#1 不自然な夢
バリューガは剣を振るう。剣といっても、セクエがくれた魔道具であって、鉄でできた剣ではない。
今は夏の真っ盛り。雪が降り積もる冬とは正反対に、夏はとにかく暑い。村の人々は熱のこもる家の中から出ているので、村はいつも以上に活気があった。正確に言うならば、日陰の多い森の中に人がいるので、村自体は静まり返っている。バリューガもそれにならって森の中にいた。
バリューガは一旦手を休め、ひたいに浮いた汗を拭った。バリューガは最近、剣を振り回している。と言うのも、することがないのである。いや、逆に言えば、剣を振っていたいのである。先ほどは振るうと言ったが、それは使いこなすと言う意味ではなく、ただ単に振っているというだけなのだ。
汗を拭いて、バリューガは続きを始める。何も知らない人から見れば、その様子は危なっかしくて見ていられないのだが、本人としては、これでも剣術の練習のつもりだ。だが、本人に剣術の経験がない上に、やりあう相手もいないので、自然と一人で剣を振り回すという奇行になってしまうのだ。
剣を振りながら、バリューガは、この剣が鉄でなくてよかった、と思っていた。なにせ森の中である。普通に考えれば木が邪魔でとても振り回すことなどできない。だが、この剣は生き物を切れないようにできている魔道具だ。どんなに振り回しても、刃は木の幹をすり抜けてしまうため、体だけぶつからないように気をつけていればそれでいい。
剣を振り上げ、振り下ろし、振り返って後ろを切る。その時、バリューガは振り返ったところに人がいるのに気がついて、驚いて手を止めた。
「あ、危ないじゃないですか!気をつけてくださいよ。」
そう言ったのはティレアだった。その周りではトモダチがそわそわとしている。特にフィラは怒っているようで、小さな目でバリューガをジッと睨みつけていた。
「ああ、ごめんごめん。つい夢中になっててさ。」
そう答えて、バリューガは刃を消す。あと少しで切ってしまうところだった。いくら生き物が切れないとはいえ、当たってしまうと嫌な気分になるし、頭に当たると気絶してしまう。そうなると当然のことながら、しばらく目覚めない上に、自分はトモダチから総攻撃を受けることになっていただろう。当たる直前で止められたと言うことは、こう見えて剣を振っていた成果が出てきているのかもしれない。
「にしても、疲れないんですか?こんなに暑いのに。バリューガさん、かなり汗かいてますよ。」
「別に平気だよ。それに、この村だと魔法が使えないのはオレだけだろ?オレは頭を使うのは苦手だから、せめてこうして体だけでも動かしてないと、何もできなくなっちまうよ。」
「だからって、休憩も無しにそんなことしていたら、いつか倒れてしまいますよ?」
「うーん…じゃあ、そろそろ休憩するか。」
バリューガはそう答えて近くの木の根元に腰を下ろした。ティレアは持っていたカバンから水筒を取り出した。
「自分用に持ってきたんですけど、よかったら飲んでくださいね。」
「おお、ホントか?ありがとな!」
ありがたくいただく。バリューガは飲み水を持っていなかったので、こういう差し入れをしてくれるのは本当に嬉しい。
「バリューガさん、ちょっと、その魔道具を触らせてもらってもいいですか?」
バリューガは何も言わずにティレアに魔道具を手渡した。ティレアは興味深そうにそれをじっと眺め、刃を出したり消したりした。
「なんかあるのか?」
「あ、いえ、そういうことじゃないんですよ。えっと…なんて言うか、私が作る魔道具とは、少し性質が違うと思って…。」
「何がだよ?」
魔道具を使っているバリューガからしてみれば、ティレアの魔道具もこの剣も同じ魔道具だ。だが、魔道具を作る側の人から見ると、何か違うのかもしれない。
「私が作る魔道具って、指輪とか、腕輪とか、そういった魔道具じゃなくても成り立つものに魔力を込めているんですよ。」
「ああ、そういえばそうだな。」
「でも、この魔道具って、刃を出していない間は、何か分からないじゃないですか。装飾品じゃないし、何かの道具でもない。つまり、この道具は、魔道具にするために作られた道具なんだなあって思って。それが、興味深いと言うか、面白いと言うか、そう思ったんです。」
うーん、とバリューガは唸る。別に、魔道具なんだからどんな道具に魔力を入れたっていいと思うのだが、それは剣使いの考え方である。剣使いと魔法使いは考え方が違うことがあって、それはたまにバリューガを困惑させることもあった。
そう考えると、セクエがなぜティレアが不思議がるようなことをするのか分からないが、それはまあ、長い間剣使いと一緒に過ごしていたからなのだろう。
「ああ、そういえば、セクエさんって、どこにいるか知ってます?」
唐突にティレアがきいてきた。自分もセクエについて考えていたところだったので、なんだか不思議な気分になる。こう言うことを、噂をすれば影がさす、と言うのだったか。いや、少し違うか。
「うーん、その辺にいるんじゃないかな?オレの魔力とか調べてるみたいだし。でも、どこにいるか分からないのか?」
ティレアはセクエの魔力を感じることができるはずだ。それに、ポポに頼めば探知の魔法でセクエを見つけることもできる。なぜそうしないのだろう。
「私、魔力が少ないので、魔力を感じることがうまくできないんですよ。それに、ポポに頼むのは、どうしようもない時だけって決めてますから。」
「ふーん。じゃあ、探しにいくか!」
そう言ってバリューガは立ち上がる。ティレアが呆れた様子で言った。
「大丈夫なんですか?あんまり休んでないみたいですけど…。」
「平気だって。それに、探すだけならそんなに疲れないしな。」
ティレアはまだ不安そうな顔をしていて、ミルルに目をやった。ミルルはティレアの肩の上でのんびりとしていたので、それを見てティレアはホッとした顔つきになった。ミルルは疲れている人や怪我をしている人を見ると、助けに行こうとする。それをしないということは、バリューガは大丈夫という判断なのだろう。
バリューガは歩き出す。探すと言ったが、実際にはセクエの位置は大体分かっていた。バリューガにも魔力があるので、魔法使いの気配を感じることができる。その上、今はセクエと魔力が繋がっているので、セクエの気配を強く感じるのだ。もしかしたら探知の魔法で探すよりも早く見つけられるかもしれない。
「この辺りだと思うんだけど…。」
と言って、バリューガは足を止める。辺りを見渡すと、セクエは木の根元に座り込んでいた。
「あれ?寝てるんですか?」
ティレアが言う。確かに、目を閉じて規則的に胸が上下する様子は寝ているようだった。
「ったく、こんな暑い日によく外で昼寝なんてできるよな。」
バリューガは呆れながら、セクエの肩を揺すった。
「おい、起きろ。外で寝ると風邪ひくぞ。」
今は夏なのだからそんなことはないだろう、と自分で思いながらバリューガはセクエを起こした。
「うん?」
セクエはぼんやりした様子でバリューガを見上げた。
「あれ。寝てた?」
「何言ってんだよ。寝てなかったら起きないだろ?」
「うーん…そっか…。」
セクエは不思議そうにしていた。一体何がそんなに不思議なのだろう。
「なんかあったのか?」
「ううん、なんでもないよ。」
セクエは立ち上がり、一つ伸びをする。
「寝てたからかな。体が少しだるいんだ。目覚ましに、ちょっとその辺飛んでくるよ。」
そう言って、セクエは飛び上がってどこかに行ってしまった。
「おい、待てって!」
バリューガは声をかけるが、セクエはもうどこかに行ってしまって、声は届かなかった。バリューガはティレアを振り返って言う。
「なんかごめんな。セクエのこと探してたんだろ?」
「いえ、いいんですよ。急いでいるわけじゃないですし、そもそも、どこにいるかなって思ってただけですから。」
「まあ、それならいいけど。」
そう言ってから、バリューガはもう一度セクエが飛び去った空を振り返って見上げた。
「何かあるんですか?」
ティレアは不思議そうに尋ねる。
「いや、なんと言うか、最近、変だなって思って…。」
「何がです?」
「セクエ、ウトウトしてることが多くなったから…。まあ、疲れてるんだろうな、とは思うんだけど、なんとなく気になってさ。」
「そんなに気にすることじゃないと思いますよ?眠るって人間、と言うか生き物として自然なことですし、魔力が大きければ、その分体にかかる負荷も大きいでしょうし。」
「うーん、ま、そうか。ちょっと気にし過ぎてたかもな。」
バリューガは視線を下に戻し、ティレアに言った。
「よし。じゃあ、続きと行くか!ティレアちゃんも、暇なら何か手伝ってくれよ。一人で剣を振り回すのって、こう見えてけっこう虚しいんだぜ?」
ーーーーーー
セクエは飛んでいる。と言っても、決して速い速度では飛べない。飛んではいけないのだ。夏以外の季節ならまだしも、森に多くの村人が集まっている今の時期は、素早く飛ぶ姿を村人に見られたら一体どこの誰かと注目を集めることになってしまうだろう。
ちなみに、髪の色の問題は、最近覚えた幻覚魔法で解決した。髪の色を他の魔法使いと同じように黒に変えればいいのだ。さらに髪を一つに縛ればほとんど別人である。あとは、競技大会で姿を見られたことが問題だが、どうやら自分は戦っている時と普段とでは雰囲気に大きな差があるらしく、そこはなんとかごまかせている。
セクエは飛びながらあくびを噛み殺した。眠気がなかなか消えてくれない。
(いや、そもそも眠くなること自体、ちょっとおかしいんだよね…。)
セクエは魔力の量が他の魔法使いに比べて圧倒的に多い。そのため、休憩を取って体を休ませる必要がほとんどない。魔力は尽きないほどある上に、その魔力が自然と体力を回復させてくれるからだ。だから、セクエは最近睡眠はおろか食事もろくにしていない。してもいいのだが、すると魔力が回復してしまうため、体にかかる負荷が大きくなってしまう。以前はそれでもいいと思っていたが、今ではバリューガにも直接関わってくる問題だ。極力魔力を体内に溜めないように、セクエなりに頑張っていたつもりだった。
今のところ、セクエの中の魔力はいつも通り大量に余っている。そんな状態で体が睡眠を取りたがる必要はないような気がする。
(と言っても、私は別に医者じゃないし、体のことは詳しくは分からないから、なんだかんだで体に疲れがたまってるのかもしれないな…。)
ちょっと反省した。今夜はゆっくり寝よう。それで魔力が大きくなるようだったら、使用量を増やせばいいだけのことだ。
「それにしても暑いね…。」
セクエは呟く。黒い髪は熱を溜め込んでしまうので、汗が出て仕方ない。セクエはちょうど川を見つけたので、その近くに着地した。辺りを見渡す。普通なら、子供が水遊びをしていてもおかしくないのだが、ちょうどこの辺りは川が深くなっているようで、子供はおろか大人も一人もいない。
セクエはかがみこんで水面を覗いた。透き通った水の中では水草が揺れていて、いかにも涼しげだった。その中に右手を入れてみる。冷くて気持ちいい。だいぶ目も覚めてきた。セクエは立ち上がり、手のひらについた水滴を空中に浮かべた。小さな水の球は手のひらの上で上下にふわふわと動いていた。セクエがその手をぎゅっと握ると、水滴は一瞬で氷の粒に変わり、パラパラと地面に散らばった。
簡単な魔法だ。これは、セクエが覚えている限りでは一番最初に教わった魔法だった。教えてくれたのはナダレだ。ナダレはセクエに水と氷の扱い方を教えてくれた。どうすれば浮かび、どうすれば流れ、どうしたら凍るのか。それを一から教えてくれたのだ。
セクエは手を握ったまま下に下ろした。なんだか急に悲しくなってしまい、胸に何かつかえたような感じがした。セクエはいまだに後悔しているのだ。ナダレを消してしまったことを。セクエにとって、ナダレは一番心を許せた相手だった。どうしたら守れたのだろう。そう思うと苦しくなる。セクエは下を向いた。地面に落ちた氷はすでに日光で溶かされ、地面にでも染み込んだのか、どこにも見えなかった。
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「ふむ、何かおかしいのう。」
鏡の中の世界で、フィレヌはそう呟いた。
「変じゃ。奇妙じゃ。…何かがおかしい。」
フィレヌは、別に誰かにそう言っているわけではなかった。独り言をブツブツ呟いていたのだ。
「調べるべきじゃろうか…?しかし、わらわの気配が見つかり、追っ手が来るのも面倒じゃな。いや、しかし…。」
フィレヌは険しい顔つきをしている。そしてしばらくうなった後、嫌そうに言った。
「仕方ない。今はわらわのことより、セクエのことを考えてやった方がいいじゃろう。そうじゃな…今夜にでも、調べた方が良いのかもしれぬ…。」
フィレヌは険しい表情のまま、しばらくじっとしていた。
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セクエは辺りを見渡す。ここがどこなのか分からなかった。さらに言えば、ここまでどうやって来たのか、どうすれば帰れるのかも分からない。何も覚えていないのだ。
空を見上げる。曇っていて、どこに太陽があるのか分からない。雲には切れ間もない。雲の流れも分からない。雲には濃淡さえなく、まるで空の色が灰色に変わってしまったようだ。
視線を地上に戻す。ここはどうやら町のようだった。自分はその道の真ん中に立っていた。石畳の道で、凹凸はほとんどなく、綺麗に整備されている。道の幅は広く、十人が横に並んでも余裕を持って歩けるほどだった。道に沿って背の高い家が立ち並び、家と家の間は人はおろか、猫が通れる隙間さえない。尖った屋根の間から、塔や城のようなものが見えた。ここはどこかの城下町なのだろうか、とセクエは思った。
だが、この町はどこか奇妙だった。いや、どこかと言うよりは、明らかに不自然なのだ。人が、まったくいない。気配もしない。あまりにも静かすぎた。町並みは、先ほどまで人が生活していたような感じがするのだが、まるで突然住人が消えてしまったように誰もいないのだ。人だけではない。獣も、何もいないのだ。人に飼われるような猫や犬は当然ながら、空を飛ぶ鳥や地面を這う虫も、何もいない。生き物はどうやら自分一人だけらしい。誰かいないかと思って浮遊魔法を使おうとしたが、体が使い方を忘れてしまったのか、魔法は全く使えなかった。
そんな状況であるにもかかわらず、セクエは不安も恐怖も感じていなかった。呆然として町並みを眺めていただけだった。もちろん、見覚えのある所ではない。セクエは初めて見るこの町並みに目を奪われていたのだ。シェムトネとは家の形も町の雰囲気も全く違う。それが物珍しいと思ったのだ。
ギシッ、ギシシッ。
セクエは眉をひそめた。今、確かに何か音がした。何かが擦れるような、軋むような音だ。近くに誰かいるのだろうか。
ギシッ、ギシッ…。
音はしだいに小さくなり、やがて聞こえなくなった。セクエは再び周りを見渡したが、やはりどこにも誰もいなかった。
セクエはあてもなく歩き出す。道を右に曲がり、左に曲がり、時にはまっすぐ進み、とにかく歩いた。町はどこまでも続いていた。途中で塔を見つけたが、入り口には鍵がかかっていて入れなかった。近くにあると思っていた城にはなぜかどう歩いてもたどり着けなかった。それがなんとなく不思議だった。
「ここ…どこなんだろう…。」
セクエは立ち止まって呟いた。こうして声を出して初めて、自分だけはここにいるのだと実感できた。足が疲れる。どこまでも同じような町並みが続いていて、まるで迷路のようだ。気が遠くなってくる。
「もう少し、歩こうか。」
誰にともなく呟いて、セクエは再び歩き出した。角を一つ曲がったところで、セクエは足を止めた。疲れのためではない。目の前に、人が一人立っているのが見えたからだ。誰かを見つけたら、すぐにここがどこなのか尋ねようと思っていたセクエは、しかし、数歩後ずさってしまっただけで何もできなかった。
「ああ、やっと見つけた。探していたのよ?セクエ。」
嬉しそうにそう言ってその女性はセクエに近寄ってきた。セクエはこの町に来てから初めて怯えを感じた。だが、女性はそんなことを気にする様子もなく、セクエの前に立ち、そしてセクエを優しく抱きしめた。
「なんで…。」
抱きしめられたままそう呟いたセクエは、おそらく相手から見ればずいぶんおかしく見えただろう。
この女性は、セクエのことを知っていた。そして、セクエもこの女性のことを知っていた。この女性は、セクエの母親だったのだ。
(そうか…これはきっと…夢なんだ…。)
セクエはそう思うことで目の前にある信じられない事実を受け入れようとした。当然だ。母親は、セクエがまだ幼い頃に自分の意思で殺したのだ。生きているはずがないのだ。
「ウフフ、『なんで』なんて、おかしな事をきくのね。」
そう言って母はセクエから体を離した。その時、セクエは母がしゃがんでいることに気がついた。とっさに自分の体を確認する。自分は子供の姿になっていた。母が抱きしめるためにしゃがまなければならないほど、セクエの背は縮んでいたのだ。
母は混乱するセクエを気にせず、愛おしそうにセクエの髪を撫でた。髪は短い。その上黒い。時が戻ってしまったかのようだった。
「そんなの、あなたが心配だったからに決まっているじゃない。」
母はそう言う。どうやら、セクエがなんで、と言ったことを、なぜ母がここにいるのか、ではなく、なぜ母は自分を探していたのか、と勘違いしているようだ。
「うん…そっか…。」
セクエは小さく答えた。その様子を見て母は心配そうにセクエの顔を覗き込んで言った。
「どうしたの?何かあったの?」
「…なんでもない。」
母はまだ心配そうな顔をしていた。だが、セクエが何も言わない気でいると思ったようで、立ち上がってセクエの手を握った。
「それじゃあ、行きましょ?向こうに、懐かしい人が待っているわ。」
(懐かしい人…?)
それは誰、と尋ねようとしたが、母はセクエの手を握って歩き出した。体の小さなセクエはそれに追いついて歩くだけで精一杯だった。
母が立ち止まった時、セクエはだいぶ疲れていた。ずっと歩き通していた上に、母に引きずられるようにして歩いたのだ。幼くなったセクエにとってはもう限界だった。
「ほら、あの人よ。」
母がそう言って指を指す。そこにはナダレが立っていた。
「ナダレ…?」
セクエは目を見開いて立ち尽くした。驚いたのはナダレも同じようで、信じられないという顔つきでセクエに声をかけた。
「セクエ…なのか?」
そう言ってから、ナダレは母に視線を移し、問いかけた。
「あなたが、連れてきてくれたのか。」
「ええ。あなたとセクエの仲が良いことは、よく知っていますから。」
母は嬉しそうに答えた。ナダレは呆然とした足取りでセクエに近づき、セクエと目の高さを合わせるとその頭に手を置き、フッと笑った。
「久しぶりだな…セクエ。」
「ナダレ、なの?」
「…ああ、そうだ。我が名はナダレ。お前の神だ。」
セクエは目頭が熱くなるのを感じた。どうしようもなく涙が溢れ、それを抑えることができなかった。セクエはうつむく。いったいどんな顔をしていればいいのだろう。自分は、ナダレを守れなかったと言うのに。
ーセクエー
ハッとして顔を上げる。自分を呼ぶ声が聞こえた。母が残念そうに言う。
「あら、もう時間みたいね。もう少しセクエと過ごしたかったけれど…。」
母はしゃがみこみ、セクエの目を見て言った。
「また今度、会いにいくわ。その時は、もっといろんな話をしましょう。」
母がそう言って微笑んだ。その瞬間、目の前が真っ暗になり、母も、ナダレも、見知らぬ町並みも見えなくなってしまった。
ーーーーーー
「おい、セクエ。セクエってば!」
セクエは目を開けた。目の前にバリューガの顔が見えた。
「大丈夫か?かなり酷くうなされてたぞ。」
セクエは何も言わずに体を起こした。体が熱いし、だるい。汗で寝間着がぐっしょりと濡れ、気持ち悪かった。
「悪夢でも見てたのか?」
「悪夢…。悪夢…?」
セクエはぼんやりと言葉を繰り返す。
「そんなじゃ、なかった気がするんだけど…。なんか、もっとこう、楽しい夢を見ていた気がする…。」
「でも、うなされてたのは本当だぞ?どんな夢だったんだよ?」
セクエは頭を押さえる。どんな夢、と言われると、具体的に思い出すことができない。頭がぼうっとする。夏風邪でもひいただろうか。
「…忘れちゃった。」
「そっか。まあ、とりあえず、顔でも洗ってきたらどうだ?だいぶ汗かいたみたいだし。」
「うん。でも、まずは着替えてからかな。」
「そうか。じゃ、オレはもう行くから。」
バリューガはそう言って部屋から出て行った。セクエは起き上がり、服を着替えると外に出た。
セクエはあまり家の中の設備というものを使いたがらない。なんとなく、気がひけるのだ。どうしても面倒な時は水道を使うことはあるが、それでも基本的には村のそばを流れる川を利用している。セクエにとっては、人の多い村の中より自然の中の方が居心地がいいのだ。それは幼い頃から人との接触を避けていたせいかもしれないし、地下牢に閉じ込められた経験のせいかもしれない。
昨日行った川まで向かう。あそこなら、おそらく人に会わなくてすむだろう。だるいせいで、なんとなく魔法を使う気になれなかったセクエは、歩いてそこまで向かうことにした。
意外と日が高い。ずいぶん寝坊してしまったらしい。
(もし起こされなかったら、いつまで起きなかったんだろう。昼頃まで寝てたのかな?)
歩きながらぼんやりとそう思う。日差しは今日も暑い。セクエは少し早足で森に入った。
「えっと…川はどの辺りだったかな…?」
森に入り、辺りを見渡す。もちろん、見えるはずはない。感覚を頼りに歩く。まず、昨日昼寝をした所、次に、空を飛んだ道のりをたどる。案外簡単に川は見つかった。だが、誰もいないと思っていたその場所には先客があった。
「あ、フィレヌ。」
そこにいた女性は振り返る。魔獣のフィレヌだ。
「やはりな。ここに来ると思っておったぞ。」
「…どういうこと?」
フィレヌは答えず、セクエに近づいてその首筋にそっと触れた。血が流れていないというその指先は、ハッとするほど冷たかった。それは鋭い刃物のようで、セクエは触れられただけだったのにもかかわらず、思わず息を止めてしまった。
「…汗。」
ポツリとフィレヌが呟いた。
「ずいぶんとかいておるな。何かあったか?」
そう言って、フィレヌはセクエから手を離した。
「分からない。うなされてたらしいけど、どんな夢か覚えてないから。」
「ということは、そなたは寝たのじゃな。魔力が大きくなると分かっていながら。」
「…うん。」
「なぜ。」
セクエは唾を飲み込んだ。なんだかフィレヌの様子がいつもと違う。何かあったのかとききたいのはこちらの方だ。そんな言葉を飲み込んでセクエは答える。
「眠かったから。」
「魔力が体力を回復させていてもか?」
「うん。原理は分からなかったけど、体が疲れているなら寝たほうがいいと思った。」
「…なるほど。」
フィレヌはしばらく黙り、そしてセクエから視線をそらして言った。
「そなた、忘れてはおらぬじゃろうな。…そなたは狙われておるのじゃぞ。」
「それは聞いたよ。」
「その言葉は分かっていても、意味までは分かってはおらぬじゃろう。」
フィレヌは冷たく言う。
「そなたは寝るな。食べ物も食べるな。隙を作ってはならぬのじゃ。難しいとは思うが、それが身を守る上で一番確実で効果が高い。そなたほどの魔力なら、カロストの地からでも十分見つけられる。」
「…そう。分かった。もう同じ事はしない。気をつけるよ。でも、なんでいきなりそんなこと言うの?何かあるの?」
フィレヌは視線をセクエに戻さなかった。表情を変えることなく呆然とした口調で言った。
「強すぎる魔力は、人を惑わし、魅了し、狂わせる。その魔力を求める者も、持つ者も、やがては魔力に心を呑まれてしまう。一度目覚めた欲望は、魔力をどれほど求め、手に入れたところで、決して止まることはない。欲はさらなる欲を生み、人はさらなる魔力を求めて破滅の道を突き進む…。」
「…どういうこと?」
フィレヌは視線をセクエに向けて言った。
「そなたがそうなるような気がしてならぬのじゃ。自らの力に溺れ、他者の力を見下してしまうのではないか、自分にかなう者などいないのだと、心のどこかで思ってしまうのではないか、とな。…そなたは油断しておる。たとえその気が無くとも、油断しておるのじゃ。気を引き締めよ。いつ襲われるかは、誰にも分からぬのじゃぞ。」
それだけ言うと、フィレヌは転移魔法でどこかへ行ってしまった。おそらくは自分の世界に帰ったのだろう。何が言いたかったのかは、結局よく分からないままだ。
(眠るな、食べるな、隙を作るな…か。)
セクエは自分の首筋に手を当てる。自分の手はフィレヌとは違い、温かかった。目はもう覚めていたが、汗はまだ気持ち悪い。
セクエはだるい体に鞭打って浮遊魔法を使うと、川の中に飛び込んだ。水は冷たく、服が流れに合わせてゆらゆらと揺れる。セクエは地上とほとんど同じような動きで水中を動き回った。深い川でよかった。浅かったら、こんなふうに動くことなどできなかっただろう。
息苦しくなったら水面に顔を出し、また潜った。それを何度も繰り返すうちに、汗は洗い流され、体のだるさもなくなってきた。
しばらくするとセクエは川から上がり、呪文を唱えた。
「灼熱の光。」
日光が集まり、セクエを温める。今は夏だ。あまり熱を集めすぎると体温が上がりすぎてしまう。すぐに魔法を消し、今度は木の上に上がって日光浴をして体についた水を乾かした。いつの間にか時間がだいぶ過ぎている。昼はすでに過ぎているだろう。少し体が熱くなったら木から降りて森の中を歩いた。そうしているうちに服は乾き、日も暮れてきた。乾かすのには案外時間がかかるんだな、と思いながらセクエは自分の部屋に戻った。
ーーーーーー
部屋に入り、セクエはベッドに目をやる。今夜は、と言うより、これからは眠らない方がいいだろう。フィレヌから念を押されたのだ。今夜も寝てしまった、なんてことになったら、本当に自分が危ない。フィレヌに言われた通り、隙はできるだけ減らさなくてはならない。セクエは力魔法を使ってベッドを倒し、使わないようにした。少し大げさかもしれないが、念のためだ。
「さて、私は一体、どんな夢を見ていたんだろうね…。」
今日はそのことが頭の中から離れなかった。楽しい夢だった。それだけは間違いない。だが、うなされていたとはどういうことだろう。悪夢ではないのにうなされることなどありえるのだろうか。ぼうっとしていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。気がつくと窓の外は暗くなっていた。
なんだか今日は朝から夜までぼうっとしていたな、とセクエは思った。朝起きて、フィレヌに会ってから、自分はほとんど思うままに行動している。何かを考えるのが面倒に思えたのだ。
変な夢を見て寝坊した上に、さらに寝汗で服はぐっしょりと濡れ、その後フィレヌによく分からない警告をされた。その上寝過ぎたせいか体がだるかった。まあ、考えるのが面倒になるのも仕方ない。今日バリューガとフィレヌ以外の誰にも会わなかったのは単なる偶然だが、むしろそのせいで自分の行動は最後まで目的のないものになってしまっている。無駄な一日を過ごしてしまったことを後悔した。明日はこんな日にしてはならない。忘れかけているが、バリューガと自分の魔力を繋いでいられるのは次の春が来るまでの間なのだ。それまでに解決策を見つけなければ。
一つあくびが出る。すぐさま魔力で体力を回復させる。だが、眠気が消えない。
(おかしい…。)
昨日は寝た。その上体力は回復させているのだから、疲れはほとんど体に残っていない。ならばなぜ、眠気が消えないのだろう。セクエは部屋の中をウロウロと歩き回った。こうしていれば、眠気が紛れるだろうと思ったのだ。しかし、眠気はますます強くなるばかりだった。自然とまぶたが下がり、つまずいて転んでしまった。ため息をつきながらセクエは呟いた。
「バリューガにうるさいって怒られちゃうな。」
眠気を少しでも紛らわそうとそう言うが、体から力が抜けていく。眠い。何かがおかしい。
「外にでも…出よう…かな…。」
そう言うが、起き上がれない。意識が薄れる。これは何かの魔法だ。そう思ったが、もうセクエに対抗できるだけの力は残っていなかった。次にまぶたが下がった瞬間、セクエは眠ってしまっていた。
ーーーーーー
ガタン、と大きな音がして、バリューガは目を覚ました。セクエの部屋からだ。
(まったく、なんなんだよ、こんな夜中に。)
バリューガは体を起こす。最近のセクエの様子が、どうしても気になる。眠たそうにしているが、それでいて疲れた様子がほとんど見られないのだ。嫌な予感がして、バリューガはしばらく聞き耳を立てた。しかし、何の音もしない。
(やっぱり、オレの考えすぎか。)
そう思って横になろうとした。だが、その時、声が聞こえた。
「う…ううっ…!」
バリューガは起き上がった。部屋を飛び出し、セクエの部屋に入る。
「セクエっ!何かあったのか?」
だが、部屋にはセクエが一人いるだけだ。セクエはなぜか床に倒れ、苦しそうに呻いている。
「セクエ…?」
バリューガは駆け寄る。体を揺するが、反応はない。
(まさか…眠ってるのか…?)
うなされている。それも、かなりひどい。昨夜の比ではなかった。
「セクエ起きろ!セクエ!」
肩を掴んで強く揺するが、セクエは一向に目を覚まさない。
「う、うあああーっ!」
セクエは頭を抑え、仰け反りながら悲鳴を上げた。これはもううなされているなんてものじゃない。どう見ても苦しんでいる。しかしセクエはそれでも目を覚まさない。この異常な事態に、バリューガはどうすることもできない。
「くそっ、どうすりゃいいんだよ!」
「どけ!わらわがやる!」
そう言ってフィレヌが姿を現した。フィレヌはセクエを床に押さえつけ、動けないようにした。だが、それでもセクエは目を覚まさない。
「どうなってんだ?」
「体が乗っ取られようとしておるのじゃ。このままでは、操られてしまう…!」
そう言っている間も、セクエは悲鳴を上げ続けている。
「妙な気配を感じたのでな。少し調べていたのじゃが、まさかここまで進行しておったとは…。」
「なんとかならないのか?」
「…なんとも言えぬ。この魔法をかけた者は、ずいぶんと高い技術を身につけておる。魔力をほとんど使っておらぬのじゃ。ここまで魔力が少ないと、どんな魔法なのかさえ分からぬ。」
フィレヌは険しい顔をしていた。
「セクエに耐えてもらうしかないが、この状況ではとても無理じゃろう…。」
「こんなに大声を出してるのに、なんで目が覚めないんだ…?」
「目覚める?セクエは眠っておるのかっ?」
フィレヌがバリューガを見て驚いたように尋ねた。
「あ、ああ。たぶん。」
バリューガは部屋を見渡す。ベッドが倒されている。おそらく、眠るつもりはなかったのだろう。だが、それでもセクエは眠ってしまった。眠らされた、ということなのだろうか。
「眠り…睡眠…。なるほど。この魔法は夢催眠か。」
フィレヌが悔しそうに呟く。
「夢催眠?」
「そうじゃ。相手を眠らせ、意識を夢の中に閉じ込めることで相手の体の支配を得る魔法じゃ。」
そういえば最近、セクエは眠そうにしていた。つまり、かなり前からこの魔法に耐え続けていたのだろう。だが、セクエ自身もおそらくこの魔法には気づいていなかった。相手の技術の高さに思わず鳥肌が立つ。
「じゃが、気づくのが遅すぎた。このままでは、おそらくセクエは自力で目覚めることはできぬ。かくなる上は…。」
フィレヌはセクエを押さえていた手を離し、頭の上に手をかざした。
「バリューガ。セクエを見ておれ。目覚めそうなら揺すって起こせ。よいな?」
「何する気だよ?」
バリューガは慌てて尋ねる。
「セクエの夢の中に入り込み、夢から引きずり出す。無理やりにでも起こさなければ、セクエが危ない。」
そう言って、フィレヌは目を閉じた。そして、手を伸ばした体勢のままピクリとも動かなくなった。
ーーーーーー
「探していたわ、セクエ。」
目の前に、母がいる。母は自分に歩み寄り、自分を軽々と抱き上げてしまう。
「さあ、行きましょう。」
母は歩き出す。セクエは何も言わない。何か、大切なことを忘れているような気がする。そもそも自分は、なぜここにいるのだろう。さっきまで、ここではないどこかにいた気がする。気のせい、 だろうか。
「ねえ、お母さん。」
「なあに?」
「ここはどこなの?」
母は黙った。その沈黙がたまらなく恐ろしかった。
「…おかしなことをきくのね。私たちはずっとここにいるのよ?」
ようやく答えた母のその口調に違和感を感じたのは、やはり自分の気のせいなのだろうか。
「ずっとって、どのくらい?」
セクエは続けて尋ねる。
「そうね…もう覚えていないくらい、ずうっとよ。」
なんとなくはぐらかされたような気がする。セクエは別の質問をした。
「どうしてこの町には誰もいないの?」
「いるじゃない。セクエと、お母さんと、ナダレさんの三人。」
「でも、他の人は?」
「いないわ。」
「…なんで誰もいないの?」
「ウフフ、今日のセクエはおかしなことばかりきくのね。そんなもの、必要ないのよ。」
母は口調を変えずにそう言った。
「だって、私たちは今ここにいて、幸せで、楽しいんだもの。その他に一体何が必要なのかしら?」
そう言ってセクエの顔を覗き込んだ母の表情は、とても穏やかだった。その言葉と表情に、セクエはまた違和感を感じた。
「ほら、着いたわよ。セクエ。」
そう言って母は立ち止まり、セクエを下ろした。目の前にはナダレがいる。
「ようやく見つかったか。あまり親から離れては駄目だろう。気をつけろ。」
ナダレはそう言う。いつもの、セクエが知っているナダレだ。だが、なぜだろう。何かがおかしい。どこかに違和感がある。
「おかしいよ。」
セクエは二人に向けてそう言った。
「一体何がおかしいと言うのだ。」
「そうよ。今日のセクエはなんだか変。おかしいのは、そんなことを言っているセクエの方よ?」
「そうだ。何もおかしなことなどない。お前が感じているのは、なんでもない事なのだ。」
二人はそう答える。
「そうなのかな…。」
セクエは自信がなくなって黙った。
「そうよ。さあ、これから何をしましょうか?この前の続き?」
母は楽しそうにそう言う。だが、セクエは『この前』を思い出せない。そんなものはなかったような気がする。しかし、そう思っているうちに、だんだん思い出せるようになっていく。
そうだ。この前はかけっこをした。走っている途中でセクエは母とはぐれてしまったのだ。母はそんな自分を一人で探しにきてくれたのだ。そう思うと、セクエは安心した。思い出せる。自分はずっとここにいたのだ。母とナダレと三人で。その他には誰もいない。それでいい。今、自分はこんなにも幸せなのだから、その他には何もいらない。この時間さえ続いてくれれば、その他には、何も。
「ん?」
ナダレが突然顔をしかめた。
「どうかしたの?ナダレさん。」
「何か…いるようだ。」
セクエは驚いた。何がいるというのだろう。ここには三人しかいないはずなのだ。セクエは不安になった。
何かが邪魔をしようとしている。嫌だ。何もいらない。何もなくていい。今この時間を、誰にも邪魔されたくない…。
「様子を見てくる。」
そう言って、ナダレは走ってどこかへ行ってしまった。セクエは母と二人きりだ。母の顔を見上げる。目が合うと、母は優しく微笑んでくれた。言葉にはしなかったが、大丈夫よ、と言ってくれているような気がした。
だが、セクエはその表情を見ても嬉しくなかった。理由も分からない恐怖がセクエを襲った。今すぐ、どこかへ行かなければならない。母とナダレがいない所まで逃げなければならない。そんな衝動に駆られて、セクエは走り出した。
「あ、セクエ!どこへ行くの?」
後ろから母の声が聞こえる。それでもセクエは立ち止まらない。振り返りもしない。セクエは走り続けた。だが、やはり体力には限界がある。セクエはすぐに立ち止まって休まなければならなかった。
(なんでだろう、前はもっと走れたのに。)
前かがみになって息切れをしながらそう思う。セクエはこの町ではほとんど走ったことがない。そのはずなのに、前は走れたような気がする。前とはいつのことなのだろう。どうして走れなくなってしまったのだろう。
ギシッ、ギシシッ。
嫌な音がする。この軋むような音は何の音なのだろう。他の人には聞こえないのだろうか。だとしたらなぜ。分からない。
ギシッ、ギシシィ…。
セクエは耳をふさいだ。うるさい。嫌だ。何の音なんだろう、これは。古くなった床の上を歩くような、縄で何かを縛り付けるようなこの音は。
ギシシシィ…。
もう嫌だ。セクエは目を閉じてしゃがみこんだ。音が消えない。どうして。耳はふさいでいるのに。この町は何かがおかしい。自分では気づかないどこかが狂っている。
(お母さんも、ナダレも、この音も、この町も、全部。でも、何がおかしいの?何が違うの?私は、幸せだって感じてたはずなのに…。)
何かが肩に触れた。ビクッとして目を開け、耳から手を離す。きっと母が来たんだ。そう思いながらセクエは後ろを振り返った。
しかし、しゃがんでセクエの前にいたのは母ではなかった。長い黒髪を一つに束ねた女性だったのだ。女性は驚いたような表情を見せてセクエの顔を眺めていたが、やがて呆然と、半ば呟くようにセクエに言った。
「そなた、セクエか?しかし、その姿は…一体…。」
誰だろう。ここには、母とナダレと自分の三人しかいないはずだ。
この人が、邪魔をしようとしているのか。この人が、幸せなこの時間を壊そうとしているのか。もしそうなら、逃げなければ。ナダレがなんとかしてくれるまで、自分は逃げなければならない。
セクエは立ち上がり、数歩後ずさる。だが、体は思うようには動かない。疲れているせいだ。だが、セクエは心のどこかで、この女性と話すべきだと思っている。動けないのはそのせいかもしれない。
「あなたは…誰。」
仕方なく、セクエは女性に声をかけた。女性はその言葉にも驚いたようなそぶりを見せた。
「そなた、わらわを覚えておらぬのか?」
怯えるセクエを無視して、女性はしっかりとセクエの肩を掴んだ。
「思い出せ、わらわじゃ。フィレヌじゃ。」
「フィレヌ…分からないよ。そんな人、知らない。」
セクエは言う。女性は悲しそうな顔をした。
「それが…そなたの望む世界なのか?こんな誰もいない場所で、全てを忘れ、幼い頃に戻って過ごすことが、そなたのしたい事なのか?」
セクエはさらに数歩後ずさり、フィレヌと名乗った女性から離れた。女性は近づいてはこなかった。肩に乗せられていた手が離れた。その呆然とした表情を見ていると、怒りが沸き起こってきた。
「そんなことない…。そんなことないよ!私はちゃんと覚えてる!忘れてなんかない!私はずっとここにいたの。お母さんとナダレと一緒にここにいるの。私は子供になんかなってない。ここには私しかいないわけじゃない!」
セクエはそう言い切った。いきなり怒鳴ったセクエに驚いたのか、フィレヌは戸惑った表情になった。
「ではそなたはおかしいとは思わぬのか?これほど多くの家が並んでいながら誰も住んでいないことを、おかしいとは思わぬのか?」
「だって、そんなもの必要無いから。ここには三人だけいれば十分なんだよ。それだけで、私は幸せになれる。お母さんもナダレも幸せだって言ってくれる。それ以外に大事なことなんて何もない!」
フィレヌは立ち上がって怒鳴った。
「目を覚ませ、セクエ!」
「覚ましてるよ!おかしいのはあなたの方でしょ?ここには他の人は必要ないの!あなたが邪魔してるんでしょ!どこかに行ってよ!」
フィレヌは再びセクエに近づき、今度は右手首を強く掴んだ。
「この手首には、腕輪がはまっておる。」
「何言ってるの?そんなものないでしょ?」
セクエはそう言って手を振り払おうとした。だが、フィレヌは腕をしっかりと掴んで離さない。
「はまっておるのじゃ!そなたの中の魔力と、バリューガという少年の魔力を繋げるための魔道具じゃ。ティレアという名のそなたの友人が作り、わらわがこの腕にはめた。忘れたとは言わせぬ!バリューガも、わらわも、そなたが目覚めるのを待っておる。そなたは、こんな幻の中でその身を朽ちさせるつもりか?」
フィレヌはセクエの目をまっすぐに見つめてはっきりと言った。
「思い出すのじゃ、セクエ!ナダレもそなたの母親も、もう生きてはおらぬのじゃ!」
セクエは目を見開いた。うつむき、フィレヌを視界から追い出す。
「嘘だ…そんなの…。」
あがくように言ったその声は、想像以上に弱々しかった。
「嘘ではない。目を覚ませ。こんな夢の中にいても、現実は決して変わらない。そなたは今…」
「セクエ!」
フィレヌの声をナダレの声がさえぎった。声がした方を振り返ると、ナダレが走ってきていた。
「大丈夫か?セクエ。」
「え…何が?」
セクエはフィレヌに視線を戻す。だが、そこには何もいなかった。
「お前は今、騙されかけていたんだ。もう少しで、連れ去られるところだったのだ。なんともないのか?」
「平気だけど…?」
セクエはそう答えてから、恐ろしさを感じた。あの女性はどこに行ったのだろうか。まさか、ナダレが消してしまったのだろうか。セクエは声を震わせながら言った。
「まさか…ひどいよ。いくらなんでも、消しちゃうなんて…そんなのやり過ぎたよ…!」
「落ち着け。我は何もしていない。ただお前の名を呼んだだけだ。それだけで姿を消してしまうことが、奴がお前を狙っていたという証拠だろう。」
説得するようにナダレはそう言い、セクエの手を握る。そして歩き出そうとしたが、セクエは動く気にはなれなかった。
「…ねえ、ナダレ。」
「なんだ?」
「ナダレが初めて教えてくれた魔法、覚えてる?」
セクエはナダレを見上げる。ナダレは不思議そうな顔だった。
「覚えているに決まっているだろう。」
「何だったっけ?」
セクエはできるだけさりげなく尋ねた。心臓が飛び跳ねている。もし、間違ったことを言ったら、自分はどうすればいいのか、分からなかった。
「…氷を水に変える魔法だ。」
ああ、やっぱりだ。セクエはどうしようもなく悲しくなった。彼は、ナダレじゃない。初めて教えてくれたのは、水を氷に変える魔法だったのだから。
「嘘つき。」
セクエは呟き、ナダレの手を振り払った。
「やっぱり、あなたはナダレじゃないんだね。ナダレはもう…いないんだ。」
そう言った瞬間、ナダレから表情が消えた。それはまるで、よくできた人形か、そうでなければ感情を全て失ってしまったような、そんな顔だった。
ナダレは自分をどうするだろう。いや、正しくはナダレではないのだが、それでもこの様子だと、そう簡単にこの世界から抜け出すことは不可能なようだ。自分はどうなるのだろう。二人と戦わなければならないのだろうか。それだけは避けたかった。
「あら、セクエ、どうしたの?」
母の声がした。見ると、母が歩いてきている。セクエはその姿に向かって言った。
「ごめん、私、行かないといけない。」
母は足を止め、悲しそうな顔をして言った。
「何を言っているの?セクエ。」
「ここは夢だ。だから、もう起きないといけないんだよ。バリューガが、待ってるから。」
母は急ぎ足でセクエに近づくと、セクエを抱きしめた。母の胸に顔をうずめ、セクエは悲しそうな母の声を聞いた。
「何言ってるの?ここは夢なんかじゃないわ。私も、セクエも、こんなに幸せなのに、どうしてそんなことを言うの?思い出して。あなたはずっと、またあの頃みたいに過ごしていたいって、思っていたでしょう…?」
母の腕に力が入る。母の腕は温かく、優しく、心地よかった。思わず目を閉じる。そう。自分は望んでいた。母とともに過ごせる時間を望んでいた。子供らしい仕草で母に甘え、一緒に遊んでみたかった。普通の親子のように。このまま眠ってしまえたら、どれだけいいだろう。何も考えず、この温かさに包まれることができるなら、どれだけ楽しい気持ちでいられるだろう…。
しかし、セクエは目を開けた。それと同時に涙が出てきた。ポロポロと涙をこぼしながらセクエは言った。
「思い出すのは…お母さんの方だ…。」
声はかすれていた。しかし、それでも言わなくてはならない。目覚めなければならないのだ。
「私は、小さい頃からずっと、ヘレネの所にいたんだよ?私とお母さんの間に、戻りたいような『あの頃』なんて…。」
今、母はどんな顔をしているだろう。ナダレと同じように、無表情なのだろうか。それとも、あの悲しそうな顔のまま、自分の声を聞いているのだろうか。
「そんなもの…無いんだよ。」
セクエは心の中から全てを追い出すようにそう言い切った。それを自分の口で言わなければならないことが悲しい。こんなことは分かりきっていることだ。だが、それはセクエにとって、決して触れてはいけない古傷だったのだ。
「だって私は…あのネックレスをもらうまで、お母さんのことが嫌いだったんだから…。」
母の息づかいがすぐそばで聞こえた。母は落ち着いているようだった。はあ、とため息をつくのが聞こえた。それは嘆いているようにも聞こえたし、呆れているようにも聞こえた。セクエは一緒にいてくれたことへの感謝と行かなければならない申し訳なさを感じ、しばらくその姿勢のまま動かないでいた。