血と血。 ☆おまけつき
レイルークは立ち上がると、持っていた草を放り投げて手をはたいた。
畑を出て、ついさっき干したばかりの洗濯物を取り込んで家の中に戻る。
目まぐるしくするべき事を考えて、順番を決める。
まず両親に向けて手紙を書いた。
王都から急に帰ってきても驚かなくてすむように、家を守る約束が果たせていないことを謝っておく。
しばらく家を離れる決意をした。
守りたい人ができたこと、その人の元へ行くこと、心配しないで欲しいこと、落ち着いたら必ず知らせると書き添えた。
本当のところどうなるかなんてひとつも分からない。
三日後くらいにはこの手紙を、泣きながら自分で片付ける羽目にならなきゃいいけどと思いながら、見つけやすいように食卓の真ん中に置いた。
旅なんてしたことが無いので、何をどれだけ用意したらいいのか。
それでも、しょっちゅうあちこち出掛けていた両親も、コーニエルも、それほど大きくない荷物だったのを思い出す。
身軽なのが確かに楽だし、最小限のものでどうにかするものなのかも知れない。
そう思って両親の部屋の物入れに行く。
背負うことができる丈夫そうな布の鞄を見つけた。
ずいぶん使い込まれている感じだけど、ルークはそれを初めて見た。
父親が若い時に使っていたものだろう。
物入れの壁にいくつか掛かっているものを見て、いやいやと口に出しながらも、それを手に取った。
できればこんなもの使う羽目に会いたくないし、使える自分にもなりたくない。
しばらくうんうん唸って、何かから身を守らなくてはいけなくなった時に、有るのと無いのでは、それこそ生死を分けるのかもしれないと、並んでいた一番古そうな長剣を手に取った。
ずしりと重みのあるそれを、皮の鞘から半分ほど抜いてみる。
見事に手入れされていて、錆びどころか、曇りのひとつもない。
これで一体どれだけの、何を斬ったんだろうか。
白く鈍い光に背筋をぞくりとさせて、するりと鞘の中に戻した。
腰に下げられるようにベルトも借りる。
あとは何が必要だろうかと考えて、思い浮かぶのは両親よりもコーニエルが先。
彼女の真っ黒な外套を思い出した。
朝晩はまだ冷える日もある。
レイルークは今まで外套なんか必要なかったので持っていない。
寒い日は父親と同じように、毛布のような分厚い布をぐるぐるに巻いて出かけていた。
母のものを借りることにして、並んでいる中からコーニエルと同じような色のものを引っ張り出して、袖を通した。
きついところは無いし、丈もちょうどいい感じがする。
ここでも母親と似た体型で良かったと息を吐き出して、ふと思い付く。
もしかしたらあのごつい体で着られる外套が無いから、いつも布ぐるぐる巻きなのか。
いやその前に、厳つい父親にこんなぴしりとした外套は似合わない。
これと同じものを着ている父親を想像しておかしくなって、くくと笑い声を出す。
鞄と長剣を抱えて薄暗い物入れを出る。
陽の光で見下ろした外套は、深い紺色だった。
透き通る夜の色の鱗を持った、あの翼竜を思い出す。
自分の部屋に戻って、いくらか着替えを詰めて、棚の奥にしまっていた木箱から、この家のお金を半分掴んで、適当な袋に詰め替えた。
着替えとお金しか入っていない、すかすかの鞄にあとは何を詰めればいいのか。
目に付くものが全部必要にも見えるし、でも無くてもそこまで困らなそうなものにも感じる。
結局、日持ちのしそうな食料と、コーニエルが作ってくれた薬、使っていた薬草の束を小さな袋に詰め直して荷作りが終わる。
持ちが悪そうな食料は、ふもとの村のおばあにあげようと、大きな籠にがさがさ詰め込んだ。
この家の鍵を預けに行こうと思っていたから、ちょうどいい。
家中の窓の鎧戸を全部閉めた。
嵐の日以外に閉めたことがないから、閉めて回っているとわくわくするような、少し怖くもあるような、嵐の前の気分を思い出す。
大きな窓は外から雨戸を嵌めて固定する。
これも嵐の前には必ずすることなので難なく終わった。
ベルトを着けて、腰に長剣を佩く。
慣れない重みに体が傾く気がして、反対側に力が入る。
上から外套を着て、思わずおおと声が出る。
左側だけ上の方まで切れ込みが入っているのが、どうしてなのか不思議に思っていた。
剣を抜きやすくするためなのだと、全部を身に付けて分かった。
間違いなく、母は騎士なのだと、こんなところで実感する。
荷を背負い、気を入れるために頬を両手で強く叩く。
大きく息を吸い込んで、勢いよく吐き出す。
暗い家の中をぐるっと見回して籠を抱え上げた。
外から鍵をかけ、家の扉と向かい合って額を押し付ける。
行ってきますと、心の中だけでそう言った。
森からくる動物たちに食べられてしまわないようにと立てていた畑の柵を解放した。
囲ったままにしていても荒れるだけなので、それなら何かの腹の足しになるべきだ。
手間ひまかけた自慢の野菜、ありがたく、残さず食べろよと森の方を見て、すぐに目線を行く先に据えた。
足には自信がある。
それこそ森の中を駆け回り、川を泳ぎ回っている。
きっとすぐにコーニエルに追いつくことができる。
そのあとはどうなるかなんて知らない。
それでも行かないなんて、あり得ない。
一本しかない道はふもとの村に続いている。
あんなに美人で目立つんだ、誰かがきっと見かけているはず。
レイルークは草原を半分に分けるように伸びている細い坂道を下り始めた。
ふもとの村は二十ほどの家族が寄せ集まった小さな集落で、村全体が周りの地面より少し下の位置に埋もれるようにしてある。
この辺りの土は水を混ぜると粘り気がでて形が作りやすく、よく乾かせば石と変わらない強さになる。
家を作っているうちに掘り下がって、だから村ごと少し下になったのだと、年寄りたちが言っていた。
レイルークが暮らしている、石と木でできた王都風の家とは違い、どの家も土と木でできた、器を伏せたような丸い形をしている。
それが大小ぼこぼこと連なって、それでひとつの家になっている。
分厚い土壁の内側は、冬は少しの火でとても暖かくなるし、夏はなにもしなくてもかなり涼しい。
部屋の中は真っ直ぐな部分はほとんどなくて、壁も家具も、全部が丸っこい。
レイルークの父はこの村で生まれた訳ではないが、この村で育った。
小さいうちに身寄りが無くなり、この村のおばあの世話になり、育ててもらった。
母も実家とは縁遠くなっているので、祖母と呼べる存在はこの村に住むおばあだけ。
低い石垣に腰の高さまでの土壁がぐるりと村を囲んでいる。
村の入り口からだと遠回りになるので、レイルークはいつものように、おばあの家に一番近い所の塀を飛び越える。
今の頃なら、畑ではなく家で休憩しているはずだと、おばあの家の扉を叩いた。
「おばあー。いるー?」
返事も待たずに、上の部分が丸い扉を開けて、少しひんやりした家の中に入る。
中に入ると良い匂いがする。
パンを焼いている香ばしい匂いと一緒におばあの声が届いてきた。
「こっちだよ、ルーク」
「なんのパン? すごく良い匂いだよ」
奥の台所に進み、入ってすぐの台の上に抱えていた籠を置いた。
おばあは石で組まれた竃の前に椅子を置いて、門番のように片手に長い棒を握って踏ん反り返って座っていた。
いつもと変わりない孫の訪問に、パンに練りこんだのは干した果物だと答えようと振り返って、レイルークの姿に答えを失う。
「お前、どうしたんだ、その成りは」
「うん。ちょっと出かけようと思って。これ食べてよ、家には置いとけないから」
「……どこに出かけるって?」
なにが面白いのか、にやにやと笑いながら、おばあは体を捻って椅子の背もたれに腕をかけた。
「どこまでかは分かんないけど」
「なんだい、そりゃ」
「あ、そうだ、おばあ! 人が通らなかった?」
「人は通るよ、いくらでもね」
意地悪そうに笑っている顔に、ルークは子どものように足を踏み替える。
いつもこの調子でからかわれるから、いつまでたってもおばあの前では子どもの気分が抜けない。
「黒い外套の人だよ、女の子。すんごい綺麗な子だよ!」
「へえぇ。その子を追って行こうってねぇ?」
「……そうだよ、なに?」
ここで嘘を吐いても誤魔化しても、おばあにはすぐ見透かされて、余計にからかわれるので正直に答える。
「別にぃ? はあー。ルークがねぇ……」
「なんだよ」
「枯れ果てた爺さんだとばかり思ってたけど、違ったみたいだ」
「……俺も同じこと思った」
「はは! 向かいのエリィザが泣いちまうねぇ」
「なんでエリィザが泣くんだよ」
向き直って、先が平たくなった長い棒で石窯の中をつつくと、おばあはふふと笑った。
「エリィザの母親も泣いてたねぇ、懐かしい」
「なに?」
「お前、見た目は母親にそっくりだけど、やってることはまるっきり父親と同じだよ。面白いねぇ」
「え、なにそれ」
「……決めたからにはやっちまうんだろうね、そこも似てれば言うこと無いけどね。レイルーク、しっかりおやり」
「……うん。そのつもりだよ」
壁に掛かっていた布を、持っていた棒で器用に外して手元に落とす。
手の上で広げて、そこに焼きたてのパンを竃から出して置いた。
「さっさとその娘さんを連れて帰って来ておくれよ、ばばあが生きているうちに、ひ孫の顔を見せておくれ」
「心配しないでも、おばあならあと三百年は生きてるよ」
「そりゃどこの魔女の話だい。化け物じゃあるまいし」
魔女と化け物。
その言葉でレイルークの胸でどくりと音がした。
「……おばあは、俺が、その……竜殺しだって、知ってた?」
「……あの子もそうだからね。……そうだね。知ってたねぇ」
「父さんも母さんもどうして教えてくれなかったんだろう、おばあは知ってるのにどうして黙ってたの?」
「血の話さ、ルーク。血は血だよ。竜殺しの血を継いだからって、お前は竜殺しじゃない。お前が望まないなら、あの子もそうしたくないんだろうよ」
コーニエルと同じ血の話なのに、おばあは全く逆のことを言った。
そうだとどんなに良いだろうかと思って、同時に、抗うことがどれ程に難しいかとも思う。
あの夜の色の翼竜に会わなければ、きっとおばあの話の方を信じただろう。
同じ色をした外套を見下ろしながら考えた。