柄杓の底と舟幽霊
空は青みがかった灰色で、それは雲の色だった。夏だというのに涼しく、そして、風はとても強かった。
お藤はひとりで小舟を押し、勢いをつけて海岸に突っ込み、小舟が浮いた所で飛び乗った。
ひとりで乗り込んだのは初めてだった。
小舟は波に乗り、大きく揺れながら岸より遠ざかっていく。風が強ければ波は荒い。
「私ひとりでも」
お藤は小さく声を上げた。
彼女の父親は漁師だった。兄もまた、数年前から父と共に漁に出ていた。まれに、お藤も一緒に小舟に乗って、漁の手伝いをした。
皆で網を放ち、引き上げる。アワビやタイ、その他にもいろいろな魚がかかる。
魚の鱗は日の光を受けてきらきらする。網から丁寧に外すのだが、尾で跳ねて逃げる。幼いお藤が魚を追いかけて船の中を右往左往するさまを、父と兄は楽しそうに幸せそうに、笑った。
そのふたりがいなくなった。
半年ほど前、潮の穏やかな日。いつものように出掛けて行った小舟は、主たちをどこかになくし、岸近くを漂っているところを見つけられた。
網やその他の道具は、出掛けた時のまま残されていた。
家族はふたりの無事を願い、待った。何処かに漂着していないかと、付近の村々を訊ね歩いた。が、何もわからなかった。
サメにでも食われたのだろう。漁師仲間である村人たちはそう結論づけた。
家族も、きっとそうなのだろうと諦めた。
一方で、無神経な噂が湧いた。父と兄が事故を偽装し、家出したというのだ。
遠く離れた街の市で、父とよく似た人を見たという者が出たのだ。声を掛けたら逃げられたという。
まず大人たちが口に出した噂は、家族には聞こえない形で広まる。やがて家族の耳にも入る。その前後で、大人の話を聞きかじった子供たちによっても伝わる。こういう話で家族を苦しめるのは、人の気持ちを慮ることをまだ知らない子供たちである。
「お藤は父ちゃんに捨てられた」
村の一部の子供たちは、道でお藤に会うたびにそう言った。
「お藤とお藤の母ちゃんと弟は捨てられたんだ。父ちゃんが兄ちゃんを殺して出ていった」
軽妙な節をつけて歌うように何度も叫んだ。大人に見つからないようにお藤を待ち伏せしてまで続けた。
お藤がその場から走り去っても、彼らの声は追いかけてきた。
お藤は倒れそうになるまで走り続け、ひとりになったところで涙をこぼした。
二度三度とそういうことがあった。
そして、一家の生活は困窮した。
母は漁に出たことはなかった。もともと陸の村の出だった。それに、ひとりで稼いでお藤と幼い弟を食べさせていけるすべなど持っていなかった。
母の生家を継いだ伯父に金品を援助してもらうしかなかった。
伯父は数日おきにお藤の家にやって来た。
お藤は家に居づらくて、外に出る。
伯父が、持ってきた雑穀や野菜を土間にあげる頃、お藤はすることもなく村の中や海岸をうろついていた。
伯父が、人に訊ねた父と兄の情報を母に話している頃、お藤は意地悪な子供たちに出喰わす。
お藤が走って走って息を切らしているとき、伯父は、母を慰め、弟をあやす。
ここのところ、伯父は、最後に決まって母に、里に帰ってきてはどうかと勧めているようだ。そこで子供たちと暮らすなり、再婚するなりしたらどうか、と。
「子供らはうちで面倒見てもいいから」
弟が、自分は伯父さんちの子になるんだ、と意味もよくわからずに言うようになった。
お藤が母に問いただすと、母は困ったように笑うばかり。
お藤が走れなくなり、その場にしゃがんで泣くとき、そんな家族の姿も思い出していた。
あるとき、お藤が辿り着いたのは、海岸近くの丘の上だった。
崖になったところの縁に立つと、海がよく見えた。
私が。
私が父ちゃんや兄ちゃんの代わりに漁に出て、魚をいっぱい採ってくればいいんだ。
お藤がそう思うと、不思議と涙は出てこなくなった。それどころか、腹の奥から力が湧いてくるような気さえしてきた。彼女はふらつく足取りで、船を置いた海岸へ向かった。
それは、風の強い日だった。
ひとりで漁に出たお藤だった。岸がずっと離れてゆき、漁場の目印にしている島が見えてきた。沖に出ると波はますます高い。いままで体験したことのない大きな揺れが小舟を襲い、波飛沫がお藤に、舟の床に、かかる。右手に櫂、左手に舟の縁をしっかり握り、お藤は身を伏せた。
初めてひとりで乗り出した舟は広く感じられた。
なのに、大波に揺れる舟はとても小さく感じられた。
辺りが段々と暗くなる。日暮れにはまだ早い。天候が悪化したのだ。
目印の島どころか、すぐ先の波も見えなくなった。
やがて冷たい雨が降ってきた。
お藤は体を小さくして舟にしがみついていた。舟を出すまでのすべての感情を忘れ、ただ怖いばかりだった。
ひときわ大きく舟が浮いた。次の瞬間、強い衝撃が起きて舟が跳ねた。同時にお藤の体が飛び、船の縁に頭を打ちつけた。
そして暫く気を失ってしまった。
激しい頭痛を感じて目を醒ましたとき、お藤は濃い霧に包まれていた。
起き上がろうとしたが、ここが舟の上だと思いだす。お藤を乗せた小舟はもう大きく揺れてはいなかった。静かな波の上で、穏やかな航海をしているのだとわかる。
お藤は顔を上げた。今どのあたりにいるのだろうかと考えた。が、霧がとても濃くて何も見えない。
目を凝らすお藤。そこに、霧の先に動くものがあった。
それは霧よりも濃い白色をした、人の形をした雲のようなものに見えた。舟の前方、すぐ外側を、すうっと横切っていき、見えなくなった。
お藤は舟の周囲を見回した。
すると同じものが、幾つも船の周りを動いているではないか。
全て人の形をしていた。顔、胴、腕、…足がわからない。着物を着ているように見えるが、足元は薄くなっていて…。
幽霊。
お藤は口と喉の渇きを覚えて、わざとごくりと唾を飲み込んだ。
漁に出た舟の周りに現れる幽霊の話は、漁師の間で知らぬものはなかった。それは夜か嵐の中、舟が方角を見失い帰れなくなったとき。濃い霧が立ちこめてきたと思ったら、あっという間に視界が遮られる。慌てて周りを見ると、そこには、海の事故や身を投げて死んだ者たちの幽霊、舟幽霊が彷徨っている、と…
お藤は今、舟幽霊に囲まれているらしい。
どうしよう。
お藤は、その話の続きを思い出そうとした。生きて帰れた漁師はどうやって逃げてきたのか。だが思い出せない。頭が痛い。
痛む頭を押さえたお藤のすぐ眼前を、一体の幽霊が横切った。近くて顔がはっきり見えた。お藤の親ほどの年頃の男だった。
「父ちゃん? …違う」
その顔は全くの別人だった。
だが幽霊の顔を見たことで、お藤にはひとつの考えが浮かんだ。
「海で死んだ者が幽霊として出るならば、父ちゃんや兄ちゃんも…」
もしふたりが海で死んだのなら、ふたりの幽霊に出会えるのではないか。
お藤は漂う幽霊たちの顔を見る。
幽霊たちは人のように…おそらくは生前の姿なのだろう、顔も大きさも様々だった。怪我を負ったらしい、形の崩れた者たちもいる。
お藤のような子供もいた。もっと小さな子も大きな子も。大人の女も。それでも一番多いのは大人の男であった。なかでもやはり漁師が多いのだろうか。皆体格がよい。
お藤は必死にそれらの顔を凝視した。幽霊は次々に現れ、消えてゆく。近くに出るもの、遠いもの。顔がよく見えるものもあれば、お藤と反対を向いていたり、顔を伏せているものや。そのひとつひとつを見ては「違う」と心で呟き、また別の幽霊の顔を見る。
近くに現れた女の幽霊の先に、小さく、男の姿を見つけた。歩く姿が兄に似ていると思った。お藤は思わず身を乗り出した。女の幽霊がこちらを見た。お藤ははっとして動くのをやめて息を殺した。
女の幽霊は視線をそらし、いなくなった。
だが、その先にいた男の幽霊は見失ってしまった。どこに行ったかと辺りを見回した。あれが兄かもしれないのに。必死に探したがもういない。
仕方なく、お藤は他の幽霊たちの顔を見る。
だがいくら探しても、父の顔も兄の顔も、見つけることはできなかった。
ふたりは死んではいないのだろうか。皆の噂話の通り、何処かで生きているのだろうか、お藤たちの元に帰らないだけで…
落胆して下を向いたお藤。そこへ急に、海面から人の顔が浮かび上がった。
悲鳴を上げて後ずさりしたたお藤。その顔は体を伴って海から出、そしてお藤をじっと見た。
お藤は体が震えだした。力が入らない。ここは海に浮かんだ小舟の上、所詮逃げられはしないが、その幽霊から離れることもできずに、お藤はその幽霊と見合った。
恐怖を感じると共に、思った。「この顔も違う」
「お前生きているな」
その幽霊が言った。
「生きている奴がいるぞ」
他の幽霊たちもざわざわと言いはじめ、お藤の小舟に寄ってきた。すぐに小舟は幽霊たちに囲まれてしまった。
「柄杓をおくれ」
「柄杓をおくれ」
「柄杓をおくれ」
幽霊たちは口々に言い、手を伸ばした。
柄杓はひとつだけあった。他の道具と共に船尾近くに置いてある。
お藤はそれを思い出し、這っていって柄杓を探し出すと投げた。手のひとつがそれを掴んだ。掴んだ手は柄杓で海水を掬う。それを、小舟の中に注ぐ…
とは、いかなかった。
柄杓には底がなかったからだ。
舟幽霊は柄杓を求める。渡してしまうと、海水で舟を満たして沈め人を溺死させる。
そういわれているのだ。だから村の漁師たちは、舟幽霊に遭っても舟を沈められないよう、底のない柄杓を舟内に忍ばせているのだった。
水の満たされない柄杓を見ながら、お藤は少しほっとした。が、これからどうすればいいかわからない。
やがて幽霊たちが言いだした。
「柄杓をもっとおくれ」
「柄杓をもっとおくれ」
「柄杓をもっとおくれ」
幽霊たちは上下に動き、人を急かそうとする。
柄杓はひとつしかない。
そのひとつも、使えないといわんばかりに放り投げられた。
幽霊たちの声がひときわ大きくなった。
同時に、舟の底が大きな音を立てた。何かが当たる衝撃が続いた。やがて舟底の板が押し上げられ、海水が流れ込んできた。板を押しているのは霧のような腕…
お藤は道具を探り、魚を突いて獲る銛を見つけると、迷わず舟底の手に突き刺した。
不気味な悲鳴が轟いた。
小舟は激しく揺れだし、入り込む水は勢いを増す。
お藤は銛を離すと底板にしがみついた。
底板は完全に剥がされ、飛ばされた。お藤は必死に掴んだままでいた。波がまた高くなった。被った大波から首をいっぱいに伸ばして息をした。塩辛い水をたくさん飲みながら呼吸した。
霧は消え、夜なのか、空も海もひたすら黒かった。
幽霊の声は聞こえなくなっていた。
次に気が付くと、お藤は、海に浮かんだ底板の上でうつ伏せになっていた。気を失っていたようだが、生きている。
体を起こすと沈んでしまいそうだったので、お藤は目を開けたまま、じっと、波に身を任せた。波は穏やかだった。辺りは少し明るい、夜明けだろうか。
きっと助かったのだ。お藤は体中の力が抜けるのを感じた。
目の前に何か、漂うものを見つけた。底のない柄杓だった。
あまり役に立たなかったな、などと思う。幽霊たちは人が思うより気が短い質だったのかもしれない。
幽霊たちの中に、父や兄は見つけられなかった。
生きているのかもしれない、とお藤は改めて思った。どこか、お藤の知らない所で生きている…それでもいいかと思えた。死んでしまったよりそちらの方がいい。ずっといい。
さっきまでは、幽霊でいいから会いたかった。
それに死んだのなら、あの噂は事実でないとわかる。
…もしかすると、虐められるのが嫌で、ふたりは死んだということにしたかったのかもしれない。そちらの方がよいと、あの時は思っていたのかもしれない。
辺りは明るさを増してゆく。
視界の先の方に、漁場の目印になる島が、見えた。
おわり
読んでいただきありがとうございました。