幽霊の事情
美音子の話が終わっても、しばらくは誰も口をきかなかった。
小萩も言葉を失った。
姉妹間でそんな壮絶な出来事があったなんて──
「気がついたら、私はまだ家の中にいたわ」
助かったのかと思ったが、何か様子がおかしい。誰もが、美音子の姿が見えていないようなのだ。
父母と兄は暗い表情で、生まれ育った洋館は沈鬱な空気に満ちている。声をかけても、誰も反応する者はいなかった。
耳に入ってくる情報から、自分と花音子が同じ日同じ時刻に死んだことを知った。
どうやら自分は魂だけ現世に取り残されたようだと気づいたが、だからといってどうすればあの世に行けるのかなんて判るはずもない。
気がかりは、花音子は無事冥土に旅立てただろうか、ということくらいだ。
そのうちなんとかなるかしら、と思いながら、その時までふわふわと漂っていることにしたのだという。
「の、呑気に構えていらっしゃったんですね……」
小萩は目を丸くしたが、美音子は肩を竦めた。
「だって死んじゃったものはしょうがないじゃないの。それに、時間が経つにつれて、どんどん自分の存在自体が希薄になっていくようで、ものを考えることも難しくなっていったのよね。気がつくと両親も亡くなって代替わりしていたようだけど、それも他人事のようだったわ。このまま私も消えるのかと思っていたら、ある時、何かに引っ張られるように意識がはっきりして──花音子を見つけた」
美音子と同じく魂だけの存在となった花音子は、生前とはまるで違っていた。
怒り、嘲り、糾弾し、いつも誰かを責めている。そして美音子にはない力で、人を傷つけて被害をもたらし、それを見て高笑いをする。
そこにはもう、穏やかに微笑み、花と本を慈しんでいた少女の姿はなかった。
変わり果てた妹を見るのは苦痛でしかなく、もうそんなことはやめてと何度も嘆願したが、その言葉は相手に届かない。近くに寄っても、彼女が美音子に目を向けることはなかった。
花音子にとって、現在の姉は透明な存在なのだ。
悪行を繰り返すたび花音子の魂がどす黒く染まっていくのを、美音子は手をこまねいて見ているしかなかった。
「そうしているうちに、ここには私以外に同じような人間……いえ、幽霊がいることに気づいたのよ。花音子には私が見えないけど、二人には見えたし、言葉も交わせた。なぜかといったら」
そこで一旦、口を閉じる。
美音子が窺うように新之輔を見て、それに頷いた彼が続きを引き受けた。
「──なぜかといえば、俺たちも美音子と同じだったからさ」
「同じ……とは?」
首を傾げた小萩に、黙って話を聞いていた司朗が口を開く。
「……つまり、ここには花音子さんの他にも悪い霊がいて、彼らはそれに近しい立場であった、ということではないですか?」
「えっ」
目を見開いて二人のほうを振り向くと、新之輔と陸はなんともバツの悪そうな顔をした。
「じゃあ、この家に棲みついている悪い霊って……」
「花音子以外に、あと二人いる。一人はロクの、そしてもう一人は、恥ずかしながら俺の身内だ。それぞれ遺恨のある死に方をしてな、生前に積み上げた恨みつらみを、魂だけの存在になってから、自分の子孫にぶつけているらしい。俺とロクも美音子同様、気づいたらここにいて、身内のやらかしを見せつけられた。やつの死と俺の死は深く関わっているから、魂が部分的に繫がっているのかもしれん。しかしだからこそ責任も感じてね、なんとかあいつを止めて、引きずってでもあの世に連れて行こうと思ったんだが」
思ったが、やはりあちらには自分たちの姿が見えず、声も聞こえない。霊としての力は圧倒的にあちらが強いので、強制的に阻止することもできない。
そうしているうちに死人が出て、どんどん事態は悪化していく一方だ。
三人は困り果て、うろうろと屋敷の中を彷徨っていたのだという。
「で、そんな時に現れたのが」
「……わたし、というわけですか」
小萩が自分自身を指差すと、新之輔は大きく頷いた。
「そのとおり。これまで、この屋敷に来たやつには片っ端から声をかけてみたが、反応をした人間は一人もいなかった。気配くらいは感じても、すぐに怯えて逃げちまう。小萩が、俺たちの姿が見えて声も聞こえる、はじめての人間だったんだよ」
この娘だ、と新之輔たちはようやく光明を見出した気分だったという。
「これだけ霊と意思の疎通ができるなら、きっと小萩の言葉はあいつらにも届くと思った。俺たちとやつらの仲立ちになってもらえば、この状況もきっと変わる。おまえが俺たちの最後の希望だったんだよ」
「そ、そうだったんですか……」
司朗は渋い顔で「何を勝手な」と呟いたが、小萩はいろいろと納得した。
大事なところが曖昧なのに三人の態度に必死さを感じたのは、司朗を守るというより、自分たちの身内を止めたいというほうに重点が置かれていたからだったのだ。
新之輔は小萩を正面から見据えた。
「改めて頼む、小萩。俺たちに力を貸してくれ。あいつらにこれ以上罪を重ねさせるわけにはいかない。おまえがこの家に来たのは、必ず何か意味があるはずだ」
真剣な声に押されるようにして思わず頷きかけたが、さっきからずっと不機嫌そうな司朗のことを思い出し、危うく踏みとどまった。
事は南条家の人々のことなのだから、当主を差し置いて、軽はずみな返答をするわけにはいかない。
「あの、司朗さん……今の新之輔さまたちが嘘を言っているとは、わたしには思えません。こうして打ち明けてくださったことですし、許してあげてくださいませんか」
そろそろと司朗の顔を覗き込む。
彼はちらっと小萩を見て、「──ずいぶん、信頼しているんですね」とぼそりと呟いた。
「は?」
「いえ、なんでも。……とにかく」
不承不承、というように長くて深い息を吐き出す。
「ここまで来て突っぱねても、何も解決しないでしょう。これ以上小萩さん一人に厄介事を背負わせるわけにはいかないので、僕も協力します。ただ、あちらに声が届くからといって、それがすなわち『話が通じる』ということではないので、決して無茶はしない、させないと約束してください。いいですね?」
司朗は小萩と三人の幽霊に向かって、そう念を押した。
***
三代続けて思いを残した霊が暴れるというのは、どう考えても異常だ。
個別に事情があるのだとしても、それが普通なら、とっくにこの世には霊が溢れているだろう。
南条本家の者に限ってそういう事態になるのだとすれば、むしろ問題があるのはこの家のほうではないか──と、司朗は言った。
だとしたら今までにも、似たような事例や心霊現象が起きていた可能性がある。それによって対処法も判るかもしれないので、まずはそこから調べてみる、という。
さすが司朗は冷静かつ筋の通った考え方をする、と小萩は感心した。
自分はそんなことまったく思いもしなかったし、万が一思いついたとしても、どうやって調べればいいのか、その方法が皆目見当がつかなかっただろう。
そのあたりを司朗に訊ねてみたら、
「この家には、代々の当主がつけていた日記や覚え書き、その他様々な文献が保管されているんですよ」
という答えが返ってきた。
それらは大半がさして内容のあるものではなく、変わり映えのない一日が淡々と綴られていたり、日々の献立がずらずら並べられていたりというのまであって、誰も興味を持たず、納戸の中でただ埃を被って積まれてある状態なのだそうだ。
その中に有益な情報が記されていないか探ってみると司朗は言ったが、なにしろ数が膨大な上に古いものは傷んでいる場合が多いので、かなり時間がかかるだろう、とも続けて言った。
そしてその言葉のとおり、十日以上経った今になってもほとんど進展はない。
学者らしい慎重さと丹念さで文献に目を通している司朗に、幽霊たちは少々じれったい思いもしているようだった。
「本当にそんなことに意義があるのかしら」
「まどろっこしいよなあ。もっと手っ取り早い方法はないのか?」
「きっと大丈夫ですよ。司朗さんは真面目で頭が良くて熱心で頼りになる方ですから」
「小萩……おまえは司朗に対する点が甘すぎる」
すでに暦は十月となり、外の空気は「涼しい」から「冷たい」へと移り変わろうとしている。これが「寒い」へと変わるのも、それほど先のことではないだろう。
──南天は、またさらに茶色の葉が増えた。
花音子の一件から何も起きない日が続いているが、どんどん枯れていくその姿は、あれで終わったわけではないことを嫌でも小萩に伝えてきているようだった。
むしろ嵐の前の静けさ、ひそやかにこの屋敷を侵食するものがいるという現実を、目の前に突きつけられている気分になる。
幽霊たちには「大丈夫」と言ったものの、小萩はそれを見るたび不安に駆り立てられた。
南天の前にしゃがみ込んで、懐の中から小さなお守り袋を取り出す。
自分で縫ったその袋の中には、厚紙に挟んだ萩の押し花が入っている。
小萩さんを守ってくれるように、と司朗から渡された萩に向かって、小萩は毎日の朝と夜、必ず願をかけるようにしていた。
司朗がこの先もずっと健やかでいられるように。三人の望みが果たされるように。
もう誰も、泣くことがありませんように──