名選手≠名指導者
この世界、サリヴァンに呼ばれたのは突然のことだった。
自分で言うのも何だけどアマチュア四十四戦、プロで四戦して一度たりとも負けたことはなかった。
プロでは四戦四勝四KO、アマチュアではKO率八割を誇っていた。
そんな僕を世間は天才と、いや怪物と呼んだ。
そしてプロ四戦目を鮮烈の一ラウンドKOで終わらせたその夜、眠りについた僕の夢の中にとても言葉では形容できないほどに美しい女の人が立っていた。
その人は、自分が女神だと名乗った。
不思議とそれはすんなりと納得できた。
女神様は僕に世界を救ってほしいと頼んできのだ。
どうせ夢なんだし、「まあいっか」と思ってそれを受け入れると、異世界に飛ばされてしまった。
当時は異世界だとか分からなかったし、戸惑いもしたけど何日か過ごすうちにそれは夢ではないことに気付いた。
そしてその世界では色んな種族の人達がいて、その種族の間で戦争が起きていることを知った。
幾千、幾万もの罪もない人達を犠牲に。
女神様はこれを終わらせてほしいんだと直感的に解った。
幸い僕には異世界から来たという、この世界の人々からしてみれば未知のアドバンテージと影響力がある。
だから僕は彼ら種族の勇者達を自分の土俵に、いやリングに引きずり込み、叩きのめした。
そして僕はこの世界の支配者となり、
ボクシングをこの世界に広めたのだった。
「シュッ! シュッ、シュッ! シュッッ!」
パンチを打ち込む度にバシン、バシンと轟音を立ててサンドバッグ、この世界で言うところの殴り筒が派手に揺れる。
揺れは天井から吊り下げるチェーンをジャラジャラと鳴らしていた。
「朝から精が出ますねぇー、ヨシオ会長」
「ああ、おはよう、ジョシュナ」
寂れたジムの扉を開き、犬耳の女性、このジムのマネージャーであるジョシュナ・バーナードが声を掛けてくれた。
「まあね、僕だってまだ十九歳なんだ。元気が有り余って仕方ないよ」
「ふふ、それにしても相変わらずこのジムは寂しいままですね」
僕が会長を勤めるここ、ハラダジムは練習生が何故か一人もいない。
僕がボクシングを世に広めたおかげで、ボクシングがこの世界に生まれただけでなく、競技人口は元いた世界と比べても引けを取らないほどに爆増したのだ。
にも関わらず、このジムには練習生がいない。
設立した当初はそんなこともなかった。
それなりに大きい街でたった一軒のボクシングジムだ。数十人はいたはずだった。
しかし一人残らず皆が辞めてしまった。
何故だ、二十キロほど走らせてその後十二ラウンドサンドバッグを叩かせただけなのに。あ、その後十ラウンドほどスパーリングもさせたな。でもそれだけじゃないか。
「僕にも理由が分からないよ」
「まあ会長は異常ですから。分からないのも無理ありませんよ」
ムッ、その言い方は心外だな。
確かに戦績は人より良いかもしれないけど頭の方はしっかり常識人だぞ。
「私はこのままでも構いませんけどね……会長と二人っきりでいられますし……」
ジョシュナは少し顔を赤らめて言った。最後の方はボショボショ言ってよく聞こえなかったけど。
「このままって訳にもいかないさ。このジム、二年連続で赤字なんだよ?」
練習生がいなきゃ収入もゼロだというのに彼女は何を言っているのやら。
去年まで勤めていた世界ボクシング機関、略してWBIの会長の時の給与を何とか切り崩して保ってはいるものの、維持費や税金、建築のローンやらで懐が痛い。
このままの状態が続けばいずれジムを畳まなければならなくなってしまうというのに。
「ハァ、まあ会長はそういう人ですよね。知ってましたよ」
「な、何なのさ?」
「いいえ、会長は平常運転だなと思っただけです」
そう言って彼女はジムの奥へと消えた。
えぇー、どういうこと?
チーン!
ゼンマイ式のタイマーが三分が過ぎたという合図を出し、サンドバッグ打ち十七ラウンド目は終了した。
「今日も暇ですねー」
「フッ、フッ! そうだ……フッ! ねぇ!」
「ていうかいつも思いますけど、これ私達ジムにいる必要あります?」
「どうだ……フッ! ろう……フッ、フッ! ねぇ!」
「ちゃんと聞いてます?」
古くさい振り子の時計は午後二時を指していた。
あまりに暇すぎてベンチに寝転び、ぼやく彼女の言葉をリングを真半分に割るように結ばれた縄をウェービングで潜り前進しながら聞いていた。
おかげで相槌をロクに打てず、彼女のジトッとした眼差しを視界外から喰らってしまった。
仕方ない、真面目に答えてやるか。
「もしかしたら入門志望者が来るかもしれないだろ? その時の為にも僕達がここを空けちゃいけないよ」
「でも初期の練習生が辞めて以来、志望者もゼロ人じゃないですか」
「昨日あったことが今日もあるとは限らないだろう? そして今日あることがまた明日来るとも限らないさ」
「言ってることはその通りなんですけども……」
コンコン。
彼女を諭し説いたその直後、戸を叩く音がした。
ほらね、僕が言った通りさ。
この新しい入門志望者を優しく迎入れてあげよう。歓迎してあげよう。
そう、君こそが僕の真の一番弟子となるのだから。
さあ、今日からが僕達ハラダジムの再スタートだ!
ガラッ!
「すみませ~ん、私ぃ、ダーティ商会の者なんですけどもぉ~。実は新しい浄水器が発売しましてぇ~。金貨七枚で販売してるんですけどもぉ~。ご購入していただ」
「結構です」
ピシャッ!
「あー、またダーティ商会のセールスマンですか。最近よく来るんですよねぇ、あの人」
「チ、チ…………」
「ん?」
「チクショー! 何であのタイミングで来るんだよぉ! 紛らわしいだろぉ!」
吼えた。僕は吼えた。
いや、誰だってそうなるだろう。入門志望者だと思うだろう。
そもそも人が来ないわけだし、ノックの音がすればドキドキしちゃうでしょうが!
その上あのタイミングだよ!? こんなもん普通、入門志望者だと思うじゃん! 確定演出じゃん!
ドラマとかだったらそうなるでしょ!? ドラマじゃないからか!? じゃあ何だ、これはコントか!?
「ウワァアァァ! ローン完済がぁ! 完済が遠のくよぉ!」
「うわっ、この人本気で泣いてる……」
「もう……もう督促状見たくない……」
正直、機構の会長を勤めてたとは言っても新興組織なのだから、金銭面に関してはボロ儲けというには寒い額面しかない。
それをトレーナーがやってみたいからと最低限の軍資金だけ用意してジムを開業したのはまずかった。
ああ、毎日郵便受けを見るのが本当に憂鬱なんだ……。
分かるかい……?
齢十九にしてローンの返済に終われる精神的苦痛を……。
「もういいよ……。今日は帰っても……」
「え、いいんですか? ラッキー!」
意気消沈し、膝を着いて立ち上げる気力すら無い僕とは対照的にジョシュナは嬉しそうなルンルンとした足取りで帰り支度をし始める。
いい気なもんだなぁ……。
「それじゃあ会長、お疲れ様でーす!」
早々に支度を終わらせた彼女は僕に気遣う素振りも見せずに戸を開き、帰っていった。
ハァ、アルバイトでも見つけるべきかなぁ……。
コンコン。
また戸を叩く音がした。
あのセールスマンか……?
ジョシュナもあのセールスマンがよく来るんだと言ってたし、少しキツめに追い返してやるか。
戸を一枚隔てた向こう側にいるであろう相手を想定し、事前に眉間に皺を寄せてしかめっ面を作っておく。
ガラッ。
「ウチはそういうの間に合ってる……んで……?」
勢いよく扉を開き、開口一番に断ってやろうという目論見は崩れた。
というよりかはそもそも、する必要がなかった。
何故なら門前に立っていたのはあのセールスマンではなかったからだ。
戸を叩いた張本人、それは……
「ワタシを……ワタシをチャンピオンにしてください!」
一人の年端もいかぬヒト族の少女だった。