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悪い霊

 


 屋敷に戻ると、門の内側で美音子が待ち構えていた。

 小萩を見るなり寄ってきて、「どうだったのよ」とつっけんどんに問いかける。

 どうやら心配してくれていたらしい。憎まれ口は叩くが、世話焼きでお人よしな性格なのだ。

 小萩は笑みをこぼした。


「はい、おかげさまで、なんとか」


 先に建物のほうに向かった司朗の後ろ姿にちらっと目をやり、こそこそと内緒話をするように答える。

 美音子は小萩が持っている萩の花を見下ろし、ふんと鼻で笑った。


「なんともまあ、素朴すぎる贈り物だわね。大輪の花束を渡すくらいの度量がなくてどうするのかしら」

「でも、わたしは嬉しいです」

「何を甘っちょろいことを言ってるのよ。いいこと、こうなったら司朗に必ず着物を三枚は買ってもらいなさい。安物で手を打つんじゃないわよ」

「小萩さん、どうしました?」


 玄関の手前で、司朗が振り返る。美音子と話すため立ち止まっている小萩を怪訝に思ったのだろう。

 当然ながら、彼の目には小萩一人しか映っていない。


「あ、はい、今すぐ──」


 行きます、と続けようとした言葉が宙に浮いた。

 手から力が抜けて、持っていた萩の花がぱさりと地面に落ちる。

 目を大きく見開き、ぱっと弾かれるようにすぐ隣を見た。美音子も動きを止め、食い入るように司朗の背後に目をやっている。何がなんだか判らなくて混乱した。どういうことだ。


 ()()()()()()()()()()()()()()()


 同じ顔をした少女が、小萩の隣と司朗の背後に同時に存在している。

 地面に影がないので、あれもまた幽霊であるのは間違いない。だからといって、こんなことがあるのだろうか。

 二人の美音子は同じ着物、同じリボンをしていた。違いがあるとしたら、こちらの美音子は驚愕と狼狽を顔に出してもう一人の自分をじっと見つめているが、あちらの美音子はこちらの美音子にまったく関心を向けていない、ということくらいだ。

 彼女の視線は、すぐ前にいる司朗から動かない。


「仲がいいのねえ」


 もう一人の美音子の唇が、ゆるりと弧を描いた。

 その声も美音子とよく似ているが、口調はまったく異なっていた。小萩の隣にいる美音子はいつも怒ったようなすぱすぱとした早口だが、あちらの美音子はやんわりとした優しげな言い方だ。

 だがそこに不穏な目つきと微笑が加わると、柔らかい布の中に鋭い刃をもつナイフが隠されているような、そんな危うさと怖さを感じさせた。


「でもねえ、知ってる? 恋など儚いものなのよ。人は人を平気で騙し、裏切ることができるんだもの」


 歌うような調子で続ける言葉は、その笑みと裏腹に人間への不信に満ちていた。


「甘い言葉を信じてはだめ。優しげな顔に欺かれてはだめ。笑いかけるのは、ただの憐れみと同情から。慰めて労わるのは自分を満足させたいから。それはただ、弱いものから向けられる好意と信用を得たいがための行為なの。懐かせて、縋らせて、依存させることができたら、内心でほくそ笑むのよ。自分が誰かの上にいることを確認し、優越感を抱いてね。……だから、勘違いしてはいけないわ」


 少女はそう言いながら小萩のほうを見た。それでその言葉が、司朗ではなく自分に向けられているのだと知った。

 足が震えるのは恐ろしさからだろうか。

 何が? 美音子の姿をしたあの少女が? それとも、彼女がちくちくと針で突いてくる、小萩の中で蠢くものが?


「みいんな、欲深いの。自分のことしか、考えていないの。可哀想に。あなたもすぐに捨てられてしまうわ、この男に」


 彼女の視線がまた司朗へと戻った。

 司朗はそこで立ち止まったまま、顔をしかめて耳に手を当てている。すぐ近くに立つ少女の声は聞こえていないようだが、なんだか様子がおかしかった。


「……花音子(かのこ)


 小萩の隣から小さな声が漏れた。

 誰かの名を呟くこちらの美音子は、いつもとは違って悲嘆と苦悶を表情に滲ませ、弱々しく首を横に振っている。

 だが同じ顔をしたあちらの少女は微笑したまま、美音子にはまったく目を向けない。関心がないというより、存在自体見えていない、そんな感じがした。


「嫌よね、悲しいわよね、捨てられるのは。そんな酷いこと、許したくはないわよね。だめよ、許しては。そうよ、()()()()()()()()()()()()()()()()。だったら簡単よ、捨てられる前に、捨ててしまえばいいの」


 その時になって気づいた。

 司朗が立っているのは玄関口、(ひさし)のすぐ下。その庇に葺かれた瓦が細かく揺れている。

 カタカタと小さく音が鳴っているのに、耳を押さえた司朗は上を見もしない。


「司朗さん……!」


 小萩は青くなって名を呼んだが、司朗はそれに反応しなかった。

 しきりと首を捻りながら顔を上げ、必死に口を動かしている小萩を目に入れて眉を寄せる。


「すみません、急に耳鳴りがして……おかしいな」


 何も聞こえない、と続けられた言葉に、小萩の顔からますます血が引く。

 これも霊障か。

 だとしたらあの美音子と同じ顔をした少女が、司朗を狙う「悪い霊」ということだ。


「美音子さま!」


 顔を横に向けて叫ぶと、美音子はビクッと両肩を跳ねさせた。


「あれは誰ですか?! 知っているんでしょう?!」


 蒼白になった顔がこちらを向いた。

 小萩と目を合わせ、泣きそうにくしゃりと表情を歪める。そこにいるのは傲慢さを失って途方に暮れる、十七歳の女の子だった。


「……花音子、よ」


 震える声でもう一度その名を口にした。


「私の双子の妹、花音子」


 双子。だからこんなにも似ているのだ。年回りも同じくらいということは、事故か何かで、姉妹一緒に亡くなったということか。

 それがなぜ、こんなことに。


「美音子さま、花音子さまを止めてください。あれはあの人がやっていることでしょう? あのままだと、司朗さんが」


 美音子は力なく首を振った。


「だめよ、だめ……花音子には、私の言葉が届かないの。私のことも見えていない。あの子は私を、双子の姉を、自分の心から消してしまった──」


 それから小萩に懇願するような目を向けた。


「小萩、お願い。あの子に伝えて。こんなことはもうやめてって。こんなことをしてはダメって。私の声は聞こえなくても、あんたなら花音子と話ができる。もうあの子に苦しんでほしくないの」


 同じ霊なのに、双子の姉のことだけが感知できない?

 そんなことがあるのかと訝ったが、迷っている暇はなかった。

 小萩は唇を強く噛み、花音子と向き合った。瓦は揺れを増し、カタカタという音も大きくなりつつあるのに、司朗はまだ気づいていない。

 あれが落下したら、司朗は大怪我をする。いや、怪我で済むかどうか。


「──花音子さま」


 慎重に口を開け、名を呼んだ。

 あちらを刺激してはいけない。少しずつ足を動かして、じりじりと距離を詰めた。


「花音子さま、こんなことはおやめください。美音子さまがご心配されています」

「美音子?」


 ぴくっと花音子の眉が上がった。

 その顔から微笑が引っ込んで、小萩は自分の説得が早々に失敗したと知った。心臓が冷える。


「あなた今、美音子って言った? 美音子って、ねえさま? ねえさまのこと? ねえさまが私を心配? なに言ってるのよ、ねえさまはもういないのに。いないんだから、もう私を心配することもないわ。そうよ、いないの……ねえさまは、もうどこにもいない……だって、私が」


 どうやら、失敗というわけでもないようだ。花音子はぶつぶつと独り言を言い始め、虚ろになった眼差しが空中へと逸れた。

 意識を自分の内部へと向けたからか、その顔から笑みは消えたが、それまでまとっていた物騒な気配も失せつつある。

 小萩は必死に冷静さを保ち、子どもに向かって語りかけるように、努めて穏やかな声を出した。


「花音子さま、落ち着いて。美音子さまはいらっしゃいますよ、すぐ近くに」

「ねえさまが?」


 花音子は目を大きく見開いたが、すぐに怯えるような表情になった。


「……だったら、怒ってらっしゃるわ。ねえさまは私を憎んでいらっしゃるもの。そうでしょう?」

「そんなことはありません。花音子さまの名を呼んでらっしゃいます。花音子さまにもう苦しんでほしくないと、そう言っておられます」

「ねえさま……」


 悲しげな調子でぽつりと呟く。

 同時に、瓦の揺れが止まった。

 小萩はほっとした。姉妹の間で何があったのかは判らないが、どうも誤解があるようだというのは察せられる。それを解きほぐしさえすれば、花音子の霊も鎮まるはずだ。

 ゆっくり足を動かして、あともう少しで司朗に手が届くという位置まで近づいた。このまま彼を引き寄せれば──


「花音子さま、どうか」


 だが、その願いは叶わなかった。

 小萩が言葉を継ごうとした時、次の異変が起きたからだ。

 すうっとした冷気が流れる。ひやりとしたものが心臓を撫でて、足がその場で動かなくなった。嫌な予感が胸に充満する。


 花音子の傍らに、またあの黒い靄が現れて、小萩は息を止めた。


 その靄がまとう凶悪な波動は、花音子の比ではなかった。

 陰にこもった負の念が形になるとこういうものになるかもしれないというくらい、どろりとした怨嗟が溢れていた。

 花音子はまだ人としての記憶と感情を残している。しかしこの黒い靄からは、そういうものが一切感じられない。ただただ黒々とした思念の渦が、炯々と目を光らせて誰かに喰いつこうとしているようにしか思えなかった。

 その靄を前にすると、どうしても恐怖心が先だって立ち竦んでしまう。ぞわぞわと這い上る寒気で全身に鳥肌が立った。

 どこからか湧き出した黒い靄は、花音子の周りを漂い、ぶわりと膨らんだ。

 もぞもぞと気味の悪い動きをして大きくなり、徐々に形を取っていく。

 四肢が伸び、頭が生え、質感を増して、色が変わり──


 靄は人の姿になった。


 眩暈がしそうになる。なんだこれは。普通の霊ではない。こんなのにどう対処していいのかさっぱり判らない。小萩の手に負えるようなモノではない。

 そこに立っているのは若い男だった。髪を綺麗に撫でつけた洋装の男。繊細な顔立ちで甘い微笑を浮かべているが、ぞっとするくらい冷たい目をしていた。

 男は後ろからそっと花音子の両肩を抱き、何かを囁きかけた。そのさまは、まるで睦言を交わす恋人同士のようだった。

 しかしその途端、悲しそうだった花音子の表情が一変した。

 眦をきっと吊り上げて小萩を睨みつけ、刺々しい声で責め立ててくる。


「あんた、私を騙すのね? あんたまで嘘をつくのね? ねえさまなんていやしないじゃないの。あんたも私を笑おうというのね?」


 また瓦が揺れ始めた。さっきよりも動きが激しい。

 耳鳴りだけでなく頭痛もするようになったのか、司朗はその場に片膝をついてしまった。


「ちが、違います、花音子さま、お願いですから──」


 小萩は懸命に言い募ったが、花音子の耳には入っていないようだった。

 周囲を取り巻く空気まで変わっている。その後ろで、若い男が薄笑いを浮かべていた。


「うそつき、うそつき、うそつき! みんな嫌い! 大嫌い! 絶対に許さない! みんな死んじゃえばいいのよ!」


 激昂して叫ぶのと、ガタン! と大きな音ともに瓦が外れるのが同時だった。

 その瞬間、止まっていた小萩の足が動いた。

 勢いよく地を蹴って、司朗の身体を突き飛ばし、そのまま後方へと押し倒す。

 もんどりうつように二人して転がったが、そのすぐ後で瓦が数枚落下してガシャンガシャンとけたたましい音を立てた。

 間一髪だ。

 息を切らし、ぱっと顔を上げると、花音子も若い男もいなくなっていた。


「美音子さま!」


 小萩は振り返って叫んだ。

 美音子は真っ青な顔で、さっきと同じ位置から動かず、自分の身体に両手を廻して震えている。


「今のは誰ですか?!」

「だ、だから、かの……」

「若い男のほうです! 花音子さまのすぐ近くに現れた、黒い靄の変化した姿です! あれは誰ですか?!」


 美音子は震えながら茫然と口を丸くした。


「男……? そ、そんなの、いない……いなかったわ。最初からずっと、そこにいたのは花音子一人だけよ」


 今度は小萩のほうが口を大きく開ける番だ。

 いなかった? 花音子に美音子が見えなかったように、美音子にはあの男が見えなかったと? それとも、あれは小萩だけに見えた幻だった?

 唖然としたその時、新たな声が聞こえた。


「──それで、これは一体どういうことなのか、僕にも説明してもらえますか、小萩さん」


 ハッとして顔を戻すと、耳鳴りも頭痛も収まったらしい司朗が上半身を起こし、仏頂面を小萩に向けている。

 不安定な体勢だった小萩の身体は、いつの間にか彼の手によってしっかりと支えられていた。がっちり掴まれた腕に、逃がさない、という意志を感じる。


「美音子って誰です?」





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