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支配する魔法使い  作者: 星野 葵
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#2 魔導師の国

フィレヌが動かなくなってから、バリューガは息を飲んでセクエの様子を見守っていた。正直、それしかできない自分が悔しい。


(オレにも、何かできればいいのに…。)


自分はセクエの危機に何もすることができない。セクエはもともと強いし、さらに相手は大抵魔法使いで、魔法を使えないどころか原理すらよく分かっていないバリューガでは相手にかなうわけがないのだ。


首を横に振る。ダメだ。今はそんなことを考える時じゃない。冷静になれ。自分は今、セクエが起きそうになった時に起こすという大役を任されているのだ。余計なことを考えてはいけない。バリューガはセクエに視線を戻した。


うなされるのは、フィレヌが夢に入ってからはだいぶ治まっていた。そうなった時に少し揺さぶってみたが、セクエは起きなかった。たまに苦しそうに声を出すことがあるが、それも一瞬のことで、今は表情は穏やかだった。何が起こっているのか分からないバリューガとしては、なんとか目覚めてくれることを祈るばかりである。


「うっ…かはっ!」


そんな、まるで水の中から出てきたような声を出して、フィレヌが突然仰向けに倒れた。


「お、おい、フィレヌッ!どうしたんだよ?」


バリューガは驚いてフィレヌに声をかけた。フィレヌはぐったりとしていて、とても疲れた様子ではあったが、バリューガに目をやって言った。


「気にせずともよい。…夢の中から弾き出されてしまっただけじゃ。こうなることは読めておった。」


ハアハアと荒い息を繰り返しながらフィレヌは言う。


「そなたはセクエを見ておれ。わらわはしばらく動けぬゆえ、もしもの場合は、そなたがセクエを助けなければならぬ。」


そう聞いて、バリューガはセクエに視線を戻し、ゴクリと唾を飲む。フィレヌは今動けない。一体自分にどれだけのことができるというのだろう。バリューガは不安になるのを抑えられなかった。


「じきにセクエは動くじゃろう。その時、目を覚ましておるのか、それとも操られておるのかは、セクエ次第じゃ。」


フィレヌが呟く。バリューガは黙ってその時を待った。


ーーーーーー


セクエは動けなかった。母が手を離してくれないのだ。母はいつまでもセクエを抱きしめたままだった。


「離して。お母さん。私、もう行かないといけないの。」


セクエがそう言うと、母はゆっくりとセクエから離れると、後ずさって距離を置いた。顔は暗い。セクエが知っている母の顔だった。その表情を見た瞬間、セクエはやはり過去は変えられないのだと悟った。母は悲しそうな顔で自分を見る。そんな母を自分は嫌っていた。今どれほど昔をやり直そうとしたところで、その過去は、変えられるものではない。


「…ここから出て行こうというの、セクエ。」

「うん。みんなが待ってる。」

「そう…。」


母がうっすらと微笑みを浮かべる。何かを諦めたようなその悲しい笑みに胸が痛んだ。


「セクエ…馬鹿な子。」


母は静かに、そう言った。


「自分の体を、よく見てみなさい。」


そう言われ、セクエは自分の体を見下ろした。子供に戻った、小さな体。しかし、今はその他に、もう一つ、おかしなことがあった。


「何…これ…?」


これは、今までもずっとそこにあったものなのだろうか。母の口調からするとそのようだが、ならばなぜ自分は気がつかなかったのだろう。セクエは驚愕していた。今のセクエの体には、太い縄が、絡みついていたのである。それは、体を引きちぎらんばかりに強く締め付けており、手の先にも、胴にも足にも絡みついていた。そして今もなお、ギシギシと音を立てながらセクエの体を締め付けていた。耳障りな音はここからしていたのだとセクエはようやく知った。だが、締め付けられるその痛みは今ははっきりと感じるのに、なぜかさっきまでは何も感じていなかった。


「見えるでしょう?その縄が解けない限りは、あなたはここから出ていくことなんてできないのよ。」


母は言う。


「でも、もういいわ。あなたがそうしたいのなら、そうすればいい。私は止めない。」


そう母が呟くと同時に、セクエを縛っていた縄が自然と解けて地面に落ちた。セクエはもう一度母の目をしっかりと見た。その目は深い悲しみに沈んでいる。


「…ごめん、なさい。」


セクエは謝った。なぜかは分からない。そうしなければならないような気がするのだ。ただ、どうしても理由をつけるとするのなら、それは母にそんな顔をさせてしまったことへの謝罪なのかもしれない。


「謝ることなんて何もないわ。大切なものがあるなら、それを守りなさい。守れなかったという後悔を残してはいけないわ。」


母は言う。自分が知らないだけで、母は生きていたときも、こんなことを言っていたのだろうか。


(もし、許されるなら…。)


もう少しこうしていたい。もっと母のことを知りたい。何も知らないまま殺してしまい、それからずっと嫌い続けてきた母親が、いったいどんな人だったのか、セクエは何も知らないのだ。


「さあ、目を覚まして。守りたいものがあるなら、あなたはもうそれができるはず。私のことは心配しなくていいわ。いつかまた、あなたとこうして話ができる日を、ずっと…ずっと待っているから。」


母はそういって微笑む。本当は泣きたいほど悲しいはずなのに。自分を止めたいと思っているはずなのに。それでも笑っていられる母の強さに、優しさに、セクエは何も言い返せなかった。


周りの風景が歪む。夢が終わるのだ。空も家も道も、全てが混ざり合って真っ黒になっていく。母の顔も歪んで消えていく。だが、セクエはとうとう最後の最後まで、母に声をかけることはなかった。


ーーーーーー


ー……。……エ。…セクエ…。ー


遠くで自分を呼ぶ声がする。セクエの意識は体に戻りつつあった。


ーセクエ…目を……!ー


声が近づく。それとも自分が近づいているのだろうか。


「セクエ!」


セクエは目を開ける。目の前にバリューガの顔があった。


「よかった…。目が覚めたんだな?」


(そっか。私は…眠っていたんだっけ。)


頭がぼうっとする。セクエはゆっくりと体を起こし、息を整えた。


「ごめん、バリューガ。私…また迷惑かけて…。」

「気にすんなよ。こんなのどうってことないさ。おまえが助かったんならそれでいい。」


バリューガはセクエの背に手を当てて、そう言った。その慰めが嬉しかった。思わずセクエは微笑んだが、その瞬間、セクエは魔力を感じ、顔をしかめた。


「まだ…近くにいる。」

「セクエ?」


セクエは立ち上がると、窓を開けてそこから外に飛び出した。


「おいっ!セクエ?まだ動かない方が…。」


後方からバリューガのそんな声が聞こえた。しかし、立ち止まるわけにはいかない。誰かが自分を狙っているのなら、それが誰なのか、確かめないわけにはいかないのだ。


村を出て、夜の森を飛んで進む。夏とはいえ、夜は少し冷え込んでいる。頬を通り過ぎていく空気が冷たい。気配の正体はすぐに見つかった。それは一人のまだ若い男だった。


「私に魔法をかけたのは…あなただね?」


セクエは地面に降り声をかける。男は驚いた様子で答えた。


「ええ、いかにも。私は陛下の命を受けてここへとやって来ました。」

「ということは、私を狙っているのはあなたじゃない、ってこと?」

「そういうことになりますね。面倒なことになる前に、夢の中に沈めてしまおうと思っていましたが…まさかあの魔法が退けられるとは。どうやら一筋縄ではいかないようですね。」


辺りは暗く、男の顔は月光を浴びて闇の中に青白く浮かび上がっていた。その顔がニヤリと笑う。


「さて…私は一体どうすれば、あなたを陛下の元へお連れすることができるのでしょう…?」

「私は誰の所にも行くつもりなんてない。」


セクエは言い放つ。しかし男は表情を変えずに続ける。


「例えば…そうですね。あの村の者たちを人質に取れば、あなたを従えることができるでしょうか?」

「ふざけないで!」


セクエは怒鳴った。


「そんなこと言って。技術も魔力も大したことないくせに。」

「これはこれは、ずいぶんとあなどられたものですね。私はそんなに弱くはありませんよ。あなたから見れば、あなた以外の魔法使いは皆同じに見えるのかもしれませんが、実際には大きな差がある。村に住む者たち全員を操ることも、捕えることも、造作もないことです。…特に。」


と、男は強調して言う。


「あの剣使い、バリューガといいましたか。」


男がそう言うのを聞いて、セクエは自分の鼓動が速まるのを感じた。


「あなたはあの少年にずいぶん心を許していましたね。剣使いなど、操るも殺すも大した手間ではありません。あの少年を殺すと言えば、あなたは素直にこちらの要求に応えてくれるでしょうか。」


そう言った男の首筋に、何かがかすった。木の枝だ。それほど大きなものではないが、勢いが強かったのか、皮が少し切れて血が出た。セクエが魔法を使って投げつけたものだった。


「おや…怒らせてしまいましたか。といっても、私はあなたを恐れたりはしませんよ。」


傷つけられてもなお、男は黙らない。


「あなたは人を殺すことなどできない。深く傷つけることも、精神的な傷を負わせることも。…あなたには、覚悟が足りない。それほどの魔力を持っているというのに、もったいないことです。」


セクエは男を睨みつける。その視線を感じたのか、男は言った。


「もちろん、あなたが本気で戦おうというのなら、私があなたに勝つ見込みなどないでしょう。はっきり言うならば、確実に負けます。しかし、あなたがもし戦うのを拒むというのなら、あなたが私に勝つことはありえない。」


男は両手を広げ、面白そうに続けた。まるで自分を攻撃しろと言わんばかりに。


「さあ、どうしますか?私を殺しますか?」

「私はこの力で人を殺すつもりなんてない。」

「では、私を見逃して、あなたを捕らえようと張り巡らされた罠を、何度もくぐり抜け続けると?…まあ、結果は尋ねる前から分かっていますけどね。」


セクエは目を閉じた。分かっている。この男をこのままにしておくことなどできないことは。倒さなければ、同じことを何度も繰り返すことになるだろう。いつまでも村を巻き込まずにいられるとも限らない。自分のためだけじゃない。バリューガやティレア、村のみんなのためにも、ここでけじめをつけなければならないのだ。


セクエは目を開け、目の前の男を睨みつけた。魔力を集中させ、その男に狙いを定める。だが。


(…やっぱり、できない。)


手が震える。それにつられるように体全体が震え始めた。集中が途切れ、集まっていた魔力が散っていく。セクエは視線をそらし、震えを止めようと両手を握りしめた。


「だから言ったでしょう。あなたには覚悟が足りないと。」


嘲るように男は言う。


「あなたが何もしないのなら、こちらから手を打たせせてもらいましょう。…蔓の束縛レット・ギゼル!」


男の魔力がこちらに向かってくるのが分かって、セクエは身構えた。だが、魔力はセクエを通り抜けてしまった。後ろでピシッと音がする。蔓が何かを絡め取ったようだ。それと同時に人間の呻く声が聞こえた。


(まさか…?)


「どうやら、あなたを追いかけてここまで来ていたようですね。その本人に気づいてもらえないとは、この少年も運がない。」


セクエはゆっくりと後ろを振り返った。すぐ後ろで蔓に巻きつかれ、地面に縛り付けられていたのは、やはりバリューガだった。バリューガは完全に身動きが取れず、かろうじて声だけは出せるものの、喉を強く締め付けられているらしく、出るのは呻き声だけだ。


「私は別に被害者を出したいわけではありません。いくら剣使いとはいえ殺すのには抵抗がある。大人しく私の指示に…」

炎の刃ヴァナス・シュテート。」


男が言い終わるのを待たずに、セクエは唱えた。魔力が炎に変わり、絡みつく蔓を切り裂き、焼き切っていく。喉を縛る蔓が切れると、バリューガは苦しそうに咳き込んだ。セクエは男を振り返って言った。


「もう、許さない…。」

「おや、やる気になったということですか。あの少年に何があるというのか、私にはさっぱり分かりませんが。」


セクエは唱える。


火炎魔法ヴァナス水魔法カルス!」


男の正面に炎、背後に水の塊が現れ、男の体を挟むように衝突する。炎の熱で水が一気に蒸気に変わり、軽い爆発が起こった。しかし、男は二つの魔法がぶつかる寸前、浮遊魔法を使ってそれを避けた。


「なるほど、凄まじい威力ですね。その点において、私があなたにかなう可能性は皆無だ。」


空中で静止したまま、男は言う。


「しかしこの勝負…どうやら私の勝ちのようです。」


男がそう呟くのとほぼ同時に、セクエが放った魔法に変化が起こった。蒸気が再び集まって水になり、大きな流れになってセクエに襲いかかったのだ。


(そんなっ、どうして?私は、何の命令も…。)


考える前に体が動いた。両手を前に出し、自分の前に結界を作り出す。流れは結界にぶつかって二つに分かれ、その後ろにいたセクエとバリューガには当たらなかった。


「どうなってるの…?」

「おやおや、分からないのですか?あなたは並外れた魔力があるだけで、知識も技術もほとんど持っていないようですね。」


男がセクエを見下ろしながら言う。


「あなたの魔力は怒りによって増幅され、制御しきれないまま魔法として体外へ放出されてしまった。制御できない魔法はあなたの指示とは無関係に動き出す。すなわち暴走。…あなたはもう、自力でこの魔力を止めることはできない。」


セクエの上で男はそう続けた。セクエはすぐに振り返り、バリューガに声をかけた。


「バリューガ、村に戻って!」


しかし、セクエが振り返ってバリューガを見てしまったことで、暴れていた魔力は次の標的をバリューガに定めてしまった。セクエもすぐそれに気づいたが、魔力たちの動きはセクエが反応するよりもはるかに速かった。


セクエのすぐ目の前で、今ようやく起き上がったばかりのバリューガに魔力の塊が襲いかかった。バリューガはそれをもろに受け、再び地面に倒れこんでしまう。


「バリューガっ!」


セクエは駆け寄ろうとしたが、魔力は強い風に変わり、セクエを押しのけてしまう。そうしている間にも、魔力はあちこちで炎や雷に変わり、暴れまわる。炎が木に燃えうつり、炎に包まれる。雷がぶつかり、地面を焦がす。


セクエは魔力を抑えようと目を閉じたが、それでも魔力は静まってはくれない。気がつけば、森は見渡す限り火の海だった。魔力は炎、氷、風、光、水や影など、様々な形になって狂ったように暴れていた。


セクエは呆然としてその場に座り込み、空を見上げた。あの男はもういない。危険を感じて逃げたか、あるいは魔力によって殺されてしまったのかもしれない。


「ああ…。」


壊れていく。何もかも、自分のせいで壊されていく。自分はなんと馬鹿だったのだろう。これほどの危険を秘めていながら、人間のようになりたいだなんて。自分はもうずいぶん前から、すでに化け物だったのだ。少し怒っただけで全てを壊してしまうほどの危険な存在だったのだ。たったそれだけのことで、森を焼き、友達を殺してしまうような存在だったのだ。


「誰か…」


セクエは呟く。


「私を止めて…。私を…」


その目から涙が溢れ、頬を伝って流れた。


「殺して…。」


しかし、その声を聞くことができる者などいなかった。この森に、すでに生き物などいないだろう。いたとしても、すぐに魔法が殺してしまうだろう。流れた涙は雫となって落ちるより先に、炎の熱で乾いてしまっていた。


ーーーーーー


「おい、セクエ!」


バリューガは声をかける。セクエが目を開けたのだ。


「大丈夫か?」


しかし、セクエはそれに答えない。虚ろな目は天井を見つめているだけだ。


「しっかりしろ!セクエ!」


その声に応えるように、セクエの目がバリューガを向く。しかし、それでもその目には何も映っていない。バリューガは思わず黙り込み、その目に見入ってしまった。恐ろしいほどに何もない。なんでも飲み込んでしまう大きな穴が空いているかのように見えた。


バリューガがしばらく動けないでいると、セクエは突然起き上がり、走って部屋から出ていってしまった。バリューガも慌ててそれを追いかける。


(やっぱり、操られちまったのか?だとしたら、オレはどうすればいい?)


分からないまま走り続けた。セクエはやがて森に入り、糸で引かれるようにまっすぐに進んでいく。白い髪が月の光に照らされて銀色に光っていた。バリューガはそれを追いかけて走っていたのだが、夜だけあって、辺りは暗い。わずかな月の光だけを頼りにしていたためか、木の根につまづいて転んでしまった。


すぐに立ち上がって追いかけようとしたが、バリューガは立ち上がったところで動きを止めた。目の前に誰かがいることに気づいたからだ。


月の光でなんとか見える限りでは、相手の体格は自分とさほど変わらない。しかし特徴的だったのは、顔の上半分を何かで隠していたことだ。光を反射しているところを見ると、どうやら金属製の仮面のような物らしい。それに隠されて顔は分からない。だが、自分の邪魔をしようとしていることだけは分かった。


「これ以上、彼女を追いかけるのはやめていただきましょうか。剣使いの少年よ。」


バリューガの考えを裏付けるように人影はそう言った。声からして、男のようだ。バリューガは魔道具を構えて言い返す。


「あいにくだが、そう簡単に諦めるわけにはいかねえんだよ。あいつはオレの友達なんだ。」

「そうですか。では、私はあなたを止めなければならない。」

「望むところだ。」


バリューガがそう言うと、男は魔力を放った。魔力が魔法に変わる前に、バリューガは魔力がどこにあるのかを感じ取ると、それを次々に切って消していった。


「こんなことに、時間なんてかけてられねえんだよっ!」


バリューガはそう叫ぶと、男に走り寄り、その顔に刃を突き立てた。ガチィン、と嫌な音が響いた。


(光の刃が、止められた…?)


バリューガがそのことに驚いていると、突然腹に衝撃が来た。バリューガが男の放った力魔法で勢いよく後ろに飛ばされると、男はその場に片膝をついて座り込んだ。


「うっ…くっ…!まさか、いきなり顔面を狙うとは…なかなか、度胸のある少年だ…。」


男は左手でヒビの入った仮面を押さえていた。その指の隙間から血が流れているのが見えた。


(そんな…この魔道具は人を傷つけられないのに。)


どうやら、あの仮面は顔を隠すためのものではなく、その下の顔を守るためのものだったようだ。光の刃を受け止めたことも考えると、何かの魔道具だったのかもしれない。


「フ…フフ…。ですが、しかし、これだけ時間を稼げれば十分。あなたはもう、あの少女に追いつくことなどできないでしょう…。」


バリューガは顔をしかめる。確かに、セクエの気配はバリューガではもうほとんど感じられないほどに遠い。今から走って追いかけても、追いつくことはできないだろう。バリューガは唇を噛み締めた。


「それでは、また縁があればお会いしましょう。」


男はそう言って転移魔法で消えた。辺りにはもう何の気配も無い。


(くそっ…オレは、また…!)


また何もできなかった。恩を返したいだとか、助けてやりたいだとか、そんなことを言っていたくせに。セクエは遠くへ行ってしまった。自分はそれを追いかけることもできないのか。


バリューガは右手首にはめられた腕輪をそっと撫でた。


(ごめん…セクエ。オレは、またお前に何もしてやれなかった…。)


やるせない気持ちになって、バリューガは地面に拳を叩きつけた。地面とぶつかったところが鈍く痛んだ。


ーーーーーー


男は転移を終えると、少女の姿を探した。辺りを見回すと、自分から少し離れたところで倒れていた。男はセクエに近づき、気を失ったままであることを確認した。


「やはり、操れていなかったか…。」


この少女、セクエを操った魔法は、使用できる範囲が限られている。自分からある程度離れると、その体は支配を抜け出し、こうして倒れてしまうのだ。こうなってしまえばもう操ることはできない。


あの少年には追いつけないのだと嘘をついたが、それが嘘だとは気づかれていないだろう。剣使いはたいした魔法の知識は持たないし、そもそもこんな辺境の村では夢催眠の魔法が認知されているかどうかさえ危うい。


少女をまじまじと見ていると、不意に顔を強い痛みが襲った。思わず手で押さえて呻く。その手には血が付いていた。


「危ない…。すぐに、応急処置を…。」


男はすぐに治癒魔法をかけて、痛みを和らげ、血を止めた。だが、この顔の傷は決して治らない。生まれつきの病で、何もしなくても顔の皮膚が炎症を起こし、出血してしまうのだ。しかも放っておくと範囲が広がっていく。普段は仮面型の魔道具で病の進行を抑えているが、それが外れたり壊れたりすると、出血とともに激痛が走る。


「すぐにでも国に戻り、新しく魔道具を作ってもらう他はない、か。」


男は少女を再び見た。呼吸に合わせて胸が上下している。おそらく、まだ夢を見ているのだろう。その様子を見ていると、いくら命令とはいえ、あんな悪夢を見せてしまったことに胸が痛む。


白い髪をした、セクエという名の少女。男はそれしかセクエのことを知らなかった。人前に出る時は髪を黒く変えていたため、一見すると他の子供と区別がつかなかったが、それでもその魔力の大きさで、だいたいの見当はつけることができた。


初めてその姿を見た時はあまりの魔力の大きさに驚いたが、それはうまく隠されていて、村の他の人たちは気づいていないようだった。男も魔力を感じ取ろうとしていなければ気がつかなかっただろう。


「しかし、陛下はどうして彼女を…?」


確かに、大きな魔力は魅力的だ。戦力になるし、何かを守ることもできる。その他にも使い方はいろいろあり、男の国では、魔力は多いに越したことはないと言われていた。だが、それでも。


「まだほんの子供じゃないか。連れて来いとしか陛下は言われなかったが、一体何を考えておられるんだ…?」


倒れたままの少女の顔は、あまりにもあどけない。確かに少女とは聞いていたものの、それはあくまで『どちらかと言えば少女』なのであって、そろそろ大人になりかけているような、具体的に言うなら十八、十九くらいの年齢だと思っていた。だが、彼女はとてもそうは見えない。高く見ても十六歳、低く見れば十三歳くらいだろう。そんな幼い少女に、一体どんな用があるというのか…。


(いや、考えて分かることではないな。今は、一刻も早く国へ帰らなければ。)


男はセクエを連れて再び転移した。


ーーーーーー


大陸カロスト。シンシリアの東に位置するその大陸は争いの絶えない大陸である。シンシリアでは、剣使いと魔法使いは互いに関わりを持たないことで互いを拒絶しているが、カロストでは互いに争い、殺し合うことで互いを拒絶しているのだ。


男の住む国は、その大陸の北部に位置する大国だ。この国の人口の多くを占めるのは魔法使いだったが、それでもわずかに剣使いが住んでいた。この異なる二つの種族は、時には言い合いや喧嘩を起こすこともあったが、それでも互いに協力し合って生活を送っている。二つの種族が同じ国の同じ町で生活するということはカロストの他の国々と比べても珍しいことだった。


また、民の多くは争いを好まず、大きな戦争もしたことがない。かといって王は兵の訓練を怠ることはなく、いざという時のために兵力を蓄えている。


さて、先ほど言ったように、この国の民の大多数は魔法使いだ。しかし、この国では魔法使いという言葉は使われない。魔法は使うものではなく、そのあり方を導くものだという考えがあるからだ。そのため、この国では魔法使いのことを、魔法を導く者、すなわち魔導師と呼ぶ。その国の名は魔導師の国、魔導国。その国の王は、魔導王と呼ばれていた。


ーーーーーー


男が玉座の間に転移したとき、王は玉座の後ろにある大きな窓から町の景色を眺めていた。この部屋は、本来であれば腕利きの兵士達がずらりと並び、王の身を守っているはずなのだが、今はこの部屋には王と男、そして気を失っているセクエ以外は誰もいない。兵を置くことは相手を信用していないということ。それでは相手の信頼を得ることはできないのだと、王はそう言ったのだ。もちろん緊急の場合はすぐに駆けつけることができるよう、この部屋には兵を転移させる装置がある。しかし、今のところそれが使用されたという実例は無い。


「魔導国王補佐グアノ、ただいま戻りました。」


男は国王に声をかけた。男の名はグアノといった。魔導国王補佐、それがグアノのこの国での役職だ。つまり国王直属の家臣のことである。補佐という名目だが、その任務は王の外出時のお供、護衛から、政治の助言まで多岐にわたる。その身分は高く、国の中では王室の者に次ぐ、あるいは同等の権限を持つとされている。歴代の魔導国王補佐は、身分の高い貴族から出されることが多かったが、しかしグアノは貴族ではなかった。


「来たか。」


王は振り返ると男に言った。王はグアノに近づくと言った。


「顔を上げよ。グアノ。」


グアノは顔を上げた。仮面越しに目が合う。背筋がすっと冷える。王の持つ独特の威厳、とでも言うのだろうか。そばにいるだけでは何も思わないが、こうして目を合わせるとその雰囲気に飲み込まれそうになる。グアノは、この時ばかりは自分が仮面をつけていてよかったと思えた。おそらく今の自分の顔は、血の気が引いて青白くなっているだろう。そんな姿を王にさらすなど、恥ずかしくてとてもできることではない。


「魔道具が壊されている。…そなたにはだいぶ無理をさせてしまったようだな。すまない。」


王は顔を覗き込むなりそう言った。グアノは慌てて答える。


「とんでもありません。これは、自らの不注意によって起こったこと。決して陛下がお謝りになることではございません。」

「…そうか。」


と、どこか暗い表情で王は答えた。


「ヒルシャの所へ行き、魔道具を作り直してもらえ。傷口を手当してもらうことも忘れないようにな。」

「そんな…ヒルシャ様は陛下の主治医をしておられる方。わたくしなどが手当をしていただくなど、滅相もありません。」


グアノはそう言って断った。だが、王は引き下がらなかった。


「良いのだ。私が許可する。そなたは私にとってなくてはならぬ存在。その病を悪化させるのは、私としても困るのだ。彼女の所で、きちんとした手当をしてもらえ。」


王の口調は優しく、決して怒っているわけではないことが分かる。陛下が自分を気遣ってくださっている。この気遣いをわざわざ無駄にすることもないのかもしれない。


「…分かりました。お心遣い、感謝いたします。」


グアノはそう言って頭を下げた。


「この少女のことは、あとは私一人で十分だ。そなたはすぐにヒルシャの所へ行け。」

「…それでは、失礼いたします。」


本来ならば、それも自分が引き受けたいところなのだが、もうこれ以上陛下に何を言っても聞き入れてはくれないだろう。そう思って、グアノは何も言わずに玉座の間を出た。


治療室に着くと、グアノが何か言う前に、ヒルシャの方がこちらに気づいて声をかけてきた。


「あらあら、グアノ様。また、何か無理をしたんですか?」


心配そうな、呆れたような声を出した彼女は、そろそろ五十になろうかという年齢の女性だ。立場は王の主治医でありながら、王城での怪我人や病人を診ることになっている他の医者達を束ねる存在でもある。グアノはこの王城で働き始めた幼い頃から彼女の世話になっていた。


「陛下から、あなたに診てもらえと言われたのです。」

「そうですか。魔導王陛下は本当にグアノ様のことを大切に思っていらっしゃいますからね。診察した回数もグアノ様の方が多いくらいで…。」


今は治療室には誰もいない。本来であれば、国王補佐のグアノには国王と同様の接し方をしなければならない。だが、ヒルシャは敬語を使ってはいるものの、昔の友人に話すような口調でグアノに話しかける。ヒルシャはグアノを椅子に座らせ、仮面を取った。


「…あら、これはまただいぶ…。そこに横になっていてもらえますか?」


ヒルシャは険しい顔をしてそう言うと奥へ行き、戸棚を開け、薬を探し始めた。グアノは言われた通り横になる。


(これはまただいぶひどい状態だ、と言おうとしたのだろうな。)


グアノはそう思った。ヒルシャはすぐに戻ってくると、瓶の蓋を開けながら言った。


「では、薬を塗りますから目を閉じて。しみるのは我慢してくださいね。」


グアノは目を閉じる。だいぶ腫れているのだろう。ヒルシャに触られる感覚に違和感があった。なんだか自分の顔の上に、厚い布がかけられているような感じがするのだ。また、傷もできているのだろう。強い痛みが走り、グアノはまぶたに力を入れた。


「痛いのは分かりますけど、あまり顔をしかめないでください。シワがよって傷ができてしまいますから。」


ヒルシャが声をかける。グアノはできるだけ表情を変えないようにしなければならなかった。一通り塗り終えるとヒルシャは体を起こさせ、包帯を巻いた。その後再びグアノを横たえると、今度は瓶の蓋を閉める音と、ヒルシャが棚に瓶を戻しに行く足音が聞こえた。


「薬は塗り終えましたけど、しばらく目を開けてはいけませんよ。何かがぶつかるとわるいので、起き上がることも控えてください。」


ヒルシャが言う。


「ですが、それでは…。」

「病が悪化してしまえは元も子もないでしょう?それに、魔道具も新しく作り直さなければなりません。陛下にはお休みをいただけるよう、私から話しておきますから。」


なんだか申し訳なくなってしまい、グアノは黙った。ヒルシャはグアノの側に戻ると話し出した。


「こうしてグアノ様の治療をしていると、グアノ様が初めて王城に来た時のことが思い出されます。」

「ええ…あの時の私は、何も知りませんでした。この石造りの大きな建物が何なのか、自分の手を引いてくれた少年が誰なのかさえ知らない、無知な少年でした…。」


懐かしむようにグアノは言う。


「ただただ驚いて、私はその少年に引かれるままこの城へと入り込んだのです。」

「驚いたのは私だって同じですよ。まだ幼い王子だった頃の陛下が、弟君とたった二人で供もつけずに城を出て、しかも血で顔が真っ赤に染まった子供を連れてお帰りになったのですから。」

「ここが王族の住む城で、あの少年が王子だと知った時は、自分は一体何をしたのかと不安になりました。私の中で王族は、高いところで自分たちを見下す存在でしかなかったものですから。自分は悪事を罰されるために連れてこられたのではないかと思ってしまいましたよ。今考えれば、なんと無礼な考えだったことか。」

「それも仕方ないでしょう。あなたは貧困層の生まれだったんですから。王族のことも、この城のことも、知らないのが当然だったのですよ。」


フッ、とグアノは口だけで笑った。


「だからこそ、私は陛下についていくと決めたのです。身分も低く、住む家も家族もなく、病に冒されていた私を拾い、介抱してくださった恩は、一生かけても返しきれない、深いものでした。そんなことは分かりきっていたのに…下働きから初めて、いつの間にかこんな地位まで上り詰めてしまいました…。」

「そうですね…。あら、いけない。陛下にグアノ様の容態を伝えてこなくては。私は行きますけれど、くれぐれも動き回ることのないようにしてくださいね。」

「ええ。分かっています。」


ヒルシャの足音が遠ざかり、部屋から出て行く。部屋は急に静かになり、扉の向こうを歩く誰かの足音が時々聞こえるだけだった。


(少し眠ろうか。どうせ何もすることはないのだから。)


そう思った途端、睡魔が襲ってきた。セクエを連れてくるのに思いのほか魔力を使ってしまった。疲れが溜まっていたのだろう。グアノは夢も見ない眠りへと落ちていった。


ーーーーーー


魔導王はセクエを客室に連れてくると、その部屋のベッドにセクエを寝かせた。そして一つため息をつく。


(グアノめ…だいぶ手荒にやったようだな。私は連れて来いとしか言わなかったというのに…。)


いや、むしろそれが悪かったのかもしれない。はっきりと、相手を傷つけないようにと言い添えておけば、こんなことにはならなかったのだから。


(目覚めたら、まず何よりも先に謝らねばならないな。無理やり連れ去られるなど、どれほど深い傷を心に負ったか分からない。それに、この魔法…。)


夢催眠の魔法。相手を夢の中に閉じ込めることで体の支配を奪う魔法だ。本来であれば、目覚めたくなくなるような幸せな夢を見せるのが一般的なのだが、どういうわけだか、この少女が見ているのはかなりの悪夢のようだ。うなされてはいないものの、セクエから感じるわずかなグアノの魔力がそれを伝えている。これではしばらく目覚めそうにない。


さてどうしたものかと考えていると、魔力が近づいてきた。警戒するものではない。感じ慣れた魔力だった。その魔力が扉の前で止まると、誰かが扉を軽く叩いて声をかけた。


「兄上?こちらにおられるのですか?」


王は立ち上がり、扉の側に立って答えた。


「ツァダルか。なんだ。」

「こんなところで何をしておられるのです?誰か客人でも?」

「ああ。まあ、そんなところだ。私が個人的に用があって呼んだ。それで、何の用だ?」

「ああ、ヒルシャから伝言を預かっておりまして。グアノのことなのですが、手当はしたが、しばらく安静にした方がいいため、しばらく休みをいただきたいと。」

「そうか。構わないと伝えておいてくれ。」

「はい。」


ツァダルの気配が遠ざかる。十分な距離まで離れると、王は近くに誰の気配もないことを確認して言った。


「…まずは、謝るべきなのだろうな、セクエ。手荒な手段でここまで連れてきてしまったのは、私の指揮能力の低さのせいだ。心から詫びよう。申し訳なかった。」


王は、はっきりと感じていた。セクエが立ち上がり、自分の首筋に何か凶器となるようなものを突きつけていることを。まだ目覚めないという考えは大きく外れていたらしい。王は扉の方を向いているので、セクエがどんな体勢で何を持っているかは分からない。だが、その魔力の全てが自分に向いていることだけは、見なくても感じることができた。


王が謝ったことで、セクエは警戒を緩めたのか、首筋に突きつけていたものを離した。王はゆっくりと振り返ってセクエと向き合うと、話しだした。


「名乗ろう。私はこの国、魔導国の国王リガル。」


セクエはリガルを睨みつけていた。何も持っていない。さっきまで持っていたはずの凶器はどこへやったのだろう。まあ、これだけの魔力があれば、魔法で何かを作り出すこともできるもしれないが。


セクエは黙っている。少しは警戒を緩めたかと思っていたが、そんな事はなかった。全身から殺気がにじみ出ている。


(まるで、獣のようだな…。)


気を抜けば殺されることが分かっている野生の獣。見知らぬ相手には容赦なく敵意をむき出しにする獣。そんな印象を受けた。


「まずはじめに言っておこう。私は決してそなたを利用しようだとか、殺そうなどとは考えていない。ただ、会って話をしたいと思っていただけなのだ。最終的に、利用するという形になってしまうのかもしれないが、それはそなたの意思に任せようと思っている。私は決して、悪意を持ってこのようなことをしたのではない。」


リガルがそう言うと、セクエはゆっくりと警戒を緩めていった。しかし、睨みつけたままの視線は変えない。それはまるで、私はいつでもあなたを殺せるんだ、という警告をしているかのようだった。


「話って、何?」


セクエは低い声で言った。その威圧に思わず黙り込みそうになったが、リガルは答えた。


「簡潔に言おう。私の隣に立つ気はないか。私の隣で、同じ景色を見る気はないか。」


すると、セクエはリガルの目から視線をそらし、胸のあたりをじっと、食い入るように見つめた。


「…嘘はついていないみたいだね。今言ったことにも、さっき謝ったことにも、嘘が混じっていない。」


セクエはそう言うと、ようやくリガルを睨みつけるのをやめた。リガルは唾を飲む。もともと嘘をつくつもりなどなかったが、嘘がないと断言されると、もし嘘をついていたらどうなっていたかと考えてしまう。


「嘘をつくことは、信頼を自ら切り捨てるということだ。私はそんな王になりたくはない。」

「…そう。」


セクエは目を閉じ、そして大きく息を吐き出した。その後再び目を開け、申し訳なさそうに言う。


「ごめんなさい。首筋に槍を突き付けたりして。あと少しで、殺してしまうところだった…。」

「だが殺していない。それで十分だろう。」


セクエは黙ってリガルの目をじっと見つめていた。睨んではいないし、殺気も感じないが、その体から発する魔力はやはり凄まじい。今にも飲み込まれてしまいそうな恐ろしさを感じた。


「それで、隣に立つって、どういうこと?」

「それは…そうだな……。」


リガルは言葉に詰まった。自分でも何を言おうとしていたのかが分からない。言おうと思っていたことをうまく言葉にできないのだ。


「…すまない。まだうまく、言葉にできないのだ。連れて来させておいて失礼とは思うが、どうか少し、時間をもらいたい。そなたも、精神的にかなりの疲労があると見える。お互いに、時間を取ってからまた会おうと思うのだが、それでも構わないか?」


セクエは何も言わずに頷いた。リガルは続ける。


「この部屋はしばらくそなたのためにとっておこう。城の者にもそう伝えておく。何か用があるなら、部屋の隅に置いてある魔道具で人を呼んでくれ。では、失礼する。」


リガルはそれだけ言って部屋から出た。かつてないほどの胸の高鳴りを抑え込めず、思わず口元が緩んでしまう。


(きっと、あの少女なら、私と同じものが見えている。私と同様に、抑えきれぬほどの魔力を持つ彼女なら。これでようやく、私の胸の中で引っかかるこの思いが何なのかが分かる。)


リガルは一つ息を吐いて気持ちを落ち着けると、グアノの様子を見るために治療室に向かった。


ーーーーーー


セクエはリガルが部屋から出た後も、しばらく扉を眺めていた。彼は飲み込まれそうなほど大きな魔力を持っていた。恐ろしく、大きな力だ。


(メトに…そっくりだ。)


あれほど大きな魔力は、今までメトくらいしか会ったことはない。わざわざ自分を呼んだのは、やはり大きな魔力を持っているからなのだろうか。


(いや、そんなこと、確かめるまでもないか。)


彼が嘘をついていないかどうか、セクエは読心術を使って調べていた。その時に、はっきりと見えた。言い表しようのない大きな不安と恐怖が胸の中で渦を巻いていたのだ。そして自分と会うことで、一種の希望を見出していたように思う。深く見ることはできなかったが、彼はその不安を自分に伝えたいのだろう。それにどんな意味があるのかは、分からないが。


(バリューガたちは、心配してるだろうな。いくら手違いとはいえ、自分はこの国に連れ去られたんだから。)


ひとまず戻りたいと思ったが、わざわざ行き来するのも面倒だ。話を聞くだけ聞いて、それから少し時間をもらおう。隣に立つ、という誘いを受けるかどうかも考える時間が必要になりそうだ。セクエはやけに広い部屋の隅に置かれたベッドに腰掛け、故郷を思った。


ーーーーーー


フィレヌは森にいた。バリューガに付き合って、セクエを探していたのだ。朝から始めて、もうそろそろ昼になろうかという頃だった。


「あのう…。」


その小さな声にフィレヌは振り向いた。ティレアだ。彼女も協力を頼んだ。人は多い方がいいと、バリューガがそう言ったのだ。ティレアはトモダチとかいう分身をあちこちに飛ばし、セクエの居場所を探していた。フィレヌにはその姿は見えなかったが、魔力の塊であるので、その存在だけは感じ取ることができた。今はティレアの周りにはトモダチはいないようだった。


「なんじゃ?」

「その、言いにくいことなんですけど…。」


ティレアが自信なさげに呟く。


「これだけ探してもいないんじゃ、やっぱり、この辺りに、もうセクエさんは…。」

「それ以上は言ってはならぬ。」


フィレヌはセクエを止めた。


「そんなことは、わらわも分かっておる。」

「それなら、なんでバリューガさんにそう伝えないんですか?」

「バリューガもとうに知っておるじゃろう。」


そう答えると、あからさまに嫌そうな顔をする。どうやらこの少女は無駄なことが嫌いなようだ。もっと何か意味のあることをしていたいのだろう。


「それなら、なんで…。」

「まあ、バリューガはそういう奴なのじゃろうよ。無駄と分かっていても、何もせずにはいられないのじゃ。気がすむまで付き合ってやろうではないか。」


フィレヌはなだめるように言う。


「そんなこと言われても…。」


フィレヌはブツブツと独り言を言いだしたティレアを無視して、昨夜のことを思い出していた。


セクエは、やはり何者かに連れ去られてしまったらしい。それは、ひどく落ち込んで帰ってきたバリューガと遠ざかる魔力で分かった。魔法の技術から見て、相手がカロストの人間であることは間違いない。とはいっても、カロストには多くの国があり、そのほとんどが戦争をしている。どの国も戦力を求めていることを考えると、どの国がセクエをさらったかは分からない。さらに悪いことは、シェムトネとカロストは遠すぎて、助けに行くどころか、往復だけでも難しいということだ。


だがそれでも、なんとか連れ戻す方法を考えねばなるまい。もし仮にセクエが利用されるとして、それはセクエが望まないことであるのは間違いない上に、甚大な被害が出るだろう。セクエのことも心配だったが、それ以前に故郷の地が荒らされるのは嫌だった。いくらもう住んでいないとはいえ、その土地はフィレヌにとっては大切な所なのだ。


そういえばバリューガは、連れ去ったのは男で、しかも顔を仮面で守っていたと言っていた。それはまた特徴的な人物だ。魔獣の可能性もあるかと考えたが、バリューガならば魔法使いと魔獣の区別はつくだろう。その男はもしかしたらどこの国か分かるかもしれない重要な手がかりだ。セクエという、魔力だけは膨大にある少女相手に、一人ではるばるここまで来たということから考えて、かなりの実力があることは間違いない。さらに仮面をつけて顔を守っていたとなれば、人物はある程度は絞り込める。といっても、フィレヌが知っているのは故郷で話したあの青年が言っていたことだけなので、その情報をあてにしていいのか分からないし、そもそもあまりはっきりとは覚えていないのだが。


「仮面…。仮面、か。」

「フィレヌさん?」


(確か、言っていたような気がするのう…。仮面をつけていて、王のそばで働く者がいるとかいないとか…。どこの国の話じゃったかのう?)


「どうしたんですか、フィレヌさん。ぼうっとしちゃって。」

「何か思い出せそうなのでな…。何かが引っかかっておるのじゃが。」


はあ、とティレアがため息をつく。


「そうですか…。私、もう帰りますね。私がこれ以上ここにいても、何もできないと思いますし…。家で何かできそうなことを考えることにします。」


トモダチが戻ってくるのを確認しながらティレアは残念そうに言う。


「まあ、せめて少しでも平和な国に行ってくれてたらいいんですけどね。」

「そうじゃのう…。」


ティレアはトモダチを連れて帰っていく。


(平和な国、か。可能性はかなり低いのう。カロストで平和というと…。)


「あ。」


フィレヌが呟く。ティレアが振り返った。


「どうかしましたか?」

「そうじゃ。平和な国じゃ。」

「……?」

「仮面の男が王に仕えておるという国じゃよ。確か、魔導国といったかの?」


ティレアは疑うような視線をフィレヌに向けた。


「本当なんですか?カロストって、戦争をしている国が多いって言ってたじゃないですか。」

「確かにそうじゃ。しかしその中にも、例外は存在するのじゃよ。民も本当は殺し合いなど望んではおらぬのじゃから。もしさらわれたのがその国ならば、それほど心配することは無かろう。あの国は建国当時から平和と平等を政治の念頭に置いていると聞く。カロスト唯一の安全地帯と呼ばれるその国ならば、セクエが一方的に利用されることなどあるまい。」


その説明を聞いて、ティレアの顔が輝く。


「じゃあ、それって…!」

「まあ、可能性の一つ、ということじゃがの。」


フィレヌはそう言って、ティレアに無理な希望を抱かせないようにした。最悪の事態はいつでも考えていなくてはならない。小さな希望に全てを託すのは愚策だ。


(最悪の場合、わらわが直接カロストに向かうことにもなるかもしれぬ。)


ただ単に戦力を欲してセクエを連れ去ったのであれば、セクエがそれに反抗するのは簡単だろう。しかし、そこまで分かっていてセクエを利用しようというのなら、どんな手を使うか分からない。意思を乗っ取るか、騙して従わせるか、はたまた力だけを取り出して利用するか…。何が起こるかは分からない。カロストには手荒な人間が多いのだ。


(どちらにせよ、このまま探し続けるのも無駄か。わらわも少しは頭を使うとしようかの。)


ーーーーーー


バリューガは地面の上に大の字で寝ていた。頬の辺りを草が撫でるのがくすぐったかった。だが、セクエは見つからない。気配さえ、どこにも感じないのだ。バリューガは呆然としていた。体に力が入らないような感じがして、姿勢を変えるのさえ面倒だった。


(あーあ。こんなことしてたってダメだって、分かってんのに。)


でも、何ができるというのだろう。


(いや、俺にも何かできるはず。)


バリューガは右手に目をやった。この腕輪がセクエと自分を繋いでいる。ふと頭をよぎった考えがあった。


(この腕輪をうまく使えば、セクエがどこにいるか、わかるかもしれない…。)


バリューガは体を起こす。そして腕輪に触れた。うまくいかないかもしれない。だが、それでも、やってみる価値はある。


バリューガは目を閉じた。魔法の使い方なんてものは分からないが、魔道具なら使い慣れている。それと同じ感覚で、しかし、それよりもずっと強く念じた。


(セクエ…どこにいる?)


腕輪はひんやりとした冷たさを伝えるだけで、何の返事も返ってこない。だがそれでも、バリューガはやめなかった。これが自分にできる唯一のことだと、そう信じて疑わなかった。

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