野守草
たとえ名目はどうであろうと、司朗と並んで出歩くのははじめてだ。
小萩は緊張してぎくしゃくと足を動かしたが、隣の司朗はゆったりと落ち着いている。
しかしいくら気持ちが上擦っていても、距離を進むうち、否応なく気づくことがあった。
──なんだか妙に、周囲の反応が冷たい、ような。
ご近所の人に挨拶をすれば、同じような挨拶がちゃんと返ってくる。しかしその目が、どうも余所余所しい。
司朗と小萩の背後から聞こえる囁きは、その声の低さといい雰囲気の悪さといい、あまり好意的ではない感じがひしひしと伝わってきた。
余計に落ち着かなくなり、もじもじと身じろぎしたためか、司朗が小萩のほうを向いて苦笑した。
「すみません、小萩さんに気まずい思いをさせて。このあたりでは、南条の評判はよくないんです。できれば関わりたくないと思われているようで」
「なぜですか?」
不幸が続いて縁起が悪い、とでも言われているのだろうか。
だからといって司朗にまで胡乱な目を向けるのはあんまりだと憤ると、司朗は首を横に振った。
「父が……先代が生きていた頃から、そうなんです。南条はこのあたりではまだ新参なのに、土地に馴染むという努力もせず傲慢に振る舞っていたから、無理もないんですよ。田舎だと馬鹿にして食べ物や不便さに文句を言い、誰彼構わず威張って呼びつけ、自分がいちばん偉いと言わんばかりの態度をとっていたら、そりゃ昔からここに住む人々はよく思わないでしょう。いくら元華族といっても、今はもう大した権力もないのに、山のように高いプライドだけはそのまま変わりませんでしたからね」
穏やかな口調だが、司朗の言葉には突き放すような冷ややかさと苦さがある。
「戦争の際も、貴重な南条の血が無駄に失われることがあってはいけないと、あの手この手で息子たちに兵役逃れをさせました。蔵にあったものを売り払って賄賂を用意したり、わずかな伝手を辿ったり……僕の場合は、視力が悪いのをずいぶんと大げさに盛ってね。夫や子を戦争で亡くした人たちにとっては、ひどく腹立たしかったと思います」
司朗は他人事のように訥々と語ったが、小萩は胸が痛くなった。
亡くなった父の行動に彼が決して賛同していなかったのは、頑なに前方に据えられた目を見れば想像できる。司朗もさぞ、心苦しく、罪悪感を抱いたことだろう。
司朗が南条家の存続に興味がないと言う理由が、少し判った気がする。
彼は南条の名だけでなく、自分に流れるその血をも、どこか持て余し、疎んじているのかもしれなかった。
言うべき言葉が見つからず、口数少なくなったまま、二人で世話役の家に向かう。
世話役は恰幅の良い初老の男性で、彼も南条家に思うところはあるのかもしれないが、表面的には和やかに司朗が後を継いだことを労い、結婚を寿いでくれた。
玄関先での短い挨拶だったが、なんとか無難に済ませることができて、小萩はほっとした。
「まだ早いですし、ゆっくりこの辺を見て廻りましょうか。小萩さんも、買い物以外ではあまり外に出たことがないんですよね?」
世話役の家を辞去した後、司朗にそう提案され、喜んで同意した。今日は気候がよくて、散策にはぴったりだ。
東京はもうすっかり復興してビルが立ち並んでいるそうだが、このあたりはまだまだのどかな田園風景が広がっている。起伏も少なく、平坦な砂利道に沿って田んぼが続き、そこでは黄金色に輝く稲穂が風になびいてさやさやと揺れていた。
ぽつぽつと点在する家々からは布団を叩くパンパンという音が、後ろからは駆けてゆく子どもたちの笑い声が聞こえて、時間がのんびりと平和に流れているのを感じる。
屋敷の周りは竹林が囲んでいて非常に静かなので、そういうのを耳に入れるだけで心が浮き立つようだった。
だが司朗はさっきから、やけに視線を下に向けて歩いている。もしかして挨拶の時の小萩の礼儀がなってなかったのだろうかとドキドキしていたら、不意にその足がぴたりと止まった。
「小萩さん、少しだけ時間をもらってもいいですか?」
「は、はい。もちろん」
ここでお説教をされるのかと身を固くしたが、司朗は後生大事に抱えていたスケッチブックを広げて、その場に膝をついた。
それから一心不乱に何かを描き始めた。
「……?」
なんだろう、と後ろからそっと覗き込んでみると、司朗の手は素早く動いて、道沿いに咲いた小さな花を写しとっている。
花弁や葉の形が正確なだけでなく、非常に細かなところまで精緻に描かれて、まるで紙の上でも花が咲いているようだった。
葉脈の線の一本一本、おしべめしべまでしっかりと描ききってから、司朗は短い息をついて立ち上がった。真剣な色を浮かべていた瞳が、またもとの静かなものに戻る。
見ている間ずっと詰めていた息を、小萩はようやく外に出した。
「すごいですね、司朗さん。これだけの絵をこんな短時間で描き上げてしまうなんて。しかもそのお花、絵になっても生きているみたいです」
小萩の賛辞に、司朗はきょとんとして、それからこりこりと指で顎を掻いた。
「……いや、ただの慣れです。子どもの時分からしょっちゅう描いていますので」
「子どもの頃から? ではそのような絵がたくさんあるのですか」
「僕の部屋にはスケッチブックが山のように積み上がっていますよ。他にも大量の本があって、雪崩に巻き込まれると危ないので、小萩さんは近寄らないようにしてくださいね」
小萩はまだ司朗の部屋に入ったことがない。この分だと、掃除も無理そうだ。
「幼い頃、植物図鑑というものを見て、一発で魅入られてしまいましてね。図鑑を抱えては庭の植物と比べていたりしたんですが、そのうち見るだけでは我慢ならなくなって絵を描くようになったんです。もう今ではすっかり癖になってしまって」
「では、司朗さんのお部屋は、数えきれないくらいの植物の絵で埋め尽くされているんですね。でしたらもう、そこが植物園のようなものですね」
小萩の言葉に、司朗は少し目を丸くした。
「植物園ですか。そんな風に考えたことはないんですけど、小萩さんは楽しい表現を思いつきますね。……よかったら、今度、いくつか見てみますか?」
「はい、ぜひ!」
意気込んで返事をしたら、司朗が顔を綻ばせた。
そこからは行きの時にあった翳がすっかり消えていて、小萩も目を細めた。
それからまた歩くのを再開し、さっきの花の解説を聞いたり、土手に座って休憩したり、少し遠回りをしてお店を覗いてみたりした。
いつしか最初にあった緊張は小萩の中から抜けて安らかな気持ちになり、自然と口もほぐれ、よく喋り、よく笑った。
そうしているうち、時間はあっという間に過ぎて、気がつけばもう夕方だ。名残惜しい思いはあるが「帰りましょうか」という司朗の言葉に頷いて、二人で帰路についた。
その途中、司朗が何かに気づいたように再び足を止めた。
「すみません、少しだけ待っていてもらえますか」
と言うのでまたスケッチをするのかと思ったら、案に相違して、司朗はすぐ近くにあった家の門をくぐっていった。
お知り合いのところかしらと思ったものの、待てと言われたので、小萩は木塀の前で立っていることにする。
門からその家の玄関までは少し距離があるため、やり取りまでは聞こえない。十分ほどすると、司朗が戻ってきた。
「お待たせしました、小萩さん」
彼の腕には、数本の枝が新聞紙で包まれたものが抱えられている。
どうやらこの家の人に切ってもらったらしい。今度はこれを描くのだろうか。
細く垂れた枝には、丸い葉と小さな花がたくさんついていた。花弁は下から先端に向けて、白っぽい色から赤紫へと美しく変化している。慎ましく、可憐で愛らしい花だった。
「萩の花です」
司朗の言葉に、ぱちぱちと目を瞬く。
今までは花を見てもその名前までは気にしなかったので、これが萩か、と改めて思った。
「ちょうど今が満開の時期なんですよ。塀の間からこれが咲いているのが見えたので、この家の人に頼んで分けてもらいました」
そう言って、司朗がその花を「どうぞ」と自分のほうに差し出してきたので、小萩は驚いた。
「小萩さんの名と同じ花ですから。なでしこでもいいかなと思ったんですが、見つからなくて」
「なでしこ……着物の柄、お気づきだったんですね」
「え? はい、もちろんです。小萩さんにとてもよく似合っていますよ、その着物も、髪型も。……あ、もしかして、こういうのは最初に言うべきだったのかな」
今になって気づいた、というようにハッとした顔をするので、小萩は噴き出してしまった。美音子は「遅いのよ!」と怒るかもしれないが、充分嬉しい。
気づくのが遅い、似た者同士だ。
「……ありがとうございます」
小萩は花を受け取り、そっと胸に押し抱いて礼を言った。
花をもらうなんて……いや、誰かから「施し」ではなく何かをもらうなんて、はじめてだ。
司朗に嫁いでから、たくさんの嬉しい「はじめて」と出会えた。
「萩はマメ科ハギ属の落葉低木で……いや、これはいいな。ええと、秋の七草の一つであるのはご存知ですよね。お彼岸に供えるおはぎというのは、この萩から来ているんですよ。月見の際にはススキと一緒にこの花を飾る人もいます。それでかな、この花には別名がいくつかありましてね。庭見草、初見草──それから」
小萩を見て、ちょっと微笑む。
「野守草」
呟くように言って、司朗が萩の花に優しく触れた。
「それを思い出したら、どうしてもあげたくなったんです。この花が、野だけでなく、小萩さんを守ってくれるように」
「司朗さん……」
小萩はひどく切ない気分になって、なんだか泣きたくなった。
相変わらず自分のことには無頓着な人だ。あの家で悪い霊に狙われているのは司朗なのに、小萩のことばかり気にして。
手の中にある萩の花を、小萩は祈るような気持ちで見つめた。
野守草、野守草、同じ名を持つ自分にはなんの力もないけれど。
──わたしも、司朗さんを守ることができますように。
「司朗さん、萩は挿し木ができるんでしょうか」
小萩の問いに、司朗は少し意外そうな顔をした。挿し木は切った枝を土に挿して増やしていくやり方だ、という知識は小萩にもある。
「挿し木ですか……うーん、そんなに難しくはないですよ。ただこの時期だと、上手くいったとしても花が咲くのは来年ですけど」
「それでいいので、やってみたいです。このお花は押し花にして、いつも持ち歩きます。お守りに」
「そ、そうですか。そこまでしてもらえたら、その、萩も喜ぶでしょう」
司朗はなんとなく照れたように頭を掻き、もごもごと返事をした。彼としては本当に軽い気持ちで渡しただけのもので、そこまで言われるとは思っていなかったのだろう。
でも、いいのだ。司朗の気持ちは軽くても、小萩が受け取ったものは重い。
挿し木をしたものが、いつの日か南条屋敷の庭に根付き、新たな花を咲かせるところを、司朗と二人で眺められたらいい。
心の底から、そう願った。