姐さんと犬。
途中で食料を手に入れるために村に寄りはしたが、基本的にどこか人目のない場所で野営をすることが多かった。
必要がない限りあまり人と接しようとしないのを、レイルークはこの数日で知った。
それが初めて今日は宿に泊まると、コーニエルは街中で振り返る。
「どうしたの? まだ日は高いから、もう少し先に進めるよ?」
「……雨が降りそうだ。ちょうどいいからここで過ごす」
見上げた空は確かに白っぽく霞んでいるけど、雨が降りそうな雲は見当たらない。レイルークは首を傾げて、視線を元に戻した。
いつの間にかコーニエルはずいぶん先を歩いている。大股で歩いて、すぐにその後ろ姿に近付いた。
「本当に雨が降るの?」
「試しに今晩も外で寝てみたらどうだ。私は屋根の下が良い」
「俺もそうだよ」
「じゃあ、宿だ」
一番最初に目に付いた、一階が酒場で、二階が客室になっている宿に入ることになった。
ちょっとでも雨に濡れたくないと思ったら、食事の為でももう外に出たくないとひらひらと手を振る。
空いている部屋はひとつしかなかったが、同じ部屋で構わないとコーニエルはことも無げだった。
お金の節約ではなくて、触れさせる機会を増やす為だと気付いたから、ルークは簡単に引っかからないようにしようと気を引き締めて、しっかりと肝に銘じる。
コーニエルの言った通り、日暮れ前には天候が崩れて、力強く屋根を叩く音が聞こえるほどの雨が降りだした。
混み合う前に食事を済ませようと、時間は少し早めだけど下階の酒場に下りていく。
食事中にも雨にくじけたりせず、何人もが店の扉を開けて駆け込んできた。
店には宿の客だけではない、地元の常連客も混ざって賑わっている。
客のほとんどが見るからに食事よりも酒が主なので、ふたりは店の隅の方で、大人しくお勧め料理を食べていた。
もうすでに酔っ払って気の大きくなった男たちが、コーニエルに近寄っては、酒を奢るの、食事を奢るのとしつこい。
その度にレイルークはまあまあとにこやかに対応して、男たちの気分を害さないように、さりげなくコーニエルから遠ざけた。
男を席に連れ戻して、談笑しながら酒を継ぎ足し、肩を叩き合いながら乾杯する。
相手のご機嫌をとってコーニエルの元に戻るというのを何度も繰り返していた。
「……こんな役の立ち方をするとは思わなかった」
「ふもとの村のおっさん連中で鍛えたからね」
「頼もしいことだな」
「ほめられた!!」
店の隅々にまで届くような大きな声を上げて、レイルークは座っていた椅子に立ち上がって、両腕を突き上げた。
「みんな!! 聞いてくれ! 彼女が俺をほめたんだ!!」
おおと男たちの地を這うような歓声が上がって、良いぞと囃す声もその中に混ざっている。
飲め飲めとどこかから酒の注がれた器がレイルークの前に回ってきた。
中身をひと息に飲み干すと、また店の中で歓声が上がる。
隣の卓に座っていた男が、のしっとこちらに片腕を乗せた。
「姐さん、もっと頻繁にほめてやらねぇと、旦那が伸びないぜ」
「旦那じゃない」
「ん? 恋人か?」
「……犬……だな」
かかと豪快に笑って、男はもう一杯飲めとレイルークの器に酒を継ぎ入れる。
「俺も姐さんに飼ってもらえるなら、犬になりてぇな!」
「……お断りだ」
「つれねーなおい! ヤケ酒だ! 付き合え、犬の兄ちゃん!」
いつもこの調子でコーニエルは何かと声を掛けられるのかと、面白くない気分になった。が、レイルークはこの隣の男にはと気付いたことがあった。
これが、息をするように口説き文句を垂れるということかと、いつかの話を思い出す。
「教えて下さい! その技を!!」
「ははは! なに言ってんだ。なんかよく分かんねーけど、飲め飲め!」
「どうすればそんな風に口説き文句が出るのでしょうか?!」
男は椅子の上に立っているレイルークを上から下までじっくり見ると、訳知り顔で頷いて、ちょいちょいと手招いた。
しゃがみ込んで近付いたルークの肩にがしっと太い腕を巻き付ける。
内緒話かと思えば、周りにも聞こえるような大声で話し始めた。
「いいか、兄ちゃん! 口説き文句なんてのはな。ふたりきりの時に囁くもんだ。こんな場所で言う奴の話なんて、姐さんはひとつも聞いてないぞ。なぁ、姐さん!」
「……何か言ったか?」
「ほらな! 今晩からさっそく寝台の上で試してみな……いいか、囁くんだぞ?!」
放っておけばいくらでも酒が継ぎ足される。
終わりが見えないと判断して、コーニエルは食事を終えるとゆっくり立ち上がった。
「それじゃあ、試してみよう……おいで、ルーク」
「う! はっ! はいっ!!」
囃す声が高まって、ますます喧しくなった酒場を後にして、部屋に続く階段を上っていく。
一段一段踏みしめながら、レイルークは自分を落ち着けて、冷静になれと言い聞かせた。
隣にいた男の口に乗ったのも、名前を呼んだのも、意図があってのことだから調子に乗ってはいけない。
部屋に入るとコーニエルはくるりとレイルークを振り返って、少し両腕を持ち上げた。
ちゃんと、抱きしめやすいように。
「さあ、試してみようか、レイルーク」
勢いよく後ずさって、レイルークはさっき自分で閉じた扉に後頭部と背中を打ち付けた。
頭を両手で押さえて唸り声を上げる。
「ひ……引っかかりませんから! 残念でした!」
「なんだ……まだ酒が足らなかったか」
小さく舌打ちをすると手を下げて、コーニエルはくるりと方向を変えて、寝台の端に腰を下ろした。
外套に手をかけて脱ぎ始める。
「ちょ、ちょっと! 脱いだって俺は手を出さないからね!」
「……出した時点で帰ってもらうから好都合なんだが。……なんだ、私は外套を着たままで過ごさないといけないのか」
「あ……すみません。どうぞ、脱いで下さい」
酒に酔ったのとはまた違う感じで、顔に熱が集まって赤くなっているのが分かる。
レイルークもごほごほとわざとらしく咳をしながら外套を脱いだ。
「じゃあ俺、こっちで寝ますので」
壁際には荷物置き場のような木製の長椅子があった。
足を伸ばすには充分ではないが、床で寝るよりは随分マシだ。
ごろりとそこに横になって、上から外套を被る。
思ったより膝を折り曲げないと長椅子の中には納まらなかった。
「いいのか、そこで。別に一緒に寝ても構わないぞ」
「雨の中を家に帰りたくはないので」
「明日の朝には止むから、心配しなくてもひと晩くらいは許してやろう」
「やめとくよ」
「遠慮は要らない」
コーニエルは足を使って靴を脱いで床に落とすと、足を寝台に上げて、そこで胡座をかいた。
両手を握り合わせてゆっくりと手を離すと、指の隙間から青白い光が漏れ出てくる。
手の中にいつも編み上げている光の糸が現れて、宙に浮かんでゆっくりと回転している。
眠る直前まで毎晩あるこの光景を、レイルークはいつもぼんやりと見惚れていた。
邪魔をしないようになるべく静かにしようと思っても、自分の存在を忘れて熱心に指を動かしているコーニエルに構ってもらいたくて、ついつい話しかけてしまう。
「もうすぐ終わりそうだね……残りの糸の方が少なくなってきた」
「そうだな……」
「次に誰かに会うまでに、それを作っておくんだね」
「よく分かったな」
「遅くまで頑張って、毎晩作ってるんだもん、分かるよ……魔術で作っているってことは、これから会う人は魔術師なんだね」
「……そうだ」
「その人はどこにいるの? もう近くまで来た?」
「次の町の向こう側の森だ。……そこから二日か三日か……」
「もうそんな近くまで?!」
条件の期限が思ったよりも近いことに、レイルークから酔いも眠気も吹き飛んでいく。
長椅子から勢いよく起き上がって、突いたはずの手がすかっと空を切り、そのまま床に落ちた。
落ちた格好のままで、ぐっと両方の拳を握りしめる。
「……そうか……もうすぐなんだね。俺、それまで頑張るよ!」
「頑張らなくていい。今すぐ帰ってくれ」
「うぅぅ……コーニエルの頼みは聞いてあげたいけど……急に酷いこと言っても、うっかり嫌だなんて言わないからね」
言いながら床から起き上がって、長椅子に座り直す。
膝にぱんと打ち付けた、乾いた手の音の後に、窓の外で雨の音が大きくなった。
押されればば引き、引かれれば押す姐さん。