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支配する魔法使い  作者: 星野 葵
6/7

#5 届かないもの

「うわあ…。すごい…。」


目の前に広がる光景を見て、セクエは思わず呟いた。


「ああ、セクエさんは、海を見るのは初めてなんだったか?」


隣にいたタンザが声をかけた。今、セクエたちは魔導国の南西に位置する国、リダム王国の最大の港町、リクシにいた。ここからシンシリアへと向かう船を探すのだ。タンザが他の兵に船を調べさせている間、セクエはタンザに頼んで海岸に連れてきてもらっていた。


もう日が傾いていて、空も海も橙色に染められている。シェムトネでは森の木々に隠されて夕日がほとんど見えないので、沈む前の赤く焼けた太陽を見るというのは、なんだか変な気分になる。


セクエは海を食い入るように見つめながら答えた。


「はい。私が住んでいたのは森の中だったので、泉や洞窟なら見たことありますけど、海というのは…。」


セクエは思わず言葉を切った。海というものは、途方もなく広かった。先が見えない。どこまでも水が続いている。それに、風も吹かないのに、なぜか水が波打っているのだ。不思議だった。この先に陸地があるなんてとても信じられない。


「広いですねぇ…。これ、どこまで続いてるんですか?」

「どこまでって、そうだなぁ…。知られている限りでは、どこまでも続いていることになっている。」

「えっ!どこまでも?」


セクエは思わずタンザの方を振り返って見た。


「ははは。まあ、初めて見る人には信じられないことだろうけどな。自分たちの立っている陸地は巨大な島なんだと考えられているんだ。その周りを囲むのが海。だから陸を避けて進めばどこまでも果てしなく続くというわけなんだ。」


どこまでも、か。フィレヌは大きな湖だと言っていたが、その表現はどうやら間違いのようだ。だがまあ、知らない人に説明するにはそれで十分だったのだろう。


「あ、お二人ともここにいたんですね。」


兵の一人が近づきながら言った。タンザが今日シンシリアへ向かう船があるかどうかを調べさせていた兵だ。


「どうだった、船は?」

「ダメでした。今日はもう出ないらしいです。明日の船に乗るしかありませんね。」


少し残念そうに兵は答える。


「そうか、仕方ないな。…となると、今日はこの町で宿を取ることになるのか。今の時間帯で空いている宿なんてあるか?」


それを聞いて、兵士は嬉しそうに笑う。


「そう言うだろうと思って、隊長を探している間に宿の部屋を取っておきましたよ。」

「おお、助かる。やけに気がきくじゃないか。普段なら野宿でいいとか言うくせに。」

「そりゃあ、自分たちだけなら野宿でいいですよ。でも、今はセクエさんがいますからねー。ずっと馬車で野宿というのも辛いでしょう。」


兵士はセクエを見て人の良さそうな笑みを浮かべた。


「そんな。私のことはそこまで気にしなくても大丈夫ですよ。」


セクエは慌てて言う。無理に気を使わせているようで申し訳ない。


「いえいえ。セクエさんは女の子ですからねー。こういうことはきちんと気遣ってこその紳士ですから。」

「なにが紳士だ。一介の兵士のくせに。」

「まあまあ、そんな冷たいこと言わないでくださいよ。僕はこれでも貴族出身ですよ?」

「ん?そうだったか。」

「あれ、忘れちゃったんですか隊長ー?まあ、そう言っても、貴族というのも名ばかりの低級貴族の四男坊ですし、兵士の道を選んだ地点でその身分は捨てたも同然ですけどねー。」


ヘラヘラと兵士は笑う。


「さてさて、こんな僕の身の上話はこの辺にして、宿に向かいましょうか。日が暮れてしまいますよ?」


兵士が歩き出す。タンザもそれを追った。セクエは振り返り、海と沈んでいく太陽をもう一度見た。いつの間にか太陽は水平線に沈みかけていて、もう半分ほどしか見えない。波打つ水面に太陽の光が反射して、キラキラと眩しく輝いている。


きれいだった。この光景をシェムトネのみんなに伝えてあげたい。この光景は、きっと誰も見たことがないだろうから。


太陽が沈んでいく。それでも空と海は赤い色を変えなかった。それが太陽との別れを惜しんでいるように見えて、なんとなく切なくなる。


セクエは海に背を向け、少し距離が開いてしまった二人の兵の背中を追った。海岸とは反対の空はすでに紫がかっており、ぼんやりと月が見え始めていた。


ーーーーーー


セクエは兵士がとってくれた部屋に入り、窓から外の景色を眺めていた。窓からは潮の香りがする風が入り込んできて、蒸し暑い夜を過ごしやすくしてくれていた。


この部屋はセクエ一人しか使わないことになっている。別に他の兵士たちと相部屋でもよかったのだが、あの兵士が言うには、紳士としての気遣い、というものらしく、女の子をむさ苦しい兵たちと同じ部屋にはできないそうだ。断るのも申し訳ないので、ありがたく一人で部屋を使わせてもらっている。といっても、一人で部屋を使うというのはやはり申し訳ない。


そもそも自分には部屋など必要ないのだ。眠る必要がないのだから当然である。ご飯を食べていないことが知られないというのが唯一の利点だろうか。一応タンザから夕ご飯として干し肉を一つもらっていたが、もちろんそれに手をつけるつもりはなかった。そんなことをすれば、ただでさえ兵士たちの目を気にして消費できていない魔力をさらに溜め込むことになる。


できることなら一晩中魔法を使っていたいくらいなのだが、人目を避けるとなるとどうしても時間が限られる。みんなが寝静まる深夜にしか魔法を使うことはできないのだ。その時間までなんとか時間をつぶしていなくてはならない。


空は少しずつ暗くなっていく。もうそろそろ寝る時間帯だ。セクエは部屋に付けられているランプの火を消した。


ーーーーーー


少し騒がしかった隣の部屋も静かになり、兵士たちが寝静まったことを察すると、セクエはすり抜けの魔法を使って隣の部屋に入った。ここは兵たちの部屋だ。三つしか部屋を取れなかったらしいので、一部屋に三、四人の兵士が寝ていることになる。こんな暑い夜に部屋に押し込められるようにして寝ている兵士の姿を見ていると、どうしても自分が一人で部屋を取ってしまったことを申し訳なく思ってしまう。


全員が眠っていることを確認する。セクエはそっと、もらった干し肉を兵士たちの持つ袋に戻した。面倒なことになるのは嫌なので、タンザを含めた兵士の誰にも自分の魔力のことは話していないが、こうして隠していることにもいつか限界が来るだろう。うまく隠し続けるのはもちろんだが、いつか知られてしまった時のことも考えなくてはいけない。


セクエは自分の部屋に戻り、窓を大きく開けると、その窓から飛び降りた。


浮遊魔法を使ってゆっくりと着地する。振り返って部屋の位置を確認した。自分の部屋は三階。窓が開けっぱなしになっているので分かりやすい。


セクエは再び浮かび上がり、タンザに連れていってもらった海岸まで行くことにした。あそこなら誰にも見られずに魔法を使えるだろう。


海岸に着くと、セクエはまず自分の周囲に結界を張った。魔力を遮断して外に漏れないようにする魔力遮断結界だ。これを自分の周りに張っておけば、もし誰かが近くを通っても、自分の魔力を感じ取ることはできない。もともとは他人の魔力を感じなくなるように考えたものだったが、この魔法はなかなかに使い勝手がよかった。


ふぅ、と一つため息をつく。体が重い。やはりもうすぐ限界なのだろうか。


(なんとか暴走させずに帰れればいいんだけど…。)


体内の魔力は毎日少しずつ大きくなっている。それに伴ってセクエの中の不安も大きくなっていた。こんな見ず知らずの土地でもし暴走することがあれば、それを止められる人はどこにもいないのだ。かといってシェムトネでなら止めてもらえるというわけではないが。


セクエは目を閉じて意識を集中させ、結界を少しずつ広げていった。狭すぎると魔法を使いにくいし、広すぎると目立ってしまう。海岸は視界を妨げるものが何もなく、目立ちやすいので、今回は結界を少し狭くした。


セクエは浮かび上がる。そして右手を地面に向けて唱えた。


砂の流れグローク・ティクス…。」


手を向けていた地面に砂埃が舞い上がり、渦を巻き始めた。セクエが右手を振り上げると、砂はその動きに合わせて上へと上がった。


造形魔法レント。」


セクエのこの呪文で、まとまりのないただの砂の流れは巨大な蛇へと姿を変えた。


セクエは砂の蛇が結界の外へ出ないように操りながら、海水を少し持ってきて蛇と混ぜ合わせた。蛇は水を得たことでよりはっきりとした形を作り、強度も増したように見えた。続けてセクエは唱える。


感覚付与魔法アギソーム・ネビル…!」


そう唱えたとたん、蛇の動きが変わった。動きを止め、鎌首をもたげ、じっとセクエを睨みつけている。セクエの隙を狙っているのだ。


感覚付与魔法。命を持たない対象に使うことによって、感情や感覚、意志を与える魔法。より効率よく魔力を使うため、セクエが最近考え出した魔法だった。この魔法の場合、対象は魔法を使った本人とは無関係の意識を持つため、あたかもそこに新たな生き物が生み出されたように見える。


蛇は鎌首をもたげた状態でもセクエの身長の倍はあった。結界はある程度の余裕を持って張ってあるので、はみ出ることはないだろうが、これだけ大きいと立てる音も大きくなってしまう。セクエは魔力遮断結界に重ねてさらに防音結界を張った。


「さてと。じゃあ、始めようか。」


ーーーーーー


セクエが地面に降りると、蛇はそれを待っていたとばかりに口を大きく開け、セクエに噛みつこうとした。セクエはそれを避け、呪文を唱える。地面から砂が巻き上がり、それが弾丸のようになって蛇に向けて発射される。蛇は巨体ゆえにそれを避けることができず、当たったところから体がボロボロと崩れてしまう。


しかし、蛇はそれに怯えた様子もなく、傷ついた箇所を地面にこすりつける。砂浜の砂が傷口にくっついて、あっという間に傷を埋めてしまった。


タンザは砂の蛇とセクエの戦闘の様子を険しい表情で見ていた。彼女が何かを隠していることは分かっていた。そして夜な夜な寝場所から抜け出して何かしているということにも気づいていた。他の兵はそのことに気づいていないようだったが、それでも副隊長に選ばれるほどにもなれば、その程度の洞察力は持っている。


馬車での野宿ならともかく、宿で部屋を取ればわざわざ抜け出すようなこともしないだろうとたかをくくっていたが、考え方が甘かったようだ。抜け出してしまうほどの理由が一体どこにあるのかと思って後をつけてみれば、人気のないところでいきなり魔法を使い始めた。それも見たことのないような高度な技術の魔法ばかりだ。特にこの結界と蛇を動かす魔法。結界は二重になっているが、魔力も音も漏れていないし、蛇は明らかにセクエの意思で動いていない。


「魔力が大きすぎるのか。だから寝ることも、食べることもしない。魔力を使うために寝場所を抜け出し、こうして消費している。どうりで食料の減りが遅いわけだ。」


タンザは呟く。目の前の現実がなかなか受け入れられない。まさかこれほどの人間を任されていたとは。やはり国王の直接の命令となれば、それが何もない人物であるはずがなかったのだ。


(いや、たとえそれがどんな人であったとしても、陛下の命令ならばそれに従わなければならない。彼女の性格からして、こちらを傷つけるようなことはしないだろう。…いや、しないのではなく、したくないだけなのかもしれないが。)


油断はできない。もし仮にこれほどの魔力が暴走することがあれば、被害は兵たちだけには止まらないだろう。


(それを防ぐためにはまず、彼女のこの時間を少しでも長く確保してやらないといけないか。)


兵士たちに彼女のことを教えて、夜更かししないように、彼女の邪魔をしないように言っておくべきだろうか。いや、それとも何も言わずにいるべきだろうか?


セクエに声をかけてみようかとも思ったが、防音結界が張られているので、声を届けるには結界の内側へ入らなければならない。そうなると、あの暴れまわる蛇の攻撃の射程範囲内に入ることになる。いくら兵士として腕を磨いているからといって、そこまで危険なことはしたくなかった。


タンザの存在は気づかれていないのだろう。セクエと蛇はまだ戦闘を続けていた。砂の蛇は早くもボロボロになっており、砂を精一杯かき集めているが、その修復も追いついていないようだった。それほどまでにセクエの攻撃が早く、強いのだ。あっという間に蛇は倒されてしまい、ただの砂に戻ってしまった。後には少し高い砂の山が残されている。


魔力を十分に消費できたのだろう。セクエは結界を解いた。タンザは慌てて自分の気配を隠したが、あまりにも突然のことだったので反応が遅れた。タンザに気づいたセクエが視線を向ける。


「あ…。」


小さく呟き、そして恥ずかしそうに下を向いた。そのまま黙り込んでしまい、動こうともしない。


タンザは仕方なくセクエのそばに寄った。


「…ごめんなさい。」


蚊の鳴くような小さな声でセクエはそう言った。


「起こしてしまって。」


タンザはこの反応に少しだけ驚いた。てっきり魔法を使っていたことを謝ると思っていたのだ。


「違う。俺はあなたが寝ていないことも、部屋を抜け出すことも分かっていた。だから、こうしてあなたを追いかけてきたんだ。」

「そう…ですか…。」


セクエはうつむいたまま姿勢を変えなかった。


「ごめんなさい。こんな大事なことを、黙っていて…。」

「……。」


こういう反応が来ると分かりきっていたのに、タンザは何も言えなかった。必死に頭の中で言葉を探す。


「セクエさん。」

「……。」

「怯えないでほしい。」


深く考えることもなく、気づけばタンザはそう言っていた。


「俺は、これほどの力を持っているからと言って、あなたを恐れることはしない。もし暴走することがあれば、俺は全力であなたを止めるが、だからと言って今のあなたを嫌いになるわけでもない。」


セクエは何も言わない。姿勢も変えず、その表情は見えなかった。


「俺は兵士だ。だから何度も戦いを経験している。死ぬんじゃないかと思う時もあった。勝ち目がないと思う時もあった。強力な魔法はいくつも見てきたし、この体にもろに受けたこともある。だがそれでもこうして生きてきた。…昼間のあなたは、とても楽しそうだった。俺はそのことを忘れない。俺はあなたを恐れない。」


セクエはまだ黙っていた。


「だから怯えないでくれ。その魔力が俺たちに知られてしまうことにも、いつか自分が暴走してしまう危険性にも。」


これ以上は何も言えない。タンザは黙った。セクエもやはり黙ったままだった。


ザザ…ザザ…と波の音が聞こえる。タンザはふと、何の気なしに海に目をやった。真っ暗な海の中で、目についたものがあった。


「あれは…。」


思わず微笑む。そしてセクエの肩を叩いた。


「セクエさん、あれを。」


セクエは顔を上げた。そしてタンザが指差す方を見た。その目が驚きに見開かれる。


海の水が青白く光っていたのだ。いくつもの光が群れになって動いている。星が海に落ちて流れているかのようだった。


「えっ…?」

「もっと近くに行こう。奴らがこんなに海岸近くに来るなんて珍しい。」


タンザはセクエの手を取って浮かび上がった。そして海の上まで飛んでいく。青白い流れがより近くで見えた。セクエは姿勢を低くして覗き込むようにその様子を見ている。


「これは…?」

「チーチャと呼ばれる小魚の群れだ。背ビレを光らせる性質がある。」

「群れって…こんなにたくさん?」

「そうさ。一匹一匹はとても小さいが、こうして数百匹も大勢でまとまることで、生き残ろうとするんだ。普段はもっと沖合か、深いところにいるんだが、夜になって暗くなったから海面まで上がってきたようだな。」


セクエはそろそろと海面近くまで降りてきて、しゃがみこむようにしてひとつひとつの光を目を凝らして見ていた。


「本当に、ごめんなさい。…こんなに気を使わせてしまって。」


セクエは視線をそらさずに呟いた。


「怯えないというのが、私にできるのかは分かりません。勇気付けてくれたことは、分かっているんですけど…。やっぱり、怖いものは怖いです。怯えてしまうのはどうしようもありません。」


セクエは申し訳なさそうに言った。やはり視線は変えない。少し動いたと思っても、それはチーチャの光を目で追っているだけだ。


「次にこの光を見たとき…同じようにきれいだと思えるのかどうか…。私にはそれさえ分からない。」


セクエは不意に空中で立ち上がり、タンザを振り返って見た。チーチャの光がセクエの姿を下から照らしていた。真っ白の髪はその光を受けて青く染まっている。


本人には言っていないが、夕焼けの時もそうだった。彼女の白い髪は光を受けてその色を自在に変える。その様子は美しいと、素直にそう思う。


「もう、宿に戻っていてください。空が明るくなる頃には戻りますから。」


タンザは何も言わずに頷いた。そして宿に向かう。その途中で、タンザは一度セクエを振り返って見た。だいぶ離れていたので、彼女の姿をはっきりと見ることはできなかったが、青白い光ははっきりと見える。その中に一段と明るく大きな光があるのが見えた。その光だけは動き回ることはなく、色合いも他とは少し違っていた。


タンザはそれを見て少しだけ微笑み、それからはもう振り返らずに宿に戻った。


ーーーーーー


セクエは部屋に戻ると、布団の中に潜った。寝るわけではない。一晩中外に出ていると当然のように風を受けることになり、そのせいで体が冷えてしまっているのだ。海の近くだと風が冷たくなるのか、指先が震えるほどに体を冷やしてしまった。もちろん魔法で温めてもいいのだが、兵士たちはすぐ隣の部屋で寝ている。魔力を気づかれたくないのはもちろんだが、彼らをむやみに起こしてしまわないためにも、あまり彼らの近くで魔法を使いたくないのだ。


夏とはいえ一日中誰にも使われなかった布団はやや冷えており、体を温めるのにはあまり向かないようだった。それでもしばらく布団の中にいると体も布団も少しずつ温かくなり、鳥肌がおさまるほどになるとセクエは布団から出た。いくら今寒いといっても、日が昇れば自然と暑くなってくる。無理に体温を上げる必要はない。


セクエは窓枠に両ひじをつき、徐々に明るくなっていく空をぼんやりと見上げた。窓からは海が見えた。今日は船に乗ってあの水の上を進むのだろう。そうすればシンシリアに着く。自分が生まれた故郷の土地。それはもう目前に迫っているのだ。


(シェムトネがこんなに遠く感じるなんてね…。)


今までセクエはシェムトネ付近の森から出たことがない。学舎だって森の中にあったものだし、学舎を出た後は村には戻らなかったものの、それでもやはり森の中で生活していた。セクエの生活の中で、木々はいつもすぐそばにあるものだった。それが当たり前だと思っていた。


しかしこうして外に出てみると、森というものは案外少ないものなのかもしれない。少なくとも魔導国からリダム王国への道のりの中では森など一度も通らなかったし、見かけることもなかったのだ。今となっては木漏れ日や葉擦れの音がやけに懐かしく感じられる。ここから聞こえるかすかな波の音さえ、木々のざわめきのような気がして思わず聞き入ってしまうのだ。


目を閉じて、一度だけ見せてもらった地図を思い出す。二つの大きな島が描かれていて、その間にはいくつかの小さな島が描かれていた。シェムトネはここだ、とタンザが指差したところは一帯が黒く塗りつぶされており、そこが森であることと、詳しい地形が分かっていないことを思わせた。おそらくその通りなのだろう。シンシリアでは魔法使いはほとんどいないという。それはつまり、魔法使いが住んでいる地帯にほとんど誰も踏み入ったことがないということでもあるのだろうから。


シンシリアに着けば、しばらく魔法は使えないのだろうか。そう思うと不安になる。今までは魔法使いの多い地域を選んで通っていたらしいのだが、周りに剣使いしかいないような場所では、どうやって魔力を使えばいいのだろうか。


空は少しずつ明るくなり、気がつけば深い紺色だった空は紫がかってきていた。ゆっくりと、気の遠くなるような時間をかけて空は朝焼けの色へと変わっていく。シェムトネを離れてから、今日で何日目になるのだろう。そんなことをふと思った。


ーーーーーー


先に乗っていてくれ、と言われて、セクエは他の兵たちよりも早くに船に乗った。どうも荷物などの理由で乗り込むのに時間がかかるようだ。馬車を乗せなくてはならないため、そのための手続きなどもあるらしい。


カロストとシンシリアを行き来する船は少ない。大陸の南に行けばもう少し船があるらしいが、剣使いの国であるため魔法使いは入国さえ難しいという。こうも簡単に船を見つけられたのは、その船に乗るためだけに出航時間の昼まで足止めをくらってしまったことを考えても、幸運だったと言えるかもしれない。


この船はかなり大きなものだった。セクエが船の上から様子を眺めている間にも、多くの人が行き来して積荷を運んでいる。しかし、荷物は乗っても人はほとんど乗らない。やはり大陸間を移動する人は少ないようだった。


ようやく積み込みが終わったのか、タンザが船に上がって近づいてきた。


「終わったんですか?」

「ああ、大体は。全く、順番待ちでこんなに待たされるとは思わなかった。」

「他の兵の皆さんは?」

「積み込んだ荷物の確認だ。と言っても、そんなにたくさん積み込んだわけじゃないからな。すぐ終わらせて報告に来るだろう。そうしたらあとは出港を待つだけだ。」


船べりに寄りかかるようにしてタンザは空を見上げた。その表情は少し硬い。


「やっぱり、不安ですか?」

「…まぁ、不安にならないというのも無理な話だな。だけど、だからって怯えてちゃどうしようもない。今の俺は隊長だ。兵を率いて導くのが仕事。どんなに不安でも、俺がしっかりしないとな。」

「そうですか…。」

「隊長!」


声がして、二人はその声の方を振り返った。一人の兵がこちらに向かって来ていた。


「荷物の積み込みと確認が終わりました。異常ありません。」

「そうか。他の兵はどうした?」

「はい。すでに船に乗り、集めて待機させています。」

「分かった。手荷物は自分たちの船室に置くように。場所が分からなければ船員にきけ。それからは自由にしていていいと伝えてくれ。ただし、くれぐれも船員たちの邪魔にならないようにな。」

「分かりました。」


兵は頭を下げると来た方へ戻っていった。


「隊長が自信を持って指示すれば、兵たちも自然と落ち着いて行動できる。そうした環境が作れれば、たいていの問題は何とかなるさ。」


タンザはそう言って、チラリと空の様子を確認した。昼の太陽は空の真上まで上がり、雲もほとんどないため、その光は何にも遮られることなくギラギラと二人を照らしている。雨など振りそうもなかった。彼は何を見ているのだろう。


「さてと。いつまでもここにいても仕方ない。俺たちも船室に向かおうか。」


そう言ってタンザは歩きだす。セクエもそれを追った。


ーーーーーー


ザザァッ、という一段と大きな波音がして、船が大きく揺れた。思わずよろけて、船べりにしがみつく。海を眺めていただけなのに、あやうく海に放り出されるところだった。


波のしぶきが顔にかかる。潮水が目にしみて、セクエは思わず目を閉じた。


港を出てどれほど時間が経っただろう。見える景色はいつまでも変わらなかった。ただ一つ変わったことがあるとすれば、港では晴れ渡っていた空に雲が目立ち始め、今では空を覆い尽くすほどになってしまったことだろうか。その雲がだんだん橙色に変わっていることから、もう夕暮れ時だということがなんとか分かる。だが、そのほかはただひたすらに水面が広がっているだけで、この船が本当に進んでいるのか思わず疑ってしまう。


この船の航路には島はほとんど無く、だから景色が変わらないのであって、決して船が進んでいないわけではないのだと、先程タンザから教えてもらった。しかし、頭の中で分かっているからといってそれを素直に信じられるかといえば、実際はそうでもない。何でもいいから何か見えてほしいと思い、さっきからセクエはずっと海を眺め続けていた。


突然、ピーッ、ピーッという鳥の鳴き声が聞こえた。港で聞いた海鳥の鳴き声とは少し違う。セクエはその声は聞こえる上の方へと目を向けた。


空は曇っていて眩しくない。だから見上げることにそれほど抵抗はなかった。一羽の鳥が船の上をぐるぐると回っているのが見えた。どうやらこの船に何か用があるようだ。


「おお、もう来たのか!」


タンザの声が聞こえた。視線を戻してあたりを見回すと、彼は鳥を見上げながら船室から出てくるところだった。その鳥に向けて手を伸ばすと、鳥は慣れた様子でその腕に止まった。


「やれやれ、到着までに届かなかったらどうしようかと思っていたが、こんなに早いなら心配いらなかったな。」

「どうしたんですか?」


セクエは近づきながら声をかける。鳥は少し警戒したように身をかがめてセクエに顔を向けたが、飛び立つことはしなかった。タンザの腕に止まったのでなんとなくは分かっていたが、かなり人に慣れているのだろう。


「いや、知り合いに魔道具の製作に携わっている人がいるんだが、そいつにちょっと依頼していたものがあってな。それをこうして届けてくれたってわけだ。」


よく見れば、その鳥の首の部分に箱がくくりつけられており、そこに何か入れられているようだった。タンザは箱を首から外すと、腕を少し上に降った。鳥はその反動を利用するように再び飛び上がった。しばらくの間は行き場に困ったようにあちこち飛び回っていたが、やがて船べりに止まり、そこに落ち着いたようだった。タンザはそれには目もくれず、箱の中から手紙のようなものを出して読んだ。


「はぁ、なるほどな…。」

「何を頼んでいたんです?」

「ん?ああ、これさ。」


そう言ってタンザが箱の中から取り出したのは、蝶の形をした髪飾りだった。金色の金属で作られたその蝶は羽や胴体はもちろん、触覚までもが細かく作られており、羽の部分には緑のガラスがはめ込まれていた。それをじっと見つめてからセクエは言った。


「魔力制御用…とは少し違いますね。どんな効果があるんですか?」

「体内の魔力を溜め込む効果がある。そしてそれを魔法ではなくただの魔力として外に放出する。定期的にな。」


セクエは不思議そうにタンザを見た。


「どうしてこんなものを送ってもらったんです?」

「どうしてって、そりゃあ…。セクエさんに付けてもらうためだろ?」


何を今さら、と言いたげな口調でタンザは答える。しかしセクエは驚きを隠せなかった。たしかにシンシリアに着けば魔法を使いにくくなるのは分かっていたが、まさかここまでの気遣いをされるとは思っていなかったのだ。


「どうした?髪飾りなら女の子でも着けやすいだろうって手紙に書いてあるが…もしかしてこういうのは嫌いか?」


タンザが少し心配そうな顔をする。セクエは慌てて首を振った。


「いえ、そうではないんですが…。ここまで気を使ってもらえるとは思わなくて…。」

「なんだそんなことか。それなら気にしなくていい。無事に故郷まで送り届けることが俺たちの仕事だからな。あくまで仕事の必要経費っていう扱いになってる。」


そこまで言ったところで、タンザは急に声を小さくしてそっと囁いた。


「本当はダメだが、もし気に入ったなら、そのままもらっても構わないからな?」


そして楽しそうに笑顔を浮かべた。それにつられてセクエも思わず微笑んだ。タンザは本当に優しい人だ。胸の中が暖かくなる。


「さてと。じゃあ、返事を書いて鳥を返さないとな。」

「え、もう返すんですか?」

「そりゃそうだろう。あいつも届いたか心配してるだろうし。返事は早い方がいい。」

「でも…さっき飛んで来たばかりじゃないですか。少し休ませてあげたほうがいいんじゃないですか?」


すると、タンザは少し驚いたような顔をして、それからすぐに何か納得したような表情になった。


「ああ、セクエさんは魔獣を知らないのか。」

「えっ、魔獣…?」

「そう。魔力で動く人形みたいなものだ。さっきまで馬車を引いていた馬だって魔獣さ。あの鳥の中には、ここから魔導国に戻るには十分な魔力が残っている。だから休ませる必要なんてないんだ。」


セクエは少しうつむいた。彼は今、魔獣は魔力で動く人形だと言った。魔獣はカロストでそんな扱いを受けているものなのだろうか。


「あの…枷はついていないんですよね?」

「枷?」

「その…行動とか、思考を制限するようなものは、つけてないんですよね?」


タンザはなぜそんなことを言うのか分からないようで、少し戸惑った様子だったが、すぐに答えた。


「ああ。そんなものはつけてない。彼らは頭がいいからな。人間の言葉をちゃんと理解するし、嫌なら嫌だと意思表示もする。その意思は人間と同じように尊重すべきだって決まりもあるからな。別に無理やり従わせてるわけじゃないさ。」


セクエはホッと胸をなでおろす。良かった。フィレヌがいた国はどうやら魔導国ではないらしい。


「これまでにそういう魔獣を見たことがあるのか?」

「いえ、実際に見たことはありません。ただ、私の村に、カロストから来た魔獣が一人いるんです。彼女のいた国では、魔獣が人間に反抗しないように、枷をつけて支配していたと聞いていて、少し不安になってしまって…。」

「そうか…魔獣の扱いは国によって様々だからなぁ。人間が作り出した存在である以上、人間が支配するべきだって考えを持ってる国も多い。そこはきっとそういう国の一つだったんだろうな。可哀想に。」


タンザはそう言って魔獣の鳥に目をやった。鳥はじっとこちらを見ていた。早く帰らせてくれと言わんばかりのその眼差しに、セクエは少し驚いた。タンザがこの鳥を早く返そうとしたのは、返事を急ぐためだけではないのかもしれない。


「さて、俺は船室に戻って返事を書いてくる。そんなに書くことも無いからすぐに戻れると思うが、一応あいつが逃げないように見張っておいてくれよ。」


そう言ってタンザは船室に戻る。セクエは船べりに止まったままの鳥に目をやった。セクエを物珍しそうに眺めている。さっきから様子を見ている限り、別にはっきりとした表情があるわけではない。だが、そのわずかな目つきの変化だけでその鳥が何を思っているのかだいたいは理解できた。シェムトネに来た泥の魔獣は感情があるようには思えなかったが、もしかしたらあの魔獣も何か表情を持っていたのかもしれない。


セクエはゆっくりと鳥に近づいた。鳥は再び警戒するような態度をとったが、やはり飛び立ちはしない。セクエはじっくりとその姿を眺めた。他の鳥とは見分けがつかない。確かに魔力を感じるが、言われなければ分からないほどだった。馬車を引いていたのも魔獣だっというし、カロストでは魔獣はとても身近なもののようだった。


鳥はじっとセクエを見つめている。魔道具を持って来たこの鳥を見ていると、不意にティレアのことを思い出した。小指にはめた回復用魔道具の指輪をそっと撫でる。ティレアの魔力を感じた。きっと彼女も心配しているだろう。本当なら、今すぐ飛んでいって帰りたいのに。


セクエは指輪に目をやる。その指輪が思いのほか強い光を反射していたので、セクエは顔を上げた。想像していたより強い光がその目に入って、 思わず目を閉じる。ゆっくりと目を開けると、いつの間に雲が流れたのか、夕日が雲の間から顔を出していた。その光が海を、船を、真っ赤に染め上げている。


セクエはそれを目をそらさずにじっと眺めた。夕日がまた雲に隠されて見えなくなる前に、少しでも目に焼き付けておきたいと思ったのだ。


「鳥を見張っておいてくれと言っただろう。」


不意に聞こえたその声に、セクエは驚いて振り返った。タンザはやれやれといった表情でセクエに歩み寄った。


「そんなに珍しいか?夕日なんて晴れていればいくらでも見えるだろうに。」

「すいません。故郷では見たことがなかったので、つい。」

「セクエさんの村では夕日も見えないのか?一体どんな所なんだかなぁ。」


呆れたように、しかし少し面白そうにタンザは言う。


「にしても、今回は光を真似しないんだな。」

「えっ…。」


セクエは口ごもる。なんだか急に恥ずかしくなってしまった。


「見て…いたんですね。」

「まあな。遠くからでもあれくらいの光の違いは見分けられる。で?あれは結局うまくいったのか?」

「いえ、駄目です。とても上手くいくとは思えませんでしたよ。」


その答えを聞いて、タンザは渋い顔をする。


「諦めるのか?簡単に諦めるのはあまり褒められたものじゃないが…。」

「そうですけど…でも、相手が自然なら、負けてもいいって思えますよ。そもそも魔法って、自然の力を借りているものですから。そうでしょう?」

「…まあ、それもそうか。」


タンザはまだどこか納得していない様子だったが、一度会話をやめ、持って来た手紙を細く折って鳥の足に縛った。それが終わると、鳥はその様子を確認することもなく飛び立った。セクエはそれを目で追ったが、強い光のせいで思うように目が開けられず、すぐに見失ってしまった。甲高い鳴き声だけが空に響いてはっきりと聞こえる。しかし、だんだんとそれも小さくなり、やがて聞こえなくなってしまった。


急に静かになった船の上で、二人は何も言わずに夕日を眺めた。明日にはシンシリアに着くはずだ。セクエは複雑な気持ちで夕日が沈もうとする水平線を見つめていた。


ーーーーーー


気がつくと、リガルは立っていた。直感で夢だと分かる。


辺りを見回す。見慣れた町の中にリガルは立っていた。不思議と心は落ち着いている。今まで殺意に飲み込まれそうになっていたとは思えないほどに。


(ああ、今日もまた、この国では平穏な日々が過ぎていくのか…。)


唐突にそう思った。この国に生まれ、そして導いていけることが誇らしく思える。澄んだ空には鳥が飛び交い、穏やかな風が頬を撫でた。人々の行き交う声が聞こえる。


しかし、その穏やかな空気はあまりに突然に崩れ去った。遠くで悲鳴が聞こえ、黒煙が上がるのが見えたのだ。建物が崩れ落ちるような大きな音も聞こえる。かなり遠くであるはずなのに、町を壊す魔力ははっきりと感じられ、その様子が手に取るように分かった。リガルはその魔力を感じる方へと走った。


逃げる人の流れに逆らって現場へと向かう。建物の残骸が広がる場所に、一人の男がリガルに背を向けて立っていた。


「貴様…何者だ。なぜこんなことをする?」


リガルはそう呼びかけたが、男は答えず、リガルを振り返ることもなく走り出した。


「待て!」


リガルは慌てて男を追った。しかし男との距離は一向に縮まらず、気づけばリガルは今自分がどこを走っているのかさえ分からなくなっていた。しかしそれでも、リガルは男の後を追う足を止めなかった。


ふいに、男は足を止めた。リガルはようやく男に追いつき、再び声をかけた。


「答えてもらおうか。貴様は誰だ。なぜ町を壊した。」


男はゆっくりとリガルを振り返った。その顔を見てリガルは思わず目を見開く。


「私が誰か…?そんなこと、わざわざきかずとも分かるだろう。」


そう答えた男の顔は間違いなく、自分自身の顔だったのだ。


「貴様は…。」

「そう。私はお前だ。そしてお前は私でもある。」

「なぜ…そんなことが…。」

「もう一つの質問に答えようか、リガル。なぜ町を壊すか、だったか?」


戸惑うリガルを無視して男は言う。そしてニヤリとその顔に笑みを浮かべ、言った。


「それはお前が望んだからだ。」

「馬鹿なことを言うな!私がそんなことを望んだと言うのか?」

「そうとも。私はお前の中にあるもう一つの感情。あるいは人格。お前自身が望んだのだ。町の破壊を、殺戮を、そして戦争を。私はそれを実行に移しただけだ。」

「ふざけるなっ!私はお前には負けない!お前のような奴には決して!」

「お前のような奴、か。」


男は機嫌が悪そうにリガルを睨みつけた。


「言っただろう。私はお前自身だと。お前は私という自己を切り捨てることができるというのか…?」

「やってみせる。いかに無謀であろうとも、私は諦めたりはしない…!」

「ならばここで決着をつけるか?」


男は面白そうに口元を歪めた。二人はしばらく無言で睨み合った。相手を威嚇するためではない。相手の出方を待っていたためだ。


「…まぁいい。ここで争ったとして、そんなことには何の意味もない。」


そんな言葉で男は沈黙を破った。歪められた口元はそのままだった。そして一歩ずつゆっくりとリガルに近づきながら言った。


「だが忘れるな、リガル。私の力は日に日に増してきている。お前が私に負けるのも時間の問題だ。もしその時が来たら…。」


男は足を止めた。二人の距離は息がかかるほどに近かった。


「素直に負けを認めることだな。それがお前を…お前自身を苦しめないためにできる唯一のことだ。」


言い聞かせるような、慰めるような口調だった。なぜだろう。その声を聞いていると気分が悪くなる。自分の負けを決めつけられているからだろうか。それとも、その言葉で自分自身がどこかで負けを認めてしまったからなのか。


気付いた時には既に男はどこにもいなかった。リガルは知らない場所に取り残され、そこに一人立ち尽くした。


目を開ける。見覚えのある天井が見えた。体を起こし、窓から町を見下ろす。どこにも壊れた様子はない。やはりあの光景は夢だったか、と胸をなでおろす。


(しかし…どこまでが夢なのだろう。)


奇妙なことに、あの夢に見た光景は今もなおはっきりと記憶に残っている。普通の夢なら、起きた瞬間に大半は忘れてしまうというのに。


(全て夢だと割り切ることは簡単だ。だが、そうしていいのか?あの夢を見たこと自体、私が変わりつつある証拠とも言えるのではないか?)


胸の中では複雑な感情が入り混じっていた。恐怖、絶望、悲しみ…そして悔しさ。どれも心地良い感情ではない。そんな感情が自分自身を黒く汚く染め上げているような気がした。


その思いを振り切るように、身支度を整えて部屋を出る。目指す先はグアノの部屋だ。国王と補佐の部屋は近い。扉を開けると、グアノは驚いたように顔をリガルに向けた。


「陛下!どうなさいました?」


そういったグアノの、仮面の隙間からわずかに覗く瞳に、リガルははっきりと恐れの感情を見てとった。胸の奥底を、強く握りしめられたような気がした。


「私と、手合わせを願えるか。」

「手合わせ、ですか…?しかし、今日は予定が。アリシア様の誕生日が近いですし、家来の物たちと話をつけなければならないこともあり…。」

「すまないが、後に回してくれ。」


静かに、しかしはっきりとリガルは言う。アリシアは前国王の弟の娘で、リガルとツァダルの従姉妹にあたる。現在の王族の中では女性は彼女一人のため、周囲から可愛がられており、リガルも大切に思っていた。できればその予定は変えたくなかったが、今はどうしようもない。


「…分かりました。話をつけておきましょう。」

「助かる。私は兵士用の修練場で待っている。話をつけたら来てくれ。」


それだけ言って、リガルはグアノの部屋を出た。少し早足で修練場に向かう。まだ早い時間帯だったが、そこにはすでに稽古を始めている兵士が数人おり、皆リガルに気づくと跪いて挨拶をした。


「何かご用でも?」

「ああ、たまには体を動かそうと思ってな。グアノに相手を頼もうと思っている。私のことは気にせず、稽古を続けてくれ。邪魔をしてすまない。」


幸いなことに、隣り合った修練場のうち一つは空いていた。そこを使えば、今の稽古を中断させてしまうこともないだろう。リガルは修練場の中央まで行き、一つ深呼吸をして心を落ち着けると、呪文を唱えた。


風魔法エルマ。」


唱えたとたん、リガルの周囲につむじ風が巻き起こり、その髪を巻き上げた。その威力に、リガルは少し顔をしかめ、魔法を消した。


思っていたよりも威力が大きかった。しばらく魔法を使っていない間にこんなにも腕が落ちていたとは。魔力を少しでも減らそうとグアノに手合わせを頼んだが、日頃から魔法を使うようにした方がいいかもしれない。


そこまで考えて、リガルは一人苦笑した。何を考えているのだろう。自分はもう終わりが近いというのに、これから先のことを考えるなんて。


「陛下!」


グアノの声が聞こえて、リガルは振り返る。グアノが早足で歩いてくるのが見えた。よほど急いでくれていたのだろう。


「来たか。話はつけられたのか?」

「はい。後日また話をすることになりました。今日はその他の大きな仕事はありません。」

「そうか。良かった。」


リガルはそう言うとグアノに背を向け、修練所の端まで進んだ。そして振り返り、グアノと再び向き合って言った。


「はじめに言っておく。私は遠慮せずそなたと戦うつもりだ。だからそなたも遠慮はするな。全力で頼む。」

「はい…!」


ある程度のことは予想していたのか、その腰には補佐の剣が下げられている。グアノはそれをすらりと抜き放ち、少し姿勢を低くして構えた。


「いくぞ!」


半ば叫ぶようにリガルは言い、呪文を唱える。


炎の弾ヴァナス・ファルーム!」


空中に火の玉が次々に浮かび、それがグアノに向かって飛んでいく。グアノはそのうちのいくつかを切って消したが、それでもいくらか残ったものは浮遊魔法で避けた。リガルもそれを追って飛び上がる。


炎の蔓ヴァナス・レット!」


さらにリガルは唱えた。空中に炎が上がり、それが長く伸びてグアノへと向かった。リガルは火炎魔法を得意としているのだ。


水の壁カルス・ウィール!」


グアノも唱え、自分の正面に厚い水の壁を作り出す。リガルの魔法はそれにぶつかり、水が蒸発して蒸気になる。


凍結魔法スレース!」


続けざまにグアノは唱える。蒸気が一瞬で氷へと変わる。さらにグアノがさっと手を振ると、硬く鋭い氷の粒は一斉にリガルへと飛んでいき、その肌を、服を、切り裂こうとした。しかし。


火の衣ヴァナス・メイル。」


落ち着いた様子でリガルは唱えた。その全身を炎が包み込む。しかし服が燃えることはないし、リガル自身も熱を感じていない。炎を使った防御魔法の一種だ。氷の粒は目では追えないほどの速さでリガルに迫ったが、その体に触れる前に熱で溶けて消えた。


グアノは最後の氷が溶けるより先にリガルへと近づいた。その両手に握られた剣の刀身からは炎が吹き出している。グアノはそれを何のためらいも見せずにリガルに向けて振り下ろした。


リガルはそれを全身で受け止める。防御魔法があるので、今は硬い鎧に身を包んでいるも同然なのだ。しかし、これもそう長くは持たないだろう。同じ系統で同威力の二つの魔法がぶつかった場合、お互いに打ち消されてしまうのだ。グアノもおそらくはそれを狙っている。


自分を覆う魔法がわずかに薄くなる。それと同時にグアノの炎も小さくなるが、リガルはその時、体が受ける力が少しだけ弱くなっていることに気づく。


瞬間転移アレム・ロプ。」


リガルはグアノの頭上へと転移する。ちょうどその瞬間、防御魔法が消滅した。リガルは両手を下に向け、魔力を放った。火や水などの命令は加えていない。純粋な魔力の塊だ。だがそれでも、今この瞬間のグアノに不意打ちを食らわせるには十分な威力になる。


リガルの読み通り、グアノは不意に上から来た攻撃を避けられなかった。その体にもろに強い衝撃を受け、地面に叩きつけられる。リガルはグアノからの攻撃を警戒しつつ、そのそばにゆっくりと降りた。


「…この程度か、グアノ。」


倒れたままのグアノを見下ろし、リガルは言う。グアノは体を起こし、跪くような姿勢をとった。


「全力で頼むと、そう言ったはずだ。」

「それは…。」


グアノは口ごもった。さっき力を弱く感じたのは、魔法が打ち消されつつあっただけではなく、グアノの手加減が入っていたのだと分かっていた。


「も、申し訳ありません。まだ、陛下を傷つけることに、迷いがあり…。」


そう言いながらも、グアノは視線を下げたままだ。その様子に違和感を覚える。


(怯えているのか…?)


そこでリガルはふと気づいた。自分は今、笑っていたのだ。


(全く自覚がなかった…。一体いつから?最後に魔法を放った時?手合わせを始めた時?それとも、手合わせを頼んだ時には、すでに…?)


自分でも気づかぬうちに、グアノが恐怖を覚えるほどに、自分は戦いを楽しんでいたのだ。


(もう…間に合わないのか…。)


その感情に、もはや疑問符はつかない。どこかで自分は認めてしまったのだ。決して諦めるまいとしてきた心が、とうとう折れてしまった。


「つ、次こそは、期待に添えるような戦いを…!」


グアノはそのままの姿勢で弁解するような口調で話し始めた。リガルはしゃがみ、グアノと目の高さを合わせる。そしてその肩に、そっと手を置いた。しかしその瞬間、グアノはビクッと体を震わせ、黙り込んでしまった。


「私は、そなたを苦しめてばかりだな…。」

「……。」

「そなたが嫌なら、もう私のそばにいなくていい。そなたが苦しむのは、私もつらい。」

「……。」


グアノは黙ったまま何も答えない。


(駄目だ。この状況では、冷たく突き放し、非難しているように聞こえるだろう。何を話したところで、グアノを怯えさせることしかできない…。)


リガルは黙り続けるグアノに向けて言った。


「最後に一つ、頼みがある。セクエか再びこの国に来た時、私と会わせないでほしい。すぐに村へ返し、そして二度とこの国に来てはならないと、そう伝えてくれ。」


とうとうグアノは最後まで何も言うことはなかった。リガルは立ち上がり、もう一言何か言おうとして口を開きかけたが、やめた。


リガルは修練場を後にする。グアノは追ってこなかった。

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