第1.5話 きさの記憶
■
夢だ、と確信する夢を見たことはあるだろうか。
私はある。覚えている限り、今生では二回。一回はつい先日のことで、もう一回はもう十年前のことだ。
十年前のやつは夢じゃなくて現実だったのだけど。
まあ、聞いてください。
そもそも、気がついたらやたらとふっかふかなベッドに横たわっていて、見覚えのないシャンデリアが目に入ったらあなたはどう思うだろうか。
夢だと思わない?
それもありえないほど高いところにあるのだ、その天井が。加えてその天井、豪奢な絵画が描かれていた。え、天井って何か描くところだっけ。そして廻り縁がゴールドの装飾とか、贅を凝らしすぎていませんか。しかもこのベッド、もしかして天蓋付き?
生まれて二十六年、子供時代は典型的な機能不全家族でネグレクト気味に育ち、家族旅行なるものとは縁がなかった。公立小中高の修学旅行先は言わずもがな国内で畳の部屋だったし、成人後に結婚して行った新婚旅行の行き先も若い夫婦らしい洒落っ気とか華やかさとは無縁な温泉だった。
まあ、平たく言えば海外のホテルとか宮殿がこんな感じなんだろうなという室内なんだが、該当どころか比較できるような記憶が私にはなかった。以上。だって、海外にあまり興味がなかったんだもの。私はホテルより旅館派だ。辛うじて某名探偵のドラマを観ていた影響からイギリスにはいつか行ってみたいとは思っているが。
あれそういえば、ドラマの中にこんな城出てきたな。てことはなんだ、ここは城か。宮殿なのか。城と宮殿の違いは分かんないけど。
寝惚けた頭はなかなか待ったをかけないものだ。
まあそうか、城か。千葉にある夢の国の城しか見たことないし、あの城の中にも入ったことないけど中ってこうなってんのか。と、私は納得した。
はあ、すごいな。趣味じゃないけど。
ぼけっと天井を眺めた後、呑気にも寝直すべく私は寝返りを打った。
すごい夢だ。なんでこんな夢見てんのか知らんけど。起きて覚えてたら旦那に話そう。
ごろんごろんとこのとき、いわゆるベストポジションを探そうとした私は半分以上眠りながらも驚愕した。そのすさまじきスプリングにもだが、五感の中でも特に反応したのは嗅覚である。
え、何この超いい匂い。
ハーブなの? お花なの? 柔軟剤とはちょっと違うよね。何の香り?
続いて触覚で、というか手触りで、何気なく手を彷徨わせてぎょっとする。
待って、枕カバーにしてもシーツにしてもさらさらがすぎない? こういうの絹っていうんだったか、カシミヤっていうんだったか。なんにしろ、超良い布。
これ、うちのシーツじゃなくない?
ここでやっと覚醒した。
遅いと言うなかれ、実際現実離れした出来事に遭遇した人間なんてこんなもんだ。
ひゅっと息を呑んで飛び起きるなり、今度は頭痛で沈没した。ずきずきと後頭部が激しく痛む。
あー、そういや義妹に実家の階段から突き落とされたんだっけ。割と上の段……一番上だった気がする。
階段から落ちる直前の記憶が蘇って、血の気が引く。ちらっと目端に段差が映ったのだ。
いや、死ぬがな。
日本家屋の階段は大体が急勾配で段差が鋭利なんだぞ。
自覚すると、節々というか背中も痛い気がしてくる。
誰が巻いてくれたのかは知らないが、包帯越しに恐る恐る頭の痛む箇所を触ってみると、それなりに立派なたんこぶが出来ていた。これで済んだのか、すごいな自分。
でも、たんこぶかぁ。しばらく頭を洗うのに苦労するな、こりゃ。
被害規模を確認するためにさわさわ撫でていて違和感に気づいた。私の髪は日本人らしく黒髪直毛、そして剛毛で。こんなに柔らかく、くるくると指にまとわりついたりしない。
というか、なんか身体全体に違和感ない? 階段から落ちて、あちこち痛いとか以前に。
枕に押し付けていた顔面を少し上げると、目の前に広がったのはくりんくりんの赤毛だった。こう、ハリウッド女優とかでいそうな見事な赤毛。この赤毛は何処から?
私は違うぞ、私の髪は黒くて直毛で剛毛で。何よりこんなに長くはない。結婚してからずっとショートカットだし。
ずるん、と引っこ抜けたらやだなぁ、怖いなぁ、などと思いつつ、手の近くに垂れた赤毛をそっと引っ張ってみた。ほら、実は誰かが覆いかぶさってるとか、カツラを乗せられてるとかあるかも知れないし?
常識的に考えてそんなことはないのだけど、赤毛を引っ張ったら自分の頭皮に刺激があることよりはまだ納得がいく。
「は?」
びん、と自分の頭皮から張った赤毛に思わず声が出た。
そしてその声にも驚く。なんか高くない? 可愛くない? 自画自賛ではない。客観的にさ。こう、幼児っぽいというか。
人間は自分の声だけは正しく聞こえないなんて言うけど、頭蓋に響く声がすでに甲高い。二十六歳、高くも低くもなく、人にはどちらかというとアルトボイスと言われる私の声が?
今度は飛び起きるのではなく、そぅっと身を起こしてみた。頭の怪我を心配してではなく、嫌な予感で身体が強張ってうまく動かなかったせいだ。
胸元を見下ろしてみると、フリル過多な真っ白なワンピースの下には何もなかった。あの、双丘が。有り体に言えばおっぱいが。ささやかながらもあったはずの膨らみが。
ついでに言うと、このワンピースも着た覚えもなければ買った覚えもない。もっと言えば見た覚えすらもない。
というか座ったはずなのに、視界が地面というかベッドと近くない?
身を起こしただけで同時多発的に混乱する事案が発生し、頭が急速に回転し始める。
そもそも、ここ何処よ。
慌てて部屋を見回し、天井以上に豪華絢爛な装飾だの壁画だのが目に入って度肝を抜かれた。なんだここは。まじで城か。日本国内じゃなくない?
あらためてその、何処ですか、ここ。
いや、その前に。
壁にかかった鏡を発見して、ベッドから降りようとして――私は派手に滑り落ちた。原因は単純明快、目測を誤ったのだ。だって、ベッドから降りようとして床に足がつかないとは思わなくない? 一応成人女性ぞ、われ。
どうなってんの、これ。
落っこちた拍子にどたん、と派手な落下音が部屋中に響くと「そんなに全長高くする必要あった?」と聞きたいくらい大きな扉が開いた。天井にも届くほどの高さって、一体何の意味が。また、この扉も彫り物がすごいというか庶民としては素手で触りたくないような造りなんだけど、それは今度にするとして。
重たそうなその扉を押し開いて飛び込んできたのは、見ている者が「天使や」と感嘆するようなご尊顔の美少年だった。うわすごいよ、お目々金色だよ。どこのお国のもんだ少年。
「シエラ!」
天使みたいな美少年はそう叫ぶなり、私にひしっと抱きついてきた。役得かよ。うん、そうではない。
抱きつかれて気がついたのは自分の身体の小ささだ。少なくとも大人と子供の体格差は、この少年と私との間にはない。この少年が巨人族とかなら納得もしなくはないが(やたら調度品とか扉も大きいわけだし)、巨大な少年というよりはこれは私が縮んだというほうが正しいような。
「シエラ大丈夫!? プラムが頭打ってるって言ってた! 動いちゃだめじゃないか! 何やってるの!?」
いえ、その、鏡を見に。
五、六歳くらいの美少年にぺたぺた検分でもするように身体を触られながら、言い訳を口にしつつ私は文字通りテンパった。あれ、今どきテンパるって言う?
言うっていうか、この美少年が話してる言葉、確かに海外っぽいお顔立ちからして絶対に日本語じゃないけど、よく理解できたな自分。
そして、さらっとよく日本語じゃないっぽい言葉が出たな自分と密かに感心する。私の英語の成績は三以上になったことはなく、当然英語は話すのも聞くのも苦手である。
そもそも英語でもなさそうなんだけどさ。
つか、どこのお国の言葉よ。ここまでこんなに色々思っているのに、私はほとんど無言だった。混乱しきると、言葉なんて出てこないものである。慣れた言葉じゃないと余計に。
「鏡? コブが見たいの?」
別にコブは見たかないけど、私がうんともすんとも言う前に執事っぽい人がさっと手鏡を差し出してくれた。
いつからいた執事。これは全くの余談だが、私はテレビの中の創作物として描かれる執事とかテーマパークのキャストさん以外で執事を見たことはない。
本物見たことないけど分かった。この人は本職さんだ。
シルバーグレーの髪を品良く後ろへ撫でつけ、口ひげを蓄えたその紳士はこう、王子様とかから「じい」って呼ばれそうな風体である。服装は白い手袋に燕尾服。「執事を思い浮かべてください」って言われたら百人中九十八人くらいは思い浮かべそうなあれだ。
眼を見張るべきは、その洗練された動きである。主人のためならほーやれほ、といったことを無意識でも行えるような所作は、一朝一夕でどうにかなるものではない。
今度はそのどう見ても本物の執事さんに驚きすぎて、危うく鏡を受け取り損ねた。見ず知らずの美少年よりも執事に驚くって私というやつは。いや、だって、この美少年は知ってるし。
うん? 知ってる?
「シエラ様?」
「あ、いえ、すみません」
条件反射で返事をして、おっかなびっくりしながら手鏡を受け取る。受け取って目を剥いた。いや、もうなんかすごいな! この手鏡! 金で出来てるの? どこもかしこも金っぽく見えるところは全部本物の金なの? なんか掘ってあるけど鳥とかお花かな! おっかなくて見られたもんじゃないけど! いやはやお金に困ったら売るものに困んないねこりゃ!
あの、なんかもっと安そうで手軽に扱えそうなやつが良かったんですけど。
もちろんそんなことは言えず。
びくびくしながら宝飾品みたいな鏡で、えいやと自分の顔を見る。
そこには、なんとなく予想通りというか、やっぱりなという感じで、赤毛の海外風の少女が映っていた。
瞳孔のまわりにほんのり橙が入った碧の虹彩を持つ、眦が少しつり上がった目。白くふっくらとした頬。うむ、美少女と言っても差し支えはない。平凡な日本人女性、咲田きさの顔よりは確実に。
いや、誰やねん。これ。
人間キャパシティをオーバーすると、脳みそが処理落ちして気絶するらしい。美少年の悲鳴をBGMに私の意識は再びブラックアウトした。
次話は今回ほど遅くならずに更新予定です。