南条家
南条家は、江戸の頃には天子さまの近侍を務め、明治はじめに制定された華族令で伯爵位を叙爵されて公家華族となった、由緒正しい家柄である。
大正までは栄華を誇り、東京の広大な敷地内に瀟洒な洋風の大邸宅を構えて、かの鹿鳴館にも出入りしていたほどだ。
教育や職業面で様々な華族特権を得たことにより、さらなる経済的基盤に恵まれ、一族は隆盛したとされる。
しかしその南条家に、転機が訪れた。
昭和二年の金融恐慌により、財産の大部分を失ってしまったのだ。元家臣たちの結束が強い武家華族と異なり、公家華族は一旦瓦解すると脆かった。
特権階級に胡坐をかいていた身には、金策の伝手も知恵もない。茫然としているうちにどんどん経済状態が悪化して、体面を保つことも難しくなり、せっかく得た爵位と華族身分を手離す結果となった。
南条家はそこから没落の一途を辿ることになる。
当主は苦渋の決断として東京の邸宅を売り払い、郊外にあった元豪農の屋敷を買い取って、そちらへ移り住むことにした。
土地と邸宅はかなりの資産価値があったため、金銭的な余裕はできたが、都落ちせねばならないのは相当な屈辱であっただろう。
が、それは不幸の終着点ではなく、むしろ始まりに過ぎなかった。
ようやく終戦を迎えて安堵したのも束の間、そのしばらく後に、次の当主となるはずだった長男が急逝したのである。
家の再興を夢見て、跡取りをなによりも大事にしていた当主はそれでがっくりと気落ちして、半年後、自分もあとを追うように病死した。
次に南条家当主の座が廻ってきた次男は、突然降って湧いたこの事態にすっかり取りのぼせてしまい、強くもないのに酒をしこたま飲んだ挙句、酔って川べりから落ちて溺死。
三男は彼のように舞い上がりはしなかったものの、逆に怖気づいて書き置きを残し行方不明となり、しばらくしてから海岸に打ち上げられた遺体が発見された。
立て続けに夫と息子を亡くし、憔悴した当主の妻は寝たきりになり、一年後、眠るように息を引き取った。
ほんの二年ほどの間に、実に五人もの人間が相次いで亡くなった、ということになる。
残ったのは末っ子の四男、ただ一人。
これに慌てたのは分家筋の親戚たちだった。四人も息子がいるのだから南条の将来は安泰だと思い込んでいたのに、この四男まで死んだら本家を継ぐ者がいなくなり、正統な血筋が絶えてしまう。
昔ほどではないとはいえ、世間では南条は未だ名だたる旧家として通っている。それをなによりの誇りとしていた彼らにとって、お家断絶は到底我慢ならないことだった。
親戚たちはそれから、彼の配偶者になる女性を躍起になって探した。こうなったら一刻も早く跡継ぎをつくってもらわねばならない。これまではこだわってきた家格の釣り合いも、多少は目を瞑ることにした。
だが、それでも四男の嫁探しは困難を極めた。
なにしろここまで死者が続いたのだ。「南条本家は呪われている」という噂が、まことしやかに囁かれても無理はない。
どんなに説得しても娘を嫁入りさせることに肯う家はなく、女性のほうも死ぬのはイヤだと泣き喚いて逃げ出す始末だ。
本音を言えば親戚たちだって怖いので、では我が娘をと手を上げる者は一人もいなかった。
──そしてついに白羽の矢が立ったのが、南条の遠縁の娘だった。
本家から見れば、かなり格下の相手となる。
正直親戚たちは揃っていい顔をしなかったが、一応の体裁はとれているというので、やむを得ず娘の嫁入りを許可することにした。
その際、本人たちの意思などは、誰も問題にしないまま。
これが、南条家の新当主となった司朗と野々垣小萩の縁組の、一連の経緯である。