レイルークと竜。
一章の始まりです。
楽しんで頂けますように。
では、
どうぞ。
寒さの緩まった朝の空気に、穏やかに降る日差しが春を知らせている。
レイルークは畑で草むしりを終えて立ち上がると、丸く固まった背中をぐいと伸ばして、そのまま後ろに反らせて唸り声をあげた。
毎日引っこ抜いているのに、雑草というやつは次々にぽこぽこと新芽が土の中から飛び出してくる。
育てている野菜の方こそそうなってもらいたいのに、なかなか思い通りにはいかないものだと、抜き終わった草で作った小さな山を見下ろした。
もう少し陽が昇って暖かくなったら、魚も元気に泳ぎだす。
釣りに出かける前に少しでも薪を割っておこうと、ルークは柵で囲われた小さな畑を出て、鼻歌を歌いながら家の裏手に回る。
ここには居ない両親に代わって、この家の維持をするのがルークの全てだ。
今現在も両親は家を離れて王城に登り、後進を育てている最中。
ちょっとした休暇で帰って以来、もう丸二年はふたりの顔を見ていない。
今でも英雄だと褒めそやされる父と、その父と肩を並べられるほどに強い王城の騎士だった母は、家庭を持ったとそれを理由に中央から引っ込んだ。
王都から遠く離れたこの国の端、森と川とに挟まれた、小高い山の上に居を構えて、ひとり息子のレイルークを育てた。
そんな両親に育てられれば、さぞかし立派な志を持った屈強な青年に育ちそうなものを、当のレイルークはそうは育たなかった。
近くの森で虫を捕まえようと走り回り、川で魚を捕まえようと泳ぎまわり、よく笑って泣いて、素直で、時々は手伝いをする。
どこにでもいるような子ども。
ルークの両親も我が子を英雄や騎士にするつもりは無い。
自分たちが嫌という程味わった、権謀術数が渦巻く王城に送り出すよりも、太陽の下で笑っている方が息子に合っていると感じていた。
何かと引き立てて導くようにと上から喧しく言われもしたが、時が来てから話を聞くと周りを黙らせ続けた。
両親と家とが世界の全ての子どもは、両親と家と世界が好きな青年に成長する。
ひねくれそうになると父に喝を入れられ、卑屈な部分を見せると母に尻を叩かれながら大きくなった。
ルークが十三の年になったばかり、今から四年前。
両親の元に知らせが届いた。
城に火急の事変あり、時は来た、息子を登城させよ。
ふわりと笑って分かったと頷いた素直な我が子を、王に預けることは耐え難い。
王命よりも大事な仕事だと我が家の維持を息子に託して、代わって両親は王城に登る。
それがふたりを呼び寄せる詮術だと理解して。
木陰に入るとルークは川の中に糸を垂れた。
ふわりと暖かい空気の中に出てこようとするあくびを噛んで堪える。
上手く魚が釣れれば良いけど、別に釣れなくても気にしない。
そういう日もあるさで済ましてしまう。
釣れた時と釣れなかった時、両方の献立をのんびりと考えた。
朝は畑の世話をして、終われば薪割りや家事。時々は壊れた場所の補修もする。
日が暮れたら夕食を取って、眠くなるまで本を読んで過ごす。
まるっきり隠居した老人の生活だけど、それがひとつも苦ではなかった。
王都で今も頑張っている両親には申し訳なさを感じる。
竜殺しとして名を国中に知らしめた父親、その討伐数を超える者は未だに現れない。
英雄と呼ばれるようになったのは、今のルークよりも若い頃からだ。
四十を超えた今でも、丸太のように腕は太いし、眼光鋭く、声は地を這うように低い。
睨まれてゆっくりと名前でも呼ばれたら、息子のルークでさえ緊張で背筋が伸びて、脂汗が吹き出る。
その父と並び戦える母は、王城の騎士だった。
見た目はすらりとしているのに、纏った鎧の重さを感じさせないほと軽やかに舞うように戦い、剣術も弓術も男顔負けだと話に聞いた。
今となってはそれを微塵も感じさせない、常に笑顔を絶やさない優しい母親だが、父親と悪ふざけをした時の真顔は、きっと騎士時代のものだと思う。
母に似た見た目で良かったと感謝している。
父と比べれば断然ひょろひょろに見える自分の体を見下ろしては、何度も安堵のため息を吐いた。
もし父親に似てしまったら。
間違いなく周囲は要らぬ期待を抱くだろう。
あるいは父を超えるのかも知れないと。
ルークにはふたりのように命をやり取りする程の腕っ節も、困難を乗り越えられるような胆力も、自らを鍛え上げられるほどの根性も無い。
大体において、二代目なんて碌な者にはならない。
それはどこでも見聞きするし、家の書棚にある本にも載っている。
両親が偉大であるほど、その子どもは調子に乗ってはいけない。
偉大なのは親であって、自分ではない。
謙虚に慎ましく、目立たぬように大人しく。
そう生きていくべきだ。
調子こいたらバカを見る。
それこそ両親の顔に泥を塗るだけ。
ルークは自分のその考えに素直に従って暮らしていた。
ちゅるちゅると喧しく鳴いていた鳥の声がぴたりと止む。
それだけでしんと静まり返った感じがした。
聞こえるのは水の流れる音だけで、森の動物も虫も、木々や草さえも、形を潜めて気配を絶っているようだった。
冷んやりとした何かに首を逆撫でられ、ルークは肩を竦めた。
背中を這い上る痺れが広がって肌の表面を走っていく。
ざわざわと暴れる風に揺らされる草木のように、腹の奥底で何かが蠢いている。
緊張と不安と喜びが大きく膨らんで、そのまま外に溢れ出す感覚。
ふと翳った日差しに空を見上た。
陽の光を背負った真っ黒なそれは、恐ろしいほど大きく見えて、さらにその下の地上には、全体像が掴めないほどの影を落としている。
レイルークは生まれて初めて竜を、翼竜を見た。
その影の下にいるだけで一気に春の暖かさが失せた気がする。
体は知らないうちにがたがたと震えていた。
ひと息で小さな村なんて消してしまえるモノだ。尾のひと薙ぎで簡単に人間を潰してしまう。
腕に覚えのある勇敢な者が何人も集まって、協力し合って何日もかけて追い詰めて、少しずつ削るようにしないと倒せない生き物だ。
考えられないほど長く生きて、どんな生き物よりも体が大きくて、気まぐれに、ほんのお遊びにもならない暇つぶしで町と人を潰す。
そういう生き物だ。
できればそっとしておいて欲しいし、そっとしておきたい。
何度も相対した父が冗談めかしてそう言ったことがあった。
恐れと畏れを間違えてはいけないと、何度も聞いた。
両親からは実体験を聞き、書物の中にもそんな話はたくさんあった。
自分みたいな、勇気も強さも持ち合わせていないひ弱な人間は、一生お目にかかる機会なんて無い。
少しだけ、遠くからでも一目でいいから見てみたいなど、ほんのちょっとでも考えていいものじゃない。
何かの間違いで見てしまった時は、一目散に逃げ出して、家に帰って寝台に潜り込み、毛布を被ってこの厄災が通り過ぎていくのを待つのみだ。
翼竜はゆっくりと大きく翼を羽ばたかせて、体の角度を傾ける。
鳥が枝にとまる時と同じに見えて、着地するのだと分かった。
瞬間で思い出す。
森の西の端には木々の無い開けた場所がある。大きな竜が下りるのならば、そこしかない。
影が通り過ぎ、陽の光が眩しいと目線を逸らした時にはもう、釣竿を放り投げて走り出していた。
足は家の寝台ではなくて、森の西側に向いている。
下草をかき分け、大きな岩や木の根に足を取られながら、獣道もない場所をただひたすらに真っ直ぐ、目的の場所へと進んでいた。
焦りばかり、気持ちが急くばかりでちっとも前に進んでいる気がしない。
早く早くと思っている自分と、危ない場所に向かうのは止めようと言う自分。
こんな走り難い所じゃなくて、少し遠回りでもいいからちゃんとした道を行けと冷静な自分もいる。
転んだり頭をひどくぶつけながら、それでも引き返す方ではなく、西の端を目指している。
目の前の明るさが変わったような気がして、足を緩めた。
少し先で森の木々が無くなっている。
開けた場所に着いたのだと、身を屈めて、音を立てないようにゆっくりと進んだ。
その場所には泉がある。
魚は少ないし、いても小さな、腹の足しにもならない魚しかいない。
水は澄んでとても綺麗なのに、泉の底は見えない。
真っ直ぐ縦に空いた穴のようで、浅瀬は無くて、水際からすでに足が届かない深さ。
泉の中心は夜のように真っ暗な色。
ずっと見ていると引き込まれてしまいそうになる。
小さな頃、ひとりで行ってはいけないと何度も怒られた。
泉の周りには蟻みたいに小さな葉の草が、地面すれすれにびっしりと生えている。
秋になると同じくらい小さな白い花が、葉の黄緑を覆って咲き、雪が積もったように真っ白になる。
母はその光景がとても好きで、秋になると家族で何度も出かけた。
泉の側には女の子がいた。
秋に咲く白い花のように肌が白く、長い髪がお月様みたいに柔らかく光っている。
同い年くらいか、年下か。
真っ黒の外套から少しだけ見えている手足がとても細い気がして、それで年下に見えているのか。
ふわりとその子は微笑んで、それだけでレイルークは背中がくすぐったくなる。
遠くから見ているだけなのに、お腹の中身が燃えているんじゃないかと思うぐらい熱くなった。
どんどんと打っている胸の音が、周りに聞こえやしないかと、思わず手で口を押さえた。
本で読んで字だけは見たことがあった、可憐、とか、純真、とかいう言葉の意味がわかった気がした。
その子は細い両腕を伸ばして、小さな手を頭より上に持ち上げる。
見上げる目が細くなって、とても嬉しそうな顔をする。
その子の目の前には翼竜がいた。