貸しと借り。
レイルークが口に物を詰めたままで、もごもごと何か言ったようだが、今ひとつよく分からない。
きっと無茶を言うなとか、そんな内容だろうと捉えておく。
7回ほど繰り返して、傷の端までを閉じた。
一番端は間隔を少し開けておく。
もし膿んでしまった時に、そこから膿を出す為だと、師匠から随分昔に聞いたことがある。
腕や足なら何度か縫ったことはあった。
が、コーニエルは膿んだことがないので、本当かどうかは知らない。
そもそも殺そうとしてきた相手にここまでしたのだから、これ以上 気を使う必要は無いはずだ。
「新しい布はどこだ、腹を縛れるようなものがいい」
まだ口にシャツを詰めたままで何かを言ったので、引っ張り出してやる。
「部屋を出て右手に行ったら、二番目の扉に……」
「……面倒。取っておいで」
足の上から降りて通りやすいように道を開けると、レイルークは起き上がってふらふらと部屋を出て行った。
窓の外はもう白んで、今にも地上に朝日が顔を出しそうだった。
戻ってこようとするのを扉の前で待ち構えて、そのまま水を使える場所に案内を頼んだ。
流石に他人の家を、案内もなしにあちこち行きたくはない。
家の中で水が勢い良く流れるのは台所だけだと言われたので、食器を洗う場所で手に着いた血をきれいに洗い流した。
コーニエルのすぐ横に立ったレイルークが、何かあまりきれいそうに見えない布で腹の血を落としている。
「それは何に使う布だ」
「机とか、その辺を拭く……」
「……そうか」
この家で何か拭くものを借りるのは止めようと決めて、コーニエルは自分の服に濡れた手を擦り付けて乾かした。
新しい布をきつく腹に巻き付け、ひと仕事終えたと肩から力を抜いた。
「……これで貸し借り無しに」
「それは無理だよ」
「なぜだ」
「だって俺は君を……その、死なせかけた」
「私も殺そうとした」
「でも傷を塗ってくれた」
「こちらも手当てを」
「それは当然だよ!」
「……名前はなんと言った」
「レイルークだよ」
「レイルーク……」
「ルークって呼んで」
「レイルーク」
どうにも会話は平行線のような気しかしない。
面倒になったので、名前の中に呪を織り込んで、人差し指の先に印を編んでレイルークの眉間をとんと突いた。
人の意思を少し逸らせる程度の軽い縛り。
「貸し借りは無しに」
「……だからそんなの無理だよ、あと……ルークって呼んで欲しい」
にこにこくねくねレイルークは捩れている。
効いていないのはレイルークに流れる血の所為なのかも知れない。
でもそれをいちいち試すのも面倒なので、コーニエルは早々に宗旨替えすることにした。
「じゃあもう借りでいい」
さらににこにこと機嫌良さそうにレイルークは頷いて、コーニエルはさっさとこの借りを消化しようと頭を働かせた。
「……レイルーク、さっきの蜂蜜に入っていた草はあるか」
「うん、あると思う」
「取っておいで、私の為に」
「わかったよ!」
くるりと方向を変えると、レイルークは台所を出て行った。
いつまでもばたばたと足音が聞こえ、それは止まることはなくそのまま戻ってくる。
棒を投げたら拾ってくる犬のようだと思う。
まぁなんて賢い犬かしらと、籠を受け取って中を覗く。
うまく乾燥させた薬草が、束になって何種類も入っていた。
「あとシャツを着てきなさい、私の為だと思って」
「待っていて、すぐ着てくるから!」
レイルークの後ろ姿を見送って、食卓の上に使えそうなものを並べていく。
宣言通りすぐにシャツを着て戻ってきたルークにあれこれ指示を出しながら、熱冷ましの煎じ薬と、化膿止めの塗り薬を作った。
使い道をひと通り説明する。
窓の外に見える空は紗のかかったような薄い水色。
働き者ならひと仕事を終えたような太陽の高さだった。
「外套と荷物を持ってきて、お願いですから」
「はい!」
目の前に並べられた自分の荷物が揃っているかを確かめて、ひとつずつ身に付けていき、最後に外套を羽織った。
コーニエルはきちんと向き合えるようにレイルークに体を向ける。
「……じゃあ、これで」
「え?」
「さようなら」
「どうして、俺まだ……」
「私の望みをたくさん叶えた。借りは無くなった。もう気にするな」
「でもそれは、薬を作る為だったから……むしろ俺に借りが増えた」
「私が作りたくて満足する為に作った。あなたの為ではない」
「君は! なんて……素敵な心の持ち主なんだ!」
コーニエルは目を閉じて、思い切り顔を顰める。
同じ言葉を話しているはずなのに、ひとつも通じている気がしない。
「もういい。借りだと思っているのならそのままでも構わない。さようなら」
「待って!」
出入り口へ向かう背に向けて、咄嗟に出かけた手を止める。
思わず出た手が彼女に危害を加えるのではないかと、レイルークは急に恐ろしくなった。
手のひらの中にはまだ、首を締め上げた時の生々しい感触が残っている。
それでも自分のものより小さな手や、柔らかそうな長い髪に触れてみたい。
光の加減で変わる瞳の色をいつまでも見つめていたい。
麓の村にもかわいいなと思う女の子はいたけれど、心の底からきれいだと思ったのは、コーニエルが始めてだった。
このままさようならなんて、考えられない。
「ね……もう少し休んでいきなよ」
「充分休んだ」
「二日も眠ったままだったんだよ、お腹も空いてるでしょ?」
「平気」
「いつ目が覚めても大丈夫なように、スープを作ったんだ。美味しいから」
「話を聞いているか、私は要らないと言ったんだ」
「責任を取りたいんだ!」
「軽々しくその言葉を口にするな」
「軽々しくなんて言ってない。君が眠っている間ずっと考えてたんだ。こんな事をしてしまった俺を許してもらえるまで、何でもしようって」
「許す……これで責任は無くなった」
「それじゃあ俺の気が済まない」
「あなたの気分なんて知ったことか。自分の気を済ませたいなら私を言い訳にしないでくれ、巻き込まれるのは迷惑だ」
「君をこのまま行かせたくないんだ」
「それは、私を殺したいからだろう」
「違う!!」
そう大きな声で否定はしたが、レイルークには間違いなくその気持ちがあった。
体中を駆け巡る血が、見失うな、離れるな、敵を屠れと叫びを上げている。
弱い者は守れと、父から何度も聞かされた。
自分より小さなコーニエルの体、儚げで朝露のように消えてしまいそうな彼女を守りたい。
女性は大切にしろと、母から何度も教えられた。
自分よりもしなやかで柔らかいコーニエルを傷付けたりしないように、大切に扱った。
やるべき時には立ち上がり、相手が何であろうと戦えと、ふたりは言った。
これまではよく分からなかったけど、今はもうはっきりと解る。
相手は自分だ。
戦うべき相手は自分の中の竜殺しの血。
相反する思いがレイルークの中で混ざり合わないまま渦を巻いている。
喉に詰まったようになっているのは心臓だと思う。そのまま吐き出してしまえば楽になれる気がする。
それほどに苦しくて、熱い。
喉も胸も引き毟って暴いてみせれば、そうすれば、コーニエルにこの気持ちが伝わるだろうか。
自分でもどうしていいのかよく分からない。
言うことを聞くかどうかも定かではない体も、ぐちゃぐちゃの心も、何もかもが正反対のことを同時に喧しく叫び声を浴びせてくる。
全部を黙らせる為に、レイルークも叫ぶ。
「俺と結婚して下さい!!」
「……………………は?」
生まれて初めての求婚は、ひと言にも満たない返事で終わった。
「何を言っているんだ俺は!!」
「それは私の言うことだ」
どこからやってくるのか知れない力が、体中、指の先の先にまでこもる。
レイルークは思うようにならない自分の言動を抑えようと、床に倒れてその辺りをごろごろと転がった。
顔に熱が集まっているから、赤くなっているはずだ。コーニエルに見られないように両手で顔を押さえる。
「違うんだ! いや、違わないけど! 今はそういう話がしたいんじゃないんだ! どうしたら君に分かってもらえるかって考えてたら、何でか!」
「……いいから落ち着け、動くな」
ぴたりと動きを止めて、コーニエルを指の間からそっと見上げる。
黒い外套から出た白い手が、すっとレイルークを指差した。
脇腹に血がじわじわと染み出して、シャツが赤く染まっていく。
「縫えば治ると思ったら大間違い」
「……はい。ごめんなさい」
ゆっくりと上半身を起こして、コーニエルの手を、壊れないように気を付けて、そっと下からすくうように自分の手に乗せる。
「お願いだから、俺の作ったごはんを食べて下さい」
「……どうかしてる」
「俺もそう思う。……でも、お願い」
「私はそのお願いを聞かなくてはならない謂れはない」
「借りを返させて」
真っ直ぐ見上げてくる目から、コーニエルは顔を逸らして舌打ちをした。
これ以上ごねたって平行線なのはきっと変わらない。
食事を出すと言っているだけ。
それで気が済むのなら、それぐらいは聞いて構わない。
あと少しだけ我慢すれば、それでさようならだ。
「まず着替えろ。血塗れの人から食事を出されたくない」
「……!! 分かったよ! 待っていて!!」
勢い良く立ち上がると、レイルークはボタンを外す手間も惜しんで、襟の後ろを掴むと、引っこ抜くようにシャツを脱いだ。
腹にあった布も解いて、後で洗濯しようと水を張っていた桶の中に放り込んで、今いる台所から、自分の部屋に走り出す。
コーニエルはゆっくり静かにため息を吐き出した。