七、
目の前で人が倒れるのを目にするのはこれで何度目だろう。
恐怖に顔を引きつらせ、脅えた身体は震え、伏せた顔を上げさせれば気絶して倒れこむ姿など、これまでにうんざりするほど見てきた。
ただ髪が黒いだけで、瞳の色が異色なだけで、ほんの少し魔族の血が入っているだけで、女の目には化け物に見えるらしい。
◇
「ルイーナ殿の容体ですが、医師の診断によりますれば、軽い貧血は患っているものの命に別状はなく、一晩も眠れば意識も回復するそうです。念のため、割れたグラスも調べさせましたが、毒物は検出されませんでした」
サイザックの報告にレイアードが頷く。
一時騒然とした晩餐会もその後は恙無く進行し、その後の会談も和やかな空気のままお開きとなった。
窮屈だった首元を緩めながら夜更けの廊下を歩く。そのレイアードの後ろを、サイザックが追うように歩みを早め、続けざまに報告を上げた。
「侍女の話によれば、ここ二日ほどはあまり睡眠がとれていなかったらしく、その睡眠不足が貧血を起こす一因となったことは間違いないようですが、やはり一番の原因は、毒を盛られた時に受けたストレスが大きく関わっているであろうとミルダー医師は仰っておりました」
「その睡眠不足の原因、教えてあげましょうか」
いつから居たのか、サイザックの背後からジェイロが顔を出した。
大柄な体つきのわりに身のこなしは軽快で、その言動は勿論、存在自体が騒がしい男であるが、騎士としての素質は高く、一定の信頼は置いている。
だから突然現れてこようが、こいして誰彼構わず軽口を叩こうが、多少大目には見てはいるが、それをサイザックは良しとしていないようだ。
今もレイアードの執務室に当然のように入ってきたジェイロへ、厳しい視線を送っている。
「何しに来たのだ。お前にはルイーナ殿の側についているよう言ったはずだが」
執務室の扉を閉めるや否や、サイザックが咎めるような声音をジェイロへ向けた。
伯父と甥の関係になるこの二人の間には遠慮がない分、サイザックのジェイロを見る目も厳しくなりがちだが、そこはジェイロも負けてはいない。先程から容赦なく刺さるサイザックの厳しい視線を、なに食わぬ顔でかわしている。
「まあまあ、それはちょっと横に置いといて。まずこれを見てくださいよ。今さっきルイーナ嬢の侍女から手に入れてきたものなんですけど、これがなかなかすごいんです」
見たら分かりますよ、と思わせぶりなことを言いながら、ジェイロが胸の内ポケットから取り出したのは一枚の紙だった。四つ折りにされたそれをジェイロが丁寧に開く。
レイアードは無言でそれを受け取った。
「席次表か」
「はい」
椅子の手摺に頬杖をつきながら何でもないように呟いたが、これがただの席次表ではないことくらいすぐに気づいた。
出席者の名前の下には各々の領地名や役職が記入され、手掛けている事業やこれまでの功績なども書き込まれている。横の繋がりがある者や、対立関係にある貴族同士には一目で分かるように異なった線が引かれており、これはもはや席次表というよりこの国の相関図をみているようだった。
「これをあの女が?」
「そうみたいですね。この二晩ほとんど寝ずにあの量の資料を読み解いてその一枚に纏めたっていうんですから大したもんですよ。そりゃ倒れたりもしますって」
とてもじゃないけど俺には真似できない、と首を横に振るジェイロに、サイザックが呆れた顔で息を吐いた。
そうした間もレイアードは席次表から目を放さず暫く眺めていたが、ふと、その席次表に自分の名がないことに気付いて片眉を上げた。
これが席次表ならば己の名もあるはずだ。そう思いよく見れば、上の部分が未だ折り曲がった状態で、わざと隠しているようにも見えた。
チラリとジェイロへと視線を流しつつ、隠されている部分を開くと、それに気付いたジェイロが「あっ」と声を上げる。
レイアードは頬杖をついたまま視線を下ろし、そして数秒固まった。
黒く塗りつぶされた頭に、不機嫌そうにつり上がった目が二つ。口は弧を描いていて笑っているようにも見えるが、やはり怒っていのようにも見える。そんな不思議な顔の絵が、そこには描かれていた。
席次表でいうところの、レイアードの席の真上に。
「……これは、俺か?」
その問いに答えてくれる者はいない。
サイザックを見れば何も見ていないと言うように明後日の方角に目をさ迷わせているし、ジェイロはといえば込み上げる笑いを堪えるのに必死で、とても答える余裕などないようだ。
レイアードはまた視線を落とす。
子供が描いたような雑な絵が、何か言いたそうな目でこちらを見ている。
「俺の目はここまで吊り上がってないと思うが」
「ぶはっ!」
独り言のように呟けば、ジェイロが堪えきれずに笑いを吹き出した。
「もう無理! 俺、持ち場に戻ります! 失礼しました~!」
と逃げるようにジェイロが立ち去り、勢いよく扉が閉まったと同時に豪快な笑い声が夜の廊下に谺した。「傑作だっ!」とか「ルイーナ嬢最高かよ!」などと叫びながら笑いが止まらないジェイロの声はその後も暫く聞こえ、その声が遠退くまで続いた。
「全くアイツは……」
静かな室内には、少し前より降りだした細かな雨音と、サイザックの溜め息だけが落ちる。
「あー、こほん。筆跡鑑定、なされますか?」
「……ん、いや、その必要はない」
レイアードはそう告げて立ち上がると、席次表を胸に仕舞い、扉へと足を向けた。
「どちらに?」
「直接確かめてくればいいだけの話だと思ってな」
ドアノブに手を掛けたまま、いつになく平淡な声音を発するレイアードに、サイザックは瞠目する。
「直接とは一体……」
眉間に皺をよせたサイザックの言葉を最後まで聞くことなく部屋を後にしたレイアードは、この時初めて離宮の小宮殿『アケイシャの宮』へと足を向けた。
こんな夜更けに、しかも相手が病人だということは承知しているが、今一度顔を見てみたいと思った。
先日、謁見の間に現れた威勢のいい女のことは容易に思い出せるのに、今日隣にいたはずの女の顔はどうにも思い出せないでいた。
ついでに言えば、以前のルイーナのことも覚えてはおらず、全ての女は皆同じ顔に見えた。
けれど、この席次表を手にしてすぐに浮かんだのはやはり謁見の間に現れた威勢のいい女の姿で、これまでにないおかしな感覚に陥る。
レイアードはその感覚の正体が何であるか、知りたかった。