対面
居間の中、司朗が腕を組み、無言のまま座っている。
その正面で、生きた心地がしない小萩も、膝を揃えて両肩をすぼめている。
そして小萩の後ろには、三人の幽霊たちも大人しく並んでいる。新之輔は司朗と同じように腕を組み、陸は叱られた子どものように首を竦めて、美音子はさっきからずっと放心状態だ。
室内に落ちる沈黙が痛い。司朗が小さな息をついたが、それだけで小萩の身体はびくりと揺れてしまった。
「──小萩さん」
決して大きい声ではないのにその呼びかけは重々しく響いて、さらに身が縮んだ。
「美音子というのは、誰のことですか?」
「それは……」
小萩は答えに窮した。
司朗の目ははじめから小萩だけに向けられたまま、そこから動いていない。すぐ後ろにいる三人の姿が、彼には見えないのだ。
だったら美音子というのが明治生まれの南条のご令嬢で、今この場にいるということを説明しても、果たして信じてもらえるものだろうか。
昔から、幽霊に遭遇した時、小萩が驚いたり怖がったりするのを、周囲はみんな怪訝な顔で見るだけだった。目に映るのが小萩一人である以上、彼らにとって幽霊はそこに「存在しないもの」だからだ。
存在しないものに向かって怯える人間のことを、他人はどう見て、どう思うか。小萩はそれをよく知っている。
──あの子はちょっと、ここが。
と、頭を人差し指でちょんちょんと突くのだ。
気の毒がられたり、気味悪がられたり、嘲笑されたり。反応は様々だが囁かれる内容はいつも同じ。
小萩自身も、この世ならぬものが見えてしまう自分の目が、あるいは自分の頭が本当に壊れているのではないかと思ったことがある。
怖がる様子を見せるだけでそんな調子なのだから、もしも「あそこに幽霊が」などと口を滑らせたらどうなるか、火を見るよりも明らかだ。それまでも両親の言いつけを守って気をつけていた小萩だが、何度かそういう経験をしてからは、よりいっそう固く口を噤むことになった。
あいつは変だと決めつけられるのは悔しい。距離を置かれるのも、苛められるのも、笑われるのもつらい。どんどん自己嫌悪だけが深まっていくのは苦しい。
──でも、なにより、自分を信じてもらえないことが悲しい。
誰にも何も言わないこと。それが小萩にとって唯一の自衛手段だった。忠告をしてくれた両親は今はもうおらず、自分を守ってくれる者はどこにもいないのだから。
唇を強く結んで俯く小萩に、司朗はもう一度ため息をついた。
「……思えば、僕が家を一晩空けた時から、奇妙なことはありましたね。あの頭痛といい、今日の耳鳴りといい、疲労や病気では説明がつかない。僕の耳が聞こえない間、小萩さんは懸命に何かに向かって話しかけていたし、その視線も僕ではないどこかに向けられていた。そしていきなり屋根瓦が落ち、小萩さんは知らない名前を呼んで、『あれは誰だ』と訊ねた……僕が得た情報だけでは、何がなんだかさっぱりです」
彼側の視点で起きていた事柄を、司朗は冷静に並べていった。
小萩を問い詰めるでも、責めるでもなく、理性的に状況を把握しようとしている。
だからこそ、怖い。学者である司朗は、霊というものを認められるのだろうか。小萩の話を、そのまま呑み込むなんてことができるだろうか。見えないものの存在を、受け入れられるのだろうか。
司朗のその目が疑念に染まっていくところを、小萩は見たくなかった。
眉をひそめられ、呆れられ、怒り出されたら、どうしたらいいか判らない。司朗にまで頭のおかしな娘として見られたら、もう立ち直れそうになかった。
赤紫の小さな花が頭に浮かんで、唇を噛みしめる。
ようやく司朗に少しだけ近づけたような気がしたのに──
「小萩、ここはもう、本当のことを話したほうがいい」
うな垂れたまま黙っている小萩を見かねたのか、新之輔が静かに言った。
ちらっと後ろを振り返ると、陸は心配そうな顔で、美音子は思い詰めたような表情で、こちらを見ている。
新之輔が頷いた。
「俺たちも本当のことを話す。司朗が聞く耳を持たないようだったら、その時はおまえのほうから見限ってやればいい。そんなやつはいくら甥でも許さない、俺が枕元に立って説教してやるからな」
からかうような笑みを浮かべたが、その目には緊張が浮かんでいる。新之輔もきっと司朗がどう出るか判らなくて、不安なのだろう。
小萩は向かいにいる司朗に顔を戻した。何もない虚空に視線を向けていた小萩に、少しだけ片眉を上げたものの、司朗は真面目な表情を崩さずにこちらを見返した。
この期に及んでも、頭の片隅では、何か上手な口実はないかと考えている自分が嫌になる。しかしもちろん、司朗を納得させられるような出まかせを瞬時にこしらえるほどの才能は、小萩にはなかった。
それに──
うそつき、うそつき、うそつき! と叫んでいた少女の面影が過ぎる。
怒りながら、彼女は悲しんでいた。咎める唇は大きく歪んで、今にも泣き出しそうだった。過去に何があったかは知らないが、その瞳には、信じていた人に裏切られたという絶望ばかりがあった。
嘘は、時として人をひどく傷つける。
「実は……」
小萩は何もかも正直に打ち明けることにした。
***
「……三人の、幽霊」
予想どおり、司朗はぽかんとした顔になった。
すぐにバカバカしいと切り捨てられたり、笑い出されなかっただけ、よかったと思うべきかもしれない。そうされてもおかしくない内容なのだ。
小萩はその三人が司朗の血縁者であることを明かし、一人ずつを紹介した。
「この方が新之輔さま、こちらが美音子さま、そしてこの子が陸ちゃんです」
なにしろ司朗からは何も見えないわけだから、口で言うだけでは判らないだろう。そう思って、それぞれ名を出すと同時にそっとその肩に触れて、「ここにいますよ」ということを示した。
軍服の新之輔、赤い振袖の美音子、童水干の陸。
幽霊に触れるのは小萩にとっても初体験である。手ごたえがなく、すかっと空を切るようだったが、その身体を自分の手が通過する時、ひんやりと冷たいものに包まれる感じがした。
司朗は何も言わず、そちらに目を向けている。
小萩はこの家に来た時からあった出来事を、順を追って話した。
祝言の翌朝、台所で陸に会ったこと、それから他の二人の話し声が聞こえたり、ちらちらと姿を見るようになったこと……
「普通の娘なら、その時点で逃げ出していただろうからなあ。こいつは見どころがありそうだと美音子と話してたんだ」
新之輔が感心したように言葉を添える。
どうやら彼らは最初から小萩に目をつけていて、少しずつ試すようにして様子を見ていたらしい。小萩に帰るところがあったら本当に逃げ出していたかもしれないのに、その時はどうするつもりだったのだろう。
司朗が倒れたその後で、新之輔からこの家には悪い霊がいると聞かされ、それをなんとかするために小萩も彼らに協力することになった経緯を話すと、司朗の眉がくっきりと真ん中に寄った。
三人の幽霊もまた、その話を黙って聞いているだけだったのだが、
「──それで、司朗さんが頭痛に襲われた時に見えた黒い靄が」
と言ったところで、新之輔が急に「は? 待て待て」と驚いたように遮った。
「なんだそりゃ、黒い靄?」
小萩も驚いた。
「えっ……黒い、もやもやっとしたものですよ? あの時、司朗さんの近くにいたでしょう? さっきもいました。花音子さまのすぐ後ろに現れて、若い男の姿に」
小萩の説明に、三人は揃って戸惑う表情になった。
互いの顔を見合わせ、首を横に振っている。
「見えて……いませんでしたか?」
混乱したのは小萩も同じだ。
あの恐ろしい気配をまとう黒い靄。震えるほどの不気味さで、前回も今回も小萩の身を竦ませたのに、それが同じ霊体である三人に見えないなんて、そんなことがあるだろうか?
──でも思い出してみれば、確かにあの時、三人は黒い靄については言及しなかった。
「以前、司朗に霊障が起きたのは、近くに花音子がいたからだ。すぐに消えたし、小萩はちょうどあの時台所に行こうとして背を向けていたから、見えていなかったようだがな。……しかし、黒い靄なんてなかったぞ。小萩には霊の残滓のようなものがそういう風に感じられた、ということかな」
考えるように新之輔が言ったが、小萩はその説に頷けなかった。
あれは感じたという曖昧なものではなく、はっきりとした形でそこに「いた」はずだし、花音子とはまた別の存在だった。
それにおそらく、あの靄には自分の意志もある。
「花音子の後ろにも、そんなものはなかったわ。小萩が急に立ち止まったと思ったら、花音子の様子が変わって……でも、若い男なんていなかったわ、どこにも」
美音子は力なく投げ捨てるように言った。
「それまでは上手くいってると思ったのに……やっぱり、小萩の声はあの子に伝わるのね。何度呼びかけても、私の言葉は花音子に届かなかった。小萩の存在がこの膠着状態を変えられる鍵になるという、私たちの考えは間違っていなかったんだわ。それでも」
「私たちの考え、とは?」
「だから……」
目を伏せ、独り言のように呟いていた美音子は、答えようとしてぴたっと口を噤んだ。
弾かれたように顔を上げ、その問いを発した人物のほうを向く。
陸も、新之輔も、そして小萩も、目を見開いてそちらを見た。
今までずっと無言を貫いていた司朗が、腕を組んだままじっと視線を向けている。
その方向には、間違いなく美音子がいた。
「えっ」
「ええっ?」
三人の幽霊が同時に驚愕の声を上げ、一拍遅れて出てきた小萩の声も裏返った。
「し、司朗さん?」
「はい」
「美音子さまの声が聞こえて……いえ、姿が見えているんですか?」
狼狽しながら訊ねると、司朗は少し首を捻った。
ゆったりした動きは、いつもの彼のものだ。なぜそんな平然とした顔をしていられるのだろう。小萩と幽霊たちのほうが、よほど度肝を抜かれている。
「見える……というには、ぼんやりしていますが」
司朗は少しずつ顔を移動させては、何度か目をしばたたいた。明らかに、美音子、陸、新之輔のいる場所を捉えている動きだった。
幽霊である陸のほうが、見てはならないものを見てしまったというように「なんだこいつ」と慄いている。
司朗は少しの間、目を眇めたり顎を引いたりしていた。視力の悪い人が、遠くにあるものをなんとか見て取ろうとしている時によくする仕草だ。
そして、いつもかけている眼鏡を外して、明るい声を上げた。
「ああ、このほうがずっとよく見える。右から順に、新之輔さん、美音子さん、陸くんですね」
晴れ晴れとした顔で言い当てる。
思ってもいなかった成り行きに、小萩は呆気にとられた。
「ど、どうして、いきなり? 今までは見えていなかったんですよね?」
「そうですね、まったく。でも小萩さんが一人ずつの名を教えてくれたところあたりから、声が耳に入るようになって、姿かたちもおぼろげに浮かび上がってきた、といいますか。……名前を知ることで存在を認識できた、ということですかね、興味深い」
顎に手を当てて分析までしている。
今度は美音子が「なんなのこの男」と引くように少し後ずさった。
名を知ったから認識できるようになった……そんなことがあるのだろうかと困惑しきって新之輔のほうを見ると、彼も「うーん」と唸って首を傾げている。
「理屈がよく判らんが……まあ、南条ははるか昔、高名な陰陽師を輩出したという家系だからな。たまに、やたらと勘のいい人間や、未知のものを見通せる人間が生まれるという話は聞いたことがある。今までは植物に興味関心が偏っていただけで、司朗にもそういう素質があったのかもしれん」
「陰陽師?」
「詳しくは判らないが、そう伝えられている。なんでも帝の覚えもめでたい非常に力の強い術師がいて、そこから南条家は朝廷で重用されるようになった、という話だ」
新之輔の説明に、小萩は目を真ん丸にした。
陰陽師なんて、自分からは遠い存在すぎて想像もできない。
「とりあえず、それについて考えるのは後にしましょう」
司朗が割り入って、話の舵を切り直す。
「三人は南条本家の方々ということですが、念のため、どういう関係なのか確認させてもらってもいいですか?」
普段どおりの淡々とした話し方に、その場の空気も少し落ち着いた。
三人のうちいちばん年長の新之輔が表情を引き締めて、「そうだな」と口を開く。
「俺はおまえの伯父だ。おまえの母親の腹違いの兄、と言えば判るか?」
「ああ、母は祖父が後妻に迎えた女性との間に生まれた子でしたからね。ということは、祖父と先妻の方の子ということですか。残念ながら、母から自分の兄については聞いたことはありませんが」
「まあ……そりゃそうだろうな」
苦い顔の新之輔が、視線を横に流しながら低い声で言った。
若くして故人となった身内のことは軽々しく言えないだろう、という以外にも事情がありそうな「それはそうだろう」だった。
「陸くんは……その服装を見る限り、かなり前の時代のようですね」
「そうだぞ。ご先祖さまと呼べ」
「ご先祖」
ふんぞり返る陸の言葉を司朗は棒読みで繰り返し、顎に手を当てた。
「……じゃあ、裏を取るのは難しいかな」
ぼそりと落とされたその呟きに、一同が凍りつく。
新之輔は思いきり顔をしかめた。
「うわ……こいつ、俺たちのことを疑ってやがる」
「小萩さんを巻き込んだあなたたちの言葉を鵜呑みにするわけにいかないのは当然でしょう。南条の名を騙っているだけで、実は悪い霊はあなたたち自身、という可能性もある。たとえ本当だったとしても、南条の人間であるというのは、信用に足るというのと同義ではありません」
理路整然と切り返されて、新之輔はますますイヤそうに鼻を鳴らした。
「こういうところ、腹立つくらい俺にそっくり。血の繋がりってのは怖いね」
しかし皮肉なことに、疑り深いところだけでなく、眼鏡を外した司朗は新之輔と顔立ちがなんとなく似ているのだった。
普段は美音子に「威厳がない」と嘆かれるほどおっとりしている司朗なのに、眼鏡がないだけで、相対する人間が背筋を伸ばさずにはいられないくらい、眼差しが鋭くなる。
「まだ伯父と認めたわけではありませんよ」
不満げな新之輔にあっさり返して、司朗は美音子のほうを向いた。
「それで、美音子さん」
「な、なによ、私は間違いなく南条の血筋よ。私のお父さまは伯爵位をいただいた、立派なご当主だったんだから」
美音子が珍しくたじろいでいる。
司朗は真顔で頷いた。
「なるほど。その気位の高さ、いかにも南条一族という感じです。それより、花音子さんというのは?」
出されたその名前に、美音子はぎくりとして固まった。
逡巡するように司朗から小萩へ視線を移し、それから新之輔と陸のほうを見る。
二人が促すように頷くと、しばしためらってから、美音子は話し出した。