第二十二話:退院
意識が覚醒してゆく。視界が戻ると、無機質な天井が見えた。照明はついておらず、窓から太陽光が差している。
孝は上体を起こして、辺りを見回した。頭痛と、全身のところどころが痛む。転落防止柵のついたベッド、棚、小型テレビ、壁には計測機器のようなものが埋め込まれていた。病院の個室だろう。
頭部に手をやると、大きな包帯が巻いてあった。それ以外は、ところどころ絆創膏やガーゼが貼ってある程度だ。確かおれは、誰かと殴り合った。……そうだ、江田と不愉快な仲間たちだ。その後の記憶がない。「中原!」 殴り合っている途中、おれの呼びかけに葵が頷いたのは覚えている。外傷はなさそうだったが、その後の記憶がない以上、彼女の安否は不明だ。
最悪の結果を考えてしまった孝は、ベッドから飛び降りようとして、足の痛みに姿勢を崩した。頬を床に打ち付け、全身の痛みが再発する。だが、そんなことはどうでもよかった。いま知りたいのは、葵が無事かどうかだ。おれの怪我などどうでもいい——。
痛みを無視して、ドアに向かって走る。スライドドアを勢いよく開けた孝は、そこに立っていた少女とぶつかりそうになり、全身に急ブレーキをかけた。
「中原……」
制服姿の中原葵は、頬に絆創膏を貼っているだけで、外傷はなさそうに見えた。良かった。本当に良かった。全身の悪寒がすっと消え失せ、孝が胸を撫で下ろしたのに対し、葵は微動だにせず、きょとんとしていた。その横にいた三沢理香は、「先生呼んでくる!」 とナースセンターに向かっていった。
「中原、怪我は……」
「あたしは、見ての通り、大丈夫だよ」
葵は驚いたような表情のまま、ゆっくりと言った。そのまま口を半開きにして、数秒、いや十秒ほど経っただろうか? じっと見つめられ、照れたようになった孝は視線を外した。もしかしたら、頭の包帯が変な巻き方になっているのかもしれない。次の瞬間には、こらえきれずに噴き出されるのではないかと思ったが、葵は顔を俯けるようにした。唇はきゅっと結ばれ、両目をきつく閉じる。その直後、頬を透明な雫が流れた。
なぜ? 孝が動揺した刹那、小柄な体躯が胸に飛び込んできた。「良かった……」 葵の両手が孝の背中に回り、柔らかい身体をぎゅっと押し付ける。女性特有の温もりに、身体中の血液が沸騰したような気がしたが、一瞬だった。背中に激痛が走り、孝は呻くと同時に全身のバランスを崩した。「ごめん、つい……!」 と腕の力を抜いた葵に支えられ、孝は倒れずに済んだ。
そのまま、葵の肩を借りてベッドに戻ると、すぐに孝の両親と理香、白衣の医師、看護師が入室してきた。思わぬ顔ぶれに、孝は声を出した。
「え……!」
※
通行人から通報を受けた警察と救急が駆けつけたとき、孝はすでに気絶していた。孝だけではなく、江田たちも。軽症で済んだ葵は孝の応急処置を行っていた。大きな外傷や骨折はなかったが、頭を打ち意識不明。そのまま三日間昏睡状態だったらしい。最悪、そのまま植物状態になってしまう可能性もあった。意識が戻るまで、仕事の予定をキャンセルした父と母だけでなく、葵もつきっきりで看護してくれていたらしい。医師の話によれば、打撲と頭痛だけなので、早ければ数日で退院できるようだ。退院しても、打撲の痛みと頭痛が治まるまで、SDFの訓練は無理だろう。体がなまるのは困るが、滅多にない休養も悪くないか、と孝は思った。
例の騒動については、改めて警察による事情聴取を受けることになるが、状況証拠から、正当防衛が認められることとなりそうだ。江田たちは骨折している者もいたが、いずれも命に別条はない。ナイフで切りかかった江田は逮捕された。
理香からそんな説明を聞き終わる頃には、日が沈んでいた。
もともと無口な父は、「よく戦ったな」 と言いながら孝の頭をポンと叩き、「ご飯はちゃんと食べるのよ」 と微笑んだ母と共に帰っていった。二人を見送った孝は、葵がベッド脇の椅子に座ったまま眠っていることに気づいた。
「ほとんど寝ずにあんたに付き添ってたんだから、仕方ないわね」 と理香は苦笑した。「あんたのご両親も感心してたよ」
「そうですか……」 三日間も。急に目頭が熱くなり、孝は理香から顔を背けた。
「じゃあ、あとは任せるわ」 理香はスクールバッグを持って椅子から腰を上げた。
「え?」
「これから夜間警備の当直なのよ。あんたの代わりに」
「ああ……」 人数の少ないSSTは、二人の欠員でもかなりの負担増加だろう。申し訳なさに、孝は頭を下げた。「すみません」
「こういうときはお互いさまよ、気にしないで。それじゃ」
理香は軽く片手を振り、病室から去っていった。ベッド脇に視線を戻し、安らかな表情で眠る葵を見た孝は、小さく安堵のため息をついた。
※
週末は、クラスメイトやSDFの知り合い、他校の友人らまでもが見舞いにやってきて、想像していたほど休める状態ではなかった。日曜日の夕方に退院する頃には、あちこちの痛みもかなり和らいでいた。担当医曰く、「若さゆえの驚異的な回復力」 らしい。ただ、月曜日は大事をとって、学校へは行かずに一日安静しているように、との指示があったため、担任にその旨を伝えて休むことにした。日曜にクラスメイトが持ってきてくれた宿題をこなしたり、SDFの教本を読んだりしていると、あっという間に時間は過ぎた。
だしぬけにインターホンが鳴ったのは、夕方だった。来訪者を映すディスプレイに意外な顔を見た孝は、とりあえずエントランスのオートロック解錠ボタンを押してから、玄関に向かう。再び電子音が響き、ドアを開くと、クラスメイトの工藤沙希が立っていた。学校帰りにそのまま来たのか、制服にコートを羽織り、スクールバッグを持った沙希は、「こんにちは」 と微笑んだ。彼女とは、土曜に他のクラスメイトたちと孝の病室に見舞いに来た時にも会っていた。「今日はどうしたんだ?」 と訊くと、沙希はバッグを軽く掲げ、「今日の宿題、持ってきた」 と言った。
そういうことかと納得した孝は「そっか、わざわざ悪いな」 と返したが、「いくつかあって、内容を説明したいんだけど……」 と続いた沙希の言葉は意外だった。
「上がっていってもいいかな?」
「別に、いいけど」
「じゃ、お邪魔します」
ドアを閉め、茶色のローファーを脱いできちんと揃えた沙希は、「へぇ、一人暮らしにしては結構広いんだね」 と言いながら室内をぐるりと見回した。十四帖のワンルームに、ベッド、テーブル、ソファ。狭さで不自由はしない部屋だった。
「それに、なんか綺麗」
「今日は一日ヒマだったからな。掃除が捗ったよ」
「そうなんだ。学校来れば良かったのに」
「ドクターストップだから仕方ない」 孝はテーブルの前に座り、沙希にソファを使うよう促した。彼女はコートを脱いで、二人掛けのソファに座ると、バッグをまさぐり、数枚のプリントを出した。
宿題は数科目分あり、沙希が順番に説明してゆく。今さらだが、女子を部屋に入れたのはこれが初めてだった。意味もなく緊張した孝は、宿題の説明を聞き終える頃には、別の意味で表情を硬くした。
「多いな、宿題」 明日が期日の科目もあり、孝はうんざりしそうになる。
「模試も近いしね」 と沙希は頷き、キッチンの方を見た。「……喉渇いちゃった。何かある?」
「ああ」 孝はキッチンに向かう。「お茶でいいか?」
「ホットでね」
「注文多いな」
「仕方なく宿題持ってきてあげたんだから、そのくらいサービスしてもらわないとね」
「分かったよ」 孝は苦笑しながら、やかんに水を入れる。換気扇のスイッチを入れ、ガスコンロの火をつけた。
「本当は――」
「なんだって?」 換気扇の音でよく聞こえず、孝は聞き返した。
「……なんでもない!」
さらりとしたミディアムの髪が横顔を隠し、沙希の表情はキッチンからは窺えなかった。変なやつだと思いながら、孝は収納棚からお茶のパックを取り出した。
※
お茶が出てくるのを待ちながら、沙希は目の前の宿題をじっと見つめていた。宿題の説明は一通り終わったが、次に何を話したらいいのか分からない。ひとつ深呼吸をしてから、無言でキッチンに立つ孝を横目で伺ってみた。
アイドルのような美男子というわけではないが、整った目鼻立ちに、ちょっと鋭い目。体格は中肉中背だが、SDFで鍛えているからだろう、シャツの袖をまくった腕は筋肉質だ。特に目立つタイプでもなく、性格は穏やか。どこにでもいそうな、普通の男子だ。
その、至って普通の男子が、「ただのクラスメイト」 から「気になるクラスメイト」 に変わったのは、去年の夏だった。九月の文化祭。友人らと廊下を歩いていた沙希は、『万引きよ!』 という怒鳴り声を聞いた。
『どけ!』
万引き犯らしい青年は沙希たちの目の前を突進していった。その先に、クラスメイトの姿が見えた。
『緒方、そいつを捕まえろ!』
万引き犯を追う二年生が、クラスメイトに向かって叫んだ。万引き犯は、眼前の邪魔者を突き飛ばそうと手を伸ばした。クラスメイト――孝はその手首を掴むと、くるりと身体の向きを変え、青年の勢いを利用して、背負い投げで叩きつけた。鮮やかだった。なお暴れる青年を押さえつけるその表情は、普段の穏やかなものではなく、真剣そのものだった。
悪意を持ち暴れ狂う者を、訓練された力で制圧する。いつもの大人しい態度からは想像もつかないその姿に、沙希は驚いた。このクラスメイトは、こんな一面も持っていたのか。最初は、単なる好奇心だったかもしれない。沙希は、それとなく孝を観察するようになった。
基本的には、大人しく目立たない。クラスの誰とも平等に接している。成績も悪くはなく、上から数えた方が早いだろう。どちらかといえば理系科目が得意らしい。身体能力も高いようで、陸上競技はどれもクラスでトップレベル。ただ、不器用なのか、球技系は苦手なようだ。授業態度はおおむね真面目だが、時折、不思議な表情で窓の外を眺めていることがある。穏やかだが、それでいてどこか悲しそうな。ただ、街並みや空を見ているのではない。もっと遠い何か。沙希は、無性に気になっていた。何を、誰を見ている――?
お茶を入れたコップを持ち、こちらを向こうとした孝と目が合いそうになり、沙希は慌ててテーブルに視線を戻した。
「お待たせ」 孝はコップをテーブルに置き、座布団に腰を下ろした。
「ありがとう」
適当な話題が思いつかず、沙希は口ごもった。孝は自分のお茶に口をつけながら、さっき渡した宿題に目を走らせている。宿題を持ってくるのだけが目的なら、もう話は終わっている。さっさと帰宅し、気になっている小説の続きを読むところだが、今日は違う。ここで帰ってしまっては、強引に宿題の渡し役を買って出た意味がなくなる。
中学校を卒業するまでは、気になる男子にアプローチするなどということは、実行したことがなかった。好意を寄せる相手がいても、見ているだけで良かった。告白とか、手を繋いだりとか、それ以上といったことは、小説で読めれば十分だった。
だが、孝を観察していると、それだけでは物足りなくなった。もっと知りたい。話したい。近づきたい――。そう思う自分に気づいたとき、これは恋愛感情だと知った。それまでの、見ているだけでいいのとは違う、もっと強烈な感情だった。この感情は、心に押しとどめておくことが難しく、気を緩めると溢れてしまいそうだった。
多くの小説を読んできたので、知識のストックは豊富だが、実戦経験はほとんどゼロ。話しかける機会も少なく、なかなか行動できずにいたが、内田美奈の誕生会兼クリスマス会で一緒になったのは僥倖だった。二人きりでプレゼントを買いに行き、想定外のトラブルからも守ってくれた。自分の危険も顧みずに。だが、暴漢と対峙する孝は、まるで別人のように怒りを露わにしていた。その瞳は、どこか悲しそうでもあり――きっとこの人は、本当は誰も傷つけたくないのではないか、と思った。何か理由があって、自分を押し殺してまで、SDF隊員になったのではないか。もしそうであれば、それはとても辛いことのはずだ。
勝手にそんな妄想をしていたのだが、孝が同じクラスの江田に襲われ、昏睡状態になったと聞いたときは、愕然とした。病院に駆けつけたのだが、そこで沙希が見たのは、横たわる孝を見つめ、涙を流す中原葵の姿だった。孝と一緒にいて襲われた、隣のクラスの女子生徒。SSTブラボー・チーム所属で、孝のバディ。きりっとした顔立ちの美少女だが、性格は男勝りで、女子には優しいが、男子には基本的に冷たい態度を取る。しかし、孝の前では猫をかぶっているようにも見受けられた。
もしかしたら、二人は付き合っているのではないか? 疑念は、病室の光景を見た瞬間、確信に近くなり、沙希は無言で病室を後にした。だけど、諦めきれなかった。諦めるのは、事実を確かめてからでも遅くはない。
そして、気がつけば、こうして孝の部屋に自分がいる。あたしと彼以外、他には誰もいない。もし彼女がいれば、他の女を一人暮らしの家に上げたりするだろうか? 小説で得た知識によれば、それは考えにくい。孝のような真面目な性格であれば、なおさらだ。そうに違いない。
正面を見ると、いつの間にか、孝は無言で宿題を解き始めていた。突然、自分から部屋に上がり込んでしまう形になったが、軽い女だと思われていないだろうか。一抹の不安が脳裏をよぎった直後、電子音が空気を震わせた。
インターホン。
来客を映すディスプレイに、隣のクラスの少女の姿が見えた。