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支配する魔法使い  作者: 星野 葵
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#3 国王の頼み

リガルは客室を出て、治療室に向かっていた。グアノの様子を見なければならないのだ。ヒルシャのことは信頼しているので、病がそれほど大きく進行していることはないと思うのだが、それでもやはり心配だ。


(それに…セクエに対する対応の件についても、話しておかなければならないしな。)


といっても、それほど強く言うつもりは無い。休みをほしいと言うくらいなのだから、まだまだ本調子ではないだろう。そんな人間に強く言っても仕方ない。今回は軽く言うだけにして、それから時期を見てはっきりと話すことにしよう。


リガルが治療室に着いたとき、グアノは少し早い昼食をとっていた。顔には仮面はつけられておらず、そのかわりに包帯がぐるぐると巻かれている。リガルは少し顔をしかめた。普段と変わらず顔を隠しているというのに、それが仮面でなく包帯というだけで、なぜこうも痛々しく見えるのだろうか。鼻より上は完全に隠されており、何も見えないはずなのだが、グアノはまるで見えているかのような自然な動きで食べている。


「…陛下、なのですか?」


グアノが不意に顔を上げ、入り口に立ったままのリガルに顔を向けた。目が見えなくとも、魔力は感じることができる。リガルは別に驚きはしなかった。


「ああ。見舞いに来た。顔はやはり痛むか?」

「いえ、そんなことは。この程度には慣れておりますから。」


グアノは自然な口調でそう言ったが、リガルにはそれが嘘だと分かってしまった。


(あれほどの病、痛くないわけがないだろうに…。)


それからグアノは顔を少し下に向けて言った。


「申し訳ありません。陛下が見舞いに来てくださったというのに、そのお顔を見ることさえかなわず…。補佐として、恥ずかしい限りです。」


リガルはグアノに近づきながら言った。


「そんなことを言うな。病は顔に出ているのだから、仕方ないことだろう。そんなことは無礼だとは言わない。それに、暗く考えていては薬の効きも悪くなる。気にするな。」

「陛下…。」


グアノはこの言葉に、何か感慨深いものを感じたようで、歯を食いしばってその言葉を聞いていた。


「それにしても、そなたは器用だな。目が見えずともそのように普通に生活が送れるとは。」

「これは、幼い頃からの癖ですので。」

「幼い頃というと…」

「ええ、まだ陛下と出会う前、町に住んでいた頃です。あの頃は、目に血が入るのを避けようと、目をつむり、視界に頼らないようにしていたものですから。」

「その調子では、この世から太陽が無くなっても生きて行けそうではないか。」


リガルはからかう。グアノもそれを察して笑って答えた。


「いえ。それはさすがに無理かと。私も、城内のどこに何があるか、暗記しているわけではありませんので。」


それから、グアノは少し黙り、ためらいがちに言った。


「その…陛下。あの少女は、どうなさいましたか…?」

「ああ、だいぶ疲れていたようなのでな。客室の一つに通して休ませている。」

「そう…ですか…。」

「実は、そのことで一つ、そなたに言わねばならないことがあってな。」


グアノは黙ってその言葉を聞いていた。その口元だけで、緊張しているのが分かる。リガルはできるだけ柔らかい口調で続けた。


「あれは少し…やり過ぎだったのではないか?」

「……。」

「確かに、私が細かい命令をしなかったのにも責任はあるだろう。しかし、だからこそ信じられないのだ。そなたがあれほど手荒にやったのは見たことがない。そなたはいつも、細かい命令がなければ、できるだけ被害を減らそうとする。だが今回は、そなたらしくないやり方だと思ってな…。」

「それは…」


グアノは何か言いかけて、それからしばらく黙った。リガルはグアノが話し出すのをじっと待った。やがてグアノが口を開いた。


「私にも、分からないのです。」

「と言うと?」

「…なぜなのでしょうか。あの少女を初めて見た時、どうしようもない恐怖に襲われたのです。あの少女と正面から向き合ってはならないと、直感がそう告げておりました。」


リガルはその言葉を何も言わずに聞いていた。グアノの指先が、かすかに震えているのを見ながら。


「その時に、思ったのです。この少女は危険なのだと。話をつけて連れてくることは、おそらくは不可能なのだと。ですので…手荒なまねをいたしました。」

「夢催眠の魔法か。それも悪夢の。」

「申し訳ありません。初めは、良い夢を見させていたのですが、彼女はその夢から目覚めたいと、はっきりとそう言ったのです。このまま目覚められては、なおさら困難になると思い…。」


そして悪夢を見せた、ということか。


(なぜだ?私がセクエと向き合った時、確かに恐怖は感じたが、それでも話がつけられないと思うほどではなかった。グアノはセクエに何を感じた?なぜ私はそれを感じなかった?)


やはり、魔力の差、なのだろうか。魔力が多いからこそ、感じ取れない何かがあるというのだろうか。リガルが険しい顔をしていると、グアノは言った。リガルの表情が見えているわけでもないのに、やけに遠慮がちな口調で。


「その…陛下は、あの少女にどのような要件で会いたいと言われたのですか?」


リガルは返答に困った。別に難しいことではない。だが、グアノには通じないことなのだということは、分かりきっていた。それでも、リガルは言葉を選びながら言った。


「あの少女、セクエには…私と同じものが見えている気がするのだ。」

「同じもの、とは…?」

「どうしようもなく溢れ出る衝動、とでも言えばいいのだろうか。」


そう言って、すぐにリガルは首を横に振った。違う。そんなものではない。リガルは付け加えた。


「すまないな…私には分からないのだ。胸の奥底で、燃え上がるのでもなく、かといって消えるのでもない、このくすぶり続ける思いが何なのかが。」


(セクエにこの思いをどう伝えるべきか…。考えなければならないな。グアノに伝えられないようでは、セクエになど伝わるわけもない。)


「申し訳ありませんでした。」

「何がだ?」

「その…手荒な扱いをしてしまったことに関して、陛下のお気持ちを考えず、勝手なことをいたしました。」


リガルはフッと笑う。


「それは私に言うことではないだろう。」

「し、しかし…。」

「私は別に困ってはいない。セクエの方がよほど辛い思いをしたのだ。もし、その言葉に嘘がないなら、時期を見て自分から直接謝れ。いいな。」

「はい…。」


グアノの声は暗かった。リガルは少しでもグアノを励まそうと言った。


「だが、私を気遣ってくれたのは感謝しよう。そなたは細かいところまで目が届くからな。これからもよろしく頼みたい。」

「はい。」

「では、食事中に失礼したな。養生のための休みだが、休暇だと思って羽を伸ばしてくれ。」

「はい。ありがとうございます。」


リガルは治療室を出た。扉が閉まる直前まで、グアノはずっと自分に顔を向けていた。忠誠心、と言えば聞こえはいいが、少ししつこいような気もする。しかし、自分の国王という立場上、馴れ馴れしい態度で接することに抵抗があるのも分かる。一体どうしてほしいのか、と言われれば、答えには困ってしまう。


(国王も民も同じように、友のように話し合えればいいのだが…。)


しかし、それは許されないだろう。そんなことになれば、王の権威が揺らいでしまう。そうなれば、国を治めることが難しくなる。上下関係は必要不可欠だ。いくらこの国が平等を目指しているからといって、全てをまったく平等にすることなどできないのである。


リガルは一つ小さくため息をつく。そして、いつまでも魔力がここにあってはグアノも気が休まらないだろうと思い、自室に戻った。


ーーーーーー


「うう…気持ち悪い…。」


セクエは顔を両手で押さえながら呟いた。窓から外を見たわけではないが、この国の、少なくともこの町には、随分とたくさんの魔法使いが住んでいるようだ。セクエは今までにないほどたくさんの魔力を感じ取ってしまっていた。どこでどんな魔力がどんな動きをしているか、という情報がこの町に住む魔法使いの数だけセクエの頭の中に押し寄せていて、めまいがしそうだった。これでも精一杯感じないように抑えているのだが、魔力はなかなかいうことを聞いてくれない。少しでも気を緩めれば魔力が自分を飲み込んでしまうだろう。


(これは…もう駄目だな。)


セクエは一つため息をつき、部屋に結界を張った。壁や床、天井はもちろん、家具の全てを結界で包み、さらにそれを何枚も重ねて強度を高める。もし自分の魔力が抑えきれなくなっても、これである程度の被害は防げるはずだ。


(魔力を感じない方法を考えないといけないな…。いつまでもこのままでいるわけにもいかないし、もしかしたらこの国に残ることになるかもしれないんだから…。)


王の要件というものが何なのか、セクエはまだ知らない。だが、国王は悪い人ではないようだし、ある程度の自由が許されるなら、セクエはその要件を受けようと思っていた。まあ、そのためには一度村に戻ってバリューガやアトケインに話をしなければならないのだが。


(でも…しばらく戻れないのはやっぱり嫌だなあ。その辺についても、ちゃんと話し合わないといけないかな?)


アトケインには断る明確な理由はないので、話をつけるのは簡単だと思うが、面倒なのはやはりバリューガとフィレヌだろう。バリューガと自分は魔力が繋がっているため、自分に何かあればバリューガにも影響が出てしまう。フィレヌはカロストの危険性をよく知っているだろうから、なかなか許してくれないだろう。考えただけで先が思いやられる。


(…今頃、どうしてるのかな…。)


きっとひどく心配しているだろう。早く戻って無事を伝えたい。いっそここから出ていってしまおうかとも思ったが、ここがどこなのか分からない以上、転移魔法は使えないし、浮遊魔法では時間がかかりすぎてしまう。村に戻るときには、国王が誰か共の人をつけてくれるのだろうが、一人ではとても戻れそうにない。もし戻れたとしても、またこの国に来なければならないのだから、二度手間というものだ。


セクエは軽く床を蹴って浮遊魔法で浮かび上がると、部屋の中央で静止した。こうしていれば、魔力は常に使われる。気持ち悪い感覚も少しはよくなるだろう。


(国王が自分に頼みたいことって、なんだろう?)


セクエはもう少し考えることにした。自分でなければならないということは、魔力が多いから選ばれたということなのだろうか。でも、他のことかもしれない。例えば、自分が合成魔法を使っていて、二人の体を一つに合わせたことを知っているのだとしたら、そのことについて、何か知りたいことがあったとしてもおかしくはない。


(まあ、そこまで私のことを調べているとは思えないけど…。)


自分の魔力が大きいことは自覚がある。フィレヌだって、カロストからでも感じられると言っていた。だから、自分がカロストの人間に見つかってしまったのは別に不思議なことではない。だが、だからといって自分が過去に使った魔法まで分かるとは思えない。といっても、それはあくまで自分の知る限りであって、この国ではそういう技術があるのかもしれないが。


(…やっぱり、考えたって分からないよね。)


自分は分からないことが多すぎる。そんな状態ではいくら考えたところで答えが出せるわけがない。少し魔法を使ってみようかと思ったが、物を壊してしまうのではないかと思うと気がひける。退屈だ。


「あれ?」


ふと、右手に違和感を感じた。宙に浮いたまま右手を確認する。見た目には特に変化はない。だが、熱い。腕輪が熱を発しているのだ。


(どうなってるの?)


セクエは不安になる。今までこんなことはなかった。バリューガに何かあったのだろうか。それとも、魔力が混ざりかけているのだろうか。


(熱い…!)


そう考えている間にも、腕輪はますます強い熱を出していた。手首が焼けそうなほど熱い。セクエは思わず左手で腕輪を押さえて目をつむった。その時。


ゴウッ、と何か風の塊のようなものがセクエを包んだ。それと同時に腕輪の熱が冷めていく。おそるおそるセクエが目を開けると、セクエは目の前に広がるその光景に目を疑った。


セクエは今、森の中に立っていたのだ。さっきまでいたはずの部屋や城はどこにも姿はなく、その代わりに果てしない森が広がっている。


「ここは…シェムトネ?」


見間違えるはずがない。この風景には見慣れている。生えている木々も、森の空気も、自分にとって馴染みのあるそれに間違いなかった。


(なんで戻ってこれたんだろう?)


転移魔法で帰ってこられる距離ではないはずだ。それに、魔法を使った感覚もない。それなのになぜ自分がここにいるのか、セクエにはさっぱり分からなかった。


「とりあえず、村に戻ろうか。なんで戻ってきたのかは分からないけど、みんな心配してるだろうし。」


そう呟いてから、村はどこかとあたりを見ると、そばにバリューガがいるのに気づいた。背を丸めて横になるその姿は眠っているように見えた。


「バリューガ?」


セクエはバリューガに近づいて声をかけた。


「ねえ、起きてバリューガ。私、戻ってきたんだよ。」


そう言いながら肩を揺する。だが、バリューガは何の反応も返さない。その様子に違和感を覚え、セクエは慌てた。


「バリューガ、どうしたの?何があったの?起きてよ、バリューガ!」


しかしバリューガは目を覚まさない。左手がしっかりと右手首の腕輪を掴んでいる以外は、まるで死んでいるかのようだった。慌て続けるセクエに、声が聞こえた。


『セクエ。』


セクエは顔を上げ、バリューガを揺する手を止めた。今のはバリューガの声だった。だが、倒れているバリューガが喋ったのではない。その声は自分の耳元でささやきかけているように感じた。


『セクエ…どこだ…。』


バリューガが、自分を探している。


(まさか…。)


ここに自分を呼び寄せたのは、バリューガなのだろうか。しかし、何をしたのだろう。近くに他の魔法使いの姿はない。魔法を使ってやったのではないとすると、一体バリューガはどうやってこの声を自分に届けているのだろう。


『どこに…どこにいる…。セクエ…。』


「私は…。」


と言いかけて、セクエは口を閉じた。きっとこの声は届かない。セクエは腕輪を強く掴むと、目を閉じ、祈るように言葉を繋いだ。


「私は大丈夫だよ。ここは安全だから。だから、心配しないで。必ず…戻るから。私は、大丈夫だから。」


何度も繰り返してそう呟くうちに、再び腕輪が熱くなっていった。それでもセクエは言葉を届けようと呟き続けた。やがて、また風の塊のようなものが自分を包み込むのを感じ、目を開けると、もうそこに森はなかった。


セクエはさっきまでいた部屋の中で倒れていたのだ。目の前で左手が腕輪を掴んでいるのが見えた。


(夢…だったのかな。)


セクエはゆっくりと立ち上がる。だが、突然膝から力が抜け、その場にまた倒れ込んでしまった。体に力が入らない。


「ああ…なるほどね。」


どうやらさっきまで起こっていたことは夢ではないらしい。その証拠に、自分の中から魔力が抜け出てしまっている。あれほどの距離をまたいで魔法を使う場合、膨大な量の魔力が必要になる。その魔力がどこから供給されるのか気になっていたが、どうやら自分の魔力から消費されていたようだ。


それにしても、さっきのは何だったのだろうか。バリューガが魔法を使ったというのだろうか。いや、まさかそんなことはないだろう。きっと、誰か他の魔法使いから協力してもらったのだ。セクエはあんな魔法は知らなかったが。


セクエは立ち上がり、ベッドに腰掛けた。そして結界を解く。魔力が大量に消費されたおかげで、セクエの中の魔力はかなり落ち着いていた。しばらくは暴走する危険も少ないだろう。


「早く帰りたいな…。」


思わず呟く。それから首を左右に軽く振って、また呟いた。


「きっと帰れるよね。王様は悪い人じゃないみたいだし、きっと村に帰してくれるよ。」


セクエは自分を励ますようにそう言った。その言葉が現実になるような気がして、セクエは思わす微笑んだ。


ーーーーーー


バリューガは目を開けた。腕輪が急に熱くなったのを感じたのだ。どうしたのかと腕輪を見るが、特に何も変わったことはない。


(なんだ…これ…。)


バリューガは不安になり、腕輪を強く握りしめた。その瞬間、バリューガの周りの景色が歪んだ。驚いて辺りを見渡すが、その歪みは一瞬で元に戻り、そして目の前には、見たことのない風景が見えていた。


(どこだ…ここ…。)


バリューガはどこかの部屋の中にいた。ここがシェムトネではないことは一目で分かる。部屋の造りが全く違うからだ。自分のすぐそばに、セクエが倒れているのが見えた。


「セクエ、しっかりしろ!」


そう声をかけて体をゆすりながら、バリューガは自分がなぜここに来たのかを考えていた。


(ここがセクエがいる場所…?どうしてオレはここに来れた?そう念じてたからか?)


バリューガは手を止め、腕輪に目をやる。いつの間にか腕輪は熱を発しなくなり、何事もなかったかのように手首にはまっていた。


(でも…きっとオレは、ここに『来た』わけじゃない…。)


直感でそんな気がした。転移魔法は経験したことがあるが、今回はそれとは少し違った。転移したのではないとすれば、自分はおそらく、まだ森の中にいるのだ。そしてこの風景は、幻覚のようなものなのだろう。その考えが正しいとするならば、今自分がセクエにどれだけ声をかけようとも、セクエが起きることはないのだろう。バリューガは立ち上がった。


部屋は、石材を積み重ねて作られていて、頑丈そうな造りになっている。その点は賢者の館と同じだ。ということは、ここは何か偉い人が住む場所なのかもしれない。窓があったので、そこから外を眺めてたみる。地面が思いのほか下にあって、ここはそんなに高い場所なのかと驚く。町が見えたが、その建物一つ一つが小さい。セクエ以外の魔力をはっきりと感じる。この町はとても多くの魔法使いが住んでいるようだった。


(セクエは…大丈夫なのかな…。)


見たところ、怪我をしているわけではないようだし、何か魔法を使われた様子もない。だが、それだけでここを安全な場所だと判断することはできなかった。どうしてセクエはこんな場所に連れてこられたのだろう。


『私は…大丈夫…。』


バリューガは目を閉じた。風に乗ってセクエの声が聞こえる。なぜセクエの声が聞こえるのか、そんなことはバリューガには分からなかったが、セクエが何かを自分に伝えようとしているのなら、それを聞き逃すわけにはいかないと思った。


『ここは…安全…だから…。心配しないで…。』


安全なのか。それを聞いて安心する。少なくともセクエは今危険な状態にあるわけではないようだ。


『必ず…戻るから…。』


「ああ。待ってる。」


セクエには届かないと分かっていたが、それでもバリューガは聞こえてくる声に対して答えた。


「絶対無事に帰ってこいよ。ずっと待っててやるから。」


そう答えるとほぼ同時に、体に力が入らなくなり、バリューガは壁に手をつけながらその場にゆっくりと倒れ込んだ。見えている風景が歪む。


元に戻るのか、と思った時には、すでに自分は森の中にいた。起き上がろうとしたが、体に力が入らない。なんとか寝返りを打って大の字になるが、それ以上は全く動けない。指先さえピクリとも動かなかった。息が荒い。自分は全く動けないほどひどく疲労しているようだった。


「ああっ!…だるい。なんだこれ。どうなってんだよ。わけわかんねえぞ。」


そうブツブツと独り言を呟く。フィレヌの魔力が近づいてくるのを感じて、そういえばセクエを探していたのかと思い出す。


「バリューガよ。そろそろセクエを探すのはやめにせんか。」


フィレヌの声がした。しかし、首を動かせないので、フィレヌの方を見ることはできない。


「んあー…そーだな。さすがにちょっと疲れた。」

「ほれ、立たぬか。村へ戻るぞ。」

「悪いけど無理だ。動けねえ。」


フンッ、と鼻で笑われた。まあ、それも仕方ない。一歩も動けないほど人探しを続ける人などそうはいないだろう。


「走っておっただけじゃろう?なぜに腕も動かせぬのじゃ。」

「ちょっとな…。やりすぎた。」


自分で言っていて、何をやりすぎたのか分からなかった。だが、これだけ疲れているということは、何か無理をしたということなのだろう。


「少しは考えて動くのじゃな。セクエを探す方法を考えねばならぬじゃろうが。」

「それは…。」


バリューガはぼんやりと考える。


「ま、大丈夫だろ。」


フィレヌは一つため息をつく。


「どうやら頭を強く打ったようじゃな。」


と、そんな皮肉も言われた。


「そんな根拠もない考えを信じられるとでも思っておるのか?何度も言うようじゃが、カロストには争いが多いのじゃぞ。」

「分かってるって。…でも、なんでだろうな。」


バリューガは思わず微笑む。


「大丈夫な気がするんだよ。セクエならきっと戻ってくるさ。」


それだけ言うと、バリューガは声を出して笑った。きっとフィレヌは呆れて自分を見ているのだろう。もしかしたら、何か悪いものでも食べたかと心配しているかもしれない。だが、バリューガはさっきまで見えていた景色をただの夢だとは思いたくなかった。セクエが必ず戻ると言ったのなら、きっとその通りになるだろう。自分にできるのは、きっと信じて待つことだけなのだ。空は晴れていた。青い空が心地よかった。


ーーーーーー


リガルはセクエの部屋に向かっていた。あれから一晩考え、ようやく伝えるための言葉を見つけだした。はやる気持ちを抑えながら、リガルはゆっくりと歩いていた。いつになく緊張している。両親を失い、王位を継いだその日から、リガルは人に用事を頼むことはほとんどしなかった。一国を治める王として、他人を頼らずに一人で立たねばならないと思い続けてきたのだ。その心がけのためか、家臣たちはみんな、先代に劣らぬ素晴らしい王だと褒めてくれる。しかし、そうして期待されるほど、リガルは人を頼ることができなくなってしまった。こうして人と会い、政治とは関係の無い頼みをすることは、もはや悪なのではないかと思うほどに。


(だが今回だけは…。どうか許してくれ。)


リガルは誰にともなくそう思う。この問題は早急に答えを見つけなければならない気がする。自分が王としてこの国を治めるにあたって、重要な、深刻な問題となりうることなのだ。


気づけば、リガルはすでに部屋の扉の前にいた。フゥ、と息を吐き扉を叩く。


「セクエ、入ってもいいだろうか。」


声をかける。しかし、返事はない。


「セクエ?」


まだ眠っているのかと思ったが、もうだいぶ日は高い。そんなことはないだろうと思い直し、ゆっくりと扉を開ける。


案の定、その部屋には誰もいない。リガルはこの事態に愕然とし、しばらくその場に立ち尽くした。しかし一方で、リガルは自分でも驚くほど冷静にこの事態を受け止めていた。


(逃げたのか…?いや、当然か。私は彼女を縛り付けていただけなのだから。)


リガルは部屋の中を見渡した。人がいたという形跡はほとんど全く残っていない。昨日あったことがまるで夢か何かだったような心地がした。


セクエがいなくなってしまったのなら、今度は自分があの村を訪ねてみようか、と思ったが、すぐに首を横に振る。逃げたのなら、わざわざ追うようなことはするまい。彼女をこれ以上縛り付けるようなことはしたくなかった。


(まあ、今更こんなことを思うのは、私の独りよがりかもしれないがな。)


リガルは一つため息をつく。自分の行動一つで、大切な機会を失ってしまった。


リガルが分かっている限りでは、この国に抑えきれないほど強大な魔力を持つ人間はいない。というのも、例えば、明らかに大きな魔力を持つ子が生まれた場合、それを隠していたとしても、その事実は噂となって広まっていく。この国の教育機関の人間は、そういった噂を元にその子供の元を訪ね、両親に兵や研究者にする気はないかと勧誘することか認められているのだ。そのため、魔力が大きい人間は自然と王都に集まってくる。しかし、その中にはリガルに匹敵するほどの魔力を持つ者がいないのだ。他国にはそのような者がいるのかもしれないが、争いの多いカロストでそれほどの魔力を持つ魔導師を国に招くのは危険だ。下手をすると自国の情報を相手の国に流してしまうことになるし、王の命が狙われるおそれもある。


と、そこまで考えを巡らせたところで、リガルはふと、自分がいかにセクエに期待していたのかを知った。自分はなんと都合のいいものを求めていたのだろう。そう思うと恥ずかしくなる。


(さて…今頃はどこにいるだろうか…。)


リガルは地図を思い浮かべる。巨大な島が向かい合うように並んだ、カロストとシンシリアが描かれた地図だ。カロストの南、海に面した魔導国と、シンシリアの中央よりやや西の、内陸に位置する村、シェムトネ。そこを行き来するには、当然いくつかの国を通らなければならない。セクエには十分な魔力があるだろうから、浮遊魔法か転移魔法を使うのだろう。早く戻りたいなら転移魔法だが、魔導国とシェムトネは一回の転移魔法で行ける距離ではない。何度も転移を繰り返すことになるのだが、転移魔法を使うためには、目的地がどのような場所か、そこまでの距離はどのくらいか、どの方位かを知っている必要がある。セクエがそれを知っているかどうか。


(いや、待て。そもそも彼女は帰る道のりを知っているのか?)


セクエはこの城に連れてこられた時、気を失っていたはずだ。とするなら、シェムトネまでの距離も、方角も知らないことになる。


(そんな状況で帰ろうなど、なんと無謀な…。)


いや、本人もそのことには気づいているだろうから、人に道を尋ねながら帰ることを考えたのかもしれない。だとしても、他国を通って帰るのは危険だ。あれほどの魔力で、しかも子供となれば、どの国の王もそろってセクエを兵に引き入れようとするだろう。戦いになればそう簡単には負けないだろうが、グアノ一人でもこの国に連れてくることができたのだ。本当に力のある者が本気でセクエを捕らえようとするなら、セクエがそれと気づかないうちに操ることもできるだろう。他国の者が直接ここに来て連れて行ったという可能性も否定できない。リガルは目を閉じて心を落ち着けると、セクエの魔力を探した。


先ほどまでの不安をよそに、セクエの魔力は思いのほか近くで見つかった。城の敷地内である上、移動している様子もない。近くに他の魔力が無いことも分かり、リガルはひとまず安心する。ただ、魔力が小さい。あの溢れ出んばかりの魔力は、今はグアノより小さいほどになっている。


(いったい何をしているのだ?)


リガルは部屋を出てセクエの魔力の元へ向かった。


ーーーーーー


この城には、二つの庭がある。北側と南側に一つずつだ。南の庭は日当たりが良く、季節ごとに咲く美しい花が植えられている。そのため、城の者たちはみな、その庭を花の庭と呼ぶ。北側の庭は水の庭と呼ばれ、噴水のついた小さな泉があるのだが、北であるため日当たりが悪く、泉の水のせいでいつも空気が湿っている。そのため、この庭に好んでやってくる者はいない。人のいない庭で小さな噴水が水を噴きあげる様子は見ていてどこか寂しく、なおさら人が寄り付かないのだった。


セクエはその水の庭にいるらしい。魔力はそこから感じていた。リガルは、なぜセクエがこんな場所にいるのか、全く見当がつかなかったが、会って話せば分かるだろうと思っていた。


だが、水の庭に着くと、リガルは一つため息をついた。そこにセクエの姿が見えなかったからだ。


(おかしいな。確かにこの辺りから感じるのだが…。)


姿を消しているのか、それとも、感じるこの魔力がそもそも偽物だったのか、もしくは…。


(まさか、な。)


リガルはありえないと思いながらも、念のため、泉の中を覗いてみることにした。しかし、人気のない庭の中央でパシャパシャと水を吐き出し続ける噴水を見ていると、どうしても近づく気になれず、リガルはしばらく睨むように噴水を見つめていた。


フーッと長く息を吐いて、ようやくリガルは歩き始めた。ためらいがちに少しずつ近づいていき、まさに覗こうと思った、その瞬間だった。


ザバァ、と大きな音を立てて、目の前に水の柱が立ち上がったのだ。リガルは思わず動きを止め、その光景に見入ってしまった。


この小さな泉のどこにこれほどの水が入っていたのかと思うほどの、大量の水を纏って水面から飛び出したセクエは、噴水から出る水よりもさらに高く飛び上がり、空中で前方に一回転して向こう岸に着地した。水の柱や、その動きによってセクエから離れた水滴は、いつの間にか凍りついており、日の光を浴びてキラキラと光りながら空中に静止している。セクエは体にまだ残っていた水分を全て蒸気に変えて体を乾かすと、右手を振り上げた。


蒸気が、上空へと昇っていく。それだけではない。水面から突き出たままの氷も細かい粒になって、蒸気を追うように上へ上がっていく。セクエはくるりと振り返り、泉に体を向けると、今度はしゃがみこむようにして勢いよくその手を振り下ろした。


空中に浮かんでいた大量の水と氷の粒が、一斉に泉の中へ戻っていく。その量はリガルが思っていたよりもはるかに多く、泉の周りにだけ深い霧がかかっているように見えた。その霧の一粒一粒が、日光を反射して輝いている。


(なんと美しいのだ…。)


まさか、自分が水や氷をこれほどまでに美しいと思うことがあるとは、思ってもいなかった。生き物のように滑らかに動く水はもちろんのことだったが、呪文を一言も言わずに、淡々と魔法を繰り返すその様や、霧の向こうにかすかに見えるその姿も、たまらなく美しいと感じた。これほどまでに美しく魔法を使う人物を、リガルは知らなかった。


全ての粒が泉の中へ戻ると、セクエと目が合った。セクエはリガルのことに気づいていなかったらしく、驚いたように目を大きく開け、慌てたように立ち上がった。


「へ、へいか…。」


その言葉に慣れていない様子でそう言ったセクエは、恥ずかしそうに視線を下に向けている。


「その…すみません。勝手に部屋から出て、こんなこと…。」


リガルはしばらく声を出せなかった。先ほどまでの魔法から感じた威圧と、今目の前にいる少女の姿が噛み合わない。


(人とは、魔法を使うかどうかでこれほど変わってしまうものなのだろうか…。)


「あの…へいか?」


セクエが不安そうに呼びかける。怒らせてしまったかと思っているのだろう。リガルはようやく声を出すことができた。


「朝から鍛錬に励むとは、熱心なことだな。こちらも見習わなければ。」


そう優しく声をかける。だが、セクエはリガルから視線を逸らし、呟くように言った。


「鍛錬なんて…そんなものじゃありません。」


悲しみや怒り、諦めとも思えるような口調で、セクエはそう言ったのだった。


「私は、魔力を使えればなんでもいいんです。」


セクエは数歩前に進み、泉の水面の上に立った。浮遊魔法を使っているのか、足元の水だけ凍らせているのか、リガルには分からなかったが、その自然な魔法の使い方はやはり美しい。


しかし、その様子を見ていて、リガルはいけないことを聞いてしまったような気がした。


「なぜ、こんな所へ来たのだ?」


リガルのその質問に、セクエは困ったようだった。こんな所、というのがどこのことなのか、分かっていないのだろう。


「ここは、人気もなく、特に面白いものも無いだろう。南側の庭の方が花も咲いていて、日当たりもいい。どうしてわざわざこちらの庭へ来たのだ?」


そう言い直すと、今度はちゃんと伝わったようで、セクエは少し迷いながら答えた。


「どうして、と言われても…。ここには、水があったから、かもしれません。」

「水?」

「水を扱う魔法が一番使いやすいんです。色々なことができるし、初めて教わった魔法なので。それに、こんなことを言ったら笑われるのかもしれないですけど…。」


少し黙って、セクエは小さな声で答えた。


「泉が、寂しそうだったから…。」


そう聞いて、リガルは思わず微笑む。この少女にも、ちゃんと子供らしいところがあるのだと思うと、胸が温まる。


「寂しそう、か。そうは思ってもやはり、近づきがたい何かがあるのだがな。」

「今は、人を遠ざける魔法を使ってありますから、なおさらそうなんだと思います。」


そうか。どうりで泉に近づく気になれなかったわけだ。


「人を遠ざける魔法か。見られたくなかったのか?」

「まあ…これだけ大きな魔力なら、目立ってしまうと思ったので。」


なるほど、それは正しい判断だ。彼女のような存在がいきなり現れたら、誰だって警戒するし、あらぬ噂を流されかねない。


「それで…昨日話せなかったことなのだが。」


リガルは話題を変える。セクエの顔が少しだけ険しくなるのが分かった。


「いきなり変なことを質問するが、そなたは…人を殺すことを、どう思う?」


セクエは黙ったまま答えない。リガルは辛抱強く待った。


「…それは、罪に問われることです。してはいけないと言われていることです。」

「そういうことをきいているのではないことは、分かっているだろう。」


リガルはそう言ってセクエの答えを否定した。


「今は、世間一般の意見などどうでもいいのだ。そなたが思うことを、答えてほしい。」

「人を、殺すのは…」


セクエは答えに詰まった。言いにくいことだということは分かっている。だがそれでも、リガルはきかねばならない。やがてセクエは仕方なさそうに答えた。


「恐ろしいことです。でも…」

「間違っていることとは思わない。」


セクエは驚いてリガルの目を見つめたが、黙って頷いた。


「同じことを、私も感じていた。いつからだったのか、それはもう覚えていない。ある瞬間、ふと、人の命を奪うことに抵抗を感じなくなった。私にはそれが、たまらなく恐ろしく感じる。」


リガルは自分でも気づかないうちに、両手を強く握りしめていた。今まで、この思いを誰かに伝えたことはない。それで緊張しているのだと思った。


「私は、この国を愛している。国王として、一人の国民として。父や祖父、そこからさらに遡った時代から受け継がれた、この美しい国を、私は守りたい。…そなたが、この国やカロストについて、どれだけの知識を持っているのかは、私には分からない。だから伝わらないかもしれないが、この国は、剣使いと魔導師が手を取り合って生きていける、数少ない土地なのだ。それは、争いの絶えないこの大陸では、奇跡にも等しいこと。だから私は、その奇跡を守りたい。」


セクエは黙ってこの言葉を聞いている。聞きながらどんなことを思っているのか、リガルには知るすべは無い。リガルは続けた。


「だが、もし私が、人の死を罪と思えなくなってしまったら、私はこの国を守れない。私は、この国に戦争をもたらすかもしれないのだ。もしも、その責任が私一人で収まるものであれば、私はいくらでも罪を背負おうと思う。」


リガルは顔を歪めた。この国で戦争が起こるなど、想像するだけでも恐ろしい。その可能性を他ならぬ自分が持っているのかと思うと、体が震えてしまうことさえある。


「だが、この国に永遠に傷跡を残してしまうことだけは…ましてや、何の関係も無い私の家族を…弟を、私一人の罪で苦しめてしまうことになるならば、それは死ぬよりも苦しい。」


リガルは顔を伏せた。ピトン、ピトン、とセクエが水面を歩く音が聞こえた。


「それで、私にどうしてほしいんですか?」


セクエは、自分の思いなどどうでもいいというように、つまらなそうにそう尋ねた。リガルはもう一度顔を上げ、答える。


「私を見ていてほしい。私が破壊の衝動に囚われてしまってはいないか、この国に争いをもたらそうとしてはいないか、私と同じものを感じているそなたの目で…」

「おかしいですよ、そんなの。」


セクエはリガルの言葉を遮って言う。その声からは、怒りも呆れも感じられない。


「正直に言わせてもらうなら、そんなこと、私を巻き込まないで自分の国の中だけで解決してほしいですね。自分と同じものを感じている人間がいないと言いますが、そんなことを気にする余裕なんて、もう無いんじゃありませんか?」


セクエはリガルをじっと見つめた。見定めるようなその目つきは鋭い。


「この国に、あなたがか心を許して話ができる人間が一人もいないと?だとしたら、あなたはきっと王には向いていない。自分と同じ立場の人間としか話ができないなら、あなたと話ができる人なんて、そりゃあいないでしょう。国王という立場は、国に一人しかいないものなんですから。」


リガルは黙り込んだ。そう言われると答えようが無い。その通りであるからだ。


「それに、一つ忠告させてもらうなら。」


セクエがそう言った瞬間、セクエの魔力が少し動いた。と思ったのとほぼ同時に、リガルは氷の棘に包囲されていた。首はもちろん、背筋から足先まで、身動きの一つも許されないほどすぐ近くで、棘がその鋭い先端をこちらに向けている。


「私はまだ、あなたを完全に信用したわけではありませんよ。あなたが嘘をついていないからといって、あなたが私に全てを話したとは限らない。あなたは私に本当の目的を隠しているかもしれない。さっきも言った通り、私は人を殺すことに罪悪感を感じません。ましてや知らない国の王様のことなんて、私には何の関係もない。」

「ある程度の条件ならば、のもうと思っている。そなたに一方的に頼みごとをするつもりなどない。」


リガルは臆することなくそう答える。セクエは機嫌が悪そうに目を細めた。それと同時に、棘の一本がリガルの頬をかすった。切り傷ができ、血が垂れる。


「私があなたのことを憎んでいて、騙して殺そうとしていたとしたら?」

「そんな事にはならないと、私は信じている。」

「私はこの国の住人じゃない。あなたに忠誠を誓っているわけでもない。いつ裏切るかなんて、分からないでしょう。」

「だが、こちらが信用しなければ、相手の信頼は得られない。互いを疑い合っていては、前へは進めない。」

「そうですか。」


何が面白いのか、セクエはわずかに微笑みながら続けた。


「それなら、仮に私がこの国に留まることを選んだとして、あなたを見ているはずの私が、この衝動に負けてしまったとしたら?」

「その時は私が気づけるだろう。私がそなたを止める。」

「私とあなたが同時にそうなってしまったら?あなた一人の時よりも、もっと悲惨な事態になりますよ。」

「そうなってしまった時こそ、この国が終わってしまう時だろう。避けようにも避けられないことだったというまでのことだ。悔しいが、諦める他はない。」

「それなら…」


セクエはじっとリガルを見つめていた。その体から感じる魔力がぐっと大きくなる。


「私が…すでにその衝動に飲まれているとしたら?」


セクエはリガルを睨みつける。リガルは全身に鳥肌が立つのが分かった。戦いになることを想定し、どのように彼女を止めるか考え始めた頃、セクエはほっと息をついて、目を閉じて言った。


「…なんて、冗談が過ぎましたね。」


そして目を開けた時には、リガルの周りの氷は一瞬にして掻き消えた。思わず頬に手を当てたが、どこにも傷は無い。


(幻覚魔法か。)


「どういうことだ。」

「たいしたことはありません。ただの憂さ晴らしですよ。する相手を間違えたかもしれませんけど。」


なるほど、やはりまだ悪夢を見せられたことを根に持っていたのか。だとしたら、実際に攻撃されなかっただけまだ運がいいと言えるだろう。あの強い衝動が起これば、殺されるのは間違いなかった。しかし、いくらなんでも国王という立場の自分にそんな態度をとるとは、怒りや不快を感じる前に驚いた。


(彼女の中には、王も貴族もないのかもしれないな…。)


「私だって分かっていますよ。あの感覚は言葉で誰かに伝えられるようなものじゃない。同じことを経験していない人には、どうやっても伝わらないということくらい。」


セクエはため息をついた。


「それに、人を殺すことに罪悪感は感じなくても、恐怖は感じます。そう簡単に人を殺したりはできませんよ。」

「では…。」

「はい、この国に残ってもいいと考えています。ですが…」


セクエは顔を曇らせた。


「不安もあります。この国に残ることにではなく、あなた自身のことで。」

「私に、か?」


リガルは驚いて尋ねた。セクエは顔を曇らせたまま答える。


「へいかは、このことを誰にも話していないのでしょう?それは…あまりにも危険です。それでは、もしもへいかが暴走してしまった時、それを止めることも、なぜそうなってしまったかも分からないでしょう。誰かに話をした方がいいと思うのですが…。」

「しかし、それでは私を王位から降ろそうとする者が現れるだろう。ただでさえ、王族は貴族から批判を受けやすい。国王が暴走の危険を持っていると知れたら、貴族たちが黙っていないだろう。」

「それなら…せめて、側近だとか、召使いだとか、誰か頼れる人にだけは話をしておくべきだと思います。弟がいるなら、その人にでも。」

「弟は駄目だ。巻き込むわけにはいかない。」


リガルはきっぱりと言う。セクエは戸惑ったように言った。


「ですが、兄弟である以上、巻き込んでしまうのは仕方ないことだと思いますよ?」

「分かっている。しかし…弟には、まだ…。」


自分で言っていて、おかしいなと思う。本来ならば、兄弟で助け合うのが妥当な判断だろう。だが、自分は弟に情けない姿を見られたくないのだ。もしくは、弟にさえ頼りたくないのか。


(こんな状況でそんなことを気にするなど…。私は何を考えているのだろう。)


「…誰にも話さないでいるのは、やはり危険なのか。」

「はい。そう思います。」

「そうだな。数人の家臣には話をしておくことにしよう。助言をしてくれたこと、感謝する。そうして助言をしてくれるだけでもありがたい。」


セクエは俯く。不安なのが伝わってくる表情をしていた。


「本当に、私でいいんですか?私は、王族の習慣だとか、国の政治だとか、そういったことは何も知らないのに…。あなたを裏切る可能性も、十分にあるんですよ?」

「それで構わない。そもそも政治に関係したことをさせるつもりは無い。それに、私に率直に意見することは、私の国王という立場上、家臣たちには難しいことだからな。失礼な言い方になるが、そなたが部外者であるからこそ頼めることなのだ。」

「そう、ですか…。」


セクエはしばらく考え込むように黙り、顔を上げてリガルに言った。


「では、一度村に戻らせてください。」

「ああ。初めからそのつもりでいる。護衛の者も何人かつける予定だ。決して粗雑な扱いはしない。」

「ありがとうございます。それから、村で話をする時に増える可能性もあるんですが…条件が、二つあります。」


セクエの表情が真剣なものになる。それと同じようにリガルも気を引き締め、尋ねる。


「何だ。」

「一つは、この国にいる間も、定期的に村に戻る機会を与えてもらいたいということ。もう一つは…」


ーーーーーー


どうやら朝が来たらしい。グアノは目を覚まし、そして目を開けた。


「うっ…!」


まぶたに痛みが走り、グアノは思わず呻く。


(またやってしまった…。)


仮面を付けている時は目を開けても大丈夫なのだが、仮面が無いと、少し動かしただけでも痛みを感じる。さらに痛みに顔を歪めることも許されないのだ。


(なんと不便な顔を持って生まれたのだろう。)


目の前は包帯で塞がれているので、真っ白だ。白いと分かるということは、日が出ている時間帯なのだろうが、朝か昼かは分からない。すでにグアノの時間感覚はおかしくなってきていた。


初めの頃はヒルシャが運んでくる食事の回数を数えていたのだが、数が大きくなるにつれて、次第に面倒になり、数えなくなってしまった。それに、自分が寝ている時には食事は運ばれてこないらしく、朝食が抜けていたこともあったようだ。これでは数えていてもあまり意味がない。


(それにしても、今回はやけに時間がかかっているな…。)


かなり前になるが、前に仮面が壊れた際は、これほど時間はかからずに新しい仮面をもらえたように思う。少し不安はあったが、こちらは手当てをしてもらっている身なので、黙って待つ他はない。


グアノは耳をすませる。怪我人がいない時は、治療室はいつも静かだ。外部の音が聞こえることもほとんどない。騒音は傷に障ることもあるので、そういった配慮がされているのだ。しかし、目が使えず、動くことも許されていないグアノとしては、何か音がしていないと不安になる。


ヒルシャが部屋の中にいないはすぐに分かった。魔力を感じないからだ。ヒルシャにとって、ここは仕事場であるので、ヒルシャは大抵治療室の中にいる。今は何か急な用事ができたか、食事をとっているかどちらかだろう。部屋の外、窓の向こうから、鳥が羽ばたく音が聞こえた。続いて鳴き声。せわしなくピィピィと鳴き交わしている。二、三羽はいるだろうか。しばらくすると、また羽音が聞こえ、鳴き声が聞こえなくなった。飛び去ってしまったようだ。


ここで寝ている時は、時間の流れがひどくゆっくりと感じられる。グアノは、すべきことも、できることもないこの状況が嫌いだった。周囲に遅れをとってはならないという焦りが絶えず襲いかかってくるのだ。


ふう、と息をつき、グアノはゆっくりと流れる時間と戦った。国王からは休暇だと思えと言われたが、どうしてもそうだとは思えない。自分だけが楽をしているような気がするのだ。新しく仮面をもらったら、まずなまった体を動かし、魔法の訓練にも力を入れなければならない。しなければならないことを頭の中でまとめる。しかしそんなことはすぐに終わってしまい、また暇な時間がやってくる。


グアノは体を起こし、軽く伸びをした。足を下ろすくらいなら許されるだろうと思い、手で探りながら慎重にベッドのへりを掴む。顔にぶつかりそうな物がないか入念に確認してから、グアノは足をベッドから下ろした。ずっと布団がかかっていたため、外の空気は思いのほかひんやりと感じる。


(さすがにこれ以上出るわけにはいかないか。)


ヒルシャが戻る前に元に戻らなくてはならないことは分かっていたが、グアノはしばらくそのままの姿勢でいた。


「まあ、グアノ様!」


いきなり高い声が部屋に響いて、グアノは驚いた。ぼんやりしていたせいか、ヒルシャが部屋に入ってきたことに気づかなかったのだ。


「勝手に動いては危ないですよ?」

「申し訳ありません。少し足を出しただけですので。」


言い訳のようにそう答える。ヒルシャは何も言わなかった。目が見えないため、表情を読み取ることもできない。まったく、本当に不便な体だ。グアノは起きた時と同じように、ゆっくりと慎重に足をベッドに戻した。すると、ヒルシャが近づいてくる足音が聞こえた。


「たった今、グアノ様の魔道具を受け取りに行っていたところなんです。」


どことなく暗い口調でヒルシャは言った。なぜ口調が暗いのか、それさえグアノには分からない。ヒルシャはそっとグアノの膝の辺りに魔道具を置いた。


「では、私は少し用がありますので。」

「無理に部屋を開けなくとも構いませんよ。」


グアノは言う。自分が顔を見られたくないと思っていることを気にかけているのだろうと思ったのだ。ヒルシャの動きが止まるのを感じながら、グアノは魔道具に手を伸ばした。触りながら形を確かめていく。


「以前のものより、少し大きくなりましたね。」

「はい。範囲が広がっておりましたので。」


ヒルシャの声は暗い。自分の病気が広がってしまったことを気に病んでいたのだとようやく分かった。


「申し訳ありません。私の不手際のせいで…。」

「とんでもありません。むしろ感謝しているくらいですよ。手当して下さったのがヒルシャ様でなければ、もっとひどいことになっていたでしょう。」


グアノは一度魔道具を置き、頭の包帯に手をかけた。


「それに…もし今の私に憎いものがあるとすれば、それは私自身でしょうから。」


包帯を手際よくほどいていく。傷は空気に触れるとヒリヒリと痛んだが、それでも薬が効いているのか、血は出なかった。包帯を全てとると、すぐに仮面を付けた。冷えた金属が傷に触れると同時に、痛みや痺れがスッと消えていく。グアノは安心して一つ息を吐くと、外した包帯をまとめた。それをヒルシャに渡すと、グアノは尋ねた。


「陛下は、今どちらに?」

「さあ…今日はまだお会いしておりませんから。おそらくは、玉座の間におられるかと。」

「そうでしたか。」


グアノはベッドから立ち上がり、ヒルシャに深々と頭を下げた。


「手当をしていただいたこと、心より感謝申し上げます、ヒルシャ様。それでは、私はこれで失礼させていただきます。」


そう言って、グアノは久しぶりに治療室から出た。仮面のせいで顔が少しだけ重い。早くこれにも慣れなければ。そう思いつつ玉座の間に向かった。

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