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支配する魔法使い  作者: 星野 葵
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#6 襲撃

さて、どうしたものか。セクエは歩きながら悩んでいた。


シンシリアに到着してからは思っていたより順調だった。シンシリアの剣使いにも特に怪しまれることはなく、今はシェムトネ付近の森の中にいる。森の中には道が無いため、馬車のまま進むことはできなかった。そのため、兵士の半分ほどは森の近くにあった剣使いの里に待機させ、残った兵士とセクエは森の中を歩いてここまでやってきたのだった。


ただ、村にどんな顔をして帰ればいいと言うのだろう。事情を知っているのは数人で、大半の人は何も知らないはずだ。数人とはいえ兵士を村に連れてくるというのはあまりにも目立ってしまい、騒ぎになりかねない。そもそも外から村に誰かがやってくること自体が滅多にないことなのだからなおさらだろう。かといって村に帰らなければいけないのは変わらない。やはりここは一度、自分一人で村に戻って事情を説明した方がいいのだろうか。


セクエは顔を上げる。ここから村まではそう時間はかからない。セクエは立ち止まり、振り返って後ろについてきていた兵に言った。


「私が先に村に戻ります。皆さんはここで…。」


待っていてください、と言おうとしたのだが、セクエは途中でやめた。再び村の方に目をやる。


「もう向こうから来たみたいですね。」


人影が木々の間を縫うように走ってこちらに向かってくる。なんとか顔が分かるくらいの距離まで近づくと、その人影は足を止め、やや息切れした様子でセクエたちのことを見つめた。


「待っててください。話をつけて来ますから。」


振り返らずにそう言って、セクエはその人影の方へ向かう。走るのさえ遅く感じ、浮遊魔法を使ってその人影へと急いだ。


「バリューガ。」


セクエは声をかけた。会えたことがとにかく嬉しくて、その他の言葉が浮かばない。


「セクエ…。」


呆然と、まるで夢でも見ているような口調でバリューガもセクエの名前を呼んだ。


「帰って…来たんだな。」

「うん、ただいま。」


すると、バリューガが右手を差し出した。一瞬、握手かと思ったが、すぐに何がしたいのか分かった。セクエは右手をバリューガの差し出した手に重ねると、軽く腕輪をぶつけた。カチン、と高い音が響く。二人はお互いの顔を見つめ、少し微笑んだ。


「それじゃ、行こう。」


バリューガはセクエの手を取って歩き出す。セクエは引かれるまま村へと入っていった。歩きながら、自分の髪を黒に変える。白い髪のまま村に入るわけにはいかない。バリューガはまっすぐ歩き続け、賢者の館の中のセクエの部屋の前まで来て、ようやく止まった。バリューガはセクエを見て言う。


「本当に、戻ってきたんだな。なんか信じられねえや。」


本当に嬉しそうに、バリューガは笑っていた。自分さえいるなら、あとはもう何もいらないとでもいうようなその表情に、セクエ思わず黙り込んでしまう。自分だって、バリューガと一緒にいられたらどれだけ楽しいだろう。そんなことを考えてしまう。魔導国に残るという大事なことを、話さなないわけにはいかないのに。


「あのね、バリューガ。」


意を決して、セクエは言う。


「私…向こうに残ることにしたんだ。」


バリューガの表情がこわばるのがはっきりと分かった。申し訳なくて、セクエは視線をバリューガから外した。


「えっ…あっちに…残る?」


意味が分からないというような様子で、バリューガはゆっくりと言葉を繰り返した。


「それ、どういうことが分かってんのか?おまえ、あそこのやつに連れ去られたんだぞ?それなのに残るなんて…!」

「うん…。おかしいかなってことは、分かってる。でも…。」


何と言っていいのか分からず、セクエは黙ってしまう。


「何かされたのか?」


不安げな声でバリューガは言う。セクエは視線を戻し、はっきりと言った。


「そんなことない。これは自分で決めたこと。王様から、国に残ってほしいって言われたから。あの人が私を騙そうとしてないってことは分かってる。」

「だからって…。」


バリューガは不安げな顔をする。魔導国のことが信じられないのは当然だろう。正直セクエ自身も完全に信用しているわけではない。だがそれでも、どうしてもあの国に行かなければならない理由がある。


「それに、魔力について、向こうでなら何か分かるかもしれない。」


セクエはそう言った。セクエが国に残る条件として魔導王に提示したうちの一つは、村に帰る機会を与えてほしいこと。そしてもう一つはこれだった。魔導国はシェムトネよりはるかに大きい。シェムトネで分からないことも、魔導国でなら分かる可能性は十分にある。


「ここじゃ、何も分からないんだ。暴走しなくて済む方法も、魔力を減らすための方法も、何も分からない…。できることは全部やってみたいんだ。もちろん、何があるか分からないから、油断はしないつもりだよ。」


バリューガは黙り込み、しばらく考え込んだ。セクエは答えを辛抱強く待った。


「まあ…おまえがそれで良いんなら…構わない、けど…。」


構わないと言っているが、本当にそう思っているようには見えなかった。まだ不安の色がその顔に残っている。


「…フィレヌとか、賢者さんにも伝えるんだろ?行ってこいよ。おまえがそうしたいなら、すればいいさ。」


嫌な思いを振り切るようにバリューガは言った。不安を表に出すまいとしていることがはっきりと分かる。だがそれでも、その口調に突き放すような冷たさは無かった。一応は認めてくれたようだ。もう少し話がしたかったが、少し一人にして受け入れるための時間を与えた方がいいのかもしれない。


「うん。行ってくる。」


セクエは賢者の部屋の方へ向かった。


ーーーーーー


椅子に腰掛けて肘をついて頭を抱えてこむ。この姿勢をどのくらい続けていただろう。心の中にあるモヤモヤとしたものは晴れない。いつまでも、自分の中に残り続けている。それが何かも分からないまま。


いいじゃないか、そう思う気持ちもある。認めてやるべきだ、止めるべきじゃないと。だが、何かが引っかかる。何なのだろう。自分は何が嫌なんだ?何が不安なんだ?何が怖いというんだ?それが分かればきっと、セクエを笑って送り出すことだってできるだろうに。


近くに誰かがやってきたのを感じた。フィレヌだ。


「話は聞いたようじゃな。」

「ああ、驚いたよ。まさか残るなんて言うと思わなかったから…。」


言いながら、バリューガは姿勢を変えなかった。


「そんなにセクエが行ってしまうのが嫌か?」

「…違う。そんなじゃない…と思う。」

「ならばなぜそんな姿勢をしておるのじゃ?セクエが向こうへ行くと決めたというのなら、それを見送るのが道理じゃろうに。」

「んなこと言ったって…。お前はどうなんだよ。向こうに行くって、不安だったり心配だったりしないのか?」


ここでバリューガは顔を上げ、フィレヌの顔を見上げた。呆れたような表情でフィレヌは答える。


「まあ、心配がないと言ったら嘘になるの。じゃが、正直ここに残ったところで、身の安全が確保されるかと言えばそうではない。むしろあちらで、強い魔法使いに囲まれておった方が安全なのかもしれぬ。」

「うん。やっぱそうだよな…。」


分かっている。同じようなことをバリューガだって考えていたのだ。


「でも…さぁ。」

「なんじゃ、大事な友と別れるのがそんなに辛いか?」

「そうじゃないって…。でも…そうなの、かな…。」


バリューガの答えははっきりしない。


「行かせた方がいいって分かってる。セクエが選んだんなら、それをどうこう言う権利なんてないし、そんなつもりもない。それに、あいつが向こうに行くっていうのは、半分はオレのためだし、それだったらなおさら止めるべきじゃないってことも。」

「ならばなぜ…。」

「分かんねえよ。そんなの。ただ…なんか…なんつうか、こう…。」


はっきり言葉にできない。不安か、恐怖か。その感情に名前さえつけられないのに、にもかかわらず消えてくれないのだ。


「どうしようもなく…怖いんだ。もう戻ってこないような気がして不安で、遠くに行っちまうのが嫌で、その国にだけは、行かせちゃいけない気がするっていうか…。」

「ならばそのまま伝えたらどうじゃ?言葉にできなくともできないなりに、何か伝えることはできるじゃろう。」

「うん…そうだな。」

「セクエは明日の朝には出るそうじゃ。なんでも村の外に連れの者を待たせているとかなんとか。それまでに、セクエに何か言っておいた方がいいのではないか?」

「ああ、そうするよ。」


バリューガは椅子の背もたれに寄りかかって天井を眺めた。せめてもう少し、この気持ちをはっきりさせたい。フィレヌは小さなため息を残して消えた。


ーーーーーー


夜は、よく晴れた。月は満月とはいかないまでも半分以上は満ちており、その青白い光で世界を照らしている。その光の中、セクエは一人で立っていた。


彼女は今、かつて学舎と呼ばれた地にいる。古い火山の中に作られたこの空間は歩いて出入りすることはできず、飛んで上から出入りするしかない。もっとも、それももう昔の話だ。メトがいなくなったことでこの古い火山は崩れ落ち、岩の隙間を通れば歩いて中に入ることができた。


かつて神と呼ばれた魂たちが素質のある剣使いの子供をここに集め、神の力という名目で魔法を教えていた。神の力なんていうのは大嘘で、本当は全員が殺されるはずだった。メトの力を取り戻すために。それはセクエが止めた。むりやりな方法で、大きな負荷を背負って。結局のところ、ここから抜け出して生き延びることができたのは彼女とバリューガのたった二人だけだったけれど。


セクエが今なぜここにいるかといえば、それはやはり、魔力を使うためだった。蝶の髪飾りをしていたとはいえ、それでも魔力は少しずつ溜まってきている。シンシリアでの旅の途中ではそんなことをする余裕はなかったが、ここでなら人目を気にしなくていい。セクエは旅の中で溜め込んでしまった魔力を全て使い切るくらいの気持ちでいたのだった。


月光の固体ライラ・フィオウラ・レント!」


手を振り上げ、セクエは唱える。波が寄せるように光が集まり、セクエの命令通りに形作られていく。


出来上がったのは四頭の大柄な猫だ。その体つきはむしろ獅子と呼んだ方が正しいほどにたくましく、月の光で作られたその体は氷のように透き通って淡い光を放っている。セクエはその一頭一頭に順番に意思を与えてやった。すぐに襲いかかってくるような獰猛な性格にはしない。砂の蛇とは違い、今回は数が多い上に素材も違う。光の固体は砂とは比べ物にならないほど丈夫で、硬い。そんなものにいきなり襲われたらたまったものではないのだ。


意思を与えられた獅子は思い思いの格好でくつろいでいる。それを見ながら、セクエは学舎全体を覆う大きな結界を張り、そしてその内側に月の光を集めた。日光が熱を持つように、月光は冷気を持っている。それをこの地に満たせば、蒸し暑い夏の夜も涼しく過ごせる。


全てを終えると、セクエは獅子に声をかけた。四頭がむくりと起き上がり、セクエに向き直る。


それから、月の光が弱まる夜明けまで、セクエと四頭は時に戦い、時にじゃれ合うようにして時間を過ごした。


ーーーーーー


差し込む朝日でバリューガは目を覚ました。だがベッドの上ではない。椅子に座り、机に突っ伏していた。うっかり眠ってしまったようだ。


起き上がり、体を少し動かす。変な姿勢で寝たせいで体中が痛かった。


(セクエ、今日出るのか…。)


正体の分からない不安はまだ残っていたが、一度寝たことで頭の中はスッキリしていた。


(とりあえず、行かなきゃ。)


そう決心し、部屋を飛び出す。セクエがどこにいるかなんて考えなくても自然と分かる。バリューガは足を止めなかった。


セクエを見つけ、バリューガはようやく立ち止まった。少し息切れをしていた。


「まったく…。『いってきます』くらい言っていけよ。」


その声を聞いてセクエは振り返る。少し驚いたような表情をしたが、それはすぐに微笑みに変わった。


「そう?起こしちゃ悪いと思ったんだけど。」


そう言うセクエの表情は、バリューガが知っているものと何も変わらない。それを見て、どうしようもなく辛くなる。


「…なあ、セクエ。」


いきなり真剣な口調になったせいか、セクエの表情がわずかに曇った。


「…気をつけろよ。」

「何に?」

「分かんねえ。多分、おまえも分かってないこと。すごく大きくて、強くて…」


話すうちに、自分の中で不安が大きくなっていくことに気づく。指先が少しだけ震えている。バリューガは無意識のうちに両手を握りしめていた。


「怖い、こと。」


もどかしい。なんでうまく伝えられないんだろう。この思いがそのままセクエに伝えられたらいいのに。


「なんか、おまえがもう戻ってこられなくなるような気がするんだ。」


セクエは困ったような顔をしていた。それを見てバリューガは慌てて言う。


「別に、だから止めようなんて思ってないぞ?おまえが決めなんならやればいい。おまえにはおまえの考えがあるんだろうし、オレにどうこう言う権利なんてないって分かってる。確かに不安だけど、でもちゃんと見送るって決めたから…。」


言葉に詰まる。なぜか泣き出してしまいそうだった。情けない。セクエを止めないって決めたのに。止めちゃダメだって思ってるのに。バリューガは嫌な思いを振り切るように言った。


「だから、約束してくれ。絶対戻ってくるって。無事じゃなくたっていいから。そりゃあ、何もないのが一番だ。でも、もしもおまえがボロボロになって、姿が変わっちまったとしても、それでもオレはずっと、ここで待ってるから…!」


言い切ったあと、バリューガは下を向き、強く目を閉じた。閉じた目から涙が垂れたのが分かった。バリューガは目を開け、もう一度セクエを見る。


「いってらっしゃい。セクエ。」


そう言って微笑んだ。自然に笑ったつもりだったが、どこかぎこちないものになっていただろう。だが今は、必ず帰ってくると信じることしかできない。いや、それしかしないと決めたのだ。


「いってきます。」


そう言ったセクエの表情も、心なしか笑っているように見えた。セクエは振り返って森の中へと消えていく。木々の間で揺れるその白髪を、バリューガはずっと見つめていた。


ーーーーーー


馬車に揺られながら、セクエは少し考え事をしていた。もう村を出てから時間が経っており、来た道を振り返っても森すら見えない。辺りは見える限りほとんど木は生えておらず、草原が広がるだけだった。この草原に道は一本しかないが、すれ違う人は一人もいない。


なんとなく、嫌な予感がしていた。バリューガに言われる前からだ。ちょうどシンシリアに着いた頃からだろうか。二度と戻ってはいけないと、全身が警告しているような気がしていたのだ。気のせいだったらいいと思っていたが、バリューガも同じようなことを感じていたというのなら、おそらくこの予感は本当なのだろう。


本当はやめるべきなんじゃないかと思っている。やっぱり故郷に残りたいと言えば、わざわざセクエが魔導国に戻らなくても四番隊がそれを国王に伝えてくれるだろう。そうすればもう二度と、カロストに行く必要はないのだ。今なら、不安に思う何かから逃げることができる。


だが、何度考えてもやはり、それを選ぶことはできなかった。もし魔導国に行かなければ、自分もバリューガも次の春には死ぬか、フィレヌの世界で生きるしかなくなってしまう。それはあまりにも辛い。…まあ、理由はそれだけではないのだけれど。


「あの、止めてもらえませんか?」


セクエは一緒に荷台に乗っている兵の一人に声をかけた。


「どうしたんです?何か忘れ物でも?」

「この辺りには誰もいませんし、転移魔法を使おうと思うんですけど…。」

「転移魔法って…。どの辺りまで行くつもりです?魔法を使うところを見られなくても、転移した先に剣使いがいたら…。」

「はい、分かってます。無理そうだったら諦めるつもりですから、少し確認させてもらえませんか。」


セクエは頼んだ。それを聞いていたタンザが言う。


「どこまで行くつもりなんだ?人がいなくても、馬車が通っていい場所は大体決まっているんだ。変な所に転移されたら困る。」

「えっと…できれば魔導国まで、一気に…。」


それを聞いて、他の兵たちが笑いだした。


「魔導国まで?そりゃあ無理ってもんでしょう!」

「どんなに上手でも十回は転移を繰り返すのが普通ですよ?間に海もある。それを一回でなんて…。」

「できることならとっくに自分たちでやってますよ!」

「…いや、いい。」


笑い出す兵たちの中で、真剣な声でそう言ったのはタンザだった。そんなに大きな声ではなかったが、その声は不思議とよく響いた。


「いいって…本気ですか、隊長?」

「ああ。早く帰るに越したことはないしな。そのかわり、無理はしないこと。一気に行けないなら諦めること。いいな?」

「分かりました。」


馬車が止まる。セクエは馬車から降り、もう一度周りに誰もいないことを確認してから、地面に手をついて意識を集中させた。


来た道はある程度覚えている。それを頭の中でたどる。王都の近く、出来るだけ人の気配が少ない所を探す。だが、その場所はあまりに遠く、はっきりとした気配を感じることはできない。セクエは全神経をとがらせてその場所を探した。


しばらくして、セクエは目を開けて立ち上がる。


「どうだ?」

「…行けます。」


セクエは短く答える。その一言で、兵全員の雰囲気が変わる。セクエは唱えた。


集団転移ジバスク・ロプ。」


次の瞬間、周りの風景が変わる。草原は消え、あたりにまばらに木が生えていた。道の向こうにはうっすらと建物の影が見える。


「あれは…王都か。」


呆然とタンザが呟く。兵たちは騒然としていた。


「えっ、ええっ?」

「本当に王都なのか?」

「まさか本当に一回でできるなんて…!」


セクエは少し息切れしていた。魔力を想像以上に使ってしまったのだ。ゆっくりとその場に膝をつき、息を整える。


「大丈夫か?かなり魔力を使ってしまったみたいだが…。」


タンザが近づいて声をかける。他の兵たちはまだ半信半疑といった様子で荷物がなくなっていないかを確かめている。


「大丈夫です。でも、ここまでうまくできるとは思いませんでした。」

「自信がなかったのか?」

「そういうわけではありませんが、小さな失敗なら起こすだろうな、とは思っていました。でも、全員ここにいますし、位置も狙った通りです。荷物も全てあると思いますよ。」


セクエは明るく答える。息切れこそしていたが、とても気分が良かった。何よりも体が軽い。ほんの一時のことと分かっているが、自分にのしかかる魔力から自由になれたような気がした。


「隊長!荷物に問題ありません。全て揃っています。」


調べていた兵が答える。セクエは立ち上がり、タンザに声をかけた。


「じゃあ、行きましょうか。」


ーーーーーー


眩しいほどに明るい光が差し込む廊下には誰もいない。自分の足音は絨毯によって消され、不気味なほど静かだった。


セクエは早足で玉座の間に向かう。この国に、何か良くないものがある。そう直感していた。だからこそ、誰もいない空間が今は少しだけ怖い。自分が無防備な気がしてならないのだ。


玉座の間へと続く扉は独特の威厳を放っている。扉を守る兵はおらず、自分で開けなくてはならないのだが、なぜか開けることが怖かった。入ってはいけないような気がして、わけもなく息が荒くなる。セクエは一つ深呼吸をし、中を警戒しながらそっとその扉を開けた。


中には誰もいない。いや、ただ一人、豪華な椅子に腰をかけてセクエを待っていた男がいた。


「よく戻ってきてくれた、セクエ。」


セクエが扉を閉め、部屋の中央に来るのを待って、男は言った。それが国王であることは言うまでもない。


彼を見て真っ先に感じた感情は、恐怖だった。息が再び荒くなり、指先が小刻みに震えだす。


リガルは立ち上がり、セクエに一歩、また一歩と近づいて来る。別にその動作がおかしいわけではない。だが、全身からにじみ出ている魔力が、彼がもはや以前の彼ではないことを告げている。


(…無理だ。勝てない。)


早くもセクエは諦めていた。こんな人を相手に、一体どう戦えばいいというのだろう。


リガルが手を伸ばせばセクエに触れそうなほど近づいた時、セクエは無意識に一歩後ずさった。それを待っていたようにリガルが動く。強く首元を押さえられた、と思うと同時に背中と頭に強い衝撃を受けた。床に倒されたのだ、と気づいた時には、すでに意識が薄れていた。


視界が霞み、音、感触が遠のいていく。自分自身が体の奥に押し込められていくようだ。はっきりしない意識の中で、リガルの表情だけははっきりと見えていた。その口が動いているのが分かったが、言葉を聞き取ることはできなかった。


「南東の国境だ。」


意識はさらに遠ざかり、消え去る寸前、その言葉が頭の中に響いた。


それからどれほど経っただろう。セクエが再びその視界に捉えたのはリガルとは違う知らない男の顔だった。いや、その顔は上半分が仮面で隠れていたので男かどうかは分からない。ただ声が男のものだというだけだ。


「気がついたようですね。」


男は言う。その声もまだぼんやりとしている。リガルに強く掴まれたせいか、左の首筋がチリチリと痛んでいた。


ーーーーーー


ようやく意識を取り戻したセクエを見て、グアノは安心した。しかし同時に悔しく思った。まさか彼女がこんなに早く帰って来るとは思っておらず、完全に油断していたのだ。気づいた時には遅かった。グアノが玉座の間に着いた時、すでにそこに国王の姿はなく、彼女が床に倒れていたのだ。


セクエには相手の感覚を消し去る感覚遮断魔法が使われていた。この魔法は眠らせるのとは違い、適切な処理をしなければ意識が戻らない。国王はセクエをこのままにするつもりだったのか、それとも自分が来ると分かってあえて何もしなかったのか、それは分からない。何もされていなければいいのだが、それはありえないだろうと思っていた。


「大丈夫ですか。」


グアノは声をかける。小さな声ではあったが、セクエは返事をした。感覚は無事に戻ってきている。グアノはゆっくりとその体を起こした。


見たところ、怪我はない。何か魔法が使われているのではないかと思い、目視で確認したところ、確かに何か魔法を使われたようだった。だが、その魔法の命令があまりに複雑すぎて内容を読み取ることができない。


(これは…何の魔法なんだ?)


今この瞬間にもこの魔法の効果は発動されているのだろうか。それとも後になってから発動するものだろうか。それすら分からなかった。


(どちらにせよ、彼女をこの状態でここに置き去りにするのはおかしい。一体どんな魔法を使われたんだ…?)


何らかの魔法がかかっているのであれば、それを取り除かなくてはならない。だが、王の考えが分からない状況ではその予想さえ立てられない。


(せめてあの時、自分がまともに戦えていたなら、こんなことにはならなかったのだろうか。いや、そうでなくても、彼女が戻ったことにもっと早く気づいていれば…。)


後悔ばかりが浮かぶ。自分の無力さがもどかしい。


「あの。」


そう言った声でグアノは物思いから覚めた。セクエの意識はもうほとんど戻ったようで、声もはっきりしていた。


「何でしょう。」

「…南東の、国境へ。」

「…どういう意味です?」

「そこまで連れて行ってほしいんです。お願いします…!」


セクエの言い方はいたって真剣で、その眼差しはグアノにすがっているようにも見えた。


(陛下に何か言われたのか?もしそうだとしても、しかし、南東は…。)


グアノはセクエから視線を逸らし、考えた。南東の国境はルーベル帝国との国境だ。魔導国は北を海に、南を四つの国に囲まれているが、特にその国境付近は危険地帯とされ、その周辺に住むことは禁止されている。


(ルーベル帝国は剣使いの国。それだけならまだしも、彼らは魔力を得るために魔導師を狩る。近隣の国々を襲撃し、犠牲者が出ているという報告もある…。今のところはこの国に来る気配はないが、それでもいつ彼らが襲って来るか分からない。そんな危険な所へ連れて行くなど…。)


グアノは視線をセクエに戻す。セクエはその眼差しを変えず、じっとグアノを見つめていた。


(だがもし、彼女が陛下の命令に背くことがあれば、彼女はどうなる?無事でいられると言い切れるのか?)


魔法のことだけではない。国王自身が、セクエに罰を与えないとも限らないのだ。どちらを選んだにせよ、自分がセクエを守り切れる保証はどこにもない。


(彼女の身に何が起こるか分からない以上、むやみに命令に逆らうのは危険すぎるか…。)


「分かりました。…お連れしましょう。」


気が乗らなかったが、仕方ない。国境で何も起こらなければいいのだが、どうせ何かがあるのだろう。そうでなければ国王がわざわざそんなことを命じるはずがない。


「立てますね?付いてきてください。」


セクエが立ち上がり、歩けることを確認してからグアノは歩き出した。この城には国の各地点に転移できる魔道具が数種類あり、それをまとめておく部屋が地下に設けられている。一般的に使われるのは大都市や港へ向かうものが大半だが、兵が国境の警備にあたるための拠点に転移できるものもある。それを使うのだ。


地下は日が入らないためひんやりとしていた。部屋に並べられた魔道具は全てガラス玉で、転移先によって大きさや色が異なっている。薄暗い中でそれらはぼんやりと光り、壁にかけられたランプの光とあいまって幻想的な空間を生み出していた。


グアノはその中の一つに近づく。


「これが南東の国境へ転移する魔道具です。」


セクエの表情は暗かった。恐る恐るその魔道具に触れようとするのを、グアノは止める。


「まだ転移しないでください。何があるか分からないので、私も共に行きましょう。」


セクエは表情を全く変えず、返事もしなかったが、触れようとしていた手をゆっくりと戻した。今度はグアノが魔道具に触れる。魔法を使うときのようにわずかに意識を集中させると、周りの風景が変わった。無事に転移できたようだ。


横に目をやり、セクエが一緒にいるかを確認する。セクエはそこにいたが、グアノは違和感を感じて辺りを見渡した。


二人は建物の正面に立っていた。ここは南東の国境の警備の拠点。兵たちが寝泊まりするほか、食料庫や、王城へ連絡するための魔道具なども置いてある。


だが、あまりにも静かすぎるのだ。本来なら、何の連絡もなく人が来れば、必ず一人は様子を確認しにやって来る。だが、その気配がない。


(何かあったのか?)


グアノはセクエを連れて建物に入る。中は静まり返っており、人の気配がない。すぐに探知魔法で建物の中を探ったが、本当に誰もいないようだ。


グアノは建物を飛び出す。国境へ向かおうとしたが、セクエのことを思い出した。グアノはセクエを建物の入り口に残し、言った。


「何かあれば、我々のことは気にせず逃げるように。いいですね?」


セクエの表情は依然として暗く、頷くことも、返事をすることもなかった。


国王は彼女に何をしたのだろう。彼女は自分の身に何が起こったのか分かっているのだろうか。そんな疑問が頭をよぎったが、今それを聞いている余裕はない。グアノはセクエの返事を待たずに国境へと飛んだ。


魔導国とルーベル帝国との間には幅の広い川が流れており、それが国境になっている。魔導国が魔法使いの国でありながら帝国の襲撃に遭ったことがないのは、川を越えて攻めるのが難しいからだ。だが、もし川を越えれば川辺は草原になっているため、簡単に攻めることができるだろう。


向かう途中、魔導国の兵士が数人まとまっているのを見つけた。グアノはそのそばに着地する。


「ぐ、グアノ様?なぜこちらに?」

「私のことは構わずに。現状を教えてもらえますか。」

「はい。…先ほど、ルーベル帝国の兵が攻めてきました。数はこちらの倍以上あると思われ、戦える者が総員で足止めをしています。」

「王都に連絡は?」

「それが…。突然使えなくなってしまったんです。」

「予備も含めた、全てが?」

「はい。異常はどこにも見られなかったため、おそらく帝国側が何らかの方法で魔道具を停止させたのかと。そのため、兵の中で最も移動が速い者を王都に向かわせました。」

「あなた方は、ここで何を?」

「…僕らは戦力外ですよ。剣使いは、あの戦闘に参加できません。拠点に戻り、魔道具の整備をしようと思っていました。」


悔しそうな口調で兵士は答えた。


「戦力外?帝国は魔導師を兵に起用しているのですか?」

「いえ、そうではなく…。彼らの持つ魔道具の技術が高すぎるのです。あれでは、魔導師と戦っているのと大差ありません。」


それを聞いて、グアノは顔をしかめた。ルーベル帝国は魔導師を相手にしてきたため、いくらか魔法に対する対抗策を持っている。だが、だからこそ剣使いに対する意識は低く、それが彼らの盲点だと考えられていた。それなのに、剣使いが戦えないほどの魔道具の技術をすでに持っていたとは。


「私も足止めに力を貸しましょう。」


グアノは再び飛ぼうとする。それを兵は止めた。


「グアノ様!お待ちください。」

「まだ何か?」

「川の水に気をつけてください。何か魔法薬が混ぜられているようで、触れると全く魔法が使えなくなります。その上、その水には魔法が効かず、凍らせることなどもできないようです。それが原因ですでに数名、兵が捕らえられました。」


グアノは自分の顔がますます険しくなっていくのが分かった。剣使いが戦力にならない上に、魔法も封じられれば、戦えなくなる。それどころか、魔法だけでなく、魔力も全く使えなくなるとすれば、魔導師は何の抵抗もできず、捕まるしかない。


魔導師は生まれつき魔力を持つが、代わりに体力がほとんどない。それは剣使いの赤ん坊と同じかそれ以下とも言われ、どんなに体を鍛えたとしても通常の生活を行うことなど到底できない。だから魔導師は無意識のうちに足りない分を魔力で補うことで生活している。それができなくなれば、魔導師は身動きすら取れないほどに衰弱してしまうのだ。


「分かりました。拠点に戻った際、少女が一人いるかと思いますが、その子を戦闘に巻き込まないようにお願いします。」


グアノはそれだけ言って飛んだ。国境までそれほど距離はない。すぐに川辺の光景が見えたが、それを見た瞬間、グアノは全身に寒気を覚えた。


地上で戦っている兵がほとんどいないのだ。味方も帝国側の兵も、多くの兵が空中に浮かんで戦闘を行っている。


(浮遊魔法の魔道具…!)


それはグアノが見たことのないものだった。魔道具はたしかに多くの魔法と同じことができる。だが所詮それは魔法に似た現象を作り出せるだけであって、扱える魔法には限界がある。簡単な攻撃魔法や回復魔法、転移や結界は扱えるが、浮遊魔法や複雑な命令が必要な攻撃を扱える魔道具は、少なくとも魔導国では開発されていない。それを開発するためにどれだけの魔力、技術を魔導師から奪ってきたのか、考えるだけで気分が悪くなる。


こちらの兵で怪我を負っているものは少ないものの、数を考えても、持っている武器から考えても、状況は明らかに劣勢だった。グアノは剣を抜き、今にも切りかかろうとする帝国側の兵の前に滑り込んだ。


「グアノ…様?」


庇われた兵が驚いた声でそう呟くのが聞こえた。グアノは受け止めた相手の剣を払いのけ、首元に自分の剣を突きつけた。相手の動きが止まる。グアノはすぐさま目を細め、相手の魔道具の効果を確認した。


(浮遊用は…背中か。)


その他にもいくつか持っていたようだが、全てを確認する余裕はない。グアノは首元から剣を離し、素早く後ろに回り込んで剣を振り下ろした。鎧の背中側が割れ、そこから赤黒い液体が吹き出す。グアノは思わず顔をしかめた。


相手の血ではない。魔道具に込められた魔力だ。魔力の扱い方を知らない剣使いたちは、魔導師から魔力を単体で取り出すことができない。そのため、魔導師から血を抜き取り、それに含まれる魔力を使うのだ。つまり今吹き出たのは、どこかで捕らえられ、そして恐らくは殺されたであろう魔導師の血液。聞いたことはあったが、実際に見るのは初めてだ。


浮遊魔法を使えなくなった兵は川へ落ちていく。兵士たちの話が本当なら、川に落ちればしばらく魔道具は使えなくなるだろう。


「グアノ様、ありがとうございました。」


先ほど庇った兵が声をかけてくる。


「よくあんな気味の悪い道具を使えますね、彼らは。」


川に落ちた兵に視線もやらずにグアノは言う。そしてすぐに他の兵の元へ向かった。背中側の魔道具を壊せばいいことは分かっている。グアノは兵の後ろから近づき、次々に川の中へ落としていく。


(だが、数が多すぎる…。時間稼ぎもいつまで続けられるか。)


戦況を見ながらグアノは考える。


(相手の数はこちらよりはるかに多い。それでも国境を越えたりむやみに傷つけてこないのは、こちらの魔導師を一人でも多く無傷で狩るためだ。彼らが本気で一斉にかかってきたら、対抗のしようがない。)


そんなことを考えつつも、グアノはまた別の兵に切りかかった。刃が相手にあたる寸前、グアノは上から魔力を感じて後ろに飛び退いた。


見れば、別の兵が魔道具から雷魔法を発射したようだった。大きな音とともに閃光が走る。グアノは目の前を通り過ぎるそれを切って消したが、一瞬だけ目がくらんだ。立て続けに上から魔法が放たれる。再び避けようとしたが、今度は避けきることができず、体が下に落とされた。


それでもなんとか空中にとどまる。だが、体勢を整える暇もなく兵が攻撃を仕掛けてきた。どうやらもう自分に手加減する気は無いらしい。


グアノはそれを受け止めた。相手と自分の顔がぐっと近くなる。相手は勝利を確信しているようで、自信に満ちた目をギラギラさせながらグアノを押し下げていく。水の流れる音がすぐそばで聞こえた。もしあの川に落とされれば、自分は戦えなくなってしまう。


(駄目だ…押し返せない。)


あまりに体勢が悪かった。普通の状態ならばともかく、相手が上にいる状態ではうまく力が入らない。他の兵士が助けに来てくれればありがたいが、その余裕はないだろう。


(くそっ、このままでは…!)


すぐさま転移魔法で上へ移動する。素早く背中を切りつけ、兵を水の中に落とした。勢いよく水しぶきが上がる。グアノは水面から距離を取った。自分を取り囲んでいる敵兵はかなり多い。


広域爆破魔法ジバスク・ハバル!」


グアノはそう唱え、腕を横に振った。周囲に光る粒のようなものが飛び散り、それが一斉に爆発する。通常ならば相手を吹き飛ばすどころか、鎧まで壊せるほどの強力な魔法だ。だが、何かおかしい。


(威力が出ない?)


爆発により煙が出たが、相手をわずかに押し返すことしかできない。だが、魔力はまだ十分に残っているはずだ。自分の体を確認すると、わずかに湿っているのが分かった。


(さっきの水しぶきか…!)


そう気付いたせいもあるのか、急に体が重くなってきた。浮遊魔法を維持することすら難しい。体がふらつき、剣を握る手に力が入らなくなる。兵はグアノを取り囲み、逃げ出せるような隙は無かった。だが、一定の距離を置いているだけで近づいてこない。グアノが落ちるのを待っているのだ。


グアノはしばらくの間はなんとか空中にとどまっていたが、やがて糸が切れたように魔法が途切れ、落下した。


川に落ちる、というところでグアノは腕を強く捕まれ、空中に吊り下げられた。肩にもろに衝撃を受け、鈍い痛みが走る。見上げれば、敵兵がニヤニヤといやらしい笑いを浮かべてグアノを見下ろしていた。


「お前たちは魔力が使えなければ、まるで人形だな。」


兵は腕を上げてグアノと目線を合わせた。その視線が気まぐれのように、掴まれたグアノの手先で止まった。何を見ているのか分かり、全身に鳥肌が立つ。


「魔道具か。」

「やめろっ…!」


これを取られてはならない。グアノは決して渡すまいと剣を強く握ったが、相手が腕を掴む手に力を込めれば、あっけなくその力は緩み、剣は簡単に奪われてしまう。


「返せ!」


相手はグアノの言葉を無視して剣をまじまじと眺め、やがて言った。


「もう片方ももらおうか。」


グアノは力を振り絞って何とか腕を上げると、相手の胸元に剣を突き立てた。刺さってはいないだろう。だが、当たっていればそれで十分だ。魔法が使えなくても、魔道具くらいは扱える。


剣を握る手に力を込め、グアノは魔道具を発動させた。先ほど切った雷魔法が放出され、相手は耳障りな悲鳴を上げて落下する。それと同時にグアノも空中に放り出された。


何を考える暇もなく、全身が何かに叩きつけられた。そこは硬く、ひんやりと冷たい。


(氷…?)


そう思うと同時に、耳を引き裂くような悲鳴が響いた。その瞬間に見えたのは、天に刺さるように立ち上がった氷の柱と、それに刺さった敵兵の姿。


驚いて体を起こせば、柱はあちこちで上がっていた。氷は意思を持つかのように敵兵だけを突き刺し、壊された魔道具から溢れる液体の黒っぽい赤と兵の死体から吹き出す血の鮮やかな赤が混ざり合い、飛び散り、異様な匂いを発しながら白い氷を染め上げる。


辺りは急に静かになり、死体からなおも滴り続ける血がビチャビチャと汚い音を立てている他は何も聞こえなくなった。やがて生き残った味方の兵たちが騒ぎ始める。何人かの兵が口元を押さえ、それでも堪えきれずに吐きだすのが見えた。グアノもそこでようやく体が動かせることに気づく。


思考が働かず、ふと川岸を振り返って見ればそこには白髪の少女が立っていた。彼女はただその場に立ち尽くし、怯える様子もなく、驚く様子もない。その目はどこか遠くを見ていて、目の前の光景にはまるで興味が無いようだった。


グアノは彼女の視線の先を見る。凍りついた川の向こう岸には遠くにまだ敵兵の影がある。待機させていた兵がまだまだいるのだろう。だが、彼らにもこの惨状は見えているだろうから、再び攻めてくることは考えにくかった。


その様子を見て、胸騒ぎがした。考えるより先に体が動いた。川岸のセクエの元へ走る。だが、間に合わない。セクエの口がわずかに開き、何かを呟いたのが見えた。


「彼らはいい!」


グアノはそう叫んだ。しかしその声は、再び上がった大きな悲鳴によってかき消され、自分の耳にすら届かなかった。グアノはセクエを抱きしめ、自分の胸でその視界を塞いだ。全身が震えていた。


彼女にもう人が死ぬ様子を見せてはならない。これ以上見せたら、きっと彼女の心は壊れてしまう。一度壊れてしまえば、二度と元には戻せない。それだけは、絶対に避けなければならない。


セクエは特に抵抗する様子もなく、グアノに抱きしめられたままだった。


ーーーーーー


私は何をしたのだろう。


視界は真っ暗で、何も見えない。でも、誰かが抱きしめてくれているのか、暖かい。しかしその温もりをくれる相手はひどく震えていて、とても怯えているようだった。


私は何をしたのだろう。頭の中で再び自分に尋ねる。本当は分かっているのだ。何をしたのか、その詳細まで全てを。でもそれはまるで自分以外の誰かがやったことのような気がして、自分がやったことなのだという実感がまるで無い。さっきまで目の前にあったはずの光景も、はっきりと思い出すことができない。


悲鳴が、聞こえたような気がした。それは覚えている。でもそれは厚い壁の向こうにあるようにくぐもっていて、聞き間違いのように感じてしまう。


ふと、自分が指輪を握りしめていることに気づいた。私を抱きしめている相手は私を離しそうにないので、手を後ろに回して指輪をはめた。


なんだか、とても疲れた。膝からゆっくりと力が抜け、私は崩れ落ちた。目は見えていたけれど、全てがぼやけている。私を抱きしめていた人だろうか、誰かに声をかけられた気がしたが、やはりくぐもっていて聞き取れない。


何も考えたくなかった。今はとにかく、休みたい。思考がほとんど働かないこの状態で、分かっているのはたった一つ。


しばらくは村に帰れそうにない、ということ。


ーーーーーー


抱きしめて、驚いた。魔力をほとんど感じない。本当に魔導師なのか疑いたくなるほどだ。まあ、それも当然で、あれほどの数の敵を一瞬で片付け、その後さらに遠くの敵を同じように殲滅したのだから、これだけ減っていてもおかしくはない。


(しかし、これだけ魔力が少ないと、立っているだけでも辛いだろう。)


案の定、セクエはすぐに立てなくなり、ゆっくりとその場に倒れた。グアノはセクエの体を支えながらそっとその体を横たえる。


「大丈夫ですか。」


声をかけるが、反応がない。目は開いていたが、ぼんやりと数回瞬きした後、眠るように目を閉じてしまった。聞きたいこともあったが、今は休ませた方がいいだろう。グアノは再び川の方を向いた。


何度見てもひどい有様だ。むせかえりそうなほど強い血の匂いがする。グアノは凍りついた川に戻り、敵兵に奪われた剣を拾い上げると、それを鞘に戻した。氷に触れてみたが、魔法薬の魔力を感じない。効果が消えているようだ。


何が起こったのか考えていると、兵が一人近づいて来た。


「グアノ様。お怪我はありませんか。」

「ええ、問題ありません。」


声をかけて来たのは、第九番警備部隊の隊長、ボイクだった。どうやら今この国境警備に当たっていたのは九番隊だったらしい。彼は優秀な魔導師で、洞察力に優れている。セクエがこの惨状を作ってしまったことをなんとか隠せればいいのだが。


「協力していただき、大変助かりました。…と言っても、この状況を作ったのはグアノ様ではないようですが。」

「つまり、ボイク様も何が起こったのかご存知ないのですね。」

「ええ。しかし我々の兵が一人も狙われなかったことを考えると、自然現象ではないのは間違いありません。誰かが意図的にやったとしか考えられませんね。」

「その可能性について、私も考えているところでした。」

「グアノ様はどう思われます?」


グアノ凍りついた川に視線を戻し、少し考えた。


「誰かが意図的にやったというのは、少し無理があるかと思います。これだけのことができるなら、襲撃を受けた際にすぐにそうすべきだったでしょう。それに、これだけのことをやるには膨大な量の魔力が必要になります。ここにそれだけの魔力を持つ魔導師はいません。」

「では、何が起こったと考えますか。」


グアノは少し黙り、考えた。


「そうですね…。私の中で最も考えやすいのは、魔法薬の暴走ではないかと。」

「魔法薬の?」

「はい。この川に魔法薬が混ぜられていたのはボイク様も気付いていたことと思います。私はこの水に触れたのですが、効果はかなり大きなものでした。帝国がどれほどの技術を持っているかは分かりませんが、この魔法薬は実用化にはまだ遠い段階だったのではないでしょうか。そのため、効果が途中で変わってしまい、その水は魔道具の魔力に引きつけられた…。」


言っていて、無理があると思った。この説明では川が凍った理由が分からない。


「奴らがそんな失敗を犯すでしょうか。これまでも多くの魔導師が犠牲になっているのですよ?そんな簡単な失敗を予測できないはずがありません。」

「そうですね…。ですが、私から言わせてもらえば、そうとしか…。」


グアノは言葉を濁した。グアノだって、何が起こったのか完全に把握できたわけではない。その上セクエを庇うとなれば、明確な答えなど出せるわけがない。


「グアノ様は、なぜこちらに?」

「…彼女をここへ連れてくるためです。」


少し迷ったが、グアノは正直に答える。


「あそこで眠っているあの少女ですか。」

「はい。」

「それがどういうことか、分かっておられるのですか?この危険地帯にまだ幼い少女を連れてくるなど…。」


ボイクは罵るようにそう言った。言い返そうとボイクに視線を向けると、ボイクはグアノに冷ややかな視線を向けていた。彼の疑惑を晴らせるような答え方をしなければならない。


「彼女にも、何か事情があるようでした。私の憶測ですが、陛下から直接、何か命令を受けていたようなのです。」


グアノがそう答えると、ボイクは明らかな動揺を見せた。


「なっ!陛下が、直々に?」

「大きな声を出さないでください。これはあくまで憶測です。外れている可能性の方がむしろ高い。」


グアノはそう言ってセクエを振り返った。


「彼女はこの惨状を見て気絶してしまいました。衝撃が大きかったのでしょう。それほどに彼女は幼く、弱いのです。そんな子供に、何かができるとは思えません。」

「そうですが…もしそれが事実なら…!」


グアノは反論しようとするボイクを睨みつけた。


「…まだ確証もないのに話したのは間違いでしたね。あなたはリガル陛下が、幼い少女を一人で危険地帯に向かわせるような方だと、そう思っているのですか?」


この一言に、ボイクは青ざめる。


「ま、まさか。そんなことは…。」

「であれば、私の考えすぎだったのでしょう。万一のことを考え行動したつもりでしたが、愚かなことをしてしまいました。」


以後気をつけなければ、と呟いて、グアノはセクエのそばに寄った。


「ひとまず、彼女を休ませなければなりませんね。彼女が目覚め次第、王都に戻ります。なぜここに来たのか、詳しい話を聞かなくてはなりませんから。」


それだけ言うと、グアノはセクエを抱き上げ、国境の拠点へ転移した。


ーーーーーー


ゆっくりと目を開ける。目の前には知らない天井があった。首筋に痛みを感じ、思わず手を伸ばすが、怪我はしていないようだった。


首に手を当てたまま考える。記憶をたどって、自分がしたことをゆっくりと思い出していく。だがやはり思い出せない。悲鳴と血の赤は鮮明に覚えているのだが、そのほかはほとんど思い出せないのだ。待っていればそのうち記憶が戻るだろうか。


セクエは体を起こした。だいぶ楽になった。少なくとも前のような疲労感は無くなっている。


自分の体を確認していると、部屋の戸が開いた。驚いて視線を向けると、仮面をつけた男が立っていた。


「起きたのですね。ちょうどよかった。」


男は丁寧な口調でそう言ってセクエのそばに寄った。


「吐き気やめまい、その他何か異常はありませんか。」


セクエは何も言わずに頷いただけだった。王都に戻らなくてはならないのだろうか。そう思うと気分が暗くなる。


「王都へ、戻りましょう。」


セクエのその態度を見たからか、慰めるような口調で男は言う。


「はい。」


セクエは静かに答える。また国王と会わなければならないのは、正直辛い。でも、自分はそれを選ぶしか無いのだろう。仮にそのほかに選択肢があったとしても、自分は国王に会うことを選ぶのだろう。セクエは立ち上がった。


男は何も言わずに歩き出す。セクエはそれを追った。この建物にも王城と同じように転移装置が置かれており、それを使って再び王城へと戻る。


「これから、どうなさるつもりですか。」


視線を向けることもなく、男は静かに尋ねた。


「陛下に会おうと思います。」

「それは危険なのではありませんか。」

「そう…かもしれません。」

「危険と分かっているなら、なぜそんなことをするのですか。」

「……。」

「あなたが陛下に縛られる必要はありません。今すぐにでもこの国から出て行くべきではありませんか。」

「でも…行かせてください。」

「ならば、私も共に。」

「結構です。一人で行かせてください。一人でなければ、駄目なんです。」


セクエは静かに、しかし力強く答えた。男はしばらく黙っていたが、やがて小さなため息をつき、言った。


「…分かりました。」


それ以降男は黙ってしまい、玉座の間へ向かう間も、何も言わなかった。玉座の間へ入る直前、セクエは男の顔を見た。仮面で表情は読み取れないが、その口元はわずかに唇を噛んでいるように見えた。


それを無視するようにセクエは扉を開け、中へ入った。扉を閉め、前を見れば、前と同じように国王がいる。


「戻ったか。」


その声はとても冷たく聞こえた。自分の目から涙が流れて頬を伝っていくのが、はっきりと分かった。


彼を止めなければならない。どんなにボロボロになったとしても、絶対に。


セクエはそう決心し、リガルを見つめた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

シリーズはまだ続けます。それも読んでいただければ嬉しいです。

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