男の娘と悪魔博士
見かけは美少女、中身は勇敢な少年。
男の娘3人組、希望、辰子、桜がオカルトな事件に巻き込まれ、あるいは自ら首を突っ込み、クトゥルー神話の怪異の謎を解き、怪異と戦う青春ホラー・シリーズ。
今年の夏の猛暑は、どう考えても異常だ。
うだるような暑さ、いや焼けるような熱さと表現したほうが、より近いかもしれない。
希望はタクシーの車窓から、交差点のビルの横に設置された電光式気温計を見て、ギョッとなった。
さ、39.7度だって?
隣に座っている辰子も、それを見たようだ。
「うへえ、外に出たくねえなあ。」
希望も同感だった。今はカーエアコンの効いているタクシーの内に居る。それでも、背中が汗でじんわり湿っている程度には暑いのだ。外に出たら、ものの数分で汗だくだろう。
「熱中症にならないようにしないとね。」
希望の前の助手席に座っている桜がそう言いながら、水筒の蓋を開けた。
「飲む?」
桜はその水筒を、後部座席に座っている希望に差し出した。
「あ、ああ。」
希望は水筒を受けとると、中身を喉に流し込んだ。よく冷えたアルカリイオン飲料だ。
「なあ、俺にも一杯くれよ。」
辰子が横から手を差し出すので、希望は水筒をわたした。すぐに辰子は、むさぼるように中身をグビグビ飲んでいる。イオン飲料の一部が口元からあふれ、首筋をつたって襟元まで流れているが、辰子は全く頓着しない。「女の子らしくする」努力を全くしないところが辰彦らしいや、と希望は苦笑した。
ここで希望は、クラッと眩暈を感じた。やはり暑さのせいだろうか。
身体がユラユラと平衡感覚を失ったように揺れている。
「おや? 陽炎かな? いや、これは地面が揺れてるんだな。」
タクシーの運ちゃんが、つぶやくように言った。
そうか、眩暈なんかじゃない、タクシーが揺れていたんだ。
希望は、スマホを取り出すと、気象庁のホムペを見た。
「関東地方にやや強い地震がありました。最大震度4。震源は東京湾。マグニチュード4.1。震源の深さは10キロメートル。この地震による津波の心配はありません。各地の震度は」
桜が前の助手席から振り返るようにして、顔をこちらに向けた。
「最近、地震が多いと思うよ? 」
希望は頷いた。
「そうだね。確か一昨日も震度3だっけ? ちょっと揺れたよな。」
記録的猛暑に、地震の群発。今年の東京はどうなっているんだ?
希望が口を開きかけると、タクシーが停車した。
「着きましたよ。マーシュ財団ビル前ですよ。」
予想通り、タクシーから降りた途端、熱風のような炎天下の気温にさらされる。
三人のセーラー服を着た「少女」の外見を持った少年は、申し合わせたようにハンカチを取り出して、首筋の汗をぬぐった。
希望は、ロングヘアの「少女」で、頭には橙色のヘアバンド。パッチリとした大きな右目の下には、小さな泣きボクロがあって、それがチャームポイントにもなっていた。
「覚悟は出来てるつもりなんだけど、不安なものは不安なんだよなあ。検査って、わたし達、どーされるんだろ?」
「俺達だけで居る時ぐれえ、「ぼく」でいいぜ。希望が「わたし」ってのは、どーにもむずがゆくなる。」
そう突っ込んだのは、辰子こと、ショートヘアのボーイッシュな雰囲気の「少女」である。長身で二人の友人よりも、頭一つぶん位は身長差があるだろう。胸が大きく、腰は細く、スタイルが抜群に良い。まさにモデルのような体型だ。そして竹刀の入った巾着袋を背負っている。
希望は、「うーん」と首をかしげた。
「辰彦、いや辰子は相変わらずガサツだなあ。小野先生からも言われてるんだけどさ。訓練もきちんとやっておいたほうが良いって。訓練のために、ぼく……わたし達は聖ブリジットに入ったわけじゃん。言葉使いなんかも普段から練習したほうが良いって。」
辰子は、「ふん」と鼻を鳴らすと、両手を頭の後ろで組んだ。
「どだい、野郎に女になれって言う方が無理なんだよ。俺は俺だ。身体が女になっても、これから死ぬまでずっと柏崎辰彦でありつづける。これからもずっと俺はしたいようにするぜ。」
希望は苦笑いを浮かべた。
「うーん、でもさ。わたし達は、いずれ子供を産んで育てなきゃならないわけじゃん。そのためには、まず旦那さんを見つけなければならないわけだし。」
「希望は、生真面目すぎるんだよ。俺もお前も好きで『適応者』に生まれたわけじゃねえ。これまでずーっと野郎として生きてきて、野郎のままくたばるつもりだったのに、いきなり法律で決まりましたから女になって野郎と結婚してお袋になってくださいなんて、勝手すぎるだろ。このくそったれな法律には従って身体は女になってやるが、譲るのはそこまでだ。後は俺の好きなようにやる。」
希望は苦笑した。こういう所は実に辰彦、もとい辰子らしい。
じゃあ、わたし……もとい、ぼくもそれに習うとするか。
「じゃあ、ぼくも辰子に習うよ。やっぱり、ぼくはぼくだからね。」
すると辰子は親指を立て、ニッと白い歯を見せて微笑で答えた。
ここで、さっきまで不安げにビルを見つめていたた三人目の「少女」、桜が顔を上げた。
ツインテールの痩せた小柄な少女である。潤みがちな綺麗な目をしている。そして小柄なからも陽気で活発な雰囲気の美少女である。
「でも、辰子が一番、女の子してると思うよ?」
そして、辰子の胸に物欲しそうな視線を向ける。それは優にEカップの大きさがある。
「桜は、いつも俺の胸ばかり見てやがる。」
「だって、うらやましーんだもん!」
辰子は、人差し指をたてると、「ちっちっ」と言いながら横に振った。
「いいもんじゃねえって。これ、結構重たいんだぜ。最初は慣れなくて、変な姿勢で歩いたもんだから、腰に来やがってよ。」
公共の路上でするような会話じゃないよなあ、と希望は呆れるが、この二人には何を言っても無駄だと分かっているので、ここは突っ込むのは無しだ。
「そういう所が、辰子らしいんだよなあ。ところで、どうして思春期性転換の臨床試験に志願したの? 」
「やるなら、さっさとやったほうがいいだろ……。」
希望は、この質問を何度も辰子にぶつけて来たが、いつも彼はこの話題になると、あまりはっきりと答えない。何か心に秘めておきたいことがあるらしいので、希望はあまり詮索しないことにしている。
改正出生率復興法、通称「出生法」では、適応者の少年達は18歳の誕生日をもって、性転換の施術開始を義務付けられる。それで大抵の適応者は高校卒業と同時に病院に入るのだが、思春期性転換の臨床試験に志願すれば、もっと早く女性になることが出来る。
大抵の適応者の少年達は、これには消極的なのだが、なぜか辰子は中学生の時に志願した。それで、辰子の少なくとも「身体」は、完全に女性なのである。
希望は苦笑しながら、同時に感心したように言う。
「でも、そういうきっぷが良くて、覚悟の出来てるところが辰彦らしいんだよなあ。」
「うーん。けどよ、一番覚悟が出来てるのは、やっぱ桜じゃねえのか?」
これには希望も同意する。
桜は、この三人の中では精神的にはおそらく一番、女性として生きる覚悟が出来ているだろう。
彼は既に小学生の頃から女性になる準備をしていた。中学卒業間際には、なんと彼氏まで居たというから、畏れ入る。
彼が適応者と判定されたのは、小学校入学の頃。覚悟を決めて、既に小学生にして髪を伸ばし女装を始めたと言う。
それで酷い苛めも受けた。同級生だけではなく、担任の教師までもが一緒になって苛めに加わったと言うから酷い話しだ。
当然の如くそれが今でも、彼の大きなトラウマになっている。そして深刻なPTSDを抱えるはめになった。しかしそれでも彼は、病欠以外は無欠席で通し、信念を貫き通した。この鋼鉄の意志力には、希望も辰子も一目置いている。
希望、辰子、桜の三人は、炎天下に汗だくになりながら、あらためて眼前の巨大なタワービルを見上げた。
マーシュ財団ビル。「札幌条約」の指定研究機関の一つ、マーシュ少子化対策研究所の日本支局である。新谷田学園計画の出資者である丸銀財閥と提携しているため、その縁から聖ブリジット学園の「適応者」も、しばしばここで「身体検査」を受ける。
希望は、このビルが一目で嫌いになった。
近代的な清潔な建物ではあるが、言葉では表現できない嫌な禍々しさがあるのだ。
「ちゃっちゃと済まそうぜ。」
そう言って、辰子は早足でビルに向かって歩き出した。
希望と桜も、それにつられるように後を追った。
ビルの入り口のロビーはかなり広く、3階ぶんまでが吹き抜けとなってた。
希望はちょっと感心したように、周囲を見回した。
床も壁も新品のような大理石で、清掃も行き届いていた。壁には大きな現代アートの絵がかかっている。芸術品としては良く出来た作品なのだろうが、正直不気味で、あまり趣味が合わない。えーと、確かフランシス・ベーコンだっけ?
辰彦、いや辰子はパタパタと顔を手で仰いでいる。
「ひあー、涼しいー、生き返るぜえ! 」
エアコンが強く効いており、炎天下から急激に身体を冷やされて気持ち良く思うと同時に、ちょっと頭痛もしてきた。
桜は、「くちゅんっ! 」とかわいいクシャミをした。
三人がロビーの中央まで行くと、受付けの女性と目が合った。彼女は営業スマイルで三人に形式的な口調で会釈をする。はずみで三人も会釈を返すと、彼女は電話をかけて誰かを読んでいる。
それから5分とたたないうちに、突き当りの廊下から、大勢の男女がこちらにやってくる。看護師のような制服を着た女性も数人混じっていた。
水色の制服を着て、首から聴診器を下げた青年が話しかけてきた。
「二ノ宮希望くん、柏崎辰彦くん、野崎桜太くんですね?」
三人はそのまま、それぞれ別々に更衣室に案内された。
更衣室と言っても診療所の一部らしく、ツンと消毒薬の臭いがする。希望は子供の頃から、この病院の臭いが好きになれなかった。なんか不安な気分になるのだ。
希望は看護婦に促されるまま、衣服を脱いだ。
身に付けているのは下着だけである。
「あの、これも脱ぐんですか?」
希望の顔は、もう真っ赤だった。
女性になるための「基礎工事」は今年から始まった。毎週、かかりつけの病院に通っては、色々と妙な注射をされ、毎日の服薬も義務付けられている。
それで、髭が生えなくなることに始まり、身体が少しづつ変わって行く。
希望は自分の身体を直視するのが、ややストレスになっていた。
きめの細やかな滑らかな肌。うん、これはいい。気に入ってる。しかし、苦労して付けた筋肉が、どんどん落ちて行く。肩幅も狭くなり、華奢になってゆく一方である。
自分の身体が、刻々と変わって行く様は、複雑な心境だ。覚悟はできているつもりだが、女性になることへの躊躇いは、依然残っている。
そんな自分の身体を見ることは、楽しいことだけではない。ましてや、それを他人にジロジロ見られるのは、とても嫌だ。
「もちろん、それも脱いでください。」
看護婦は、事務的に答える。
希望は覚悟を決めて、最後の1枚、パンツを脱いだ。
身体測定用の簡易検査衣を着せられた希望だったが、これは傍から見ると……。
部屋から廊下に出ると、同じ格好をさせられた辰子と桜が、それぞれの更衣室からやってきた。
辰子は、希望を見ると、大きな声でゲラゲラと笑い出した。
「うひゃひゃ、希望! その裸エプロン、似合ってるぜえ!」
希望も負けじと言い返す。
「あーら、奥さん、そっちこそ似合ってますわよ。見事にたわわに実ってますわねえ。」
桜はと言うと、指をくわえて、辰子のEカップはあろうかという、そのバストを、じっと見ている。
それに気づいた辰子が、あきれるように言った。
「桜はいつも俺の胸ばかり見てやがる。」
「だって、うらやましいんだもん。」
例によって、いつものやり取りだ。
その時、希望はまた眩暈のようなものを感じた。いや違う、これも地震だ。
「うわ、まただ。」
「ああ、揺れてるな。」
「揺れてると思うよ? 」
すると、三人の後ろから若い男の声がした。
「大丈夫ですよ、震度3なそうです。このビルは最新の免震構造ですからね。マグニチュード8クラスの首都直下型が来ても、びくともしません。」
ロビーで出迎えた水色の制服を着た青年である。首には聴診器をかけていた。
「初めまして、野田と言います。これより貴女方のお世話をする看護師の責任者です。」
そう挨拶されて、三人はおずおずと頭を下げて挨拶を返す。
「既にご存知かとは思いますが、検査のスケジュールを簡単に復唱致します。期間は、二泊三日。本日は、基礎データの採取になります。身長、体重、血液検査、各種専門医からの問診、ここで休憩を入れまして、心電図と脳波……」
どうでもいいような説明を、この野田さんは読み上げている。
けど、最後のこの説明で、三人は顔を上げた。
「そして夕食となりますが、これは今回のチーフ・ドクターの悪魔博士とご会食をしていただくことになります。」
「悪魔博士ぇ~? 」
でかい声を出したのは、例によって辰子だった。
「阿久間博士です。阿武隈地方の『阿』」
阿呆の「阿」のほうが分かりやすいのに、と希望は思ったが、もちろん口にはしなかった。
「久しいの『久』、あいだの『間』と書いて、安久間博士です。フルネームは、安久間健介博士です。」
名前はアンバランスに普通だな、と希望は思ったが、もちろんこれも口にはしない。
けど、辰子は、いつもの如く、思った通りのことを、そのまま口にする。
「うへえ、マッドサイエンティストみてえな名前だな! 」
まったく、豪快なんだか、ガサツなんだか。
野田さんは苦笑していた。
初日の検査はあっという間に終わり、三人は再び着替えを促された。セーラー服である。しかし、これは最初に着てきた自前ものとは違って、新品だった。しかも聖ブリジット学園指定の制服で、サイズも全てピッタリと同じものだった。
三人は着替えを終えると、ビル最上階の部屋に通された。
そこは、高層ビルの展望レストランそのものと言った作りだった。四方が大きなガラスで、東京の夜景が360度一望できる。
しかし客は、希望達を除いて他には誰も居ない。
大きな円形のテーブルを囲むようにして、三人は座っていた。
やがて、入り口のほうから、件の安久間博士が現われた。
希望は、ビン底眼鏡にヨレヨレの白衣、逆立った白髪、そんな漫画チックな姿を想像をしていたが、そこに現われた悪魔博士は、意外を極めた人物だった。
年齢は、どう見ても二十代の青年である。それもかなりなイケメンだ。Tシャツの上から半そでジャケットを羽織っている。ハーフパンツにスニーカーだって? そして、髪を茶髪に染めていた。
「初めまして、阿久間健介です。私服のほうが、お互い肩の力が抜けるかなと思った次第でね。もし失礼だったら、あやまるよ。」
三人は、首を横にぶんぶん振った。
「いや、全然構いません。」
希望が代表して言う。
辰子は、意外なマッドサイエンティストのファッション・センスに目を丸くしている。
イケメンに目が無い桜は、ちょっと頬を赤らめながら、青年科学者をじっと見つめている。
博士が席に着くとすぐにオードブルが運ばれてくる。
希望は、ちょっと驚いた。これ、かなり本格的なフランス料理なんじゃないか? たかが高校生の身体検査に、なんでこんな大袈裟な待遇なんだろう?
阿久間博士と三人は、しばらくは今年の異常な猛暑だの、首都圏の群発地震だの、甲子園だの、当たり障りの無い話題を、外交辞令的にしていたが、二皿目の料理が片付いた辺りで、希望は前から思っていた疑問を口にした。
「その、何でぼく達、……あ、いや、わたし達なんですか?」
阿久間博士は、愛想良く微笑んでいる。
「どうして君たちが、今回の被験者に選ばれたか? それを知りたいわけだね。うん、これは大事なことだ。」
希望は、博士の愛想笑いに、どこか皮肉っぽい不穏なものが見えたような気がしたが、それは勘繰りだろうと、すぐに打ち消した。
「2020年初頭、世界規模で謎の出生率の異常低下が発生。5年後にはほとんどの国で子供が生まれない異常事態になった。 原因は新型ウイルス、通称MV600よる「流行性子宮機能不全症候群」の世界的パンデミックにあった。一部の愚かな国が、出生率対策と称する戦争を始めたために、人口減に拍車がかかり、人類は総人口を50%以下に減らしてしまう。2030年初頭に、日米合同医学チームが、MV600のワクチン開発に成功。ほとんどの国で女児への接種が義務付られ、出生率が回復しつつある。 しかし、人口減はワクチンの普及から30年以上が過ぎた2070年代でも依然深刻であり、WHOは「非常事態宣言」を解除していない。ここまではいいね?」
希望は頷いた。
それは中学生の公民の教科書にも載っている常識だ。
「ワクチンの他にも、人口対策のため、男性を出産可能な女性に性転換させる技術、「完全性転換テクノロジー」が確率された。ただし全ての男性に出来るわけではなく、性染色体上のDNA検査から選抜された「適応者」の少年にのみ可能だ。性ホルモン・バランスの安定が必須なため、第二次性徴が終了した後のほうが成功率が高い。」
そう、それも常識だ。 だから「適応者」である希望も桜も、高校卒業と同時に性転換を受けることになる。
「新たな技術として、思春期前に性転換を行う処方も開発されたが、こちらはまだ臨床試験の段階にある。」
辰彦、いや辰子が、その臨床試験に中学生の時に志願した。だから、辰子は身体は完全に女性である。ただし身体だけだが。中身は、あの通り絶望的なまでに男のままである。
「2040年段階では、性転換は任意であった。しかし2060年に、「適応者」とされた少年は、性転換を「義務」とする改正案が、国会を通過。全ての「適応者」の少年は18歳になると、性転換を義務付られた。拒否権は、人命にかかわる理由がある場合を除いて無い。」
うん、これも常識だ。「改正出生率復興法 」、通称「出生法」である。
「で、それがどうしったつーんです? 俺達が、そのぐらいの社会常識を知らないとでも言うのかよ?」
辰子が、ぶっきらぼうに言った。
「あ、いや、すまん。ちょっと君たちの置かれた境遇を、おさらいしておきたくてね。つまり君らは、少年として生まれながら、女性に改造されなければならない。子供を産むためにね。」
桜が頬を、さらに赤くした。
希望は、考え込んだ。そう、ぼくも高校卒業と同時に女になって、旦那を見つけて、子供を産まなければならない。けど、未だに実感が無いと言うか、想像すらつかない。妙な薬を投与されて精神的にも多少の変化はある。例えば甘いものが好きになったり、イケメンの男の子が気になるようになったり。さらに女性になるための訓練として、こんな格好でこんな生活を続けているが、「性自認」はどうしようもなく「男」なのだ。
ここで三皿目の料理が運ばれてきた。白身魚のムニエルだ。メインだろうか?
阿久間博士は、魚にナイフを入れながら言った。
「ここでちょっとしたアクシンデントが、人類を見舞っているのだよ。」
希望は、魚料理そっちのけで、博士の話に身を乗り出した。
「アクシデント? 人類? 」
博士は深刻な面持ちで頷いた。
「そう、人類レベルでの深刻なアクシデントだ。」
そう聞いて、さすがに辰子も桜も、食べる手を止めた。
「ウイルスの変異種が確認されたのだよ。MV601、MV605と我々は呼んでいるがね。要するに、ワクチンが効かないのだ。」
希望は唾を飲み込んだ。それって、やばくね?
桜が眉を顰めて言う。
「それ、新聞に出てたと思うよ?」
辰子は、怪訝な顔だ。
「俺は初めて聞くなあ。」
阿久間博士は、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「今風の報道管制だよ。紙メディアの新聞の片隅に、ひっそりと載せる。人の目にはめったにふれないし、誰も気にも留めない。発禁にしてるわけでもなく、あくまで自粛を要請しているだけ。言論の自由を尊重しながら、やばいことは世間に知られないようにする。いつものことだ。」
希望は、話題を戻した。
「その新型ウイルスは、どれくらい広がっているんですか?」
「パンデミックには、程遠い。ただ、上海とテヘランで散発的な流行が発生した。民主主義を採用していない国の数少ない利点だね。患者を強制的に隔離した。だが予断はゆるされない。またどこかで流行が起こるかもしれないし、半世紀前のように世界的パンデミックにならない保証もない。」
希望の声は、やや大きくなった。
「新型のワクチンは開発されてないんですか?」
すると、阿久間博士はニヤリと笑った。
「そのために、君らが必要なのだ。」
はあ!?
希望、辰子、桜は顔を見合わせた。
希望が代表して質問する。ちょっと興奮したせいで、一人称がいつもに戻ってしまっていた。
「ぼく達が? 何でです?」
「散発的な流行地帯で、ウイルスを激しく被ばくしたにも関わらず、まったく影響を受けなかった者達がいた。問題なく、妊娠し出産した。彼女ら、いや彼ら、かな? 性転換した「適応者」の一部だよ。彼らには、ウイルスは感染しなかったのだ。」
「そういう抗体を持っていたのですか?」
「当初はそう思った。しかし、抗体ではない。酵素だ。まあ、従来の医学の酵素とは定義が若干違うのだがね。とにかく、一部の適応者は、そういう酵素を生まれつき持っていて、新型ウイルスに強い抵抗性を示すのだ。」
希望、辰子、桜は再び顔を見合わせた。
希望は、視線を阿久間博士に戻す。
「つまり、ぼく達が、その酵素を持っていると? 」
その時、とつぜん床がカタカタと振動した。
また地震だ。初期微動だ。
すぐにグラリと主要動が来た。しかも大きい!
桜が、キャッ! と悲鳴をあげて、辰子にしがみつく。
希望も、反射的にテーブルを掴んだ。
壁のスピーカーから館内放送が流れる。
「ただいま、やや強い地震が発生しております。震度5弱です。避難の必要は特にありません。火元などには充分注意して、怪我のないよう、冷静に対応してください。くりかえします、ただいま、やや強い地震が」
阿久間博士は、何事も無かったかのように、笑顔で食事を続けていた。
食事が終わると後はフリーの時間だということで、三人は宿泊室に案内された。
そこは高級ホテルの客室と言っても良いセレブの部屋だった。
3ルームから成り、ベッドルームには3人ぶんの寝床が用意されている。リネンも完璧だった。
三人ぶんの机と椅子が置かれた落ち着いた雰囲気の部屋と隣接していて、そこにはパソコンも置かれている。
浴槽付きのバスは、トイレとは別室に独立しており、それを分けるように洗面所も置かれていた。
リビングは二十畳ぶんぐらいはありそうな広い部屋で、ソファーやテーブル等の家具調度品も高価そうなもので、掃除も行き届いている。大画面の液晶テレビもあり、映画専門の有線放送も視聴できる。
ルームバーまでもがあるが、さすがにアルコール類は全て撤去されていた。しかし、冷蔵庫にはソフトドリンクと氷がたっぷりあり、これは自由に飲んで良いとのことだった。スナック菓子やキャンディー、チョコレートも数種類用意されていた。「ただし明日の検査への影響もありますので、午前5時以降はご遠慮ください」との野田さんの忠告だった。
桜はバスローブに着替えて、きゃっきゃっとはしゃいでいる。
辰子は、日課の筋トレを始めた。
希望も、ゆったりとしたバスローブに着替えて、ふっと一息をつく。
しかしすぐに、この部屋の異様さに気づいた。
まず、窓が無いのだ。四面が全部壁だ。出入り口は1箇所しかない。これって、火災予防条例にひっかからないんだろうか?
もう一つは、リビングに置かれたインテリアだ。
「ガネーシャの石像?」
壁のニッチに、灰色の石像が置かれている。像の頭部を持った人間の坐像だ。しかし、ガネーシャにしてはおかしい。インドの福神は、もっとふくよかな体型をしているはずだ。しかしこれは逆三角のボディビルダーのような筋肉質の体型だ。そもそも頭部は、本当に象なのだろうか? 耳が小さすぎるし、長い鼻はどこか触手を思わせる。先端はラッパ状で、象のそれには見えない。
「ねえ、それって、珍しいの? 何かのお宝?」
石像を熱心に観察している希望を見て、桜が怪訝そうにたずねた。
「あ、いや、ガネーシャにしては、変だなあと思ってさ。」
そう言って希望は、おかしな所を簡単に説明する。
「ふーん、聖天さんとは違うの? 」
「全然違うなあ。大聖歓喜天はガネーシャが密教に取り込まれたものなわけだけど」
筋トレを終えた辰子がつまらなそうに、二人の会話に割って入った。
「んな、わけの分からねえ飾り物のことなんか、どうでもいいじゃねえか。だいたい希望は本を読みすぎなんだよ。無駄知識ばかり溜め込んでるから、しょうもないことばかり気にするようになるんだ。」
そう言って、辰子はテーブルの上に置かれている、希望が持ち込んだ三冊の文庫本をチラリと見る。
「そんなことより、あの悪魔博士だっけ? 胡散臭い奴だと思わねえか?」
辰子は、阿久間博士に、あまり好印象を持っていないようだ。
しかし桜は嬉しそうだ。
「うーん、でもとってもイケメンだったと思うよ? 」
希望はどちらかというと、辰子に賛成だった。
どうもあの青年科学者は、信用する気になれない。大事なことを秘密にして、何かを企んでいるような気がする。
「さーて、ひとっ風呂浴びて来るぜえ。」
そう言って辰子はバスルームに向かった。
桜が後ろから声をかける。
「終わったら、教えてね! わたしもシャワー浴びたいし。」
それは希望も同様だった。今日は暑さで汗だくになったからなあ。
シャワーを浴びたら、明日に備えて、早めに寝ることにしよう。
その夜、希望は夢を見た。
希望は密林のジャングルに居た。アフリカの奥地? いや、ここは東南アジアだ。インドネシアのどこかだろう。
ジャングルの中に開けた広場がある。草が刈り取られ、何かの軍事演習場のようだ。
希望は、なぜかアメリカ軍の軍装をしていた。M16アサルトライフルを持ち、何かを監視するように歩いている。
「オノデラ少尉! 」
そう呼びかけられて、希望は声の主見た。
部下らしい四十代ぐらいの中年の兵が居る。東洋人のようだが、日本人や中国人とも、また東南アジア人とも違う。浅黒い肌の背の低い男だった。子供ぐらいの身長しかない。
希望の口から、こんなセリフが自然と出てくる。
「ヤンボ軍曹、報告せよ。」
その部下らしいヤンボ軍曹が敬礼をして、大きな声で報告する。
「T民兵中隊、全員整列しました!」
希望は、それに凛とした声で答える。
「よろしい。」
見ると、奇妙な集団が、アメリカ陸軍式の武装をして整列している。身長は150センチあるかないかの背の低い集団だ。浅黒い肌をした青年達で、全員がアメリカ軍式の敬礼をしている。
同時に場面が切り替わった。
アメリカ軍の兵士達が、ジャングルから何かを運び出そうとしている。
それは大きな石像で、ローブに縛られ、地面に敷かれた丸太の上を、ゆっくりと移動してゆく。先には大型の軍用トラックがあり、急ごしらえの滑車付きのロープ巻き上げ器の前へと運ばれてゆく。
作業をしているのは、さっきの「T民兵中隊」の兵達で、それをアメリカ兵達が指揮をしていた。
見ていると、一人の老人が遠くで何やら叫んでいる。
背の低い、あの部族の老人のようだ。彼は軍装はしていない。上半身は裸で、顔には刺青がほどこされている。手には杖のようなものを持ち、それを激しく振り回していた。
さっきのヤンボ軍曹が、希望に言った。
「我々のシャーマンですよ。司祭と医師を一緒にしたようなものです。何でも三百歳を越えてるとか、病気を癒したり悪霊を祓ったりする聖人だとか。ま、自分は信じませんがね。」
「彼は、何を言ってるんだ? 」
「私も連中の言葉は、あんまり得意ではないんです。ちゃぐなーる、ふぁーぐん。これは固有名詞ですね。たぶん、あの神の名前でしょう。」
「ちゃぐなーる、ふぁーぐん? 」
「あとは支離滅裂で、よく分かりません。生きている石、あと『変容』をもたらす、と。すいません、自分は日常生活と軍務以外のこととなると、チョチョ語は、さっぱりなんです。」
「オイオイ、君の母国語だろう?」
「ええ、ですが自分は日本占領時代に、東京で日本式の教育を受けたものでありますから、むしろチョチョ語よりも、日本語のほうが得意なくらいであります。」
「若い連中なら、あの老人の言ってることは理解できるのではないのか?」
「若い連中は、自分と似たようなものであります。民兵隊に志願した連中は、都会派でしてね。ほとんどがキリスト教の洗礼を受けているくらいですから。『古臭い迷信には興味ない』そうです。要するに、連中も分からないみたいなんです。」
「どちらにしても、あの老人は石像の運び出しには反対なようだな。」
「祟りがあると騒いでるのでしょう。ですがご心配なく、自分も部下達も、伝統よりも文明を、迷信よりも科学を信じます。」
オノデラ少尉こと、希望は、その石像を改めて見た。
像の頭部を持った人間。おそらくインドのガネーシャが、この地に変形して伝わったのだろう。
「にしても、本国はどうして、あんな薄気味悪いだけの石像を欲しがるんですかねえ? 」
希望は肩をすくめた。
「俺にも分からん。とにかくあれは、俺の古巣にいったん運ぶらしい。」
「沖縄ですか? 」
「いや、横須賀だ。」
ここで希望は目を覚ました。
ゆっさゆっさと身体が揺れている。また地震?
「希望、起きて! 」
桜が希望の身体をゆすっている。
「ん、ああ? 桜か? どうしたんだよ? 」
「わたし達の他に、この部屋に誰か居るよ! 」
「……何だって? 」
希望は起き上がった。
「さっき、トイレに行ったんだよ。そうしたら、リビングのほうでゴトゴト音がするんだ。ソファーがズルズルと動いているのを確かに見たんだ。辰子は起きてくれそうもないし。」
それで、ぼくか。
希望は辰子を見た。相変わらず凄い寝相で、毛布を半分蹴っ飛ばしている。
バスローブも肩半分がずり下がっていて、大きな胸が豪快にはみ出ていて、目のやり場に困る。
ソファーが動いた? たぶんまた地震だろう。
そう思いながらも、希望はベッドからおりてスリッパを履いた。そしてリビングへと向かう。
その希望の後ろに隠れるようにして、桜も恐る恐るついてくる。
リビングはフードランプの仄かな明かりで薄暗い。ソファーや液晶テレビがオレンジ色の微光を浴びて、浮かび上がっていた。
希望は、桜を安心させようと優しく言った。
「ほら、別に変った所は何も」
すると、壁をドスン! ドスン! と激しく叩くような音がした。
「ほら! ほら! 」
桜は怯えた声で、ルームバーを指差した。
冷蔵庫の扉がひとりでに開き、すぐにパタン! と勢いよく閉じた。
希望は、凛とした声でリビングに向けて言った。
「誰か、そこに居るのか? 」
返事は無い。
代わりに天井から、パーン! パーン! と破裂音か、ベニヤ板が折れるような音がする。
希望は、壁にあった灯りのスイッチを入れた。
部屋がまぶしいくらいに明るくなる。
当時に、音はやんだ。
リビングには、誰も居ない。
「また地震かな? 」
「で、でも、床は揺れていなかったと思うよ? 」
希望は、あらためてリビングを見回した。
別に異変は無い。テーブルの上の飲みかけのコーラもそのままだ。
いや、どこか変だ。
希望は、あのガネーシャの像を見た。
そうだ、あの奇妙な夢で見た神様の像と全く同じだ!
夢ではガネーシャではなく、「ちゃぐなーる、ふぁーぐん」と言ってなかったっけ?
そして、その像にどこか違和感を感じた。
あれ? あの石像、ポーズが微妙に違ってないか? 右腕が、ちょっと下にさがってないか?
そして、視線のようなものを感じる。まさにあの石像から。
けど、桜をこれ以上怖がらせたくなかったので、黙っていることにした。
ここで今度は二人の後ろから、ゴソゴソ音がした。
希望と桜は、びっくりして後ろを振り返る。
「お前ら、こんな時間になにやってるんだ? 」
希望は、ホッと胸をなでおろした。
「なんだ、辰子か。」
バスローブが半分ずりおちて、右肩を露出させている。寝ぼけ眼をこすりながら、もう片方の手で腰をポリポリ掻いていた。
「地震だよ、地震。」と辰彦の意見はそっけない。
桜は不安げにスマホを見ている。
「うーん、震度1や2の地震は沢山起こってるし、夜の11時頃に震度3の揺れがあったみたいだけど、ソファーが動くほどの揺れは、ここ1時間ほど無いと思うよ? 」
「じゃあ、ネズミだろ。」
希望は首を横にふった。
「ソファーを動かすって、どういうネズミだよ。」
桜はおびえている。
「も、もしかして、お化け? 」
辰子は、大きな欠伸をした。
「んなわけねーだろ。」
希望の頭には、ポルターガイストとかラップ音とか、そんな気味悪い言葉がいくつも浮かんだが、桜を怖がらせるわけには行かないので、もちろん黙っていた。
三人はベッドルームに戻ると、3つのベッドを移動させ、くっつけた。辰子と希望が桜を挟んで、川の字に寝ることにしたのだ。
作業が終わると、辰子はゴロリと横になる。
「これで、何があっても、ぼくと辰子が桜を守るからさ。」
希望は優しく言った。
灯りを消すと、桜が希望の手を握って来た。
ああ、これはかなり怯えているな。そう思った希望は、何も言わずそっと手を握り返してやった。
やがて睡魔が襲ってきて、希望は眠った。幸い、もう妙な夢は見なかった。
朝の6時、希望は飛び起きた。
やば、朝御飯の準備をしなけりゃ。
……って、そうか、今日はそんな必要は無いんだった。
隣では、桜が「すぴー、すぴー」と可愛らしい寝息をたてている。
辰子のベッドは空っぽだ。だがリビングのほうで、竹刀の素振りをする音と、辰子の激しい呼吸の音が聞こえる。日課の早朝鍛錬だろう。
このまま寝ていたい誘惑にも駆られるが、二度寝をすると体調が狂ってしまう。というわけで、希望はベッドから出た。まあ、文庫本でも読んで、時間をつぶすさ。
そんなことを考えながら、希望は何気なく壁に視線をやった。
あの石像が目に入る。
あれ?
また不自然な雰囲気がする。石像の腕の位置が微妙に変わっているような気がする。……いやいや、そんなことがあるわけがない。
希望は、薄気味悪い考えを頭から追い出して、文庫本を手に取ると、それに熱中した。
7時半頃、ドアがノックされた。
看護師が朝食を持って来たのだ。希望は礼を言って、それを受け取る。
この時間は、さすがに桜も起きてきて、スマホでメールチェックをしている。辰子はと言うと、朝練の汗をシャワーで流してきて、身体にタオルケット一枚という格好だ。
朝食のメニューは、クロワッサンにポテトサラダ、スクランブルエッグにヨーグルト。それに紅茶だ。
大食いの辰子は「足りねー」と文句を言うが、これからの検査に影響が出るということで、決められた量以上は食べることは出来ない。
やがて、チーフ看護士の野田さんがやってきた。
「おはようございます」の挨拶もそこそこ、メモで今日の検査のスケジュールを読み上げる。
「本日は、博士からお聞きおよびとは思いますが、皆様の体内酵素の観察検査が主になります。」
酵素? 新型ウイルスへの抵抗性をもたらしているとか言う。
三人は顔を見合わせた。嫌な予感というか、正体不明の不安に襲われたからだ。
ここで桜が、野田さんに質問をした。
「あの、昨夜なんですけど。この部屋の壁を叩くような凄い音がして、ソファーがひとりでに」
野田さんは、興味なさげに事務的に答えた。
「このビルは、様々な機器がありましてね。多分その振動でしょう。」
真夜中に、鉄骨の建物を振動させるような機器を動かしてるのかよ? と希望は突っ込みかけたが、自制した。
野田さんは事務的に、スケジュールの説明を続ける。
「それで、先ずはこれから阿久間博士の問診を受けていただきます。」
三人は、阿久間博士の執務室に通された。
にこやかに三人を迎えた博士は、今はさすがに医師らしく白衣を着ていた。眼鏡をかけていることも、昨夜とは違う。
博士は、にっこり笑った。
「今日も異常な猛暑のようだ。この勢いだと、最高気温は40度に達するだろうということだ。昨日から、熱中症で担ぎこまれる急病人で、都内の救急車と病院は大わらわらしい。気象庁は、無用の外出は控えるようにとのお達しをだしたようだ。まあ、このタワービルの中に居る限りは、この通り快適だがね。」
博士のデスクの後ろには大きな窓があり、東京の街並みが見おろせた。
そして、部屋の入り口には、あの石像のオブジェがある。象の頭をもったガネーシャもどきの石像だ。三人は、それを敬遠しながら、部屋の中央へと進む。
この部屋の左右を見ると、両の壁は本棚に覆われ、おびただしい数の蔵書で埋まっていた。
本好きの希望は、本棚を見ると書名のチェックをせずにはいられない。視線が背表紙の書名を追うと、すぐにその異様さ、いや禍々しさに気付いた。
希望は、阿久間博士の蔵書の背表紙を1つ1つ読んでゆく。
キールの「モスマンの黙示」、ヴァレの「マゴニアへのパスポート」、フォートの「呪われし者どもの書」、グールドの「怪異の解剖学」、フォーチュンの「心霊的自己防衛」、R・A・ウィルソンの「神経政治学」……
阿久間博士は、そんな希望を見て笑った。
「どうだ? 呆れたかね? 科学者ともあろう者が、そんな神がかった奇妙な本を集めていることに。」
「いいえ、呆れてなんかいませんよ。その道のマニアにとっては、涎が出るくらいの見事なコレクションだと思いますよ。ただ」
「そう、ただ、これらの本のテーマは世間一般では、日陰者だ。自然科学的に言うなら擬似科学、人文科学的に言うのなら間違った信念に基づいた誤謬の体系、社会科学的に言うのなら病理学的思考。」
「ぼくは、そこまでバカにしてはいませんよ。人は合理的なものだけでは生きていけませんから。例えば人類の大半は神様を信じて居るじゃないですか。」
「神だと? 」
だしぬけに阿久間博士の口調が荒々しくなった。
「神? そうだ、神だ。私は、それにずっと憑かれて来たのだ。それこそが……」
希望が戸惑い、桜がおびえ、辰子が胡散臭げにしていることに、すぐに博士は気付いた。
「あ、すまん。ちょっと、私の研究テーマが頭に浮かんだものでね。」
ひどく気まずい雰囲気に三人は見舞われた。
希望は話題を戻した。
「こういう本に大枚をはたく人間は2種類居ると思います。一つは、こうしたものを本気で信じて居る人達。もう一つは、こうしたものを信じる人間の心理や行為に関心を持っている人達。博士は後者ですよね?」
しかし博士は首を横に振った。
「いや、そのどちらでもない。」
希望は煙にまかれた気分だった。
博士が言うには、
「オカルトは一面の真実を語っている。例えば、一部の建築学者には、家相や風水を研究する者が居る。医学者には鍼灸や漢方を研究する者もいる。そこには経験則から、現代の自然科学が見落としている真実が含まれていることがある。耳かき一杯ほどであるにしても。真実の探求と言うのは、いつの世も砂金探しだとは思わないかね? 」
阿久間博士との「問診」が済むと、希望、辰子、桜の三人は、そのまま検査室へと回された。
昨日と同様、身体測定用の簡易検査衣に着替えさせられた。辰子いわく「裸エプロン」である。
そして三人は検査用の寝台に寝かされた。
年配の看護婦が、注射器を持ってきた。エタノールを染みこませた脱脂綿で腕を消毒される。
「ちょっと、チクッとしますよ。」
注射が済むと同時に、周囲の風景がグルグル回り出した。物凄い睡魔が襲ってきて、希望の意識は遠のき、やがて消失した。
それからすぐに意識が再開された。
また「夢」だ。
今度は、希望は旧日本軍の軍服を着ていた。
希望は数人の戦友達と共に、どこかの軍事施設らしい敷地を歩いている。やがて木造の建物が見えてきた。その木造の家屋の中に入ると、数人の白衣を着た軍医らしい男たちに迎えられた。
そのリーダーらしい口ひげを生やした初老の軍医が、にこやかに挨拶をした。
「登戸研究所別館にようこそ。これより君らは、栄えある聖天工作の任務に就いてもらうことになる。」
その軍医は、後ろ手を組みながら、やってきた若い兵達を値踏みするように見て回る。
そして、希望の前に来ると歩を留めた。そして声をかけてきた。
「君の名は? 」
「小野寺一等兵であります。」
希望の口から、そんな返答が出る。
「よろしい、さっそくだがついてきたまえ。君の今回の任務について説明しよう。」
その軍医に促されるまま、小野寺一等兵となった希望は、地下室へと通じる階段を下ってゆく。こんな長い深い地下に通じる階段を見るのは初めてだった。
「怖いかね? 」
「いいえ。自分は死に損ないでありますから。戦友たちは慣れない陸戦に編入されて、みんな戦死してしまいました。自分は二度も死に損ねました。もう、何も怖いものはありません。」
「そうか。話は聞いているよ。君らの上官は、君らを見捨てて、ウイスキーと芸者だけを飛行機に乗せて、自分だけ逃げたそうだな。ひどい上官に当たって、気の毒をしたね。」
「……。」
やがて小野寺一等兵となった希望は、奇妙な石像の前に案内された。
象の頭部を持った人間? しかし、象にしてはおかしい。鼻と言うより、太い触手だ。先端はラッパ状で、細かな歯のようなトゲが無数に生えていた。
「君は大聖歓喜天、聖天さんを知っているかね? 」
「ええ。自分の祖父は真言宗の僧でしたから。ただ、怖い神様というイメージが強いです。祖父は聖天堂の横を通る時、顔をそむけていたのを覚えています。」
「うむ。聖天は、ご利益が大きい変わりに罰も激しいと信じられ、生半可な気持ちで信仰すべきではないとされた。七代ぶんの福を一代に集めるので、これを祭る者は栄えるが子孫は没落するとも言われた。ところが、この神はビナヤカ、つまりインドのガネーシャが仏教に取り入れられた神なのだ。インドのガネーシャは、我々日本人の七福神に当たる、縁起の良い福の神なのだがね。禍々しさなど欠片も無い。」
「……。」
「象の頭部の人間の身体を持った密教の神は、実は聖天の他にも何柱もおられるのだ。金剛食天、金剛催天、金剛衣天、色々あるが、いずれもビナヤカの眷属で賞罰ともに激しい神とされた。インドの福の神が日本に伝わるうちに、どうしてこんなに恐れられるようになったのか? 不思議に思わないかね? 」
「これは? 聖天には見えませんが。」
「もちろん、これは聖天ではない。ガネーシャでもない。これはビルマの奥地から運んできたものだよ。これを崇拝しているチョチョ人達は、チャグナール・ファーグンと呼んでいたがね。」
「チョチョ人? 聞いたことがありませんね。」
「たぶん無いだろう。ビルマの奥地の少数民族なのだが、南方の他のどの民族とも似ていない。ドイツの人類学者が、その起源について仮説を立てている。どうもチベットの少数民族に起源があるのではないか? との仮説を立てている。で、そのチョチョ人には、奇怪な創世神話があるのだよ。この神が、地べたを這い回っていたカエルを立ち上がらせ、知能を与えた。そのカエル人間が猿と混血して生まれたのが、人類だと言うのだ。」
「それと聖天が関係あるのですか? 」
「いや、これは「他人の空似」だろう。一見似ているようだが、細部は全然違う。さっきの話は、ただの空想だよ。」
「とにもかくにも、これがそのチャグナール・ファーグンとやらの神像なわけですね? 」
軍医は、ニヤリと笑った。
「むしろ、ある種の装置かな。今はスイッチが切られた状態にある。見たまえ、あの魔除けの印が、チャグナール・ファーグンの活動を封じている」
地震だ!
希望は目を覚ました。
寝台が、ゆっさゆっさと激しく揺れている。
薬品棚の扉が開き、薬品や医療器具がぶつかり合ってはガチャガチャと激しい音をたて、さらにその一部が床に落下し散乱した。
キャスターの付いた機器が揺れで床をすべり、壁に衝突する。
デスクや椅子も激しく左右に床をすべり、ぶつかり合い、ガタガタと音をたてている。
辰子も桜も、寝台から起き上がり、驚愕と恐怖の表情を浮かべながら、寝台の縁を両手で掴んでいる。
館内放送が流れた。
「ただいま、強い地震が発生しております。震度6弱です。総員、すみやかに落ち着いて避難してください。くりかえします」
30秒? 1分? その地震はとても長く感じられたが、やがておさまった。
「希望、桜、大丈夫か!? 」
辰子が怒鳴った。
「ああ、何とかね。」
「だ、大丈夫だと思うよ? 」
桜は泣き笑いの表情で答えた。
ここで三人はすぐに異変に気付いた。
こういう緊急時には、普通だったら看護婦が飛んでくるはずだ。しかし誰も来ない。
希望と辰子は目を合わせると頷きあった。
寝台から降りると、桜の手を引いて部屋を出た。
廊下はガランとしていて、誰も居ない。
適当にドアを片っ端から開いて回るが、どの部屋ももぬけの空だ。それも、慌ただしく出て行ったらしく、実験器具なども作業の途中で投げ出され、乱雑に散らかっている。
桜はプルプル震えている。
「わたし達、置いてけぼりにされたと思うよ? 」
辰子は、怒りを隠さない。
「ふざけやがって。俺たちを裸エプロンのままにして、自分らはトンズラか? 」
希望は、改めて自分らの格好を見た。
「確かに、裸エプロンのままじゃまずいよなあ。更衣室に戻って、着替えよう。」
三人は、更衣室の自分たちのロッカーを開けて仰天した。
着てきたはずの服、聖ブリジット学園のセーラー服が無い。代わりにそこにあったのは、迷彩服の戦闘着だった。
「なんじゃあ、こりゃあ!? 俺たちにサバゲーでもやれって言うのかよ? 」
「銃まであると思うよ? 」
「俺のとこには、銃の代わりに日本刀だぜ? 」
しかし剣道、もとい剣術の達人の辰彦にとっては、銃よりも日本刀のほうが扱いやすいはずだ。これは計画的にあてがわれたものとしか思えない。
「研究所で戦闘服って、バイオハザードみたいだと思うよ? 」
桜が不穏なことを言う。
辰子と桜は、ロッカーの中身をみて、大騒ぎをしている。
希望も呆れながらロッカーの中身を見た。カラシニコフのようだ。いや、これは玩具だな。本物がこんなに軽いはずがない。けど、これはエアガンのようで、プラスチックの弾が撃てるようだ。
「でも、裸エプロンよりはマシだろ? 急いでこれに着がえよう! 」
それには辰子も桜も賛成だった。あんまり気が進まないが。
呆れたことに、その戦闘服のサイズは、それぞれ三人の身体にピッタリだった。
「なんかバイオハザードみたいだと思うよ? 」
「って、そんなお約束通りの展開になんかなるわけ……どわっ!? 」
辰子が大声をあげたのも無理はない。
半開きのドアを開けて入ってきたのは、どう見ても。
「うわ、ゾ、ソンビじゃねーか! 」
ボロボロの服を着た、半分腐敗した死体が、ヨタヨタと歩いて来る。そいつは両腕をあげて、覆いかぶさるように辰子に襲いかかった。
「うぎゃーっ!! こ、こっちに来んな、俺はまずいぞっ!! 」
そう怒鳴って、辰子は日本刀をめちゃくちゃ振り回す。大きく振り回され日本刀は、ゾンビのそっ首を捉え、そのまま勢い良く斬り飛ばした。
同時にゾンビは、ドサリと音を立てて倒れた。いや、倒れたというより、それは「崩壊」だった。砂のようなものになり、床に倒壊した。
飛ばされたゾンビの首も、壁にぶつかると同時に、砂の塊りとなって、ドサリと床に落下した。
それでも辰子のパニックは、おさまらない。
「ひえーっ! う、腕を噛まれたあ! 俺もゾンビになるぅ~~!! 」
桜は、そんな辰子を必死でなだめる。
「落ち着いてよ、別にゾンビになると決まったわけじゃないでしょ! これは映画じゃないんだから! 」
「んなこと言ったって、古今東西、ゾンビに噛まれた奴はゾンビになるって法律があるだろーが! 」
「そんな法律ないと思うよ? 六法全書にも載ってないと思うよ? 」
「うわああ! 俺はやり残したことがいっぱいあるんだ! ゾンビになったら、もう剣術ができねえ! 」
「ゾンビが剣道やっちゃいけないって法律も無いと思うよ? そもそもまだゾンビになると決まったわけじゃないし。」
「だから、俺のやってるのは剣術であって、剣道じゃねえっつーの! 」
「法的には大差ないと思うよ? 」
取り乱した辰子と桜は、さっきからトンチンカンな問答をしている。
比較的ながら冷静な希望はというと、崩壊したゾンビの残骸を、指でつまんで注意深く観察した。
希望は、ゾンビの残骸を掌に載せて、辰子と桜に見せた。
「見なよ、こいつはゾンビなんかじゃない。」
ここで辰子と桜は、やっと静かになった。そして、希望の掌の上の砂のようなものを見た。
「シリカゲルと海砂だ。どっちも、化学分析の実験に使うものだよ。ここは研究施設だから、こういうのが沢山あるわけだ。理由は分からないけど、これがゾンビの正体だよ。砂でできた動く人形だ。」
桜は首をかしげた。
「でも、それがどうしてゾンビの形になったのかな? 」
「それはぼくにも分からない。でも少なくとも、映画やゲームのような蘇った死骸でも、狂犬病モドキに感染した人間の成れの果てでもない。無機物から作られた動く人形だろうね。」
辰子も冷静になったようだ。
「じゃあ、俺はゾンビにならないんだな? 」
「味付け海苔の乾燥剤や石英の粉末で、人がゾンビに感染するなんて話しは聞いたこともないよ。」
ここで出し抜けに、大音響で館内放送が流れ、三人は飛び上がるほどびっくりした。
「着替えは済まれましたか!? 」
チーフ看護士の野田さんの声だ。
「それではこれより、本日の検査を実施致します。まず、私、野田がナビゲーターを務めます。ここには監視カメラとマイクが至るところにありますので、皆様との連絡には不自由はしないでしょう。質問があれば、ルールが許す限り、お答えします。」
はあ!?
三人は唖然となった。
野田さんは、構わず説明を続ける。
「現在、タワービルの15階より最上階の30階までの所員は全員が退避済みであります。14階へと通じる通路は全て閉鎖されております。検査を途中で放棄して、ここを出ることは不可能です。窓もすべて封鎖されています。屋上に出ることもできません。また、携帯電話の類の電波も同様に閉鎖されております。ただし、インターネットだけはフィルター越しに、限定的に利用可能です。また、実験場に置かれている物資は自由に使用していただいて構いません。また機器や器物を破損しても一切とがめません。必要とあれば、自由に破壊しても構いません。」
辰子は大声で怒鳴った。
「ふざけんな! 今すぐ、俺たちをここから出せ! 」
「それは出来ません。規約違反となります。」
「だったら、てめえが出て来い! ぶっ殺してやる! 」
「検査の内容を説明します。あなた方は24時間、ここで過ごしてください。24時間後に、あなた達は、ここから運び出されます。」
運び出される?
桜は、もう半べそだ。目が涙で潤んでいる。
「わたし達をどうする気なの? 」
同時に、パァーン! と天井で、破裂音がした。昨夜、リビングで聞いた音と同じだ。
桜が「ひっ! 」と悲鳴をあげた。
「ただのポルターガイスト、ラップ音です。あなた方のストレスがボルテージに達したために起こる、深層意識の外在化にすぎません。この建物は、人間の精神に強く反応するEMR増幅構造になっておりますので、ご注意ください。」
希望は「チッ! 」と舌を鳴らした。機器の振動じゃなかったのかよ?
希望は、スピーカーを睨みつけた。
「で、ぼくたちは24時間、ここで何をすれば良いんです? 」
「簡単です。生き残る努力をしていただきたいのです。もちろん、ナビゲーターの私も、ルールが許す限り、助言し、ご協力致します。」
生き残る努力?
なんだよ、それ?
希望は不安げに、辰子と桜と顔を見合わせた。
「これから、どうする? 」
しかし考えている間も無さそうだ。
更衣室の扉が、またもや開いた。
見ると、やはりゾンビだ。しかも三体も居る。
「こなくそ! 」
辰子はそう怒鳴ると、日本刀で一匹目のゾンビを切りつけた。
同時にゾンビは砂と化して崩壊する。
返す刀で、辰子は二匹目も、あっさり倒した。
しかし三匹目が辰子のわきをすり抜け、桜に迫る。
桜は「きゃっ! 」と悲鳴をあげて、手元にあった薬瓶を投げつけるが、ゾンビは何事もなかったかのように迫ってくる。
希望は「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせながら、カラシニコフの安全装置をはずしエアガンを構えた。そしてゾンビに狙いを定めて引き金を引いた。発射されたプラスチックの弾が命中すると同時に、ゾンビは崩壊した。
桜は、ゾンビが退治されたのを見て、やや落ち着いてきたようだ。
「な、なんか、本当にバイオハザードみたいだと思うよ? 」
「すると次はゾンビ犬かよ? 」
辰子がそう言うと同時に、まるで申し合わせたかのように、ドアの影から、半身が腐った犬が飛び出してきた。そいつは、辰子に飛びかかる。
「うわっ! 」
不意を突かれて、辰子は後ろ向きに転倒した。犬ゾンビは、そのまま辰子にのしかかり、喉笛に噛み付こうとする。
しかし希望がエアガンで、ゾンビ犬を即座に撃つ。同時にゾンビ犬は、黄色い小石と化し、崩壊した。
「サ、サンキュー、希望。」
辰子は親指を立てた。
希望は、ゾンビ犬の成れの果ての黄色い小石を拾い上げた。
「鹿沼土だな。観葉植物の鉢植の中にあるやつだ。」
「よし、相手が味付け海苔の乾燥剤だってなら、もう怖くはねえ。」
辰子は冷静さを取り戻したようだった。そして、上着を脱ぐと、医療棚から包帯を取り出し、桜に手伝わせながら、胸にそれをグルグルと巻いている。サラシ代わりにするつもりなのだろう。
希望は、ホッとした。こうなった辰子は、誰よりも頼もしいからだ。剣道の腕前は「神童」と呼ばれるだけのことはある。全国大会で、小学生の部は六連覇、中学生の部は三連覇、そして先月、高校生の部で優勝したわけだから、合計十連覇したことになる。
そして辰子の尊敬に足るところは、その飛びぬけた才能を鼻にかけたり、偉ぶったりしないことだ。「まだまだ修行がたりねえ」という口癖は、謙虚というより、本気でそう思っている。言葉使いは絶望的に汚いが、「弱気を助け、強気をくじく」の典型で、弱い者には男女の隔てなく常に優しい。
サラシ巻きを終えると、辰子は再び迷彩服の上着を羽織った。
希望は、桜にカラシニコフの形をしたエアガンの扱い方を教える。
幸いなことに、桜はこうした機器の扱いについては、飲み込みが早い。
ここで辰子が提案した。
「けどよ、桜は俺と希望の真ン中にいろ。俺達がお前を守る。俺が先鋒を努めるから、希望は後方支援を頼む。」
三人は用心しながら、更衣室を出た。
廊下は、相変わらずガランとしていて無人のままだ。
辰子は、日本刀を両手で持ちながら、視線だけを希望に向ける。
「で、これからどこへ行く? 」
「どこか、立てこもることが出来るところだろうね。それなら、食糧や水があるところを目指すべきだと思う。」
「なら、最上階の30階の展望レストランの調理室が良いと思うよ? 」
それで決まりだった。三人は非常階段を目指した。
勢いに乗った辰子は、ほとんど無敵だった。
「オラオラオラオラオラ!! 無駄無駄無駄無駄無駄無駄ぁ~!! 」
辰子はジョジョとデォオ様が混じった雄たけびをあげながら、日本刀を振るう。
援護射撃も何も必要ない。辰子がほとんど一人で、ゾンビを倒してしまう。たまにゾンビ犬が出るも、それも全然敵ではない。しかも辰子は戦闘を楽しんでいるようである。
「やっぱ、辰子は頼りになると思うよ? 」
希望も全く同感だ。うん、確かに辰子は強い。
それとゾンビは思いの他弱かった。というか、博士は本気でぼくらを殺す気は無いんじゃないか? あきらかに手加減をしてくれている。だったらどうして博士は、ぼくらにこいつらをけしかけてくるのだろう? 単に怖がらせるため?
廊下を走る途中、桜が鋭い声で叫んだ。
「ちょっと待って! 」
辰子が立ち止り、はずみで希望が辰子の背に衝突する。
辰子は、急いでいるところを止められて、ちょっと不機嫌そうだ。
「いきなり、どうしんだよ、桜? 」
桜が、半開きになった部屋のドアを指差している。
阿久間博士の執務室である。
希望は頷いた。
「何か、手がかりになるようなものがあるかもしれない。」
しかし博士の部屋は、思いの他、シンプルだった。
本が山のようにあるものの、メモ帳や日誌も無ければ、書類やファイルの類も皆無だった。デスクの引き出しを開けてみたが、そこにはありふれた文房具しか見当たらない。
あとは、あの薄気味悪い石像が部屋の入り口近くにあるだけだ。
希望は、博士のデスクの真横の書棚を見た。ここの一廓だけがガラス戸付きになっており、特別扱いのようだ。おそらく、貴重な稀覯本をしまってある場所なのだろう。
希望は好奇心に勝てずに、その背表紙を見た。
え?
「ソロモンの鍵」? 「ゲーティア」? 「アルマデル奥義書」? 「グラン・グリモア」? 「小プリニウス」? 「赤い竜」? 「黒い雌鶏」? 「モーセ第六、七の書」? 「聖キプリアヌスの書」? 「ラジエルの書」? 「ホノリウス2世の奥義書」?
これはどう見ても……。とても科学者の蔵書とは思えない。今朝、博士に突っ込んだ本は、オカルトの解説書にすぎない。
しかし、ガラス戸の中で大事に保管されているこれらの本は、オカルトの「実践」の本じゃないか。いわゆる「黒魔術」って奴だ。
希望は、カラシニコフの銃身で、その本棚のガラス戸を割った。
「イスラムのカノン」?
その本が、異様なオーラを放っている。希望は、その本を掴み取った。
辰子が呆れたような声を出した。
「おいおい、この期に及んで、まだ本の虫がうずくのかよ? 」
桜はというと、デスクの上のノートパソコンを掴み取った。
「とりあえず、わたしはこれを持って行くね。」
希望は頷いた。
「うん、戦利品になりそうなのは、それぐらいしか無いだろうね。」
辰子がからかうように付け加えた。
「もう一つは、その本だろ? 」
三人は、執務室を後にすると、ひたすら走った。
たまにゾンビに遭遇するも、辰子の日本刀の一振りで、だいたい片がついてしまう。
それで30階の展望レストランには。思いのほか簡単に早く辿りついた。
幸いなことに、その展望レストランは大広間で、フロア全体が見渡せる。中に5体居たゾンビを、ものの5分で始末すると、その残骸の砂や鉢植の土を、レストランの外に放り投げる。
3箇所あるレストランの出入り口には、テーブルと椅子でバリケートを築いた。
ここはトイレもあるし、水も食糧もたっぷりある。
さらに有難いことに、調理室の一角に事務用のスペースがあって、そこにはワークステーションが置かれていた。
桜は飛びつくようにワークステーションのスイッチを入れると、物凄い勢いでキーボードを叩きだした。
桜は、ネットのアングラでは、「ゼロ・クール」の名で知られるハッカーだ。
「うん、インターネットには普通につながるね。」
希望が覗き込む。
「でも、モニタリングされてるのは間違いないだろうね。外に助けを求めるようなことをしたら、多分即座にキックされるだろう。」
桜は、ここで館内放送用のスピーカーに向って、大きな声で話しかけた。
「ねえ、野田さん、聞いてるんでしょ? これから私は、この研究施設のイントラをハッキングしようと思うんだけど、いいかな? 」
すると、スピーカーから、すぐに返事があった。
「もちろんです。あなた方は24時間を生き延びるために、可能な限りの努力をしてください。ハッキングもクラッキングもご自由に。ただし、外部に助けを求める行為をされた場合は、ネットを切断します。」
「具体的には、何をしたら切られちゃうの? 」
「メール送信、チャット、スカイプを含めたあらゆる種類の通話、掲示板やブログを含めたあらゆる書き込み行為です。」
「ふーん、厳しいなあ。」
しかし言葉とは裏腹に、桜の表情は「しめしめ」と言っているようだ。
辰子はというと、床にゴロリと寝っ転がり、大声をだしている。
「ふあー! 疲れた! つーか、腹減った! 飯くれー!! 」
あー、はいはい。
希望は調理室に入ると、椅子にかけてあったエプロンを取り、迷彩服の上からそれを着けた。
さて、何を作ろうかな?
「おーい、辰子は何を食べたい? 」
「肉ぅー!! 」
「桜は? 」
「中華!! できれば四川風! 」
あー、はいはい。
希望は冷蔵庫を開けた。辰子には無難にハンバーグステーキでいいだろう。和牛のひき肉、卵、タマネギ、ニンニク。後は小麦粉かな。
中華はマー棒豆腐で良いだろう。豚のひき肉、木綿豆腐、ながネギ。
調味料をあさると、豆板醤、甜麺醤、オイスターソース、ごま油、ラー油、中華用の花椒。片栗粉まである。必要な物は、ことごとく揃っていた。
さーて、始めますか。
希望は腕をまくり、包丁を握った。
2時間後。
満腹した辰子は、呑気にもテーブルに突っ伏して居眠りを始めている。この状況で、豪気なんだか鈍いんだか。
桜はと言うと、ずっと阿久間博士のノートパソコンと格闘していた。
希望は、横から覗き込む。
「どうだ? 」
「うん、ネットから、わたしの書いたクラッキング・ツールを落として、それを使ってる。博士は幸いなことに、パソコンのスキルは中の上ぐらいだね。市販のセキュリティ・ツールしか使ってない。だから、こじ開けるのは簡単だと思うよ? 問題は、ファイルが暗号化されてることだと思うよ? 」
「その暗号を解読するには、スーパーコンピューターでも何年もかかると聞いてるけど? 」
「うーん、真正面から解読しようと思えばね。でも、ハッカーはそんなことはしないと思うよ? キーの一つは手に入ったし。それでね。」
そう言って、桜は真横のワークステーションを指差した。何か、物凄い速度で、妙なソフトが走っている。
「博士の同僚や部下の常時接続のパソコンに侵入して、検索をかけてるの。ほーら、やっぱりうっかりさんが居たよ? 二つ目のキーもいっただき! 」
桜が、激しくキーボードを叩くと、暗号化されたファイルが瞬く間に日本語のファイルに戻ってゆく。
やはり、桜は凄い。
希望は、阿久間博士のファイルを見て、首をかしげた。
何だこりゃ?
それは古い雑誌記事をスキャニングしたもので、戦争の記録のようだ。
「1970年、アメリカ軍が不可解な作戦。ナパーム弾を十数発、ベトナムのジャングルの奥地に打ち込む? そこにはベトコンの基地はおろか、村落すら無い本当の奥地である。ルイス少将いわく『そうしなければならない程、手がつけられなくなっていた』? 」
どういうことだ?
桜も液晶モニターに映し出されるファイルの中味を見た。
「これはスクラップ・ブックみたいだね。スキャナから取り込んだ画像、PDF、webデータの保存、テキストファイルまであるね。」
「けど、どうしてそれが戦争絡みのニュースなんだ? 」
1970年のベトナム戦争の末期に、米軍が不可解な爆撃をジャングルの奥地で行った。ナパーム弾が大量に撃ち込まれたわけだから、尋常なことではない。現場は猛火で地獄さながらだったと言う。
ファイルの資料を見ると、この作戦は軍事機密扱いだったらしい。それを数人のジャーナリストが嗅ぎつけて調査を行ったが、結局詳しいことは分からず終いだったらしい。
ただ取材を受けた軍部のお偉いさんの一人が、ちょっと口を滑らせたらしい。
「そうしなければならないほど、手が付けられなくなっていた」?
次は新聞記事だ。スキャナーで取り込まれたものだが、ひどく読みにくい。
「1988年、ソ連で不自然な地下核実験。」
中ソ国境近くのソ連の軍事研究説で、予告無しの地下核実験が行われた模様。
そこには、地下に広大な実験施設が建設されていたと目されていたが、今回の核実験はまさにその地下施設内で行われた。研究施設は完全に消滅したと目されており、何の目的でこのような実験が行われたかは、謎のままである。
国営のタス通信は、地下核実験を行ったことは認めているものの、その目的等については、一切報じていない。
……今度は旧ソ連かよ。どういう関係が?
次のPDFにまとめられた資料も不可解だった。
「不可解な爆撃」
1943年、満州で日本軍が秘密裏に自軍の軍施設を爆撃。爆撃の直前に毒ガスを使用した疑いあり。爆撃の後も、廃墟にダイナマイトを仕掛け、徹底的に破壊。
もう、わけが分からない。
「いや、待てよ? 」
希望は、資料の中にスキャナで取り込まれた兵士の日誌のような物があるのをみつけた。
「爆撃セシ友軍ノ施設ハ登戸研究所別館」
希望は、唾を飲み込んだ。登戸研究所別館? 夢に出てきた、あの地下室と軍医を、希望ははっきりと思い出していた。
次の資料は、人類学の学会誌だった。
おびただしい量のPDFのデータだったが、すぐにシノプシスらしいテキストファイルが見つかった。
「チョチョ人について」?
チョチョ人は、ビルマを中心に東南アジア各地に小さなコロニーを作って生活している少数民族である。中国やビルマの史書には、彼らの記述は皆無である。
1659年にイエズス会の宣教師によって報告されたのが最初と思われる。
彼らは隣接する他部族とは著しく異なる独自の文化を持っている。非常に閉鎖的な部族で、しばしば他部族は彼らのことを忌み嫌っており、交易の類も少ない。
彼らについて、本格的な調査が行われるようになったのは、ようやく1920年以降のことで、ドイツの文化人類学者ハインツ・メンゲルスハイム博士の研究による。
彼らが隣接する他部族から敬遠されたのは、その独特の宗教による。彼らは、象頭人身の神チャグナール・ファーグンを崇拝しており、それで石像を作る。その石像は、集落から1キロ以上離れたジャングルに祭られ、儀式の時以外は彼らも近づかない。
チャグナール・ファーグンは、血を要求する神であり、19世紀までは人身御供が捧げられていたとの真偽不明の報告もある。
外観から、当初はインドのガネーシャが伝わったものではないかと思われたが、調べれば調べるほど、両者は別物である。起源は、あきらかに違う。
1982年、イギリスの言語学者ロバート・C・ウォルトン博士の研究により、彼らのチョチョ語が、チベット南部の死語であるトチョトチョ語と類縁関係にあるとの指摘が成され、現在では定説となっている。
ビルマのチョチョ人達は、太平洋戦争の時に、日本軍によって占領されたおり、その多くがジャングルを捨てて都市部に移住した。一部目撃者の話によると、彼らの神チャグナール・ファーグンの石像と共に満州の研究施設に連行された者も数人居たとの噂もある。
1969年、インドネシア、ベトナムのチョチョ人の若者たちが、アメリカ軍の指導のもと、武装化した。彼らはベトナム戦争にあたって、補給などで米軍に協力した。
しかし1970年、大きな悲劇が襲う。米軍の誤爆により、ヤンボ軍曹以下数百人の民兵が、ナパーム弾の直撃を受け、焼死した。
わずかな生存者は、いずれもアメリカに移住。
2013年現在、チョチョ人は、世界中に約4万人居ると推定されるが、いずれも伝統を保持しておらず、チョチョ語を話せる者も数える程しか居なくなっている。宗教もキリスト教、イスラム教、仏教に改宗しており、チャグナール・ファーグン崇拝は消滅したと思われる。
桜は呆れたように言った。
「何これ? わけが分からないよね。」
マウスを動かしながら、桜は首をかしげる。
「ベトナム戦争に、旧日本軍の研究施設の徹底的な破壊、唐突にチョチョ人なるビルマの少数民族の資料? どういう関係が、……って、ねえ、希望、どしたの? 」
希望は、目を大きく見開いて、モニターを凝視していた。冷や汗が、頬をつたっている。
「あ、いや、ちょっと混乱して。」
希望の脳裏にフラッシュバックのように夢の光景が再現された。
ジャングルの夢では、自分は米軍の指揮官になって、ヤンボ軍曹配下のチョチョ人民兵に命じて、チャグナール・ファーグンの石像を運搬していた。あの後、そこにナパーム弾が撃ち込まれて焼き払われたのか?
もう一つの夢では、自分は旧日本軍の兵士になって、登戸研究所別館の地下で、チャグナール・ファーグンの石像を軍医に見せられた。その施設が当の日本軍によって、徹底的に破壊されたって?
「ねえ、希望、大丈夫? 」
「あ、ああ。それより、もっとファイルの中味を見よう。」
桜は、軽く頷くと、次のファイルを開いた。
今度は分子生物学の科学啓蒙雑誌だ。
「人類を進化させる酵素」?
ヒトゲノムの中には、ジャンクDNAと一時期考えられた遺伝子があった。
すなわち人間の遺伝子の中には、蛋白質の合成に一切関わらず、人間の身体の形成に携わらない、「何もしない」大量の遺伝子が存在する。この「何もしない遺伝子」は当初、世界中の遺伝学者達を悩ませ、一時期は「何の意味も持たないジャンク遺伝子」と考える科学者も居た。
ところが、これらのジャンクDNAの実に40パーセントが、トランスポゾンであることが判明した。トランスポゾンとは「転移遺伝子」のことである。
DNAの中には、勝手に移動して、生物の設計図を書き換えてしまう遺伝子が存在する。これが「転移遺伝子」である。
これは生物の突然変異を引き起こす大きな要因にもなっている。
しかしもちろん、「転移遺伝子」が好き勝手に移動することを許してしまえば、生物の設計図は野放図に書き換えられ、グチャグチャになってしまう。
そこで、普段は「転移遺伝子」の活動を抑制する酵素が分泌されている。
ところが、環境が変わって生物にストレスがかかると、この酵素の分泌が減り、「転移遺伝子」の活動が活発化し、突然変異が起こりやすくなる。
篤農家や園芸家は、経験則からこのことに気付いていた。すなわち、農作物を過剰に剪定したり、おかしな土壌に植えたり、わざとストレスを加えると突然変異が起こりやすくなり、品種改良の役に立つのである。
すなわち、生物の遺伝子は、環境に合わせて、突然変異の発生する頻度を調整することが出来るのである。
つまり「何もしない遺伝子」は、ジャンクどころか、将来の進化のための「未使用のパーツ倉庫」だったのである。
これは環境の変化等の進化圧が高まると生物の進化が加速し、逆に安定した環境下では進化が遅くなり止まってしまうと言う「断続平衡進化説」の説明にもつながる。
ところが、2060年代に、マーシュ財団研究所は、全く新しい「酵素」を発見した!
それは「転移遺伝子」の活動を抑制するのではなく、活性化させるのである!
この新しい「酵素」は、性転換テクノロジーの研究の過程で発見された。
全ての人間が、この「酵素」を持っているわけではない。この「酵素」を持っている者は、現在2種類確認されている。
1つは、チョチョ人呼ばれるビルマの少数民族。しかし、彼らは2020年に始まったMV600のパンデミックにより、2071年現在では五百人弱しか生き残っていない上、混血が進んだため、この「酵素」は、ごく微量しか検出できない。
しかし、もう1つは、おびただしい量の「酵素」を体内に含有する。
それは「適応者」の少年達である。
彼らの体組織の調製が容易なのは、この「酵素」によるものも大きいと考えられる。
そして、「適応者」の少年達の中には、チョチョ人のそれよりも、はるかに効率よく作用する、超強力型とでも言うべき「超酵素」を含有する者すら居る。
彼らは、MV600ウイルスの変異のそれすらも上回る環境適応指数を示す。
この科学啓蒙雑誌の記事を書いた記者は、こうしめくくっていた。
「この『超酵素』は、チョチョ人の創造神にちなんで、『チャグナラーゼ』と名づけられた」!!
桜も希望も冷や汗をかいていた。
これは、どう考えても自分たちのことだろう。
桜は次の画像ファイルを開いた。
それは「産業新聞」の生地のスキャナ・データだった。
「新技術の開発!」とある。
マーシュ財団のナノテクノロジー研究所は、新たな技術開発に多額の投資を決定。
第四次産業革命によって、IT産業は半世紀以上の「凍結」状態となり、多くの技術が失われて、ロストテクノロジーだらけになってしまったが、マーシュ財団はその復興に努めています。
このたび、全く新しいナノテクノロジーの研究を開始しました。
それは、
「酵素をロボットのように操作、操縦する構造体」を発見、その実用化に向けて研究開発を実施します。
「もう沢山だ! 」
思わず希望は怒鳴ってしまった。
ここで桜が、視線を希望に向けた。
「ね、ねえ、これって? 」
「ああ、ぼく達のことだろうね。」
「悪魔博士は、わたし達のこの『超酵素』が狙いなのかな? 」
「多分ね。」
「その『超酵素』を、この新型のナノテクノロジーを使って操作して、新型ウイルスに対抗するってわけ? 」
「そう考えるのが自然だよな。」
「でも、やっぱりわけが分からないと思うよ? 」
まったくだ。
希望の困惑は強まるばかりだ。
だったら、どうして阿久間博士は、自分たちにこんなサバゲーみたいな真似をさせるのだろう?
「ちょっと整理してみよう。」
希望は、気を落ち着けるために、軽く大きく息を吸った。
「阿久間博士は、ぼく達の持っている人間を進化させる超酵素、チャグナラーゼとやらを狙っている。こいつを酵素を操縦するナノテクと組み合わせれば、人類を進化させる魔法の薬の出来上がりだ。」
桜は人差し指を、自分の額に当てた。
「うーん、そしてその研究には、たぶん先駆者が居たんだね。そのチョチョ人というビルマの少数民族が、私達の『超酵素』ほどではないけど、そうした酵素を持っていた。」
「そう、旧日本軍の登戸研究所、米軍、そしておそらく旧ソ連も、研究をしていたんだ。けど、その研究施設で何かヤバいことが起きた。それで証拠隠滅が行われた。非常に乱暴な方法で。」
「何があったのかな……? 」
「それを想像するのは、よそう。」
これには桜も同意だった。
桜はマウスを操作し、次のテキストファイルを開いた。
「何これ? 」
のたくったアラビヤ文字が、ぎっしりと書かれていた。
最後に日本語で、こんな記述が。
「アルハザードは正しかった!!」
桜は阿久間博士のノートパソコン内の「スクラップブック」をさらに探った。
後は生化学、分子生物学の難解な論文がゾロゾロ出てくるだけだ。多分あの「ナノテク」に絡んだものなのだろう。「チャグナラーゼ」に関する研究も相当数あったが、希望や桜の素人知識では歯が立たない内容だ。
ここで、何やら後ろからゴソゴソ音がする。
辰子が昼寝から起きて来たようだ。
「よう、何やってるんだ? 」
希望と桜は、阿久間博士のノートパソコンで知った内容を、かいつまんで説明する。
「うーん……、酵素って下着の黄ばみを落とす洗剤のあれだろ? チャンドラグプタがどーしたって? 悪いが、日本語で説明してくれねーか? 」
希望は、可能な限り、話を要約した。
「つまり、阿久間博士は、人間を進化させる魔法の薬を作ろうとしているんだ。その薬の原料が、ぼくらの体内に含まれてて、博士はそれを狙っている。」
「それがこのリアルなバイオハザードとどういう関係があるんだ? 」
もっともな突っ込みだ。
「それは、ぼくも分からない。」
辰子は、ワークステーションのモニターに視線を向けた。
「そんなことより、ハッキングで俺達を閉じ込めてる14階への扉を開けることは出来ねえのか? 」
「難しいというより、無理だと思うよ? 14階の扉は、このビルの管理システムと独立した独自のシステムみたいだし。回り道をすれば、やってやれないことも無いけど、ハッキングというのは、セキュリティ・システムとの戦いと言うより、それを管理している人間のヒューマン・エラーを突くのが9割以上だと言っても良いと思うよ? 」
希望は親指の爪を齧った。みっともない癖だと自分でもわかっているが、ストレスになる考えごとをすると、どうしても無意識にやってしまう。
「野田さんは、ぼくらをずっと監視、モニタリングしてるもんな。下手なことをすると、すぐに先手を打たれるってわけか。」
桜は頷いた。
「そう。それに、この扉はもしかしたら、外側からしか開閉できない手動式かもしれないよ? 」
「結局、打つ手なしかよ! くそっ! 」
それでも、出来るだけのことはしたいという桜は、キーボードを叩き続けている。
希望は、辰子と共にレストランの大広間に移った。
椅子に腰掛けると、カラシニコフの玩具からプラスチック弾を取り出し、それを調べることにした。
これが命中すると、ゾンビは崩壊する。どうしてだ?
見たところ、何の変哲も無いプラスチック弾だ。いや、待てよ?
その弾には妙な図形が掘り込まれている。
「辰子の日本刀も、ちょっと見せてくれないか? 」
「おう。」
そう言って渡してくれた日本刀はかなり軽い。やはり、こちらも本物ではなく玩具のようだ。
だが、刃の部分に弾にあったそれと同様の図形が掘り込まれていた。
それは例えるのなら、木の枝を思わせる。5本の枝があり、枝の先端には小さな三角や同心円、四角形のようなものが付いている。何だ、これは?
辰子は、食後の腹ごなしと称して、戦闘服のまま筋トレを始めた。
希望はというと、活字中毒の禁断症状が出て来た。だが困ったことに家から持ってきた文庫本は、宿泊室に置きっぱなしだ。
ここで、阿久間博士の部屋から持ってきた本があったことを思い出した。「イスラムのカノーン」だっけ? 一応日本語で「尸条書より現代語訳したもの」とある。訳者は「Dr.Yamada」とあるだけで、それ以上のプロフィールは分からない。
希望は、とりあえずその本をパラパラとめくってみた。ああ、やはり魔術書だ。手の込んだまじないの記述がほとんどだ。またえらく退屈な本を持ってきてしまった。
だが、あるページで、希望の手は凍りついた。
あの図形だ。プラスチック弾や辰子の日本刀に掘り込まれていた木の枝のような。
もちろん、希望はその図形の解説を読む。
「古の印。この図形は真の形状を知らぬ者共によって、様々な著書で誤って表わされている。イブン・スカバオの著書にも2種類のヴァリエーションが紹介されているが、これも不正確で何の効力も無い。そこで小生が正確な図をここに示す。これを用いたい者は正確に写し取れ。長さの比率や角度を少しでも異にすれば、その効果は期待できないと知るべし」
古典の実用書にありがちな長いもったいぶった前置きである。だが、大事なことを警告している。
「古の印を理解する者は無し。精緻に磨き上げられた水晶やガラスが、湾曲した鏡が、日光を集めておが屑に火を付ける如く、その比率と角度により、天体の諸力を集め、悪意ある諸力への武器となるのやもしれぬ」
で、何に使う図形なんだ?
「これは旧支配者からの防御として、我らの知るものとしては、ムナールの石に刻まれし五芒星と共に有効なものである。旧支配者の眷属や下僕は、この図形を恐れ、通過を阻まれ、その活動を抑えられる。旧支配者も、この図形で隠された部屋や容器の中身を知ることはできない。旧支配者を崇拝する、彼らの信者にすら、ある程度の効果が期待できる。そして旧支配者を起源とする黒魔術も、ことごとくが無効化される」
今度は、まじないか?
って、旧支配者? これって、あのアメリカの怪奇小説家の創作じゃなかったのかよ?
希望は、この本の原著者の名前を確認した。
アブドゥル・アルハザード? じゃあ、この本は、まさか
突然、床が大きく揺れた。
また地震だ。
辰子は、跳ね起きた。
「やば、でかいぞ! 」
テーブルや椅子が、左右に滑る。ぶつかりあって、ガタガタ音をたてる。
調理場から、鍋や窯が床に落下する音が聞こえてくる。
桜が、顔面蒼白になって、激しい揺れでバランスを崩しそうになりながら、早足でやってくる。
桜が飛びついてきたので、希望は受けとめた。
「大きいと思うよ? 」
天井のランプの傘が、いくつか外れて落下した。
辰子が叫んだ。
「やべえ! バリケートが!! 」
レストランの入り口のテーブルや椅子を積み上げたバリケートが、倒壊する。
地震のせい?
いや、そうじゃない。
希望は、唖然とした。
「ゴーレム? 」
身長2メートルはあろうかという、石の大きな人形が、バリケートを押し倒し、レストランに侵入してくる。
桜は小さな悲鳴をあげた。
辰子の声はちょっと震えている。
「あれ、乾燥剤じゃねえよな? 」
そう言いながらも、辰子は日本刀を握ると、ゴーレムへと突進してゆく。吹っ切れた時の辰子のクソ度胸は半端ない。
希望はエアガンで狙いを定めた。
辰子がゴーレムに日本刀を突き立てたのと、希望が撃ったプラスチック弾が命中したのは、ほぼ同時だった。
思った通り、ゴーレムはあっという間に崩壊した。
正体は、壁のタイルの山だった。
辰子は、「チッ! 」と舌打ちをした。
「くそ、ゴーレムはやっつけたが、バリケートを突破されたぞ! 」
数体のゾンビが、こちらにヨロヨロとやって来る。
希望は、辰子に視線を向ける。
「数が多いな……」
「ああ。こりゃ、気合い入れて、臨戦体制を取らねーとまずいぞ。」
「桜、ぼく達のすぐ後ろに来るんだ。そして絶対にはぐれないようにするんだ。」
桜はノートパソコンを手に持ったまま、小走りでやって来る。
辰子と希望は、桜を庇う様に前に立つと、日本刀とエアガンを持って構えた。
その時、凛とした声が響いた。
「なるほど、その子が君らのお姫様というわけか。」
若い青年の声だ。
希望は反射的に言い返していた。
「そんなんじゃない、これは適材適所だ! 桜は凄い奴だ! 」
辰子もそれに同調する。
「おうよ! 足りない所を補い合ってるだけだ! つまらねーことほざいてると、ぶっ殺すぞ! 」
見ると、灰色のスーツを着た金髪碧眼の青年が、こちらに歩いてくる。
70年代のハリウッド映画に出てくるようなタイプの美形の青年だ。逞しい体格が、スーツの上からでも分かる。
「これは失礼。君らのことは、昨日からずーっと見ていたのだがね。まだまだ、君らを正しくは理解していなかったようだ。」
そう言って青年は、さっと片手を振った。
すると、後方に居たゾンビの群れが、一瞬にして砂に戻って崩壊した。
希望は、青年をねめつけた。
「あなたは、誰です? 」
青年は、ポケットから葉巻を取り出すと、大きなライターでそれに火をつけ、ふーっとふかした。辺りに煙草の臭いが広がる。
「バリケートが邪魔だったのでね、少々荒っぽいことをした。すまなかったね。」
辰子が怒鳴った。
「だーかーら、てめえは何者だって、聞いてるんだよ!? 」
青年は、微笑んだ。
「まあ、落ち着きたまえ。我が息子たちよ。いや、娘かな? 」
辰子は、ますますいきりたった。
「だーれが、てめえの息子だ! 俺の親父殿なら、今ごろ国分寺の道場で、自衛隊員相手に実戦剣術の指導をやってるわ。つまらねーこと言ってねえで、さっさと名乗れよ! 」
青年は、そんな辰子を見て、面白そうにニヤニヤしている。
「うんうん、予想以上に活きが良い。その生命力、その激情、その活動力、期待が出来そうだ。」
希望は、ムッとして訊ねた。
「ゾンビを操っていたのは、あなたですね? 何者です?」
「うんうん、私は君を一番気に入ってる。賢明かつ冷静。運動神経も頭も良く、文武両道だ。、能力的にバランスが取れている。だから、私は君を選んだのだ。」
「ぼくを選んだ? 」
「君が眠っている時に、君にヒントをやったろう? あの夢を見せたのは、私だ。」
希望は、背中に冷や汗がにじむのを感じた。
じゃ、じゃあ、あの夢は!?
「そうだ。私が見せた。君はヒントを受け取り、私の予想以上にそれを有効に利用した。さすがだ。うん、君が長男になるが良い。いや、長女かな? 」
桜が悲鳴に近い声で訊ねた。
「だから、あなたは何者なんです? 」
「うんうん、君も気に入ってるよ。兄弟、それとも姉妹かな? その中では一番知能が高い。でも君は、やはり末っ子が良い。」
辰子は堪忍袋が切れる寸前だ。いや、もう切れている。
「だから、名を名乗れって言ってるんだ! いい加減にしねえとしばくぞ、ごらぁ!! 」
青年は、ここでまたすーっと葉巻をふかした。
「名前? それは愚問というものだよ。もちろん、私にも名前は、……ある。真の名前が。だがそれを明かすということは、私の敗北を意味する。そして、私の真の名前は君らの聴覚や発声器官よりも、ずっとずっと古いのだ。意味が無いとは思わないかね? 」
希望は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「つまり、あなたは人間では無いと? 」
「察しがいいね。然り。この姿は仮初の物だよ。君らと話しやすくするために、君らの姿を真似たのだ。」
「ぼく達に分かるように、自己紹介をしてくれませんか? 出ないと、話し合いにはなりませんよ。」
青年は、笑った。悪意こそ感じられないが、どことなく禍々しさのある微笑だった。
「真の名前は明かせないが、仮初の名前なら、名乗っても構わないだろう。そうだなあ、チョチョ族の子供達は、私のことをチャグナール・ファーグンと呼んでいる。」
チャグナール・ファーグンは簡単な自己紹介を終えると、部屋の天井の中央部にある館内放送用のスピーカーを睨み付けた。
「デバガメは好かない。」
彼がそう言うと同時に、天井が大きく歪んだ。続いてスピーカーが落下した。それは床にぶつかると同時に、部品を巻き散らして、バラバラになった。
気のせいか、チャグナール・ファーグンは、ちょっと不愉快そうな顔をした。
「ふん、小野寺め。相変わらず小賢しい真似ばかりをする。」
そして、希望たちに微笑みかけた。
「さて、外野には消えてもらった。ゆっくりとお話しをしようじゃないか、我が子たちよ。よし、私はチャグナール・ファーグンと名乗ろう。君らもそう呼ぶがいい。」
辰子は、その自称チャグナール・ファーグンの答えに納得していない。
「さっきから、何をわけの分からねえことを言ってるんだ? 」
それは希望も同様だった。しかし、ゾンビを操っていたのは確かだし、夢のことも知っているとなると、只者ではないのは確かだ。
「で、あなたは何のために、ぼくらの前に現われたんです? 」
「君らの身体を、少しいじらせて欲しい。」
桜は顔を真っ赤にした。
「えっち……!! 」
チャグナール・ファーグンは笑った。
「そういう意味ではない。君らを『進化』させたい。そう言っているのだよ。」
希望は、後ずさった。
「進化? ぼくらをミュータントか妖怪人間にでもする気ですか? 」
「B級ホラーの観すぎだよ。そうではない。君らの身体能力、知能、そして魅力を大幅に強化したい。うん、『超人』だ。この表現が良い。君らを超人にしようと思う。」
辰子は顔をしかめた。
「超人? キン肉マンにでもする気かよ? 」
「いや、君らの外観までもを変えるつもりはない。」
希望は皮肉っぽく言った。
「人類のサブカルチャーに随分と詳しいようですね。」
「サブカルだけではないよ。君らの歴史、宗教、政治、思想、芸術、社会、ことごとくだ。」
ちょうどその時、遠くから何やらヘリコプターの轟音が聞こえてきた。
それは段々と大きくなってゆく。
展望ガラス越しに、希望はそれが何だか分かった。
国防軍のUH-60だ。ビルを遠巻きにして、2~3機飛んでるようだ。
チャグナール・ファーグンは不快そうに言った。
「うるさい蚊トンボだ。これでは会話の邪魔だ。叩き落してやろうか。」
希望は即座に言った。
「そんなことをしたら、ぼくらはあなたを敵と見なしますよ。」
「それは困るな。私の計画には、君らの同意が不可欠なんでね。」
辰子が胡散臭げな表情で、チャグナール・ファーグンを見た。
「要するに、ピチューの俺達をピカチュウにしようって腹かい? 」
「いやいや、ライチュウにしようと思う。」
緊張感があるんだか無いんだか、分からない会話になってきた。
まさかアメリカの怪奇小説の大家も、旧支配者が男の娘を相手に、小学生向けの携帯ゲームのキャラクターの話を真顔でするなんて、想像だにしなかったに違いない。
それはともかくも、桜は不安と不信だらけと言った表情だし、辰子は「胡散臭え」と顔に大書してある。
希望は、はっきりと言ってやった。
「あなたを信用できません。」
チャグナール・ファーグンは笑った。
「うんうん、そうだろうね。では、少し時間をあげよう。それまで良く考えることだね。」
希望は冷徹に答えた。
「いくら時間を貰っても、ぼくらの考えは変わらないと思いますよ。」
「それはどうかな? 死への恐怖というものは、君ら生物の宿業だ。命が助かるためなら、信念も曲げたくなるだろう。では、また会おう。」
その瞬間、ゴトン! と何か固い物が床に落下する音がした。
青年の姿が消滅し、代わりにそこには、あの象頭人身の不気味な石像が立っていた。
桜は、驚愕の表情で口を押さえた。
「きゃっ! こ、これって……」
「うん、ぼくらの宿泊室や阿久間博士の部屋にあったチャグナール・ファーグンの像だ。」
辰子も、驚きの表情を隠さない。
「うげ、ま、マジで本当だったのかよ? 人間が石像に変わりやがった。」
希望は首を横に振った。
「いや、この石像の形を変えて、あの人間モドキを作っていたんだと思う。」
希望は大声で怒鳴った。
「野田さん、聞いてますか!? 」
しかし、答えは無い。
レストランを離れ、調理場のスピーカーの前に行き、そこから呼びかけたが、やはり返事はない。回線がどこかで切れたのだろうか。
桜は、ワークステーションのモニターを見て、困惑している。キーボードを激しく叩いては、首を傾げた。
「どうしたんだ、桜? 」
「ビルの管理システムがおかしくなったと思うよ? 」
「システムダウンでもしたのか? 」
「ううん、システム自体は生きているんだけど、監視システムやセキュリティ関係のシステムが、まともに機能していないの。ううん、むしろこれは従来のレコード内にある指定されたフィールドの値データまたは計算式が、別の物に書き換えられてるみたいなの。」
チャグナール・ファーグンの仕業なのだろうか?
辰子は、「けっ! 」と吐き捨てるように毒づく。
「マッドサイエンティストに、化け物かい。何がどうなってんだ? 」
希望は、ここで提案した。
「ここを出よう。」
辰子は、ちょっと困惑気味だ。
「出るのはいいけどよ、何のために? 」
「阿久間博士を探してみよう。」
桜は不安げに言う。
「でも、博士は15階よりも下に居るかもよ? 」
「ビルの監視網や管理システムがおかしくなったんだろ? ならばおそらく博士達も何かアクションを起こすはずだよ。」
辰子は頷いた。
「なるほど。だったら俺も賛成だ。ここでまた、あのチャンチャンコだっけ? 奴が戻ってくるのを黙って待ってても、しょうがねえからな。」
桜も決心がついたようだ。
「うん、わたしも一緒に行く。」
それで決まりだった。
三人がレストランを出ると、そこには異様な光景が広がっていた。
「何だよ、こいつは? 」
辰子が呆れたように言う。
壁のあちこちに奇妙な図形が浮かび上がっていた。それは5本の枝を持った幾何学図形だ。
希望は説明した。
「古の印だよ。」
ゾンビやゴーレムを崩壊させたプラスチック弾や日本刀に掘り込まれていた図形と同じものだ。
桜は壁を凝視した。
「これ、液晶モニターだと思うよ? 壁のあちこちに埋め込まれていたけど、普段は壁と同じ色だったから気付かなかったね。」
「うへえ、どこのパライノアの屋敷だあ? 」
希望は、床や天井にも同様の仕掛けがあることに気付いた。
そこらじゅう、「古の印」だらけだ。
「これではっきりした。チャグナール・ファーグンと阿久間博士は、あまり仲が良くないんだ。博士は、あの怪物を、この魔よけの印で動きを制限しようとしている。」
桜は、ノートパソコンを指し示した。
「そう考えるなら、こちらも辻褄が合うと思うよ? チャグナール・ファーグンが、ビルの管理システムを狂わせて、監視カメラやスピーカーを使用不能にしたんだね。管理システムのセキュリティ部分が破壊されると、非常警報と同時に、『古の印』が映し出される仕組みになっているみたい。」
三人は非常階段を下って行った。
やはり15階より下へは行けそうに無い。分厚い鉄の扉が閉まり、閉鎖されていた。
駄目もとで三人かがかりで、扉を押したり引いたりしてみたが、やはりびくともしない。
扉にも、「古の印」が描かれている。しかしこれは液晶ではなく、ペンキで最初から描かれたものだ。おそらく博士は、これで希望ら三人だけではなく、チャグナール・ファーグンをも15階以上に閉じ込めるつもりだったんだろう。
すると、いきなりスピーカーから声がした。
「15階の私の執務室に来たまえ。」
三人はびっくりして、スピーカーを見る。
野田さんではない。阿久間博士の声だった。
「今なら間に合う。」と阿久間博士。
辰子は噛み付くように怒鳴った。
「このマッドサイエンティスト! 俺達を、あのバケモノに捧げて、てめえらだけが逃げる算段なんじゃねーのか!?」
「違う。生き残るのは君たちだ。」
希望は怪訝な視線をスピーカーに向けた。
「だったら、この扉を開けて、ぼく達を逃がしてください。」
「それは出来ない。生き残るのは、君たち三人だけなのだ。他の誰でもない。君たちは人類の最後の希望なのだ。」
三人は顔を見合わせた。
「扉を開けてくれない以上、阿久間博士と直接談判するしか無いと思う。」
「ああ、そうだな。くそったれ!! 」
「わたしもそう思うよ? 」
三人は言われる通り、阿久間博士の執務室へと向った。
三人は非常階段から、廊下に出る。
桜はノートパソコンでビルの見取り図を示した。
「博士の執務室は、このまま真っ直ぐ行ってすぐの突き当りだったと思うよ? 」
希望は頷いた。
「よし、このまま駆け抜けるぞ! 」
三人が走り出すと、スピーカーからまた声がした。それは野田さんでも阿久間博士でもない。チャグナール・ファーグンの声だった。
「どこへ行く気かね? 私のかわいい子供達。」
辰子が怒鳴り返す。
「うるせー! てめーの養子になんかなった覚えはねえぞ! 」
前方の大理石の床が突然せり上がった。それは瞬く間に巨大な人間の腕となり、三人に掴みかかろうとする。
「ネタは上がってんだ、もうビビらねえぞ! 」
辰子は、そう叫んで日本刀を振るう。
「あれ? 」
日本刀が弾き返された
希望もエアガンを構えて撃つが、プラスチックの弾が空しく跳ね返されただけだった。
スピーカーからチャグナール・ファーグンの嘲笑うような声が発せられた。
「もう、テストは終わりだ。君らの取るべき道は2つ。私の申し出を受けて、我が眷属となるか、さもなくばここで死ぬかだ。」
三人は、やむなく回れ右をすると、今来た道を引き返した。
桜はノートパソコンを見ながら言った。
「博士の部屋には別の道から行けると思うよ? 」
途中、今度はゾンビが現れた。
辰子が日本刀を振るうと、ゾンビたちは砂となって崩壊した。
希望がエアガンを撃つと、やはりこいつらは砂に還る。希望は二人を励ますように言った。
「こいつらには、まだ『古の印』が通用するみたいだ。」
床が大きく揺れた。地震か? それともチャグナール・ファーグンの仕業だろうか。
途中の壁には、「古の印」が空しく液晶のモニターの光の中に浮かび上がっている。
「こん畜生、まただ! 」
辰子が悲鳴に近い声をあげた。
大理石の床が盛り上がり、そこから大きな腕が生えてきた。
三人は再びUターンをしようとしたが、今度は後方の壁から、同様の巨大な腕が生えてきた。
「おわ、挟み撃ちかよ、きったねーぞ!! 」
辰子と希望は、桜を庇うように前後に立った。
腕が迫ってくる。
万事休す?
だがその時、物凄いブザー音がした。
赤い回転灯が点灯し、突然天井から、大型の分厚い金属製の防爆シャッターが降りてきた。
それは三人の前後に降りてきて、迫ってくる腕の真ん前を見事に遮断した。
桜が、ノートパソコンを示しながら、白い歯を見せた。
「防災システムのハッキングにぎりぎり間に合ったと思うよ? 」
辰子は歓声をあげた。
希望は軽く桜の背を叩いた。
「でかした、桜! 」
だが、外側からあの巨大な腕が防爆シャッターを激しく叩いている。鋼鉄の扉が、徐々に歪みだした。
三人は防爆シャッターの間に閉じ込められた状態だ。
ホッとしたのもつかの間、辰子は慌てだした。
「お、おい、やべえぞ。」
だが希望は、微笑して天井を指差した。
通風孔だ。
三人は、通風用ダクトの中をほふく前進をした。
桜が、ノートパソコンで通風用ダクトの見取り図を示している。
辰子が前、希望が後ろ、二人に守られるように中央に桜が居て、一列に進む。
辰子は、ちょっと不安げだ。
「なあ、ここでバケモノに襲われたらヤバいぜ。刀は振り回せねえ。できるのは、突きだけだ。これじゃかなり不利だぜ。」
希望は首を横に振った。
「いや、ここなら大丈夫だと思う。奴のパターンが分かってきた。」
「パターン? 」
「うん、ゾンビ、ゾンビ犬、ゴーレム、さっきの腕、そしてチャグナール・ファーグンを自称した男、これらは石質の物を媒体というか、材料にしていた。」
「みたいだな。それがどうしたんだよ? 」
「材木は使わなかった。それに一番強力な武器になるはずの金属も奴は使わない。」
桜が頷いた。
「そっか! 使わないんじゃなく、使えないんだ! あいつは石質の物しか利用できないんだね! 」
辰子が感心したように言う。
「なるほど、ここなら四方八方、金属の板しかねえよな。」
「『イスラムのカノーン』によると、『古の印』は旧支配者の眷属や下僕を退けるけど、旧支配者自身にはダメージは与えられない。しかし、目くらましの効果はあるみたいなんだ。博士がそこらじゅうを『印』だらけにしてくれたからね。多分、奴はぼく達を見失っている可能性が強いと思う。」
ここで桜がノーパソコンを見て言った。
「博士の部屋のちょうど真上だと思うよ? 」
希望はすぐに、博士の執務室に通じる通風口を見つけた。
突然、天井の通風口を突き破って、三人の迷彩服を着た少年、あるいは少女が、大量の埃と共に降ってきたにも関わらず、阿久間博士は落ち着いていた。
部屋は薄暗い。博士のデスクには、パソコン用の映写機が置かれており、その前には白いスクリーンが降りていた。
あの不気味な石像は撤去され、部屋には無い。
パイプ椅子が三脚置かれている。
「ご苦労だったね。まあ、かけたまえ。」
「随分と落ち着いてますね。」
皮肉と言うより、呆れから希望は言った。
博士は肩をすくめた。
「ここに居れば大丈夫だよ。奴はこの部屋には入ってはこれない。この部屋の四方には、『ムナールの石』と呼ばれる太平洋の深海からしか取れない希少な火成岩が埋め込まれている。それに『古の印』を掘り込んでね。旧支配者それ自身から身を守るには、これしか無いのだがね。」
希望は部屋を見回した。
「ここに居るのは、ぼく達だけですか? 」
「我々だけだ。野田君を始め、他の者は全て階下に退避させた。心配はいらない。」
辰子は憤然として言った。
「ゴタクはいい。何がどうなってるのか、説明してもらおうじゃねえか。」
「それをこれから説明しよう。かけたまえ。」
希望は辰子をなだめた。
「とりあえず、ここは博士の言う通りにしよう。」
三人がパイプ椅子に腰を下ろすと、博士は映写機のスイッチを入れた。
旧日本軍の軍服を着た少年兵の姿が映し出された。
「この少年の名は小野寺健介。18歳の時の写真だ。君らに近い年齢だな。」
希望は、博士を見た。
「つまり、あなたですね? 」
「そうだ。」
辰子と桜は目を丸くした。
「アクマ博士などとふざけた偽名を名乗った理由は、後ほど説明する。」
博士はパソコンのマウスをクリックした。
古いセピア色の写真が映し出された。どこかの大学の卒業写真だろうか。十数人近い若者の集合写真だ。中央には恰幅の良い教授らしい男が居る。
「右の隅に居るのが、私だ。中央に居るのが、大泉清教授。歴史学者。室町時代のアジールの研究の草分け、……と言うよりは、神国史観で悪名が高いと言ったほうが分かりやすいかもしれない。戦後GHQによって、公職から追放された。かつて、恩師と呼んだ男だ。」
辰子は「ふん」と鼻を鳴らした。
「今度は歴史のお勉強かよ。」
「いや、そうではない。神の話しだ。君らにとって、『神』とは何かね? 」
桜が律儀に答える。
「うーん、うちは浄土真宗のお西さんだから、阿弥陀様かな? あるいは親鸞上人か蓮如上人かなあ? 」
「それはシンボリズムだ。宗教体系における抽象概念にすぎない。そうではなく、私の言う神とは、もっと具体的なものだ。」
希望は肩をすくめた。
「おっしゃっている意味が分かりませんね。」
博士はまたマウスを操作した。
今度は飛行帽をかぶった少年兵の写真に切り替わった。
「当時の私は、いっぱしの軍国少年だった。お国のためにこの身を犠牲にし、お国のために死ねば、神になれる。お国に殉じた英雄として死後に神になれる。本気でそう信じていたのだ! 」
三人は戸惑いの表情になった。
博士はそれを気にかける様子もなく続けた。
「大泉教授は、我々に説いた。国のために殉じることは美徳であり、死後まちがいなく神になれると。当時若かった私は恩師の思想に熱狂し、それを信じた。」
三人は沈黙した。
重苦しい沈黙がしばらく続いたが、やっと希望が口を開いた。
「でも、小野寺一等兵、つまりあなたは生還した。」
博士は自嘲気味に苦笑した。
「生還というほどのものでもないよ。毎日のように戦友達が、『桜花』に乗って、散って行った。私は順番を待っていた。あと数日後というところで、それは無しになった。上官が逃げてしまったのだよ。我々に特攻を命じておきながら、戦況が不利になるや、1万人近い部下を見捨てて、自分だけが逃げたのだ。残された1万人の兵達は、慣れない陸戦に転用された。そのため、そのほとんどが戦死してしまった。」
博士は画像を切り替えた。
今度は、戦後の綺麗なカラー写真である。神社の宮司の写真だった。長い顎鬚を生やした老人である。
「大泉教授だ。この大勢の若い教え子達に特攻を薦め、国のために殉じることを薦めた歴史学者は、GHQによって公職追放された。だが戦後は、神社の宮司になって89歳の天寿を全うした。また、私たちを見捨てて逃げた上官も、戦後も15年以上生きた。」
辰子が、とうとう声を漏らした。
「ひでえ……。」
桜も鼻の周りが真っ赤だ。
「何それ? 」
希望も思わず、口にする。
「そんなの、納得できませんよ……」
博士は、心なし目元が緩んだように見えた。
だが、彼は無表情のまま話を続けた。
「話を私に戻そう。これによって、私は『神』について疑念を抱いたのだよ。上官に見捨てられて、戦友達が絶望的な戦死が確実の陸戦に移される直前、私に声がかかった。大泉教授だ。彼は、新兵器の研究を行っていた秘密機関の登戸研究所にパイプを持っていた。そこで、私に声がかかったのだよ。今度は違った形で、お国のために殉じてみないか? と。当時、登戸研究所は暗号名『聖天工作』と呼ばれる秘密兵器の研究を行っていた。それの被験者になれ、というのだ。私はそれに『志願』した。ここからが、私とチャグナール・ファーグンにまつわる本当の物語なのだ。」
しかしここで博士の話は中断された。
また地震だ。
しかもこれまでになく、大きな地震だ。部屋が激しく左右に揺れた。
壁が軋んだかと思うと、大きく縦に裂けた。本棚が倒壊し、中の書物が雪崩のように床にぶちまけられた。
天井板が剥がれ、落下する。
辰子は怒鳴った。
「こ、これはとんでもなく大きいぞ!! 」
天井を突き破って落ちてきた鉄骨が、デスクごと映写機を押しつぶした。
希望は叫んだ。
「違う、これは地震じゃない!! 」
床に亀裂が入り、部屋が二つに割れた。
亀裂の底は真っ暗で見えない。百メートル以上はあるかのように思われた。
同時に床が大きく傾いた。それは45度ぐらいはありそうな傾斜となった。椅子や書物やデスクの残骸が、すべって亀裂で出来た床の裂け目に落下してゆく。
「きゃあ! 」
桜が本と一緒に裂け目へと滑ってゆく。
その桜の腕を希望が掴んだ。
「うわあ! やべえ!! 」
辰子もだ。
希望は、もう片方の腕で、辰子の足首を掴んだ。
希望も、ズルズルと滑ってゆく。
だが、寸でのところで、足が床から飛び出してきた鉄骨に引っかかった。
「くううう! 」
希望は、思わず苦悶の声をあげる。何とか二人を引っ張りあげようとしたのだ。
くそ、「基礎工事」前の鍛えた身体だったら、何とかなっていただろう。けど、今の女の子の筋力じゃ、二人を掴んでいるのがやっとだ。
博士は、床に何とかへばりついていたが、倒壊した本棚が傾き、それが凄い勢いですべり、博士に激突した。
「あっ!! 」
希望が叫ぶ間もなく、博士は亀裂の裂け目へと落下して行った。
同時に、天井から大きな彫像が落ちてきた。
象頭人身の石像、チャグナール・ファーグンだった。
くそっ! ムナールの石だっけ? ここには奴は入ってくることは出来ないんじゃなかったのかよ!?
その石像は口を開いた。
「余興はここまでだ。我が子達よ。七柱の帝たちは、汝らが眷属に加わることを拒まぬそうだ。これより、汝らを『神』にしてやろう!! 」
辰子は、恐怖と怒りの入り混じった目で、チャグナール・ファーグンを睨み付けた。
桜は、蒼白な顔でプルプル震えている。
希望は、怒る余裕も恐怖する暇もなかった。二人を掴んでいるので、両腕の泣けなしの筋肉が悲鳴をあげている。その苦悶だけが頭を占領してゆく。
チャグナール・ファーグンが言った。
「ほう、これで役者は揃ったというわけだ。」
亀裂の底から、すーっと何かが浮かび上がって来た。
それは、一人の少年だった。
歳のころは、希望たちと同じくらいだろうか。16歳ぐらいだ。上半身は裸で、片手に本を持っている。
希望は、その少年が誰だかすぐに分かった。
「博士……!! 」
少年の姿に戻った博士は、空いている左手を振った。
同時に傾いていた床が水平に戻る。
希望は、両腕が解放されて、そのまま大の字になってひっくり返った。
辰子と桜もしゃがみこみ、冷や汗をぬぐった。
「た、助かったあ! 」
「も、もう、死ぬかと思ったよ? 」
辰子が、宙に浮いている少年を見て、怪訝な表情になる。
「誰だ、あいつは? 」
希望は即答する。
「博士だよ。たぶん、あれが彼の本当の姿なんだ。」
イケメンに目の無い桜が、半裸の少年を見て嘆息する。
「ふえー。」
チャグナール・ファーグンが、形を変えた。巨大な石像から、あの金髪の青年の姿に変わった。例によって、右手には火のついた葉巻を持っている。
そして、少年の姿に戻った博士に視線を向けた。
「ご無沙汰だったな、我が共同研究者よ。」
チャグナール・ファーグンは笑っていたが、博士は冷淡な視線を返すだけだ。
「ふふふ、ムナールの石に『古の印』か。うむ、確かにムナールの要石は、我々旧支配者を妨げる。だったら、壊せば良いのだ。生ける鉱物である私の断片をビルの壁に埋め込み、私をビルと融合、一体化させたのは、君だろう? 」
博士は別段、悔しそうな表情すら見せない。無言のまま、睨み付けているだけである。
チャグナール・ファーグンは続けた。
「君らの論文を読ませてもらったよ。うん、なかなかだ。私の生物改造のツールの一つが酵素であることに気付いたようだね。その酵素に、私にちなんだ名前を付けてくれて、光栄だよ。チャグナラーゼか、うん、気に入った。しかも、そのツールの使い方も、学習しつつあるようだな。」
ここで博士は、やっと口を開いた。冷淡な表情のまま。
「ふん、私の成果など、お前の研究の前では、吹けば飛ぶようなものだろう? 」
「そう自分を卑下するな。いやいや、謙遜も度が過ぎると、嫌味なだけだぞ? 君らレベルの小さな脳で、二足歩行の猿の頭脳で、ここまで出来れば立派なもの。」
それを聞いて辰子が憤然として、口をはさんだ。
「俺たち人間をバカにしてるのか? 」
「とんでもない。宇宙に知的生命は数あれど、君らは最高の素材だよ。未完成なぶん、多くの可能性に満ちている。」
ここで希望が口を開いた。
「いくつか質問をしても良いですか? 」
「何なりと。」
チャグナール・ファーグンは大仰にお辞儀をした。
「旧支配者って、H・P・ラヴクラフトの小説は事実だったのですか? 」
「全部ではないが、かなりの真実が含まれている。彼はあまり知られていない魔術書から、我々のことを知ったのだ。彼は当初、アレイスター・クロウリーを山師と馬鹿にしていたが、彼と文通をしているうちに意見を変えた。彼の紹介でニューヨークのカルト教団から、魔術書の写しを手に入れたのだ。『イスラムのカノーン』、『象牙の書』、『サセックス写本』、ダレット伯爵の論文集、フォン・ユンツトの旅行記。彼はそれをパルプ雑誌の小説家仲間であるC・A・スミスやハワード、ダーレスらに回覧した。ちなみに私のことを最初に小説に書いたのは、F・B・ロングなのだが、ひどい扱いだったね。」
そういってチャグナール・ファーグンは苦笑した。
「では、これから、ぼく達をどうする気なんです? 」
「そうだな、まず不老不死は基本だな。病気にも罹らず、ひどい外傷を負っても、身体の半分以上が残っていれば、回復できるようにする。頭脳も色々といじりたい。ニュートン、アインシュタイン以上の知能をプレゼントしよう。精神観応能力と外在化の物理的共鳴度の向上、君らの言葉でいう『超能力』だ。これも与えよう。」
ここで博士が割って入った。
「こいつのその実験によって作り出された怪物が私だ。」
「怪物はないだろ? 『超人』のほうが響きが良い。」
博士はチャグナール・ファーグンを無視して言った。
「こいつが地球に最初に到来した時、ある種の両生類が、チャグナラーゼに近い酵素を持っていたのだ。そこでこいつは、その両生類をいじくってバケモノを作った。アルハザードの書では、ミリ・ニグリと呼ばれ、チョチョ人の創世神話で人間の起源とされるカエル人間がそれだ。日本の民間伝承では河童と呼ばれている。」
チャグナール・ファーグンは肩をすくめる。
「ミリ・ニグリか。あれは失敗だった。莫大な時間と手間暇をかけて出来たものは、チンパンジーかイルカ程度の知能しかない二足歩行のカエルだった。だから私は、被験体を人間に切り替えたのだ。チョチョ人はテスト・パターンだった。主に寿命を延ばすための。だが、種々のデータは得られたよ。だがチョチョ人は、代を重ねるにつれて、体内の酵素が減って行った。ゆえに私は、別の被験体を探す必要に駆られた。」
ここで博士が話を受け継ぐように説明した。
「旧日本軍が当初目につけたのは、チョチョ人達の伝染病に対する強い抵抗性だった。彼らはあらゆるタイプのマラリヤに感染しなかった。そして、彼らの長寿だ。彼らのシャーマンの中には150歳以上生きる者がざらに居た。登戸研究所の軍医は、チャグナール・ファーグンの石像に、その秘密があると考えた。当時の原子物理学はまだまだ未熟で、放射線をまるで神秘的な魔法の光線か何かのように考える者が、科学者にも結構居たのだ。彼らは、チャグナール・ファーグンの石像を、生物を改造する装置か何かのように考えたのだ。」
希望は思い切って尋ねた。
「長生きで健康な人間を作るだけなら、軍が必死で隠ぺい工作をするとは思えませんね。問題は『超能力』なんじゃないですか? どういう超能力だったんです? 旧日本軍だけじゃない、ベトナムのアメリカ軍も、旧ソ連も。そもそも大量のナパーム弾や核兵器が必要な超能力って何なんです? 」
辰子も視線を向けた。
「あの『アキラ』みたいな破壊兵器か? 」
桜も同様だ。
「超人ロック? バビル2世? 」
博士は即答した。
「人から、崇拝される力だ。」
辰子と桜は拍子抜けした。
「人から崇拝される能力? 何じゃ、そりゃ。」
「新興宗教の教祖になるぐらいしか用途が無いと思うよ? 」
しかし希望は、深刻な顔つきになった。
「いや、人間の持つ武器で一番恐ろしいのは、カリスマかもしれない。イエス、ムハンマド、仏陀。政治家ならナポレオン、ヒットラー、毛沢東、スターリン。大勢の人間を熱狂させ、それを操作出来る者は、社会の在り方を変え、歴史を作り得るんだから。」
博士は首を横に振った。
「そんな生易しい者ではない。文字通り、本物の『神』となってしまうのだ。」
三人は博士を見た。
「真の神とは何だ? それは宗教体系の抽象概念でもない。単なる超越者でもない。人々を扇動する全体主義や新興宗教の教祖のホラでも、もちろん無い。それは、人々から崇拝される者だ!! 崇拝されなければ、いかなる者でも、それは木偶人形にすぎない!! 」
チャグナール・ファーグンは満足そうに微笑んだ。
「然り。私は、『神』を作ったのだよ。君たちにとっての、だが。」
希望は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「じゃあ、博士も? 」
しかし博士は首を横に振った。
「いや、私はデータ取得用のプロトタイプに過ぎなかった。不老不死、年齢を自在に変える力、ちょっとしたポルターガイスト能力を持っただけだ。」
チャグナール・ファーグンが茶化すように付け加えた。
「そう、中途半端な被験体だった。知能と神の能力までは与えなかったがね。彼の学識は純然たる努力の産物だ。いや、お見事! 」
博士は、それを無視するように続けた。
「私の同期の志願者が犠牲になった。研究施設は上へ下への大騒ぎになったよ。同じことがアメリカ軍施設で、ソ連の研究所で起こった。研究所の職員だけではない。鎮圧に向かった軍隊も、周辺の住民も、みんな忠実な絶対服従の奴隷と化したのだ。『神』に「死ね」と命じられれば、躊躇せずにそうしてしまう。直接命じられた者だけではない。通信や文書でも、全く同じことが起こった。また、いちいち命じられずとも、人々は彼を崇拝し、彼のために全てを捧げようと自発的に考えるのだ。」
希望は、背筋が寒くなってきた。文書や通信でも、問答無用で人を絶対服従の奴隷に出来る? だったら、インターネットが普及した今の時代だったら、どういうことになるのだろう。
博士は、ふっと溜息をついた。
「しかもそれが、並みの武器では死なない不死身の身体を持っていたのだ。半端な攻撃で殺し損ねたら大変なことになる。それで、あの有様となった……」
チャグナール・ファーグンは笑った。
「これは私と小野寺少年との共同研究なのだよ。なぜに君らにサバゲーの真似事をさせたかって? 科学実験において環境を揃えることは基本だ。旧日本軍の登戸研究所別館、ベトナムは米軍のチョチョ・キャンプ、旧ソ連のジスクール研究所、みんな軍施設だ。私が現れた途端、瞬く間に交戦状態になってしまった。それをここでも再現するために、あれは必要だったのだ。」
希望は握っている拳に力をこめた。
「では、もう一つ質問。あなたは、何のために、こんなことをするのですか?」
「知れたこと。」
チャグナール・ファーグンは即答した。
「真実の追求のためだよ。」
希望も辰子も桜もあっ気に取られた。
「真実の」
「追求だあ? 」
「何よ、それ? 」
博士は無言のまま言った。
「こいつには、人の心は無い。こいつもまた、プログラミングされた通りにしか動かない機械のような存在だ。」
チャグナール・ファーグンは、両手を大きく広げた。
「私はそのためにだけ存在する。七柱の帝たちは、そのために私を創造された。我が帝、ヨス・トラゴンは、そう私に命じられた。イア! ヨス・トラゴン!! イゲ、イゲ、ラクア、フォングルーム、ハー、アザトース!! アイ、アイ、ヨス・トラゴン!! イア、イア、ヨス・トラゴン!! 」
チャグナール・ファーグンは、希望、辰子、桜に視線を向けた。
「悪い話ではないだろう? 君らは不老不死となり、天才の頭脳と超能力を持つ。全人類が君らにひれ伏す。欲しいものは何でも手に入り、人類史上いかなる帝王も独裁者も及ばないほどの権力を持つ。」
だが、三人は即答した。
「お断りします! 」
「だが断る!! 」
「絶対にいや!! 」
チャグナール・ファーグンだけではなく、博士も目を丸くした。
「そんな暴走したルルーシュみたくなったって、不幸になるだけだ。ぼくは平凡に生きたい。」
「実力で勝たなけりゃ、意味がねーんだよ!! 」
「人から崇拝されるより、愛されたいもん。」
チャグナール・ファーグンは「理解不能」という顔をしている。
「そろそろ帰って、父さんとカッ君のために夕食の支度をしたいんだけど。」
「俺も帰って素振りしなけりゃならねえ。1日でも休むと、取り返すのに3日はかかるんだよな。」
「わたしも帰らないと。今夜はすき焼きにするって、ママが言ってたと思うよ? 」
チャグナル・ファーグンも博士も唖然とした表情だ。
しかしすぐに博士は大声で笑い出した。
チャグナール・ファーグンは、微笑をやめている。
「君らの意志は関係ない。」
突然、三人の足元の床が変形した。
十字架のような物体が飛び出したかと思うと、手枷と足枷が飛び出し、三人を磔にした。
「うわっ! 」
「くそっ! 離しやがれ! 」
「あーん! 」
博士は、チャグナール・ファーグンを睨み付けた。
そして、手に持った本を開いた。
それは魔術書のようだった。
博士は、その本を読み上げる。
「南の魔王イアマズ、北の魔王アルブナリス、西の魔王ハルサン、東の魔王フォルノック、我が言葉を聞け。アルモンシン、ギボル、ヨシュア、エヴァム、ザリアトナトミクス……」
チャグナール・ファーグンが、せせら笑った。
「呪文やお祈りで、私を祓うとでも? 気は確かかね? 」
博士は毅然とした表情で答えた。
「馬鹿め、私は科学者だ。これは尊敬すべき先駆者たち、アルハザード、エイボン、ルドウィヒ・プリンらに敬意を表しているまでのこと。」
そして、博士はズボンのポケットから、何か球状の物を取り出した。手榴弾だ。
チャグナール・ファーグンは、またもや嘲笑う。
「そんな物が、私に通用するとでも? 」
「誰が貴様に向って投げつけると言った? こうするのだ! 」
壁に、なぜか倒壊していない本棚が一つだけあった。博士は、その本棚に手榴弾を投げつけた。
それは、本棚を吹き飛ばした。
そこから大きなスピーカーが現われた。
その時、希望は、はっきりと見た。
チャグナール・ファーグンの表情が凍りつき、驚愕と怒りの色に染まるのを。
スピーカーから、耳をつんざくような凄まじい音が発せられた。
シンセサイザーとエレキギター、そして音叉のような振動音。
チャグナール・ファーグンは凍りついたように動かない。
博士は魔術書を開いたまま、大声で奇妙な詠唱を始めた。
「七柱の帝たちよ、大いなるクトゥルーよ、イグよ、ゾタクァよ、ハスターよ、クトゥガよ、ノーデンスよ、そしてヨス・トラゴン!! 外なる神々、アザトース、ヨグ・ソトース、シュブ・ニグラス、ウボ・サスラ、アブホースの権威によりて、汝らの下僕を退けたまえ!! 」
チャグナール・ファーグンの全身が膨らみ出した。それは巨大な不定形の物体で、まるで宙に浮いているアメーバのようだ。そして、それはあきらかに石質だった。
そこから、無数の石像が出たり入ったりしている。ほとんどが人間の形をしていなかったが、稀に人型の物もあった。それは中国の皇帝のようなもの、SSの制服を着たナチスの将校、教会の高位聖職者、武装した騎士のようでもあった。
そして、動きが止まった時には、巨大な石像となっていた。
象頭人身? しかしそれは、あの宿泊室や博士の執務室にあったそれとは、全然違っている。遥かに奇怪で醜悪だった。
耳はまるで蜘蛛の巣のようで、鼻のようなものはあきらかに触手で先端はラッパ状だ。目は六つもあり、枝分かれした長い牙が生えている。腹は極端なまでのボール状の太鼓腹で、手足があるべき所には無数の細い触手が絡み合いながら、うごめいていた。
辰子は吐きそうな顔だ。
「うえっぷ! 何だ、こりゃ? 」
桜は、これ以上に無いくらい辟易した顔だ。
「これが、あの金髪イケメンの正体? 」
希望は、好奇心が一番勝っていた。
うん、これはどう見ても、ガネーシャとも聖天とも違う。そもそも象ですら無い。
その石像は、グズグズと崩れだした。
そして、崩壊しながらも、あの青年の声で人語を発した。
「今回は私の負けを認めよう。だが、星辰の位置がまた整えば、帰還しよう! 」
希望たち三人は怒鳴った。
「迷惑千万です! 来なくていい!! 」
「つーか、二度と来るな!! 」
「べー! だ!! 」
チャグナール・ファーグンは大きな声で叫んだ。
「もう、君らと合うことはあるまい。せいぜい百年にも満たない短い生涯を謳歌するがいい。小野寺少年、君とはまた合えるだろう。それまでに考えを換え、我が共同研究者にふさわしくなっていることを望むよ!! 」
石像は崩れ続け、そして消滅した。
スピーカーからの音も止まっていた。
崩壊したと思っていた執務室は、いつの間にか元に戻っていた。
いや、戻ったのは部屋の構造だけで、本棚は倒れ、デスクは潰れ、床には大量の本が散乱していた。
右側の本棚は、手榴弾によって破壊された後が、生々しく残っていた。
博士は半裸の少年のままだった。
だが、倒壊したロッカーから上着を取り出し、それを羽織った。
希望は、博士に尋ねる。
「さっきの音は何なんです? 怪物を撃退したみたいですが。」
「チャグナール・ファーグンの真の『名前』だ。」
「名前? 」
「外なる神々も、旧支配者も、その真の『名前』を言われると、譲歩を余儀なくされるのだ。」
そう言えば、チャグナール・ファーグンは言ってなかったっけ? 「真の名前を明かすと、敗北してしまう」と。
博士は魔術書を閉じた。
「過去の先達達は、様々な方法で神の名前を知ろうとした。また知っても、彼らは我々の聴覚器官よりも、発声器官よりも、遥かに古い存在だ。正確な発音は出来ない。そこで、太古の魔術師達は、楽器でそれを表現しようとした。アルハザードは、弦楽器でそれを試みていた。だが現在のテクノロジーをもってすれば、ずっと正確にそれが出来る。私はアルハザードの残した楽譜を調べ、奴の『名前』の大まかなところを掴んでいたのだ。」
なるほど、それで『イスラムのカノーン』だったんだ。
博士は、肩をすくめた。
「もう一つ、チャグナール・ファーグンのヒエラルキーは、旧支配者の眷属の中でも、超幕下なのだよ。言ってしまえば、邪神のザコだ。だから、撃退には自信があった。」
「それでも、人類を滅ぼしかねない力を持っているわけでしょう? 」
博士は頷いた。
「……そうだな。」
希望は訊ねた。
「あなたは、ぼく達をどうする気だったんです? 」
「『神』にするつもりだった。君らが神になると同時に、『名前』を使って、チャグナール・ファーグンを撃退する。そして、君らを自由にするつもりだった。」
辰子は皮肉っぽく、顔をしかめた。
「自由にするだあ? 」
だが博士は悪びれもせずに頷いた。
「東京を襲った異常な熱波は、クトゥガの眷属の『炎の精』の活動だ。群発地震はドールどもの活動だ。お察しの通り、私の仕業だよ。アルハザードとエイボンの書に出ている、奴らの『名前』と『印』を私なりに改良して実践した。」
「何のためにそんなことをしたんです? 」
「君らが神になると同時に、気温45度の異常猛暑の中で、震度7の直下型大地震が東京全土を襲うはずだった。その混乱の中、君らはインターネットを通じて、全世界にその存在を現し、人類は新しい時代を迎えるはずだった。」
希望は、口を「へ」の字に曲げた。
「迷惑千万です。」
桜は首をかしげた。
「どうして、そんなことをしようとしたんですか? 」
博士は、嘆息した。
「愚かな世界には、絶対神が必要だと思ったからだ。曖昧模糊とした抽象概念でも、宗教家や思想家のホラでも、神話やおとぎ話の登場人物でも、比喩でもない、本物の『神』だ。絶対で無いものを絶対とし、あらゆる価値相対主義を粉砕し、多様性を消滅させ、無秩序を強引に秩序付ける、そういう力が必要だと思ったからだ。」
希望達は溜め息をついだ。
「そうならなくて、心底良かったですよ。いろんな意味で。」
「俺もやたら整理整頓された部屋より、散らかった部屋のほうが落ち着くな。」
「と言うか、わたし達なんかが神様になったら、かえって世の中はメチャクチャになると思うよ? 」
ここで博士は苦笑した。
「だが、それも馬鹿らしくなった。君らは、神になることよりも、夕食のオカズや学校の部活動のほうが大事だと言った。私は『神』の研究に夢中になりすぎて、肝心の『人間の尊厳』のことを忘れていたのだよ。」
希望も苦笑した。
「もっと分かりやすく言うと? 」
「私に特攻を命じたり薦めたりした、かつての上官や恩師と同じことを、私はやろうとしていたことに気づいたのだよ。」
ここで、執務室の扉が開き、野田さんら看護師たちが、部屋に入って来た。
希望がもう一度、博士を見た時は、博士は少年の姿から、青年医学者の姿に変わっていた。
野田さんが深刻そうな面持ちで、博士に言った。
「国防軍が、博士に事情聴取をしたいそうです。」
「すぐに行くと言ってやりたまえ。」
そして博士は、三人に視線を向けると、ニヤリと笑って言った。
「風邪をひかないようにね? 」
希望達は、戦闘服を脱いだ。
宿泊室に戻ると、シャワーを浴びて、洗濯を終えた聖ブリジット学園のセーラー服を、返された。
辰子は、床に寝っころがった。
「疲れた! 今日は徹底的に疲れた!! 」
「でも、今度こそ、もう終わりだと思うよ? 」
希望は微笑みながら言った。
「さあ、帰ろう! 」
ビルの入り口ホールの受付け嬢は、階上で何があったかは、知らないようだ。
にこやかに三人に挨拶をして、言った。
「気温が急に、平年並みに下がったそうですよ。昨日は42度だったのに、今日の最高気温は28度なそうです。」
外は猛烈な突風が吹いていた。
希望は、髪が乱されてどうにも落ち着かない。
それは桜も同様なようで、頭を抑ええている。
辰子は、ちょっとイライラしている。
「こんな時に限って、タクシーがつかまらねえ。」
その時だった。
ポツンと何かが、希望の頬に当たった。
あ、そうか。急激に気温が下がったために、気圧が低下し、上昇気流が発生しているんだ。そこに熱い空気が急激に冷やされれば、当然そこには積乱雲が発生する。
ドバっ! と文字通り、バケツをひっくり返したような豪雨となった。
「くっそー!! あのマッドサイエンティストの『風邪をひかないように』の予言は、このことだったのか! 」
「傘を持ってこなかったよお! 」
希望は目のやり場に困る。
ずぶ濡れとなったおかげで、三人のセーラー服の下が透けて見えるのだ。
ここで、いつものやり取りだ。
「桜はいつも俺の胸ばかり見てやがる。」
「だって、うらやましいんだもん。」
「つーか桜、お前、性転換はまだなんだから、ブラなんか必要ないだろ? 」
「あーっ! 言ってはならないこと、言ったぁー!! 」
桜がポカポカ攻撃を始めると、辰子は背中を向け、そこを好きに叩かせる。
これもいつものやり取りだ。
ここで、希望が顔を上げた。
やっとタクシーが来た。遅いよ。