第九話:SST選抜試験(後編)
改定しました。
ひどく、時間の流れが遅く感じられた。孝は腕時計で午前十時の時刻を確認しつつ、水筒の水を口に含んだ。折り畳み式のシャベルで掘った簡単な塹壕に潜み始めてから、そろそろ一時間が経つ。植物の茂みに隠れるように穴を掘ったので、かなり近づかなければ人間が潜んでいることは気付かれないはすだ。
ここは自衛隊の演習場にあるコメツガ林の中で、木々によって直射日光は遮られているが、蒸し暑さは半端ではない。腕時計の気温表示は三十九度を示していた。
最終試験が始まってから、まだ一発も発砲していなかった。
隣を見遣ると、一メートルほど離れて伏せている中原葵は、いつもの無表情だった。ブッシュハットの下の両目は、周囲に警戒の視線を向けている。
他人はすべて敵とみなすこのサバイバル戦において、バディは唯一の味方だ。射撃においてはこの上なく優秀な葵だが、体力面ではいささか頼りなく感じる。さらに、食料の所持は許可されず、候補生たちは水だけを持たされていた。つまり、水だけで丸一日過ごさなければならない。体力と精神力を削がれる環境下で、過酷な状況だった。
音を立てるのは、危険だ。この即席塹壕に潜んで小一時間、孝と葵は、一度も言葉を発していなかった。
ひっ、と葵が小さな悲鳴を上げた。
突然のことに、孝は葵の方を見た。辛そうな表情で、何かに耐えている様子だった。
「大丈夫か……?」
孝は小声で葵に問うた。体調不良であれば、早急に対処しなければならない。
声を掛けられた葵は、ゆっくりとこちらを見る。89式のグリップを握る手が震えているようだった。
「あたしの背中に、なんか付いてる……んだけど」
「え?」
「う、動いてる」
おそらく虫だろう。こんなところで潜伏しているのだから、服の中に虫が入っても不自然ではない。
……確かに、女子にとっては耐え難い苦痛なのかもしれないが。
「そのくらい我慢しろ」 孝は小声で言った。
「だ、だめ……。耐えられない」 葵の頬を、汗が滴り落ちる。暑さのせいだけではないだろう。
「じゃあ、どうするんだよ」
「取って……」
え? 孝は動揺した。葵は頭を前に下げた。白い首筋が露になる。孝は慌てて目を逸らした。
「自分で取れよ」
「装具が邪魔で届かないの。早く……!」
万一、葵が発狂して暴れたりでもしたら、これまでの苦労がすべて水の泡になる。それだけはごめんだ。
孝は必死に無感情を保ちながら、葵の首筋を見た。見える範囲の背中に、蠢く物体はない。
「どの辺りだよ」
「真ん中あたり……。早く!」
こうなったら自棄だ。孝は手を伸ばし、葵の戦闘服の中に入れた。
「シャツの外じゃなくて、内側よ!」
「大声だすな……!」
葵が戦闘服の内側に着ているTシャツの中に手を入れると、何かに当たった。虫ではない。何かのホック……?
それが何か理解して、孝は頭が灼熱するような感覚を覚えた。いますぐ地上から消えてしまいたい気分になる。
葵は目を閉じて黙っていた。
ホックの数センチ奥に、諸悪の根源が、いた。取り出すと、小さな昆虫だった。
「……ありがとう」 葵はやっと落ち着きを取り戻した様子だった。
「いや……」 孝はまともに葵の顔を見れず、視線を逸らした。「そろそろ、移動しよう」
近くに他の候補生がいないのを確認してから、二人は立ち上がって移動を開始する。
この最終試験のルールは、ただ二十四時間『生存』すればいいという単純なものではない。地形と地図を読んで移動し、チェックポイントに行かなければならない。合計十七組のペアすべてが一箇所のチェックポイントに向かうわけではないが、それぞれのチェックポイントに向かう途中で遭遇戦になる可能性が高い。いや、初めからそういう意図でチェックポイントを設定しているはずだ。
全ての方向に注意しながら、道無き道を進む。稜線や川、方位磁針を見て進路を修正。GPSの使用は禁止され、紙の地図が頼りだ。
最初のチェックポイントに到着したときは、西の空がかなり赤く染まっていた。すでに林の中は薄暗い。
葵に周辺の警戒を任せ、孝はチェックポイントの「プレハブ小屋」に向かう。89式小銃を即時射撃位置で構えながら、プレハブ小屋の入口横に置かれたスタンプを見つけた。このスタンプを地図に押すことで「チェックポイント通過」となる。
五百円玉大のスタンプは、絵柄もなく『チェックポイントB』 と押印されるものだった。孝は押印した地図を戦闘服の胸ポケットにしまった。二十メートルほど離れた位置にいる葵を振り向こうとしたとき、銃声と共に空気を裂く音が聞こえた。
破裂するような音が弾け、プレハブ小屋の壁に鮮やかなオレンジ色のペイント弾が着弾する。孝は反射的に伏せた。体には着弾していない。頭上をさらにペイント弾が通過する。伏せたまま発砲音の方を見ると、木の陰からこちらを狙う候補生の姿が見えた。
セレクターをフルオートに合わせ、応射のトリガーを引く。十発ほど撃つが、相手は木陰に隠れて見えなくなった。孝は匍匐前進でプレハブの反対側に移動した。「なっ……!」
相手も、予想外だったのだろう。プレハブの反対側に回り込んでいたもう一人の候補生は、孝を見てぎょっと動きを止めた。
ほぼ同時に、両者が発砲。
直立していた候補生の腹にペイント弾が命中した。孝は伏せていたのが幸いし、直撃を免れていた。
「やられた」 撃たれた候補生は両手を挙げ、脱落を示した。
息をつく間もなく、孝は周囲に視線を走らせる。まだ、木陰に隠れた候補生がいるはずだ。
相手はすぐに見つかった。しかし、すでにこちらに向けて89式を構えていた。孝が銃口をそちらに向ける前に、撃たれてしまう。
やられた。
そう直感した刹那、89式を構えた候補生のゴーグルがオレンジ色に染まった。ゴーグルに二発、ブッシュハットに一発。正確な射撃のヘッドショットだった。
地面に伏せたまま後ろを振り向くと、89式を構えた葵が十メートルほど後ろに立っていた。
「緒方、大丈夫?」 葵は付近を警戒しながら近づいてきた。
「ああ」 と返して立ち上がり、孝は89式についた砂を払った。
撃たれて脱落した二名の候補生は、被っていたブッシュハットをオレンジ色のキャップに替えた。この状態で駐屯地まで戻る決まりになっていた。
「女に撃たれるなんて、油断しちまったぜ。最悪だ」
わざと葵に聞こえるように言ったのだろう。候補生の一人が、ゴーグルについた塗料を拭う。葵はそちらを睨みつける。
「もう一度言ってみなさいよ……!」
孝は「よせ」 と制止しようとしたが、葵は撃たれた候補生に向かって歩いて行く。そのまま殴りかかりそうな勢いだ。さきほどあれだけ銃声を響かせたのだから、他の候補生たちの注意を引いているはず。いま襲撃されたらやられてしまう。
案の定、葵に向けて89式小銃を構える候補生を見つけてしまった孝は、ほぼ反射的に地面を蹴っていた。
葵の腕を掴んで、そのまま駆け出す。葵に狙いを定めて発砲されたペイント弾が、脱落済みの候補生に集中した。「痛ってえな! てめぇ、このオレンジ色のキャップが見えねえのか!」 と撃たれた候補生が怒鳴るのを背中に聞きつつ、孝は足を動かし続ける。あのチェックポイントに、もう用はない。早く離れるのが得策だ。
※
午前七時。
孝と葵は息を極限まで殺していた。すぐ近くを他の候補生二人が移動していたからだ。その二人は、孝たちには気づかずに数メートル横を通過した。
孝は葵にハンドサインで(発砲する)と合図した。葵が親指を立てた握り拳で応える。
孝は89式のセレクターレバーを単射にセットした。右を歩く候補生を照準し、左手を挙げて指を一本ずつ、一秒間隔で折り曲げていく。
残り三秒で、孝は左手をストックに添えた。
孝と葵が、ほぼ同時に発砲する。
ペイント弾は二人の背中にあっけなく命中した。こちらに振り返った二人の腹に、さらに一発ずつ撃ち込んだ。オレンジの塗料まみれになった二人が唖然とした。
「くそっ!」 二人は両手を挙げて89式を持ち、”戦死”したことを示しながら本部の方へ歩いていった。
今の発砲音で、別の候補生がこちらに向かってくる可能性があった。孝と葵は移動を開始した。試験開始前に指示されたチェックポイントは「B」と「A」。残るはAで、かなり
近くまで来ている。試験終了まで一時間、なんとかクリアできそうだった。
数分後、正面に別の候補生たちが見えた。チェックポイント近くでの遭遇戦だった。先に気づいた葵が三点制限連射で発砲する。孝が89式を構えたときには、二人とも葵が命中させていた。
恐ろしいくらい素早く、正確な射撃だ。葵の反射神経の高さを証明している。
感心した次の瞬間、孝の近くのコメツガにペイント弾が命中した。孝はすかさず木に身体を寄せ、発砲した候補生を探した。葵がハンドサインで(発見。仕留める)と告げた。
孝も発見した。地面に伏せている。
二人は同時に反撃を開始した。相手もほぼ同時に発砲。弾道の安定しないペイント弾が交錯する。すると、孝の89式の弾が切れた。「装填!」
相手も弾切れか、銃声が止む。セミオートで弾を残していた葵が、精密な照準で引き金を絞った。
孝がマガジンを替えた89式を構え直したとき、すでに勝負は着いていた。オレンジ色に染まった相手の候補生二人が木の陰から出てきた。
だが、その候補生の一人が、89式を孝に向かって構えた。制止しようとしたバディを突き飛ばし、その候補生はトリガーを引いた。ペイント弾が放たれ、孝のこめかみ近くを通過する。
脱落した候補生が、発砲する。重大なルール違反だ。
「ふざけるな!」
孝は怒鳴り、その候補生に向けてフルオートで発砲した。反動の少ないペイント弾ということもあって弾道はまとまり、相手の候補生はほぼ全身にペイント弾を受け、背中から昏倒した。
起き上がった候補生は89式を放り捨て、ゴーグルの塗料を乱暴に拭った。孝は即時射撃位置で構えた89式のサイト越しにその様子を注視する。
訓練のストレスと暑さで気が狂ったのか……?
それは当たっていた。候補生はサバイバル用ナイフを抜き、逆手に構えて突進してきた。「てめぇ、殺してやる!」
冗談ではない。孝は反射的に89式のトリガーを引いた。だが、撃発は起きなかった。弾切れだ。マガジンチェンジは間に合わない。
刺される。そう直感し、孝は候補生がこちらに刃先を向けるコンバットナイフを注視した。ナイフが残り一メートルまで迫った瞬間、89式の発砲音が響いたのとほぼ同時に、候補生のナイフが横に弾き飛ばされた。
葵がナイフを狙撃したのだった。
かなり近い距離だったため、ペイント弾でも衝撃が強かったらしい。近いとは言え、刃渡り五センチ程度のナイフを狙撃するのは至難の技だ。
候補生は痛みに呻き、手首を押さえる。葵が彼に歩み寄った。
「最低!」
葵は、89式のストックで候補生の首筋を打撃した。候補生は気絶して、その場に崩れ落ちる。葵は孝に駆け寄った。
「大丈夫?」
「ああ。助かったよ、ありがとう」
「……気にしないで。それより、さっさとチェックポイントのスタンプ押しましょ」
※
午前九時。試験終了。
(全候補生に告ぐ) 無線のイヤホンが鳴る。(最終試験終了。繰り返す、最終試験終了。全員集合地点に向かえ)
終わった。緊張の糸が切れ、孝は大きく息をついた。偽装をはねのけて立ち上がる。緑の木々の向こうに、澄んだ青空が広がっていた。この二十四時間、地上しか見ていなかったことに気づく。
「やったね」
89式をスリングで肩にかけた葵は、笑顔で言い、右手を差し出した。初めて彼女が見せた笑顔にどきりとしつつ、孝はその右手を握り返した。
どっと押し寄せてきた疲れと空腹感に耐えながら、二人は集合地点へと向かった。
「長野さん、岡田さん!」
すでに集合地点に到着していた二人を見つけて、孝は叫んだ。他にも、十人ほどの候補生の姿があった。
「緒方か、よく残ってたな! 中原も!」
互いの健闘を称え合い、坂ヶ丘高校の四人は固い握手を交わした。
「……荒井さんは?」
孝が問うと、長野が林の方を見つめて言った。
「分からん。まだ林にいるかも知れない」
荒井は、他校の候補生とバディを組んでいた。
東田一佐と、もう一人の試験官が歩いてきた。試験官が人数を数える。「全員います」「分かった」
人数の確認がとれたということは、荒井は脱落したということだ。
東田が続ける。
「合格おめでとう。君たちは今この瞬間をもって、SSTの一員だ」
合格者たちが歓声を上げた。
最終的に、合格者は十二人だった。彼らはSST徽章を授与され、学年に応じて一等学曹以上の階級に昇進となる。
短機関銃までの武器しか持たない普通部隊と異なり、自動小銃と狙撃銃の使用が許可されるSST隊員は、より危険度の高い任務に就くこととなる。