拳の握り方
いくら入門志望者を熱望していたとて突然、「ワタシをチャンピオンにしてください」と開口一番に懇願されれば困惑するのがきっと普通のことなのだろう。
だが、嬉しいやら悲しいやら僕は生憎と普通ではなかったらしい。
このジムからチャンピオンが生まれれば、このジムの知名度も上がるんじゃないか? 知名度が上がれば入門志望者も増えるんじゃないか? というかチャンピオンが出ればその分、試合の興行収入
僕の頭の中では様々な思いが交錯し、即答した。
「よかろう」
「え!?」
頼みに来た少女までもが僕の早すぎる決断に驚く。
「え、えっと、自分で言うのも何ですけど、こういうのって返事にも困るものなんじゃ……?」
「安心してもいいよ。君が僕のことを信じて着いてきてくれるなら、君を必ずチャンピオンにさせると誓おう」
「えぇー……初対面の人に誓われた……」
絶対にチャンピオンにさせてやると誓えば、少女は若干引いた。
ムム、熱量は彼女に合わせたつもりなのに。最近の子は難しいな。
まあ、実のところ彼女に光るものを感じたとか、一目見て逸材だと気付いたとかそういうドラマチックな理由ではないんだけども。
今は、今はとにかく練習生が一人でも欲しい……! という藁にもすがるような気持ちで彼女の願いを聞き入れる形となったのだった。
「それじゃあ入門するにあたって練習生登録しないといけないんだけど、個人を証明できる書面とかってあるかな?」
「無い……です……」
ふむ、絶対に必要だというような物でもないが、万が一重いケガをすれば、彼女の様な少女なら家庭にも連絡しなければならない。
まあ、貧困街出身ならそういった書面を持っていないということだって無いことも無い。
これまでに貧困街からのし上がってきたシンデレラボクサーも割と多い。
しかし、彼女の身なりからしても貧困街出身ということは考えられない。
衣服はその造形自体は簡素な市販品であるが、皺やシミひとつ無く、手入れが行き届いている。
髪も絹糸のようにサラサラで、光を反射するその毛質は正に金の髪。目視できる限りではハネっ毛や枝毛も確認できないほどよく整えられていた。
さらに、恐らく十四、五ほどであると思われる彼女のその顔はとても美しい。美術や芸術に造詣の無い僕でも彼女の容貌に完成された美を感じるくらいだ。
「じゃあ名前と年齢と種族だけでも教えてくれるかい?」
「エリーナ・ブライトと申します。年は十五でヒト族です」
「エリーナ・ブライトさんね。ブライト、ブライト……うーん、どこかで聞いたことがあるような……」
「あ、あの! チャンピオンにしてくれるって本当ですか!?」
「え、ああ、それは間違いないよ……多分……。君が僕を信じて着いてきてくれるならね」
まあ確かにさっきは練習生欲しさに咄嗟に出た感はあるが、チャンピオンにすることを一度は約束したのだ。ていうか今さら撤回とかダサくて出来ない。
それに僕は魔法は使えないが、ボクシングの知識と技術で言えばこの世界にいる誰よりも深い。一地方のチャンピオンくらいならすぐにでもさせられるだろう。
正直、大きく出過ぎた感は否めないけど……。
「分かりました……ワタシ、頑張ります! ワタシのことはエリーナとお呼びください、師匠!」
「師匠……いい響きだ! 君を必ずチャンピオンにさせてやろう、エリーナ!」
「はい!」
と息込んでみたはいいものの、エリーナは僕の想像を遥かに越えていた。
いや、この場合は下回っていたと言った方が正しいのか。
取り敢えず彼女を運動着に着替えさせ、体力テストを行ったのだが、何ともまあ散々な結果だった。
ペチッ、ペチッ、ペチッ、ペチッ。
「あうぅぅ……」
「三分経過、ハイ終了ね。ロープ三回と……」
「ハァハァ……もうダメですぅ……」
「三分経過……スクワット十四回……」
「も、もう走れませ~ん……」
「千メートル走……途中棄権…………」
散々、いや惨憺だ……!
ここまで酷いとなると、最早憐れみさえ感じてしまう。
瞬発力、持久力、リズム感やバランス力、ボクサーに最低限必要な素養をこの子は何一つ持ち合わせちゃいない。
正直なところボクサーには向いていない……。
「や、やっぱりワタシはダメな子なんだ……」
何も出来なかった自分を責め、目に涙を溜めるその様子は僕の胸を締め付ける。
そうだ……師匠は僕だ。師匠が弟子を信じてやらなくてどうする!
…………それに今辞められたら月謝が!
「大丈夫さ」
「師匠……?」
「初めは誰だって初心者だよ。何でもかんでも出来る訳じゃないさ」
「師匠……!」
ありきたりな慰めではあるが、それ故に真理なのだ。
最初っから出来てりゃコーチやトレーナーなんて必要ない。そんなヤツは明日にでもプロになればいい。
そうだ、それが僕の役割さ。
「それじゃあ次は実際にボクシングをやってみよう」
「ハイ!」
そう言ってバンテージとグローブを手に次に移る。
「まず、バンテージの巻き方なんだけどね、ここをこうやって……」
「えーっと、こう……ですか?」
「うん、そうそう。次に指の股に通して……」
「何か複雑ですね」
「まあ、これさえしておけばケガを未然に防げるからね」
「はぁ、そうなんですか?」
馴れた手つきでバンテージを装着する僕と、初めて手にする彼女の悪戦苦闘っぷりは対照的だ。
僕が一度装着したバンテージを外して元あった形に巻き直し終えたところで、彼女は右の拳のバンテージを装着し終えた。
「次は拳の握り方からだね」
「握り方……ですか?」
「うん、意外と正しい拳の握り方が出来ている人は少ないんだ。だからちゃんとケガをしないためにも、そして基礎の基礎から学んでいくという意味でもちゃんとした拳を作っていくよ」
「ハイ! 分かりました!」
「うん、いい返事だ。それじゃあまずは、親指以外の指の第一間接と第二間接を握り込むように曲げてみて」
彼女にお手本を見せるようにして実際に右手で拳の作り方を実演する。
「こう、でいいんですか?」
「そうそう。それで握った指を折り畳んで、親指を人差し指と中指の背に優しく添える」
「ハイ」
「これが拳の握り方だよ。大昔の人はこの拳を箱に見立てて、箱を意味するボックス、このボックスで殴り合うからボクシングと名付けたんだ」
「ボックス……ですか……?」
ああ、そうか。ここではボックスなんて言っても通じないんだったな。
彼女は僕が異世界人だということを知らないみたいだし。
異世界でボクシングの起源について説いたところで理解してくれる人間はいないもんな。
「まあ、いいや。じゃあグローブを着けてみようか」
「ハイ!」
まだ誰も使っていない新品の真っ赤なグローブを彼女に渡す。
紐で拳に固定するタイプのグローブなので、初めてグローブを手にする彼女は装着に難航していた。
とは言っても一人で着けられるような物じゃないんだけどね。
随分手間取りながらも、僕が手伝ったのもあって装着は思ったよりすんなりと済んだ。
「それじゃあ、殴り筒に向かって思いっ切りパンチを打ってみて」
「え、えっとパンチなんてやったことないんですけど……それに思い切り打つのはやめた方が……」
「いいんだよ。今君が持っている全力で叩き込むんだ。技術や型なんて気にしなくていい。思い切り打ちなさい」
「は、はぁ……」
不承不承というふうに彼女はサンドバッグ、もとい殴り筒に向き直る。
「スゥー……ハァァ……」
深く息を整え、スタンスを大きく広げた。
まるで投球フォームの様に腰を大きく捻り、タメをつくる。
背中を真正面にあるサンドバッグに晒すほど大きい、大きすぎるタメ。
まさにテレフォンパンチだ。
「……いきます!」
彼女がそう言い放った瞬間、異常な気配を感じた。
タメを解放し、パンチを放つ。
決して速い動作には見えないし、実際速くない。
しかし、せいぜい身長百六十センチ程度の彼女の体躯がとてつもなく巨大に見えたのだ。
まるで巨人のような、鬼のような。
そして、
バヂィン!
今だかつて聞いたことのないような金属音が響き、
ガシャアァァン!
サンドバッグが、殴り筒が落ちた。
言葉を失うとはまさにこの事を言うのだろう。
確かにこのサンドバッグはこのジムが創設されて以来、ずっと吊るされてきたいくつかある中でも古めの物ではある。
しかし、それでもたかだか二年程度。
それに支える鎖には経年劣化を著しく遅らせる保存魔法、単純な強度を底上げする硬化魔法が使われているというのに。
「あ、あの……ごめんなさい……」
所在なさげに謝る彼女がそんな化け物じみた事を為せた本人とはまるで思えない。
さっきの資質がないという、的外れな感想は取り消そう。
間違いない。
間違いなく彼女は逸材だ。
「合格だ。明日から本格的に練習を始めるよ」