針と糸。
太い梁の影が天井でちらちらと揺れている。
光の元を辿ると、頭の上の場所にランプの端を見付けた。
頭を横に倒すと窓の枠の外側には星、下の方は白を溶かした藍色で、夜明けが近い時間かとその反対側にも頭を倒す。
質素な木の椅子に腰掛けて、一本足の小さな丸い卓に突っ伏している男の姿があった。
腕に囲われて顔は見えないが、枯れ草のような髪の色で、昼間に出会った竜殺しなのだと分かる。
どうしてここにと考える前に、何があったのかを思い出す。
それまでのへらへらした薄ら笑いが抜け落ちたと思ったら、いきなり気を違えたように竜殺しは大声を張り上げて、飛び掛かられ、両手で首を掴まれた。
コーニエルは首に手を持っていく。
そっと触れると鈍く痛んで、撫でると指先には布の感触がした。
殺そうとした相手を運ぶ意味が分からない。
気を失う前になんとか短刀を取り出して、腹の辺りを刺したのは覚えている。
その手応えも確かにあった。
腹に刃を突き立てた、素性の知れない者の手当てをする意味はなお更に分からない。
手探りで腰を探って、短刀も、それを下げていたベルトもないのを確認した。
当たり前に武器は身から離されているかと、腕から力を抜いた。
見回した範囲に目に付くものが無いから、コーニエルはゆっくりと肘を突き、体を起こして座った。
少し離れた扉の横に、自分の黒い外套が壁に引っかかっている。
その横には鞄と、ベルトもぶら下がっていた。
皮の鞘に収まった銀色の短刀の柄も見える。
武器を隠さずに見える場所にぶら下げるなんて、この男はどれだけおめでたいのかとそちらに目を向けた。
音を立てないようにゆっくりと動いて、今いる寝台から脱け出ようと床に足を下ろすと、すぐ側に靴が揃えて置いてある。
靴の中に足を入れ、踵を押し込んで踏んだところで床が鳴った。
男がぴくりと腕を動かして、頭を持ち上げる。
コーニエルの方に顔を向けると、半分しか開いていなかった目を見開いた。
「目が覚めた! ……ほん……あぁぁぁ、本当に良かったぁぁぁぁ……」
情けない顔をさらにぐしゃりと歪めると、ふらふらと椅子から立ち上がって近付いてくる。
近寄るなと声を出そうと口を開いても、掠れた声にもならない音と、息しか出てこない。
男はばっと両方の手のひらを前に突き出して、待っていてと慌てて部屋を飛び出していった。
ぱたぱたと足音が遠退いていき、すぐにまた同じ勢いで近付いてくる。
目の前まで戻ってくると、床に両膝を突いて腰を落とした。
両手にはひとつずつ陶器の器が握られて、その片方を差し出した。
「……水だよ、これ飲んで。大丈夫、何も入ってない。普通の水だから」
殺す気なら自分はとうに死んでいる。
そんなこと言われなくても、この男が危害を加える気が無いのは分かっている。
不安そうな顔で見上げてくる相手から、呆れながら器を受け取った。
貼り付いたような喉に、冷たいものが少しずつ通っていくのが心地良い。
相当に喉が渇いていたのか、水が甘く感じる。
水を飲み干すのをじっと見て、ほうと息を吐き出した。
もう片方の手にある陶器に刺さった木の棒で、中身をぐるぐるとかき混ぜる。
入っていたのは匙で、その上にはとろりとした琥珀色のものが乗っている。
「蜂蜜は好き? 食べられる? 喉に良いから」
こぼれて落ちないように、器と匙が口のすぐ前まで運ばれた。
色々と面倒だなと思いながら口を開けると、匙が入ってくる。顔を後ろに引いて端を自分の手で持った。
「……どう? 中に薬草が漬けてあるから、ちょっと変わった味がするけど、平気?」
鼻に抜けていく香りで、風邪の時に煎じて飲む草がいくつか頭に浮かぶ。
ぴりぴりと喉にしみて、煮出すよりは効果は薄いけど、効き目が無いわけでもなさそうだと頷いた。
咳払いをして声を出してみると、掠れているけど、きちんと音にはなっている。
「……どれくらい寝た、ひと晩か」
「違うよ……ふた晩……本当に……本当にごめんなさい」
項垂れて、膝の上で手を握りしめている男の前に、空の器を差し出した。
「……お水、おかわり」
はと顔を上げて、分かったと部屋を飛び出すと、さっきと同じように走って戻ってくる。
水がいっぱい入った器を受け取った。
今度は一気に飲んで空にする。
「君になんて謝ったらいいのか。……言い訳はしたくないけど、あの時、俺。なんて言うか、自分じゃ何をしているのか分からなくなって……」
「血のせいだ」
「血って?」
「竜殺しの血」
「だから俺は、竜殺しなんかじゃ……」
「竜殺しの血は子に受け継がれる……知らないのか」
「そんな、はなし……」
聞いたことが無いと声が小さくなって、最後の方は聞こえない。
床を向いて、自分の内側を見つめているような目は、またコーニエルを見返した。
「どうして逃げずに近付いた。なぜ構ってきた……思い当たるだろう」
「そんな、どうしてかなんて、分からない」
「私を殺そうとした」
「それは!」
「別に責めている訳じゃない、私も同じことをしたしな。……腹は大丈夫か」
思い出したように腹を押さえると、シャツの色が変わる。
手に感触が伝わったのか、持ち上げてみると手のひらが血で濡れていた。
「手当てをしなかったのか」
「いや、布で縛った……」
「見せろ」
レイルークの血に濡れた手を引いて立たせると、場所を入れ替わって寝台に座らせる。
シャツを捲り上げて、その下の清潔そうな布を下げた。
コーニエルは片方だけ眉を跳ね上げる。
「針と糸」
「え?」
「え、じゃない。針と糸を持ってきなさい」
「そんな、大したこと……」
腹の布を元に戻して、そこをまあまあ力強く叩いた。
腹を押さえて体を折り曲げるレイルークの襟元を掴んで、引っ張り上げ、立たせる。
「針と糸」
「う……は、はい」
レイルークは両親の寝室に行って、物入れから母の使っていた道具入れを持ち出した。
それを下げて自分の部屋に戻る。
これから何をするのかと考えると、足取りは自然と重くなる。
部屋に戻るとコーニエルは卓を寝台の脇に運んでいた。
その上にちょうどランプを置いたところだった。
ルークから道具入れを受け取ってそのまま卓の上に置いた。
中を確認して、小さな握り鋏と、糸の束を取り出して並べる。針山にある縫い針の中から、糸が通されているものを抜き取って、針先を見てから元に戻した。
ルークのシャツを剥ぎ取るように脱がせて、ぐるぐるに巻かれた腹の布をコーニエルは外していく。
「寝転んで」
渋々と寝台に上がって横になるルークの腿の上に、コーニエルは跨って膝の上に座った。
きれいに口の端を片方だけ持ち上げて、ふと笑い声を漏らす。
少しだけ首を傾げて自分を見下ろしているコーニエルに、瞳の中に映っているランプの小さな明かりに、レイルークは見惚れていた。
「立場が逆になったな……傷を縫ったことはあるのか」
「な……なう、ぐ?!」
言い切る前にコーニエルはさっき剥ぎ取ったシャツをルーク口の中に押し込んだ。
レイルークも目の前にあるボタンで、それが何なのかが分かる。
舌の上にある固いものもボタンなのかと、もごもご口を動かした。
「それでも噛んでいろ。叫んでもいいが、動くな」
コーニエルが針山から一本だけ針を取って持ち上げるのが、とてもゆっくりに見える。
自分が泣きそうな顔をしている自覚はあるし、情けない唸り声が漏れているけど。
言われた通り、動かないようにしようと体に力を入れた。
「消毒はしない。今さら遅いし、後から考える。まあ、きれいな布で腹を巻いたのは賢かったが……縫おうと思わなかったのは大馬鹿」
今まで何度もケガをしたけど、どの程度で縫わなくてはいけないのか、レイルークは知らない。
覚えている限りでは、そこまでひどい傷を負ったことはない。
それ以前に自分で自分の脇腹の具合を見るのは難しい。
血が止まるまでぎゅうぎゅうに縛っておけば、その内に治ると思っていた。
コーニエルは傷から湧き上がってくる血を、今まで腹を縛っていた布で拭って、傷を開いて深さを確認する。
臓腑までは至っていないように見えた。
刺したような手応えを感じていたけれど、指の長さほどに裂けただけだった。
いくらでも湧いて出てくる血に、太い血の道を断っているのかと考える。
これでこのまま血が止まらなければ、それはこの男の運命だし、自業自得だと、エルはそう思うことにした。
腹の端の方を引っ掛けただけかと眉をしかめる。
これまでと今との差異に修正が必要か、頭の中にある本に、短剣の稽古と書き加えた。
傷に針を通して糸を結ぶ。
レイルークは動くなと言われ、それをきっちりと守っていた。
なんなら声も上げないように我慢しているが、それがコーニエルにはやり難い。
思わず出た舌打ちに、ルークは不安そうに眉の端を下げた。
「力が入り過ぎだ。もう少し柔らかくならないのか」
自分で言った後で、そうかと納得がいく。
力があり、筋肉で覆われているから刃が思ったように通らなかったのだ。
小さく悪態を吐き出す。
コーニエルは拳を作って、傷とは反対側の腹をどんどんと叩いた。