第六話:放課後の乱闘
七月十二日、午前五時。
昨晩、部屋に戻ってシャワーを浴び、ベッドに横たわってから八時間。夢と現実の狭間を漂う時間を過ごした孝は、眠ることを諦め、マンションのベランダに出た。吹き付ける風が心地よい。
日の出が近いのだろう。辺りは思いのほか明るい。聞こえるのは、わずかな自動車のエンジン音と、小鳥の囀りくらいだ。
綺麗な景色だった。夜間警備がある日は、この時間帯でも起きていることがあるが、学校からはこんな景色は見えない。この景色は、六階のマンションならではだった。孝はしばらく、段々と照らされていく街並みと、刻々と変化し続ける雲を眺めることにした。孝は小さい頃から、空を眺めることが好きだった。どこまでも広がる、この無限の空間を眺めていれば、地上で起きていることなどすべてちっぽけに思えた。すべてを包み込み、許してくれるような空は、今日も変わらない表情でこちらを見下ろしている。
午前七時三十二分。孝はSDF棟に着いた。入り口で、斉木に会った。
「おはようございます」
「緒方か、おはよう。……どうした、なんか顔色が悪いな」
まったく気が付いていなかった。たぶん寝不足のせいだ。「……ちょっと、眠れなくて」
「昨日の戦闘のことか?」
「え?」
「心配するな。最初は誰でも怖い。でもな……いざとなったら、勝手に指がトリガーを引いてるんだ。訓練みたいにな」 斉木は右手の人差し指を曲げ、くいっと引いてみせた。
しかし実戦で発砲したことのない孝には、いまいちピンと来なかった。
「それよりおまえ、SST選抜試験に推薦されたらしいな」
「ええ。選抜試験って、どんな内容なんですか?」 孝は、肝心な試験内容を知らなかった。
「詳しくは知らんな。おれも受けたことないからな……。SSTの知り合いの話だと、陸自のレンジャーを参考にしてるらしいぞ」
「レンジャーって……」
強い体力・精神力が必要とされる陸上自衛隊のレンジャー課程だが、その内容は一般的に知られているようなサバイバル訓練だけではない。市街戦、狙撃、ラペリングなど、SDFの任務でも重要とされる項目は含まれている。しかし、国を守る陸自の訓練と、学校を守るSSTの訓練がどうしても結びつかない。
「まぁとにかく、厳しい試験ってことだ。頑張れよ」 斉木は歩いていってしまった。
孝は疑問を抱きながら銃と警棒を受け取り、教室に向かった。
※
昼休み。
「緒方! さっきの日本史のプリント見せて」 杏子が孝の机に近づいてきて、言った。
「またか。いい加減、ちゃんと授業聞いて自分で書けよ」 孝は面倒臭そうにぼやきつつも、クリアファイルから日本史の授業プリントを出し、杏子に渡した。
「だってあの先生の授業、眠くなるし……。ん? そういえば、こいつ元気ないわねぇ。鬱病?」 杏子は、机にうずくまって微動だにしない山崎を指先でつついた。反応はない。
「ああ、朝からこうなんだ。……おーい、山崎。起きてるか?」
すると、山崎の背中がもぞもぞと動いた。
「……鬱だ」
「は?」
「すべてが鬱だ……。授業も鬱、部活も鬱」 うずくまったままの山崎が続けた。
「やっぱり鬱病なんじゃない」 杏子は踵を返して歩いていった。
孝は、山崎の「部活も鬱」 という言葉が引っ掛かった。スポーツ好きである山崎は、部活をするために学校に来ているようなものであり、今まで部活の文句を言っているところを見たことが無かったからだ。
「部活で、なんかあったのか?」 孝は多少、心配しながら問うた。
「別に。何もねぇよ」 そっけない返事だった。
何かあったな。苛立ちを隠せていない様子の山崎に、孝はそれ以上声を掛けるのはやめておいた。
※
午後五時。第二小隊と第三小隊の面々は、教室で座学を受けていた。
講師役のSST隊員が、拳大の黒い物体を掲げる。
「これは、全国のSDFに標準装備されているM84音響閃光手榴弾だ。投擲、破裂と同時に百万カンデラの閃光と百七十デシベルの大音響で対象をショック状態にし、数秒間、身動きを封じることができる。上級生は実戦や訓練で知っていると思うが、一年生は基本的な使用法しか知らないだろうから、今日は詳しく説明する。
仕組みとしては、マグネシウムと金属酸化物を、過塩素酸カリウムと混合させ、燃焼させることで音響と閃光を発生させる。これを使用していいのは、対象者が精神的に何らかの異常をきたしている可能性がある場合や、泥酔、異常な興奮状態で、何を起こすか分からず危険な状況で、班長または幹部の許可を取った場合のみだ。通常の襲撃などでFDTに対して使用したり、班員が独断で使用した場合には処分があるから、使用規定は遵守すること」
こういった装備品の説明は、かなり詳細にレクチャーされる。誤って使用したり、規定を守らなかった場合は重い処分があるため、隊員たちは真剣に聴いている。
「また、実際に使用する場合は、耳栓の着用を徹底しろ。さらに、各自ゴーグルの装着を再度確認すること。戦闘中にゴーグルを外すのは禁止行為だが、戦闘中の衝撃などで外れている可能性も考えられる。投擲後は、速やかに対象者を拘束すること。スタン・グレネードについては以上だ。次に、この発炎筒についてだが……」
寝不足でうっすらと熱をもった頭で、孝は懸命にノートをとっていた。
※
午後七時二十一分。
孝は斉木とペアで巡回に出ていた。この時間は、部活動を行う生徒の下校時間帯だった。また、夕闇に紛れて侵入者や不審者が行動しやすい時間帯でもある。
校門の近くで、孝たちと同じく巡回中のSST隊員二人が前から歩いてきた。銃は、MP5K-PDWサブマシンガン。普通部隊の使うMP5-A5の銃身を切り詰め、取り回しの容易さを向上したモデルだ。クルツとはドイツ語で『短い』の意で、銃床もPDWタイプに換装されている。
SST隊員の、油断の無く鋭い眼光が印象的だった。
その数分後、体育館の方から怒鳴り声が聞こえた。
トラブルらしい。近くにいた孝と斉木は、駆け足で現場に向かった。一階にある第一体育館の出入口には、ユニフォームやジャージ姿の運動部員たちで人だかりが出来ていた。二人はそれをかき分けて進んだ。「SDFです、通して下さい!」
野次馬の先には、七、八人のバスケ部員たちと対峙する、山崎の姿があった。両方、バスケのユニフォーム姿だった。
「……てめぇ、もう一回言ってみろ」
孝たちには気づいていない様子の山崎が低い声で言った。上級生らしいバスケ部員が答える。「聞こえなかったか? おまえがいると、チームのやる気が失せるんだよ。だから、さっさと辞めてくれって、丁重にお願いしてるんだ」
周りのバスケ部員が嘲って笑う。山崎の肩が小刻みに震えているのが分かった。開いた手が、ゆっくりと握られていく。「この野郎っ!」
山崎は叫ぶと同時に長身の上級生に殴りかかった。だが複数相手に、あっさり押さえ込められるのが見えた。孝は思わず叫んだ。「山崎!」
「行くぞ、緒方」
二人は乱闘の現場に突入した。「SDFだ! やめろ!」 「そいつを放せ!」
「SDFが何の用だ!」 怒鳴った部員が、仲裁に入ろうとした孝の顔面を殴った。
昏倒した孝は、数秒間、痛みに頭が真っ白になった。その数秒後、一切の理性が消えて無くなった。「やりやがったな、てめぇ」 孝は身軽な動きを制限するヘルメットとボディアーマーを脱ぎ捨て、山崎を蹴っていたバスケ部員の背中に渾身の跳び蹴りを食らわした。コンバットブーツの踵で蹴り飛ばされた背中が前方に弾け飛ぶ。
……殴り、殴られ、蹴り、蹴られ。何分経過しただろう。斉木は得意の柔道技で暴れるバスケ部員を気絶させて行った。突然、「加勢するぜ、小隊長、緒方!」 と、聞き覚えのある太い声が発したかと思うと、大柄な岡田二曹が突進してくるのが見えた。「この前のウイダーの礼だ!」
そんな理由で参戦するのか。
あとで正当防衛を主張するためか、岡田は最初の一発目をわざと受けたようだった。だが、その位置が悪かった。顔面ストレート。岡田の血管がブチッと音を立てたのは、気のせいではないだろう。
「てめぇ、やっていいことと悪いことの区別が分からねえのか!」 叫ぶように言ってから、岡田は腰のベルトに装着したホルスターから特殊警棒を抜き、一度軽く振った。三段階伸縮式のポリスバトンが空気を裂く音と共に伸び、漆黒に輝くのが見えた。
岡田は、ついさっき自分に顔面ストレートを打ち込んだ部員に近づき、躊躇せずにポリスバトンを振り上げ、下ろした。バネの内臓されたバトンがしなりながら、きれいな弧を描いて部員の背中に命中する。完全にキレながらも、岡田は部員の骨を避けて打撃をしていた。警棒術訓練の賜物だった。
数分後、騒ぎを聞いた教師二人が駆けつけ、放課後の乱闘は幕を閉じた。