小萩は思っている。

 彼の身体は痩せて服も汚れたままで、それは今後も変わらないのだと思うとやるせない。

 もしも食事ができたなら、美音子が自慢していたパンケーキというものを作ってみたい。この男の子はどんなに目を輝かせるだろう。美音子も少しは元気になってくれるかもしれない。

 小萩にできるのは家事くらいなのに、それでさえ彼らに対しては役に立てないのだった。


「そうだなあ。仏になったら炊き立ての飯の湯気がご馳走だっていうけど、おれみたいな半端なやつには、まだその域まではいけないからな」


 軽い口調で言われたが内容はずっしりと重くて、小萩は思わず手を止めた。

 三人にあまり悲愴感がないからうっかりしてしまいそうになるが、彼らはまだ成仏できていない「迷える魂」なのである。自身に恨みなどはなくとも、道を外れた身内を放っておけず、この世に留まっている。

 理に背いたその状態を続けるのが苦痛でないはずがなかった。


「あ、でも、見るだけでも楽しいからさ」


 小萩の表情が翳ったのを見て、陸は慌てたように手を振った。

 人の気持ちに敏感で、心配をかけまいとする健気なこの子が、どうしてこんなことにと思うと、ますます悲しくなってくる。


「そんな顔するなって、おれは大丈夫だから。おれ、小萩には悪いことしたなって思ってるんだ。おまえに南条の血は入っていないのに、こんなことに関わらせて。本当はおれ、南条家のやつらがどうなろうと知ったことじゃないんだけどな。司朗はともかく、あいつの父親と兄は偉そうで鼻持ちならなくて好きじゃなかった。あの意地悪な親戚たちはもっと嫌いだ。でも……」


 急に陸は両肩を落とし、小さな身体をさらに小さくして、うな垂れた。

 小萩はゆっくりとそちらに近づいていって、陸が座っている木箱の隣に腰を下ろした。


「……陸ちゃんは、南条家が好きではないの?」

「うん……ああ、新さんと美音子は嫌いじゃないよ。でも、あの二人はなんだかんだ言って南条の人間としての矜持があるだろ? そこがおれとは違う。おれは正式な血筋じゃないからさ」


 そういえば、以前もそう言っていた。


「おれの父親は何代か前の当主だけど、母親はちゃんとした妻じゃなかったんだ。一応は南条の血縁者だったのに、かなり傍系だから地位が低くて、屋敷で女官をしていたところを、当主の手がついた。それでおれを産んだんだけど、出自が卑しい妾として蔑まれてたよ。本妻からはいびられて、当主からも放置されて、でもおれがいるからってずっと我慢していた」

「まあ……」


 親戚たちからさんざん「釣り合いが取れていない」と陰口を叩かれた小萩にとっては、身につまされる話だった。

 今よりももっと身分というものが幅をきかせていた時代では、さらに切実な問題だっただろう。

 陸は生まれた時から、母親ともども困難な状況に置かれていたということだ。


「おれもよく苛められた。本妻とか、その息子たちとか、他の家のやつらとかに。その頃の公家なんてのはみんな貧乏だったからね、鬱憤晴らしっていうのもあったんじゃないかな。飯を抜かれるのは当たり前で、蹴鞠みたいに集団で蹴り回されたり、木に縛りつけられて夜まで放っておかれたこともある。そいつらから隠れるために、おれはしょっちゅう縁の下とかに潜り込んで隠れてた」


 だから台所のような暗くて低い場所が落ち着く、と言っていたのだ。

 知ってみれば、あまりにも痛々しい理由だった。

 れっきとした当主の子で公家の若君が、母親の地位が低いというだけで、そこまで過酷な境遇に追いやられていたとは。


「だけどおれ、泣いたりしなかったよ。だって、かかさまがいたからね」


 少し幼いその呼び名を口にする時だけ、陸の表情が和らいだ。


「かかさまはいつもおれを庇ってくれた。おれの代わりに殴られたこともある。だからおれ、かかさまには心配させたくなかったんだ。公家屋敷っていうのは御所の周りを囲むようにまとまって建ってるから、どうしても腹が減ったらそこからこっそり抜け出して、町人のところで食べ物を分けてもらったりしてさ」


 そこで陸は世間知というものを身につけたのだろう。

 年齢のわりにしっかりしているのは、それだけ彼の背負っていた苦労が大きかったからだ。

 母親に心配させないよう、いつも平気な顔をしてみせるのは、きっと並大抵ではない努力が必要だっただろうに。


「おれがちょっとやそっとじゃへこたれないもんだから、本妻はなおさら面憎く思ったんだろうなあ。日に日に、いびり方がひどくなってきて」


 陸が八歳になったある日、何が気に入らなかったのか、捕まって激しく打ち据えられたのだという。

 所詮公家の女性なので、本妻に大した腕力があったわけではない。

 しかし相手は子どもで、それもあまり食べていないから痩せ細っている。明らかに自分よりも弱いその存在に手を上げるうち、彼女はだんだん自身の暴力に酔い始め、歯止めがかからなくなっていった──らしい。


「正直、その時のことはよく覚えてない。長い髪を振り乱して、何度も何度も棒を振り下ろすその顔が悪鬼みたいで、痛みよりもそっちのほうが怖かった。ぎゅっと身体を縮めて耐えるしかできなくて、そんな自分がすごく情けなくて、その時だけはちょっと泣いた。かかさまの声が聞こえたような気がしたけど、そのうちそれも遠くなっていってさ。最後のほうは、おれがいなくなったら、誰がかかさまを守ってくれるんだろ、ってそんなことばかり思って……ん? あれ、まいったなあ、泣くなよ、小萩」


 途中から我慢ならなくなってべそべそと泣き出した小萩を見て、陸は困ったように指で頬を掻いた。

 自分が泣いても陸にとって救いになるわけではないと判っているのに、八つの子どもがその時どんなに恐ろしい思いをしただろう、どんなに痛かっただろう、どんなに苦しかっただろうと考えると、どうしても涙が止まらない。


「ご……ごめん、ごめんね……わっ、わたし、陸ちゃんに、なんにも、し、して、あげられなくて」


 自分の経験としても、その時の陸の恐怖はよく理解できる。

 この小さな身体を抱きしめてあげたいし、頭を撫でてあげたいし、もういいというくらいたくさん食べさせてあげたいのに、何一つできないのがもどかしく、悔しかった。

 どれだけ近くにいても、生者と死者はこんなにも遠く隔たっている。


「小萩は優しいなあ」


 陸は小萩を責めるでもなく、目を細めてそう言った。


「おれ、優しい人は好きだ。かかさまも、すごく優しい人だったよ」


 そして下を向いて、「……でも、優しすぎる人は心配だ」と小さな声で呟いた。


「小萩さん、どうしました?」


 その時、驚いたような声とともに、司朗がやって来た。

 台所に詰めっぱなしの小萩が気になって、様子を見にきたらしい。


「具合でも悪いんですか。準備はもういいので、休んでください」


 木箱に座って涙をこぼしている小萩を見て、「だから無理をする必要はないと言ったのに」と顔を曇らせる。

 何か誤解をされているようだったので、小萩は急いで涙を拭いた。


「あ、いえ、違います。休憩ついでに、陸ちゃんと話をしていたら、ちょっと」

「陸くん?」


 首を傾げた司朗が問い返す。

 探すように動いたその視線は、小萩の隣にいる陸を素通りした。


「え、ここにいますけど……」


 戸惑いつつ、小萩が陸の背中に自分の手を添え──添えようとして突き抜けてしまったが、それで司朗もそこに陸がいることに気づいたようだった。

 眼鏡を外して、「ああ、いた」と目を瞬く。

 もしかしたら、幽霊というものは、ガラスを通すと見えにくくなるのかもしれない。


「何の話をしていたかは知りませんが、そんな真っ赤な目をして……精神が不安定なのは、疲れているせいもあるんですよ。とにかく、お茶でも飲んで一服して、もっとちゃんと休みましょう。なにもあの人たちのために、そこまで小萩さんが体力をすり減らすことはありませんから」


 そう言って微笑む司朗に、小萩も少しぎこちなく笑い返した。

 いつもは嬉しいだけのその笑顔が、なぜか今は痛い。


「そんなことを言うなら、司朗がさっさと茶を淹れればいいだろ。なんで小萩にやってもらう前提で労わってるんだ。そういう無神経さ、お坊っちゃんの悪いところだぞ、判ってるか?」

「なるほど、陸くんの言うことももっともです。確かに無神経でした。小萩さん、急須はどこですか。茶葉は一回につき何グラム入れればいいんでしょう」

「おまえほんと植物のこと以外は無能だな!」

「い、いいんです、司朗さん。わたしがやりますから」


 慌てて木箱から立ち上がり、急須と湯呑みの用意をする。

 陸が司朗に懇々と説教しているのを背中で聞きながら、小さく息を吐き出した。

 どうしてこんな時に、花音子の言葉を思い出してしまうのだろう。


 ──甘い言葉を信じてはだめ。優しげな顔に欺かれてはだめ。

 笑いかけるのは、ただの憐れみと同情から──





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