八、
悠里は微睡みの中にいた。
自分は今眠っている。それはちゃんと理解できているのに、どうして眠っているのだろうと考えてみるとその答えは見つからなかった。
覚えているのは両開きの扉の前までで、それからは記憶が曖昧だ。
ルイーナの父親らしき人物との会話や抱擁は、どこか遠くでやり取りされているようなぼんやりとした記憶しか残っておらず、その声も水の中から聞いているような感覚と近かった。
それから次に意識がはっきりとしたのはいつだろう。
辺りは優雅な音楽に包まれ、目の前にある透明なグラスに琥珀色の液体が静かに注がれた時だっただろうか。
突然、ドクンと心臓が大きく跳ねて、頭のてっぺんから足の爪先まで一気に冷えていくのが分かった。
その直後強い吐き気に襲われて慌てて口元を押さえたけれど、その後どうなったのか覚えていない。
誰かがルイーナの名を呼んだような気がしたが、それも遠い記憶のような気もする。
今もまだ身体はだるいし瞼も重い。胸のムカつきもまだ少し残っていて、まるで悪酔いした次の日の朝のような気分だ。
もともと悠里はあまりお酒を口にしないので悪酔いするほど飲むこともないけれど、やけ酒してあっさりと酔いつぶれてしまった日のことはまだ記憶に新しい。
そしてあの時も同じような感覚だったことを悠里は思い出した。
確かあの時も身体が怠くて、頭も痛くて、どうにも起き上がれなくて、そうこうしているうちにグレンの声が聞こえて慌てて起き上がったのだったが、今もまた同じような状況というのは妙な気分だ。
もしかしたら次に目を覚ました時には元の身体に戻ってるんじゃないだろうか。
そう思える程、あの時の感覚とよく似ていた。
悠里は恐る恐る瞼を開けた。
見慣れたような、そうでないような白い天井が見え、瞬きをする。
寝台から身体を起こし、その身体を見下ろし、室内も見まわして慎重に確認する。
まだ夜中なのか室内は暗かったが、枕元にあった僅かな灯りのおかげで、ここがどこなのか辛うじて確認することはできた。
(私、元に戻って……)
今一度、自分の手を広げて確認し、それでもまだ足りないとばかりに素早い動きで寝台から降りると、小さな灯りを手に鏡台まで駆け足で進む。
覗き込んだ鏡には、青い瞳が映っていた。
「……ああああぁー」
悠里はがっくりと肩を落とした。
勝手な思い込みで無駄に期待してしまった自分が悪いのだけど、思った以上にショックは大きかった。
さすがにあの時と同じような身体のダルつきだけで元に戻れたと思うのは都合よすぎか、と自嘲気味に笑って息を吐き出す。
しかし、はぁーと大きく息を吐いたところで、悠里は鏡を見たまま暫し固まった。
なんか今、後ろで何か動いた気がする。
そう思った瞬間、全身に悪寒がはしった。
「え……ゆ、幽……霊!? いやいやいやいや……嘘でしょ? ……え、もしかしてこの身体ってば、霊感強い系なの? やだもう~ほんと勘弁してほしいんだけどっ」
誰に言うでもなく狼狽えながら得体のしれないものに対し必死で訴えはするものの、それで何らかの反応が返ってきたらそれはそれで怖い。
ただでさえルイーナの身体に憑依しているような現状であるのに、更にその身体に霊がとりつくとかどんな状況なのだ。カオスすぎて考えるのも恐ろしい。
願うならば、ただの気のせいであってほしかった。
けれど悠里の願い虚しく、その影はゆっくり近づいてくる。
悠里は息をのんだ。
「お前は一人の時でも騒がしいのだな」
「うわあああああ!」
幽霊がしゃべった! という衝撃と、幽霊じゃなかった! けどなぜここにいるの!? という驚きが同時に起きて、大きな叫び声を上げてしまった。
心臓がこれまでにない程バクバクと音を立てている。
足に力が入らずへなりとその場にしゃがみこんだ悠里に、王は更に近づいて、その黒いシルエットを浮かび上がらせた。僅かながらに見えた表情は相変わらず何を考えているのか分からないものだったが、謁見の間で感じた冷たさはなく、高圧的でもなかった。寧ろ闇に溶け込むのが憎らしいほどうまくて、その存在が非現実的なものと勘違いしてしまうほど、静かな佇まいだった。
「どど、どーして、あなたがここにいるんですかっ! びっくりするじゃないですか!」
「……どうして、か……。さて、どうしてだっただろうな」
「はい……?」
少し考えた素振りをみせた後、答えになってないことを呟く王を前に、悠里は無意識のうちに眉を寄せる。
本当に何故ここにいるのか、本気で誰かに説明してほしいのだけど、どう見てもこの部屋にはこの王以外に誰もいない。
だからといってこの王に誰かを呼んできてほしいなどと頼むわけにもいかず悠里は途方に暮れた。
せめてどういう経緯でこの部屋にいて、いつから眠っていたのかだけでも知りたいのだけれど、ここで訊いていいものかしばらく悩んだ末に、やはり沈黙に耐えられなくて口にすることにした。
「……あの、私はどうしてここで寝ていたんでしょうか」
「覚えていないのか」
「はい……」
どうせまともな答えなど返ってこないだろうとダメもとで訊ねてみれば、案外すんなり言葉が返ってきて内心驚いてしまった。
なぜか妙な距離をおいて立っているわりに、じっとこちらを見る二つの瞳には遠慮がない王。
暗闇とはいえ、こっちは寝衣姿なのだからあまりじろじろ見ないでほしいのだが、そんな配慮ができる人ならば、そもそもこんな時間に女性の部屋を訪ねてきたりはしないだろう。
ただ前回の雰囲気と違って見えるのは、この暗がりでその姿があまり見えないせいだからだろうか。
しとしとと地面を濡らす雨音だけが聞こえる室内は、暗く静かで、少し肌寒くもあったが、そんな中であっても前のような緊張感は不思議と感じなかった。
「お前は宴席の場で気を失い、それでここまで運ばれてきたのだ」
「宴席……あ、そうだ、晩餐会! ……ってことは、やっぱり私、あの後倒れたのか……」
まだハッキリとしない頭で記憶を辿る。
耳に残る華やかな音楽と、グラスの中で揺蕩う琥珀色の液体。隣に座るイジュリード伯爵に何事か声かけられ、無難に答えた記憶が断片的な映像となって頭の中に映し出される。
けれどその後のことは何も思い出せないとなると、恐らくその直後に倒れたのだろう。
まだ何か思い出していないことがあるような気もするが、まだ頭がすっきりせず、何より目の前に佇む王からの視線が直線的過ぎて困る。
怖くはないが、不気味ではある。
ただでさえこの暗がりでよく顔が見えないというのに、王の言葉は少なく、辛うじて見える表情もほとんど変わることがない。
雰囲気的に、宴席で倒れた婚約者を見舞いに来たというわけではなさそうだが、だったら他にどんな理由があってここにいるのだろう。いくら悠里が頭を捻ってみても答えは導きだせなかった。
それになぜ急に気を失ってしまったのか、それも気になっていた。
この王にいきなり送り付けられた膨大な資料を前に、半ばムキになってほぼ寝ないで頑張ってきたけれど、もしかしたらそれがルイーナの身体に大きな負担をかけていたのだろうか。
もしそれが原因で倒れたのだとしたら、全ては自分の責任である。
きっとこの王にも、そして周りにいる人たちにも多大な迷惑をかけたに違いない。
なぜ王がここにいるのかは知らないけれど、ここはちゃんと謝るべきだ。そう思った悠里は立ち上がろうとして床に手をついた。
けれどなぜだかうまく力が入らない。
「あれ……え? あれ?」
何度も足に力を入れようとするが、一向に足はいうことを聞いてくれず、どんなに頑張ってみても腰が上がらない。
そうこうしているうちに、王の素っ気ない声が飛んできた。
「何をやっている」
「いや、それがそのー、立てなくてですね……たぶん、さっきので腰が抜けちゃったのかも……」
「……」
「いやー……だから、さっきは本当にお化けが出ちゃったと思っちゃいまして……それで驚いたっていうか、いや実際はお化けじゃなくてあなただったんですけど、それで気が抜けたっていうか、驚きすぎて腰がぬけたっていうか……」
あはは、と薄く笑って羞恥心を誤魔化してみたけれど、できることならばこの場から逃げ去ってしまいたかった。
王を幽霊と勘違いして、その挙句に腰を抜かしたなんて、二十四歳にもなって一体何をやってるんだろう。実際には王の目からすれば二十四歳の悠里ではなく、十八歳のルイーナとして映っているだろうが、それでも口にするのは情けないし恥ずかしかった。
きっと笑われるか、呆れられるかのどちらかだろう。いっそ、そうしてくれた方がまだ救われるというものだ。そう思ってチラリと盗み見るように王の反応を伺えば、王は笑いもぜず、瞬き一つもしないまま、ただじっと床の一点を見つめていた。
放置プレイですか?
思わず、そうツッコミそうになった時、不意に王が扉の方へと歩き出して悠里は呆気にとられた。
これではプレイでも何でもはなく、ただの放置である。
別に放置なら放置で一向に構わないのだけど、行くなら行くで一言あってもいいんじゃないかなとも思うし、出来ることなら誰か人を呼んできてほしいものだが、あの王のことだし、その望みは薄い。
きっとここにきたのだって気紛れに来ただけなんだろう。もうそれ以外思い当たらない。
そんなことを思いながら待つこと数分。静かだった廊下から人の声が聞こえてきた。
どうやら本当に人を呼んできてくれたらしい。あまりの意外性に驚いてしまう。
「えぇーそんなことでわざわざ俺の事呼んだんですか? んなこたぁー自分でおやりになったらいいでしょうが! はぁー何やってんだよ。俺を呼ぶ意味が分からないよ」
王の声は聞こえてこないが、何か言っているらしく、相手の困惑と呆れが混ざったような騒がしい声だけが聞こえてくる。
その、何処で聞いたことのある声に悠里は耳を澄ました。確かこの声は、ジェイロと呼ばれていた男のものではなかっただろうか。
「んーどんな風にって、普通に? ──普通は普通です! 子猫を抱き上げる感じでやさしーくです。もう分かったらさっさと行く!」
どさっという音と共に押し込められるように部屋へと戻ってきた王は、勢いよく閉められた扉を振り返って暫く立ち尽くしている。
そして何かを諦めるように溜息を零すと、一直線にこちらへと近づいてきた。
「手を出せ」
「え? うわっ!」
ぶっきらぼうに声をかけられ見上げれば、思いの外近くにあった闇色の瞳とかち合う。と同時に身体が宙に浮いた。
「ちょっ! なに!?」
戸惑う悠里とは対照的に、王は悠里を肩に担ぐと無言でスタスタと歩みを進めた。
いきなり腕を引かれ、あっという間に持ち上がった身体は、くの字に曲がった状態のまま、まさに荷物を担ぐがの如く王の左肩に担がれた。
悠里には逆さになった王の広い背中しか見えない。
(え……なにこれ)
いきなりのことに目を白黒させているうちに、身体はあっという間に寝台へと下ろされた。
「あ、ありがとう……ございます?」
素直に感謝が口から出ないのは仕方ないと思う。
寝台まで運んでくれたことに感謝はするものの、そのやり方があまりにも雑すぎて、どうにも反応に困ってしまった。
唯一の灯りは鏡台のところに置いたままになっているので、見上げたところで王の表情を伺うことも出来なかったけれど、小さく頷いたのだけは何となく気配で分かった。
それから王は一言も発することなく部屋を出ていき、結局何しに来たのか分からず仕舞いだった。
「一体何だったの……」
困惑で眉を潜めた悠里の呟きが暗い室内に落ちる。
悠里は首を傾けたまま、暫く王の出ていった扉を見つめるのだった。